◎艦名の由来
雅龍 Ya-lung
四川省の河川、雅龍江より。
☆実艦解説
この艦は、日本海軍の第13号型駆潜艇の、第49号駆潜艇の後身です。
第49号駆潜艇は、1944年1月31日に竣工し、佐世保防備戦隊大島防備隊、第四海上護衛隊、第五特攻戦隊と所属を変えながら船団護衛に従事し、稼働状態で終戦を迎えました。
終戦を佐世保で迎え、復員輸送艦として活動したあと、1947年10月3日、青島において、賠償艦艇 接30として、第9号駆潜艇と共に中華民国に賠償艦艇として引き渡されました。
中華民国海軍は、当初この2隻を運用する意志を持たず、膠州海関の密輸取締船として引き渡そうとしました。しかし、海関側は、艇の状態が不良として受領せず、結局海軍が使用することとなりました。旧49号駆潜艇 接30は当初は日本式の武装で再武装され、第二巡防艇隊に配属されました。
この時点での武装は、艦首に陸軍の99式88mm高射砲1基、艦橋後方の機銃台に13mm単装機銃両舷1基計2基、艇尾に九六式25mm三連装機銃が装備されました。対潜兵装は装備されず、純粋に警備艇となっています。
1949年9月には駆潜十一と改名、1950年1月には新しい命名基準に従い、SC-401 海宏と改名されました。
1951年1月には日本式武装の消耗により、アメリカ式武装に変更して整備を完了し、更にPC-106 雅龍と改名されています。最終的に、艦首武装は7.6cm50口径MK.]]U単装両用砲1基、艦橋後ろの機銃台にエリコン20mm単装機関銃両舷1基づつ計2基、艦尾にボフォース40mm単装機関砲1基を装備しました。
その後、1954年になって、アメリカのPC艇が供与され、警備艇の名称が江の字を入れて統一された際に、渠江と改名されました。
1954年5月17日には、浙江三門湾・門島(・は魚辺に更 コウ)に上陸させた工作員を回収する際、遭遇した中華人民共和国海軍艦艇と単艦戦闘を行い、多数の敵艇を撃破してそれを阻止し、損害なく帰還するという勝利を収め、青天白日勲章を授与されるという勝利を収めています。そのため、渠江の新艦名より、雅龍の艦名の方が名高く、最後までそちらで呼ばれていたとのことです。
日本を離れて数奇な運命のもと活躍した雅龍は、老朽化とアメリカ供与艦艇の充実により、1956年10月1日除籍されました。
模型では、1951年、アメリカ式武装となった雅龍を再現しました。
◎雅龍 要目
基準排水量420t 全長:51.00m 水線長:49.00m 最大幅:6.70m 深さ4.65m
機関:艦本式二三号八型ディーゼル機関2基 2軸推進
燃料 ディーゼル油20t 機関出力:1,700hp 速力:16ノット
航続距離:2,000海里/14ノット
乗員数:81名
兵装:7.6cm50口径MK.]]U単装両用砲1基 ボフォース40mm単装機関砲1基 エリコン20mm単装機関銃2基
☆制作
作例は、元ピットロード、現タミヤの、1/700 アメリカ海軍潜水艦ガトー級/日本海軍13号駆潜艇のキットの、13号駆潜艇を改造しました。
艦首76mm単装砲のブルワーク、マスト下部の烹炊所の増設、20mm機銃台及び架台は、写真をもとにプラ材で改造を行っています。
武装は、7.6cm50口径MK.]]U単装両用砲、エリコン20mm単装機関銃をピットロード 1/700カノン級駆逐艦の余りパーツより、ボフォース40mm単装機関砲をドラゴン インディペンデンス級空母の武装枠(昔のピットロード武装パーツ)より、流用しています。
艦橋脇の旗箱は、ピットロード 現用艦艇装備品セットXから流用しています。
マストは、0.3mm真鍮線で自作しました。
☆塗装
塗装に使用した塗料は以下のとおりです。
・船体色 ネービーブルー(14)
・上部構造物色:ガルグレー(11)
・喫水線色 タイヤブラック(137)
・甲板色 ピットロードカラー PC-4 アメリカ海軍現用グレーU
・煙突ファンネルキャップ セミグロスブラック(92)
・ボラード、錨鎖、錨 セミグロスブラック(92)
かっこ内はミスターカラーのナンバーです。
艦尾軍艦旗は、ピットロード 1/700 護衛駆逐艦に付属していたものを使用しました。艦番号は、ラーセナルのWW2アメリカ艦艇用のデカールを使用しています。