ロシア海軍 戦艦ツェザレヴィチ




  戦艦ツェザレヴィチは、戦艦レトヴィザンと同じ要求仕様で作られた、ロシア海軍で唯一フランスで建造された戦艦です。この設計は新式の設計要素が多く、ロシア海軍に好評を持って迎えられ、ボロディノ級戦艦の設計の原型となりました。日本では特にフランス式設計(タンブルホームによる復原性の不足、トップヘビーなど)に批判が大きいように思えますが、ツェザレヴィチ自体は、要求性能を良く満たした艦でした。
  本稿では、開発経緯、艦歴などを簡単に追ってみようと思います。


◎艦名の由来
・ツェサレヴィチ Tsesarevich Цесаревич
  1797年以後の、ロシアの皇太子の呼称。

・グラジュダニーン Grazhdanin Гражданин
  市民の意味。


◎性能
建造:ラ・セーヌ造船所(フランス)
設計排水量:12,915t
実際の排水量:13,105t
垂線間長:113.4m 水線長:117.25m 全長:118.50m
全幅:23.2m 吃水:7.92m(最大)
主缶:ベルヴィール缶20基
主機/軸数:四気筒直立三段膨張機械2基、2軸推進
機関出力:設計16,300hp 実際16,500hp
速力 計画:18ノット
速力 実際:18.78ノット
燃料搭載量 常備:石炭800t 満載:石炭1,350t
航続距離 1,100浬/18ノット、3,600浬/12ノット 5,500浬/10ノット
兵装:30.5cm40口径連装砲塔2基
    15.2cm45口径連装砲塔6基
    75mm50口径単装砲20門
    47mm43口径単装砲20門
    37mm23口径単装砲8門
    マキシム機関銃4挺
    63.5mm19口径バラノフスキー陸戦砲2門
    38.1cm水上魚雷発射管2門 38.1cm水中魚雷発射管2基
    機雷45発装備可能
防御:装甲材質は全てクルップ浸炭甲鈑
    主舷側装甲/機関区画、弾火薬庫脇 250mm(下部に向け170mmにテーパー)
    主舷側装甲/船体前部 250から段階を経て180mmに減厚(下部に向け170mmにテーパー)
    主舷側装甲/船体後部 250mmから段階を経て170mmに減厚(下部に向け170mmにテーパー)
    上部舷側装甲/機関区画、弾火薬庫脇 200mm
    上部舷側装甲/船体前部 200mmから段階を経て120mmに減厚
    上部舷側装甲/船体後部 200mmから段階を経て120mmに減厚
    主砲塔/側面 250mm
    主砲塔/天蓋63mm
    主砲塔バーベット/上部防御甲板上 250mm
    主砲塔バーベット/上部防御甲板下 100mm
    副砲塔/側面 150mm
    副砲塔/天蓋30mm
    副砲塔/バーベット 127mm
    煙突基部 装甲コーミング/19mm
    防御甲板/上部 50mm(主舷側装甲上端に接続)
    防御甲板/下部 40mm(舷側で湾曲し、垂直になり、水雷防御縦壁となる)
    75mm砲、47mm砲、37mm砲砲門 非装甲
    司令塔/側面 254mm、/天蓋63mm、/交通筒 100mm
乗員:士官28〜9名 兵750名


◎建造経緯
  極東配備用に建造された、ペレスヴィエト級戦艦の戦力が日本海軍のイギリス製一等戦艦に劣る事実から、1897年から1898年にかけて、ロシア海軍の海軍科学技術委員会で新しい戦艦の検討が開始されました。検討の結果は、排水量12,000t、30.5cm40口径連装砲塔2基、15.2cm45口径単装砲12門、速力18ノット、航続距離5,000浬/10ノット、艦底の銅板被覆は不要という内容でした。排水量が比較的小型なのは、極東のドックに入渠可能な点と、スエズ運河を常備状態で通過可能な点が求められた為です。これは、戦艦レトヴィザンに求められた仕様と同じものでした。
  建造に当たっては、国内の造船所が既に他の艦を建造しており、ドックを増設する余裕もないことから、国際的なコンペティションを開いて建造企業を決定することとなりました。

  フランスのラ・セーヌ造船所は、1890年代の終わり頃、国際的に高い評価を得ていました。
  1891年竣工のフランス戦艦戦艦マルソー級のネームシップのマルソー、またそのデザインを流用したスペインの戦艦ペラヨ、チリの戦艦カピタン・プラットなど、高い評価を受けた艦を生み出していました。これらの艦の共通した特徴は、砲の菱形配置でした。
  カピタン・プラットでは、前後の単装主砲塔の他に、両舷側に1基ずつ単装副砲塔を備えていました。この設計は同じラ・セーヌ造船所建造の1897年竣工のフランス戦艦ジョーレギベリにも踏襲され、成功したデザインと見なされました。
  これらの艦の設計で高い評価を受けていたのが、ラ・セーヌ造船所の役員、アントワーヌ−ジャン・アマーブル・ラガーヌ(Antoine-Jean Amable Lagane)でした。

フランス戦艦ジョーレギベリ 1897年
フランス戦艦ジョーレギベリ 1897年
世界の艦船別冊NO.473「フランス戦艦史」 出版社 海人社より引用。


  ラ・セーヌ造船所とラガーヌは、たびたびロシア地中海艦隊の艦船の修理を行い、ロシア海軍との接点を持っていました。また、1897年3月以来、巡洋艦(後のバーヤン)の建造のために海軍省と折衝していました。

  ロシア海軍が外国に戦艦を発注するという発表した後、ラガーヌは1898年5月、直ちにサンクト・ペテルブルグに到着しました。ラガーヌは、主砲を連装砲塔にして前後に装備し、副砲を連装砲塔にして片舷3基、計6基装備した、「ロシア的な」ジョーレギベリのデザインスケッチをロシア海軍に示しました。
  多少の論議の後に、1898年6月1日、修正案がロシア海軍省長官、トゥイルトフ中将(Vice Admiral P. P. Tyrtov Павел Петрович Тыртов)によって採決されました。これは、数週間前にクランプ造船所と決定されたレトヴィザンの仕様と多少の相違を持っていました。排水量が200t大きく、缶にはベルヴィール缶の装備が予定されました。
  ラガーヌの設計は数日後に完成し、6月14日に海軍科学技術委員会によって検討されました。海軍科学技術委員会は、ラガーヌのデザインには、修正点が何点かあると指摘しました。修正点は次の通りです。

・フランス戦艦特有の、艦首と艦尾に寄りすぎた主砲配置をやめ、主砲装備位置を艦の中央に近付けること。
・フランス戦艦特有のミリタリーマストは重量がかかりすぎ、トップヘビーの原因となるので、装備しないこと。
・ハーヴェイ・ニッケル甲鈑ではなく、最新のクルップ浸炭甲鈑を採用すること。

  ラガーヌはこれらの修正に同意しました。
  ラガーヌの設計は、バルチック造船所によって作られた、ペレスヴィエト型に30.5cm砲を搭載した発展型の設計と比較されました。結果、ラガーヌの設計が選ばれ、船体の設計基準と機関をロシア戦艦のものと共通化することを条件に、設計は認可されました。

  ここで、ロシア海軍は、初めて純フランス的な特徴を持つ戦艦を、ラ・セーヌ造船所に発注することとなりました。
  一般に、ペレスヴィエト級戦艦、ペトロパヴロフスク級戦艦にはタンブルホームなどフランス的な設計が見られるとされていますが、これらの艦の防御様式は前者はイギリスの二等戦艦レナウンを参考にしており、後者はイギリス戦艦ロイヤル・ソブリンと類似した特徴を持っていました。
  これに対し、新戦艦−後のツェザレヴィチ−は、フランス戦艦の特徴である、艦の全長にわたる重厚な吃水線防御を持っていました。主舷側装甲の装甲厚も、戦艦レトヴィザンより厚くなっていました。
  副砲塔の装備位置も海面から高く、良く波浪などから守られており、広い射界を持つとされました。
  その一方で、戦艦ツェサレヴィチは戦艦レトヴィザンより石炭搭載量が630トン少なく、航続距離が短めでした。

  クランプ造船所との戦艦レトヴィザン建造契約は、非常に性急にまとめられた為、数個の重要な規定が見過ごされており、幾つかの問題を発生ました。そのため、海軍科学技術委員会は、ラ・セーヌ造船所との戦艦ツェザレヴィチ建造契約では、それを避ける決心をしていました。契約は慎重に検討され、1898年7月20日になって署名されました。
  契約では、艦は42ヶ月で完成することとなっており、クランプ造船所の30ヶ月より長い建造期間となっていました。砲の他ロシアより供給された資材を除いては、契約金が3028万フラン(1140万ルーブル)となり、レトヴィザンより300万ルーブル高い価格でした。

  ラガーヌの最終設計は1899年1月24日に海軍科学技術委員会によって認可されました。当初の設計より、0.2m船体幅を増やされていました。メタセンター高さを1.37mとするためでした。恐らく、タンブルホーム船体の損傷時の、予備復原力の確保のためだと思われます。
 フランスのツーロンには、グリゴロヴィチ大佐(Captain first Rank I. K. Grigorovich)率いる艤装委員が派遣されました。グリゴロヴィチ大佐は、後に戦艦ツェザレヴィチの初代艦長となりました。

  その後、建造は順調に進みませんでした。
  ロシア海軍省の緩慢なお役所仕事、意志決定の遅さは、建造の遅れをもたらしました。
  ラ・セーヌ造船所側は、クルップ甲鈑の加工に不慣れで、技術的困難に直面しました。
  それより何より、建造を遅らせたのは、フランスの造船所の悪しき伝統、工期の長さでした。
  ロシアの造船所の作業効率から慣れた艤装委員達は、フランスの工員の「理解できない作業の停滞、不注意、効率不足」に驚きました。
  結局、42ヶ月で艦は完成せず、50ヶ月の工期がかかりました。最後に1903年8月31日にロシア海軍に受領された時、主砲塔の揚弾の問題−艦の動揺により弾薬供給が不能になる−がまだ未解決でした。ロシア海軍は、これが解決されるまで、ラ・セーヌ造船所に、建造費用の一部の支払いを留保する決定をしました。
  これが解決されたのは日露戦争開戦のまさに直前、1904年1月でした。

  最終的に、戦艦ツェザレヴィチに供給された兵装及び装備を含む総費用は14,004,000ルーブルでした。

戦艦ツェザレヴィチ 竣工時
戦艦ツェザレヴィチ 竣工時
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎特徴
・艦型
  戦艦ツェザレヴィチの特徴は、「フランス的な」舷側吃水線部から船体を絞った形のタンブルホームでした。タンブルホームのおかげで、狭い上甲板が船体の重量を節約したので、より高い乾舷を持つことが可能になりました。また、タンブルホームは舷側の副砲塔に、首尾線上への良好な射界を与えました。反面、傾斜時の予備復原力の不足という欠点を持っていました。
  船型は船首楼甲板船型で、満足すべき航洋性を持っており、外洋での作戦に適した能力を持っていました。
  旋回性能も良く、舵輪の細かい操作にも応答すると評価されました。

・武装
  主砲塔は、ロシア戦艦標準のオブコフ式の30.5cm40口径連装砲塔2基でした。
  主砲砲身はロシアで製造されましたが、主砲塔は船体と共にフランスで製造されました。
  主砲塔は全周装填が可能で、電力で操作され、射界は270度で、最大仰角は15度、最大俯角は5度でした。
  砲術公試では、艦の動揺により弾薬供給が不能になるという欠陥が露呈しました。
  艦は極東で直ちに必要とされ、問題が未解決のまま極東に送られたので、海軍省はラ・セーヌ造船所に、修正部品を旅順港に送るまで建造費用の支払いの一部を保留する決定をしました。 修正部品は日露戦争の勃発の直前に旅順に到着し、1904年1月に装備されました。
  弾薬は砲毎に70発でした。

  15.2cm45口径連装砲塔は、タンブルホームの側部に片舷3基6門、計6基12門配置されました。
  砲塔の射界は150度で、最大仰角は20度、最大俯角は5度でした。
  副砲の弾薬は、砲毎に200発でした。

  75mm50口径単装砲は、殆どが船体の砲口に装備されました。前部メインデッキの砲門に片舷艦首1門、船体中央部の砲門に片舷4門、艦尾の砲門に片舷2門の両舷計14門が装備されました。これら船体の砲門は、艦首のものを除いて、非常に低い位置−吃水線から8フィート(2.44m)−に装備されました。これは、装備位置が低い方が艦型の低い水雷艇の撃攘に有利であるという判断に基付いていましたが、傾斜時浸水の危険があり、海が少しでも荒れると使用不能になる欠点がありました。また、損傷して傾斜が発生した場合など、浸水の危険があったと思われます。
  船体装備の75mm50口径単装砲の副装備として、艦首と艦尾に隠顕式探照燈が装備されていました。
  他の6門は上部構造物上に装備されました。前部煙突両舷に片舷2門づつ、後部15.2cm砲塔の上の上部構造物に片舷1門づつ装備されました。
  弾薬は砲毎に300発でした。

  47mm43口径単装砲は、20門が装備されました。前部艦橋上のプラットフォームに6門、後部艦橋上のプラットフォームに6門、司令塔上に2門、艦首両舷に1門づつが装備されましたが、他の砲の装備位置は不明です。

  37mm23口径単装砲は、前後のファイティングトップに4門づつ、計8門が装備、4挺のマキシム機関銃も装備されましたが、これの装備位置は不明です。この内何門かは、艦載水雷艇用に装備された模様です。

  その他、63.5mm19口径バラノフスキー陸戦砲が陸戦用に装備されていました。

  魚雷兵装は38.1cm魚雷発射管4門でした。水上発射管が艦首と艦尾の2門、水中発射管が前部主砲弾火薬庫後ろの舷側両舷の2門、計4門が装備されていました。
  魚雷は14発が装備されていました。
  その他に、機雷45発を装備できました。機雷庫は、前部主砲弾火薬庫の前にありました。

  射撃観測機材として、バー・アンド・ストラウド測距儀2基と、1893/1894年型のガイスラー式射撃指揮装置が装備されました。

戦艦ツェザレヴィチ 防御配置図
戦艦ツェザレヴィチ 防御配置図
装甲厚がインチ表示に換算されているため、一部装甲厚が不正確ですが、装甲範囲に間違いはないので掲載しました。
舷側全域にわたる重厚な装甲防御に注目。
「Гангут」 20号より引用。


・防御
  戦艦ツェザレヴィチの装甲は、全てクルップ浸炭甲鈑が使用されました。また、フランス戦艦特有の、舷側全周にわたる装甲防御を持っていました。
  ただ、舷側全周にわたる装甲装備はどうしても防御重量がかさむため、1890年代のフランス戦艦は、舷側装甲の高さが低いという欠点を持っていました。
  しかし、戦艦ツェザレヴィチでは、海軍科学技術委員会の勧告により、装甲材料を従来のハーヴェイ・ニッケル甲鈑からクルップ甲鈑に変更したため、従来のフランス戦艦と比べて、装甲の強度が上がり、強度をそのままに装甲を薄くする重量軽減が可能になりました。そのため、舷側のより広く高い範囲に装甲を施すことが可能となりました。これにより、戦艦ツェザレヴィチは、下部の主舷側装甲はほぼ水没するものの、上部舷側装甲の高さを従来のフランス戦艦より高くすることに成功しました。

  機関区画、弾火薬庫脇の主舷側装甲は、装甲厚250mm(下部に向け170mmにテーパー)で、高さは2mで、1.5mが水面下にありました。この部分は60mの長さを持っていました。
  船体前部の主舷側装甲は、装甲厚250mmから230mm、210mm、190mmと段階を経て、艦首部で180mmに減厚されました。
  船体後部の主舷側装甲は、装甲厚250mmから同じ段階を経て、艦尾部で170mmに減厚されました。
  船体前後部の主舷側装甲は、下部に向けて装甲厚170mmにテーパーされており、艦尾では上下同厚となっていました。
  また、主舷側装甲の背材は、200mm厚のチーク材が使用されました。
  上部舷側装甲は、機関区画、弾火薬庫脇は装甲厚200mmで、高さは1.67mでした。
  船体前部の上部舷側装甲は、装甲厚200mmから185mm、170mm、155mm、140mm、130mmと段階を経て、艦首部で120mmに減厚されていました。
  船体後部の上部舷側装甲は、装甲厚200mmから同じ段階を経て、艦尾部で120mmに減厚されていました。
  ただ、装甲の支持架の強度に問題があり、黄海海戦では被弾によって装甲が貫通されなくても、装甲が内部に陥入し、浸水が発生しました。

  主砲塔は、側面の装甲厚は250mm、天蓋63mmでした。
  主砲塔バーベットの装甲厚は、上部防御甲板上は250mm、上部防御甲板下は100mmでした。
  副砲塔は、側面の装甲厚は150mm、天蓋30mm、バーベット127mmでした。
  煙突基部は、上部防御甲板から1甲板分上まで、19mmの装甲コーミングが施されました。
  上部防御甲板は装甲厚50mmで、10mmの甲板上に設置され、上部舷側装甲上端に接続していました。接続部の装甲厚は40mmで、20mmの装甲の2枚重ねでした。
  下部防御甲板は装甲厚40mmで、舷側で湾曲し、垂直になり、水雷防御縦壁となっていました。

  75mm50口径単装砲、47mm43口径単装砲、37mm23口径単装砲の砲門は非装甲でした。
  司令塔の装甲厚は側面254mm、天蓋63mm、防御甲板への交通筒が100mmでした。

  これらの防御方法の中で、特に船体の75mm50口径単装砲が全て非装甲である点は問題視されました。ツェザレヴィチのロシア版改良型であるボロディノ級では、舷側装甲の暑さと高さを減らし、船体部分の75mm50口径単装砲砲口の防御を計る改善が行われました。これが建造中の排水量の増加により吃水が多少下がり、更に極東回航用の追加装備と消耗品の搭載で舷側装甲が過度に水没し、結果的に艦の防御の欠陥に繋がっていきました。

  また、船体の75mm50口径単装砲の砲門は、艦首のものを除いて、非常に低い位置−吃水線から8フィート(2.44m)−に装備されており、損傷傾斜時などに浸水の危険があったと思われます。そのため、1913年〜1914年の改装では、舷側中央部の75mm50口径単装砲片舷4門づつが撤去、砲口が閉塞されました。

戦艦ツェザレヴィチ 艦内配置図
戦艦ツェザレヴィチ 艦内配置図。
艦首、艦尾欠。缶室、機械室の配置、舷側の細分化された区画に注目。
「Цесаревич ЧастьT」 出版社 Корабли и сраженияより引用。


・機関
  缶は、前部缶室、後部缶室の2缶室に、1缶室横5基縦2列、ベルヴィール缶計20基が装備されました。缶室に中央縦隔壁は、設けられませんでした。
  ベルヴィール缶は蒸気性状18.44atu(19kg/cu 1atu = 1.03kg/cu)、飽和蒸気で強制通風を前提としていました。また、缶には給水加熱器が設置され、缶への給水が加熱されるようになっていました。これは、缶の構造を複雑にしたものの、燃費の向上に大きな役割を果たしました。
  推進軸の構成は、2軸推進でした。
  主機械は四気筒直立三段膨張機械で、2つの機械室は缶室の後ろにあり、中央に縦隔壁を持ちました。
  計画された機関出力は16,300hpでしたが、実際には16,500hpを発揮しました。
  石炭の消費量は、12.5ノットで、1馬力につき1.3ポンド(0.59 kg)/時、18ノット、16,300hpで12t/時の消費量で、給水加熱器の効果が大きいことが確認されました。

  戦艦ツェザレヴィチの公試は1903年7月23日、12時間実施されました。
  公試開始時の排水量13,047t、15,254hpの出力で、18.77ノットの平均速度を記録し、伝えられるところによれば時々19ノットを超えましたと言います。

・水中防御
  水中防御には、ルイ−エミール・ベルタン(Louis-Emile Bertin)考案の、Tranch Cllulaire Cuirasée(Armoured cellular layer)という、装甲化された舷側区画の細分化が採用されました。また、戦艦では世界で初めて水雷防御縦壁が採用されました。

  艦の舷側部分の区画は、舷側装甲の背面から艦底部まで、浸水極限のため、極めて小さな区画に細分化されていました。この装甲の背面の内舷側は石炭庫を兼ねており、追加の防御層として働くことを期待されていました。
  これは、船の舷側装甲帯が破られても、船の浮力を可能な限り保持する意図で設計されました。船体の排水量の30%が装甲化された細分区画となっており、浸水時の致命的な損害を避け、浮力保持に効力があるとされていました。
  ラガーヌは、装甲の軽量化によりエミール・ベルタンの防御方式を改良し、従来のフランス戦艦が主舷側装甲の高さまで細分化された区画を持っていたのを、上部舷側装甲の高さまで持つようにしました。
  下部防御甲板は装甲厚40mmで、舷側で湾曲し、垂直になり、水雷防御縦壁となっていました。
  これは、ほぼ同時に建造されていた、エミール・ベルタン設計のフランス海防戦艦アンリW世でも採用されていた構造でした。

フランス海防戦艦アンリW世 1903年竣工時
フランス海防戦艦アンリW世 1903年竣工時
世界の艦船別冊NO.473「フランス戦艦史」 出版社 海人社より引用。


  この防御方式は、フランス海軍の1890年のツーロンでの実験と1894年のロリアンでの実験の結果に基付いて設計されました。
  水雷防御縦壁は、舷側から2mの位置に設置されていました。水雷防御縦壁の暑さは40mm、20mmの装甲2枚で作られていました。この方式の方が、40mmの装甲1枚より柔軟性があり、防御力があると判断されたからです。
  水雷防御縦壁の長さは84mで、その背部に追加防御として石炭庫を持ちました。

  海防戦艦アンリW世の水雷防御縦壁は、同様の構造のケーソンを作ってテストを行ったところ、220ポンド(99.88kg)の火薬の爆発で、船体に大きな穴が空き、2重底部分が損壊しました。
  戦艦ツェザレヴィチの水雷防御は海防戦艦アンリW世より良く防御されていましたが、日々威力を増していく水雷兵器に対応できるか、難しい面がありました。場合によっては、水雷防御縦壁の破片が艦内に突入し、より被害を悪化させた可能性もあります。

  排水ポンプ系統は、最新の水防区画毎に独立した排水ポンプを設けたシステムが採用されました。

・その他
  発電機は1,000A、100 Vのターボ発電機4基、50A、100Vの補助ターボ発電機2基が装備され、総発電量は550kW(1,000A)でした。


◎改装
  ツェザレヴィチは黄海海戦前の備砲の陸揚げを行いました。
  黄海海戦後に青島 膠州湾に入港、中立国のドイツに拘留されていましたが、日露戦後、バルト海艦隊に所属し、一次大戦まで様々な改装がなされています。

・1904年夏
  黄海海戦前、陸戦支援のため、75mm50口径砲4門、47mm43口径砲2門、37mm23口径砲2門を陸揚げしていました。

・1906年
  前後檣のファイティングトップとそれに装備されている37mm23口径単装砲を撤去しました。
  船体装備の75mm50口径単装砲14門とその砲口は残置されましたが、上部構造物上の6門は撤去されました。
  上部構造物が一部撤去されました。そこに装備されている47mm43口径単装砲4門と37mm23口径単装砲2門は残置されましたが、位置は不明です。

・1909〜1910年
  限定的でありますが、機関のオーバーホールが実施されました。

・1913年〜1914年
  舷側の短艇揚収用クレーン撤去。
  舷側中央部の75mm50口径単装砲片舷4門づつが撤去、砲口が閉塞されました。(砲口のくぼみは残っていました。)

・第一次世界大戦中
  37mm単装高角砲2門が装備されました。


◎戦歴
  1899年5月18日建造開始、1899年7月8日起工、1901年2月23日進水。1903年8月31日、ロシア海軍に受領され、1903年12月2日に旅順に到着しました。その後、日露戦争開戦直前の1904年1月、主砲塔の不具合の修正を、フランスからの部品の到着を待って実施しています。

  日露戦争開戦時、1904年2月8〜9日夜の日本第一、第二、第三駆逐隊の奇襲攻撃により、左舷後部に魚雷の命中を受け浸水、旅順港の入り口付近に着底しました。
  その後、6月7日に修理が完了しました。
  1904年8月10日の黄海海戦では、艦隊司令長官代理ウィトゲフト少将(Rear Admiral V. K. Vitgeft)の旗艦でしたが、13発の30.5cm砲弾及び2発の20.3cm砲弾を受け、12名戦死、47名負傷の損害を受けています。この戦死者の中にはウィトゲフト少将、艦長イワノフ大佐、航海長ニシキウィチ大尉、操艦関係の要員が含まれていました。艦は行動の自由を失って勝手に旋回し、これによりロシア艦隊艦列は混乱し、黄海海戦の大勢は決しました。
  その後、戦艦ツェザレヴィチは指揮権を4番艦ペレスヴィエト座乗のウフトムスキー少将(Rear Admiral Prince P.P.Ukhtomskii)に譲り、煙突の損害から石炭消費が多く、艦の速力も6ノットしか出ないので、ウラジオストク行き及び旅順帰還を諦め、中立国ドイツの租借地である青島膠州湾に入港し、そこで日露戦争終戦まで拘留されました。
  青島における戦艦ツェザレヴィチの調査と黄海海戦の戦訓は、後にイギリスではド級戦艦を生み出し、ドイツでは防御、特に水中防御の発展の教訓となりました。

  1906年初頭、日露戦争終戦により、戦艦ツェザレヴィチはバルト海に戻り、バルト海艦隊に所属しました。
  1906年8月1日、戦艦スラヴァと共に、スヴェアボルク要塞の反乱の鎮圧に参加しています。
  その後、第一次世界大戦開戦まで、バルト海を中心に、冬期は地中海を行動するのを常としました。
  1908年12月には、戦艦スラヴァと共にメッシナ、シチリアの地震に際し援助に出動、犠牲者に援助物資を与えています。
  1910年8月、戦艦スラヴァが缶故障を起こした際、仮修理のために、戦艦スラヴァをジブラルタルまで曳航しています。(本修理はツーロンで行われました。)

  第一次世界大戦勃発後は、バルト海艦隊の一員として、対ドイツ戦に行動しています。
  1917年2月の2月革命の結果、艦はソヴィエトに参加を表明し、4月13日に戦艦グラジュダニーン(Grazhdanin Гражданин 市民の意味)と改名しています。
  1917年10月17日、リガ湾のムーン水道において、戦艦スラヴァと共に、ドイツド級戦艦ケーニヒ、クロンプリンツと戦闘を行いました。戦艦スラヴァは長射程を生かしてドイツ艦隊をアウトレンジしますが、前部主砲塔が故障により戦闘から脱落し、後部主砲塔のみで戦闘を継続しました。そして、戦艦ケーニヒからの30.5cm砲弾を多数受け、後部主砲塔も被弾し戦闘不能となり、大浸水が発生、遂に後部主砲塔の弾火薬庫の誘爆によりムーン水道の入り口に着底しました。その後、駆逐艦トゥルクメーネツ=スタヴロポリスキー(Turkmenets Stavropolskii Туркменец-Ставропольский)による雷撃による破壊が行われています。戦艦グラジュダニーンは戦艦クロンプリンツの30.5cm砲弾を受け小破しつつも、何とか撤退に成功しました。
  1その後、918年5月にはクロンシュタットでハルクとなり、1924年に解体開始、1925年11月21日公式に解体完了となりました。


◎総論
  戦艦ツェザレヴィチは、ロシア初のフランス型戦艦でした。それまでペレスヴィエト級戦艦、ペトロパヴロフスク級戦艦などで、フランス的な設計要素(タンブルホームなど)は取り入れられていましたが、これらの艦の防御様式はどちらかといえばイギリス艦に範を取っており、純粋にフランス的設計とは言い難い面がありました。
  この艦には、舷側区画の細分化、船体全周を覆った厚い装甲帯、水雷防御縦壁の設置など、特徴ある防御と、砲塔化された副砲などの新技術の要素が多く見られました。それにより、同時期にアメリカで建造されたレトヴィザンより、新しい技術に基付いた戦艦であると評価されました。そのため、この艦の設計を改定して、ボロディノ級戦艦がバルト海艦隊用に建造されることとなります。
  タンブルホームによる損傷傾斜時の復原性不足、トップヘビーなど、フランス式設計には色々と否定的な見解が多いですが、この艦においては、ロシア海軍の適切な要求により、それらがあまり甚だしくならず、攻防走の微妙なバランスを取ることが出来ました。これについては、建造期間こそ長かったものの、建造を担当したラ・セーヌ造船所の技術力の高さ−排水量が計画排水量から殆ど増えていない−も寄与していたものと思われます。
  ロシア海軍の評価も相応に高く、数少ない不満として、船体砲口装備の75mm単装砲が無防御であることが上げられる位でした。後のボロディノ級戦艦ではその部分の装甲化の重量捻出のために、舷側装甲の減厚と減高を行った上に、造船所の技術力不足により、建造中に設計排水量から排水量が増し、更に極東回航用の追加装備と消耗品の搭載により舷側装甲の過度の水没と重心の上昇、復原性能の悪化が発生しました。
  ただ、これは戦艦ツェザレビッチの設計の責任ではなく、改良の方向を結果的に間違えたのと、極東回航時の過搭載という悪条件によると思われます。

  戦艦ツェザレヴィチは、ロシア海軍の修正要求の宜しきを得て、ともすれば、同時期のフランス戦艦よりも優秀な戦艦であったかもしれません。
  また、そうであろうとなかろうと、日露戦争から第一世界大戦まで、ロシア海軍の貴重な戦力として活動し続けた点は大いに評価に値すると思います。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。


◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「Гангут」 20号
・「Цесаревич ЧастьT、U」 出版社 Корабли и сражения
・「Cent ans de cuirassés français」 Eric Gille著 出版社Marine Edition
・「JANE'S FIGHTING SHIPS OF WORLD WAR T」 出版社 STUDIO
・「日露海戦記 全」 出版社 佐世保海軍勲功表彰會
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.473「フランス戦艦史」 出版社 海人社
・「海と空」 1959年9月号 海と空社
・「日露戦争」1〜8 児島襄著 出版社 文藝春秋 文春文庫



  艦名のロシア語発音及び艦名の由来につきましては、本ホームページからもリンクさせていただいている、大名死亡様のホームページ、「Die Webpage von Fürsten Tod 〜討死館〜」を参考にさせていただいております。
  詳しくは、次のリンクをご参照下さい。

(第一)太平洋艦隊のロシヤ艦艦名一覧

  また、資料の内、・「Цесаревич ЧастьT、U」 出版社 Корабли и сраженияは、ホームページ、三脚檣の管理人、新見志郎樣よりお貸しいただきました。厚く御礼申し上げます。



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