ロシア海軍 水雷戦艦設計案




 本稿では、第一次世界大戦前に、ロシア海軍で検討された水雷戦艦を紹介します。この案は、当時のバルト海艦隊司令長官エッセン中将の支持を受け、研究が行われましたが、結局建造されずに終わりました。

ロシア海軍 水雷戦艦最終案(1913年)
ロシア海軍 水雷戦艦最終案(1913年)。舷側吃水線下に縦2列に並んだ水中魚雷発射管の配置に注目。
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎性能(1913年最終設計案)
設計排水量:23,000t
水線長:200m 全長:203.4m
全幅:25.5m 吃水:8.2m(常備状態)
主缶:ヤーロー式水管缶(重油専焼)15基
主機械/軸数:パーソンズタービン4基、2軸推進
機関出力:72,000hp
速力 計画:28ノット
燃料搭載量 常備:重油1,100t 満載:重油1,400t
航続距離 常備:1,250浬/28ノット最大速力
兵装:45cm水中魚雷発射管84門(上下2段、片舷42門)
    17.8cm52口径三連装砲塔4基
    機雷700発搭載可能
防御:装甲材質 クルップ浸炭甲鈑とクルップ甲鈑
    主舷側装甲帯400mm
    艦首・艦尾舷側装甲帯150mm
    水中区画 縦隔壁50mm
    シタデル前後横隔壁300mm
    17.8cm52口径三連装砲塔防御不明
    17.8cm52口径三連装砲塔バーベット125mm〜75mm
    煙突防御 上より100mm−125mm-75mm
    防御甲板/上甲板 装甲20mm+甲板20mm 中甲板 装甲75mm+甲板10mm
    司令塔/側面450mm 天蓋250mm 床200mm 交通筒200mm


◎設計経緯
  ロシア海軍において、日露戦争における魚雷の性能は、特に航続距離の短さにより、満足のいくものではありませんでした。しかし、戦争後の魚雷の改良による射程の増大は、魚雷の威力を高めたとして注目されました。
  1904年型魚雷が25ノットで2,000mの射程を持っていたのに比べ、1912年型魚雷は、43ノットで2,000m、28ノットで6,000mの射程を持っていました。
  当時(第一次世界大戦前)、戦艦の有効砲戦距離はそれ程長いとは考えられておらず、魚雷の射程が戦艦の有効砲戦距離に近付いたと考えられました。その為、海軍の多くの研究者が、戦艦部隊の艦隊戦闘において、魚雷の使用が決定的な戦果をもたらす効果があると考えました。

  ロシアでは、この考えは、若い造船官、パーヴェル・ヴィクトロヴィッチ・ヤンコフ(Pavel Viktorovich Iankov)の設計によって具体化されました。
  ヤンコフは1910年に、クロンシュタットの海軍技術学校から学位を与えられた若い技術者で、卒業後バルト海工廠に勤務、その後レヴァル(現タリン)の海軍基地に配属されました。彼が、「水雷戦艦」の設計を行い、完了したのはその時期でした。
  最初の設計では、15,000tの船体に、13cm単装砲をケースメイトに装備し、甲板上に何門かの47mm単装砲を持つもので、主砲は持たず、主兵装として64基以上の舷側装備の水中魚雷発射管を装備していました。設計にはラフなスケッチが添えられており、それによると、艦は長い衝角を持った艦首と、平甲板船型の船体、前部に司令塔、長い間隔を空けた煙突を持っていました。マストは2本で、いくらかの艦載艇を装備していました。
  水中魚雷発射管の区画は、上下2列に装備され、両舷側の主要区画に広がって装備されていました。
 
  この最初の設計は拡大され、2番目の設計の元となりました。2番目の設計では、22,000tの船体に水中魚雷発射管(45cm魚雷か、53.3cm魚雷)が片舷42づつ計84基、甲板上には砲塔装備の17.8cm砲が砲塔砲として10門装備され、副砲として13cm連装ケースメイト砲が14基28門装備されました。
  また、甲板上には機雷敷設軌条が装備され、700発の機雷の搭載が可能で、高速機雷敷設艦としても使用できるよう考慮されていました。
  軽い砲熕兵装重量は、重装甲を艦に施すことを可能としました。主舷側装甲は406mm、装甲甲板は102mmとされました。水雷戦艦の戦闘距離は、魚雷の射程により2,000〜3,000ヤード(1828m〜2742m)と考えられており、そこまで敵艦隊に接近するまで敵砲火に耐えるため、重装甲が必要であるとされました。
  また、同様の理由により、高速も要求されました。敵戦艦部隊が21〜23ノットの速力を持つ前提で、迅速に敵戦艦部隊に接近し、距離を急激に詰めることによって、敵の射撃指揮を難しくするするためでした。缶はヤーロー式の重油専焼缶、機関はパーソンズタービン4基、出力は4軸推進の78,000hpで、30ノットを発揮するとされました。
  常備燃料搭載量は重油1,100tで、28ノットで800浬の航続距離を持ちました。
  最大燃料搭載量は重油1,400tで、レヴァルを出撃してキール軍港まで航海し、25ノットでレヴァルに帰投可能とされました。

  ヤンコフと、他の水雷戦艦の提唱者は、水雷戦艦を従来の戦艦に取って代わる主力艦とは考えていませんでした。水雷戦艦は、伝統的な戦艦部隊の砲戦の補助戦力とされていました。
  水雷戦艦は単独か何隻かのペアで、戦艦部隊の砲戦の前に敵艦隊に高速で接近し、大規模な雷撃を敢行するとされていました。これにより敵戦艦部隊は被雷して損害を受けると共に、回避運動のために戦列を乱し、続く戦艦部隊同士の砲戦でのイニシアチブを失うとされました。

  ヤンコフは、水雷戦艦の設計を1912年の終わり頃に何回かバルト海艦隊の参謀に提出し、1913年2月28日にはバルト海艦隊司令長官、エッセン中将(Vice Admiral Nikolai Ottovich Essen)に提出しました。
  エッセン中将は、この設計案を海軍省の上層部に提出しました。そして、このアイデアを特別な注意を払い、発展させるため、ヤンコフを支援するよう要請しました。
  当時、エッセン中将の指揮するバルト海艦隊は、4隻のド級艦(ガングート級戦艦)が建造中であるものの、2隻の前ド級戦艦(戦艦ツェザレビチとボロディノ級戦艦スラヴァ)及び2隻の準ド級戦艦(インペラトール・パーヴェルT世級戦艦インペラトール・パーヴェルT世、戦艦アンドレイ・ペルウォスワニ)しか戦力を持っていませんでした。この状況では、ドイツ高海艦隊がロシア沿岸の攻撃を決心した場合、機雷戦を行う以外、対抗策がありませんでした。沿岸砲台もまだ整備に入った段階で、戦力として頼りに出来ませんでした。
  その為、エッセン中将は、水雷戦艦の実現に、大きな熱意を持ちました。水雷戦艦の与える敵への打撃と混乱は、バルト海艦隊の劣勢な戦艦戦力に勝利のチャンスを与えると考えたからです。

  エッセン中将は、1913年6月29日に、海軍参謀長であるリヴェン中将(Vice Admiral Prince A. A. Liven)に、戦艦部隊を補助する戦力として、水雷戦艦の建造を求める手紙を送りました。
  その中でエッセン中将は、中央造船局で計画されている次の艦艇建造計画で、駆逐艦(当時ロシア海軍では水雷艇と称ばれていました)戦隊の代わりに2隻の水雷戦艦を速やかに建造するべきであると主張しました。
  エッセン中将の、水雷戦艦の建造のために駆逐艦の建造を犠牲にするという論の根拠は、水雷戦艦の方が駆逐艦より、敵戦艦部隊の直衛部隊と敵戦艦の副砲火力を突破して、魚雷発射距離に近付く生残性が高いという理由でした。

  意外なことに、中央造船局の造兵部門は、水雷戦艦の建造を支持しました。そして、改良案として、新規開発が必要な17.8cm砲を、既存の15.2cm砲か20.3cm砲に変更する提案をしました。同時に、装甲防御に関しても幾つかの小変更を提案しました。

  一方、当初ヤンコフの提案を退けた海軍参謀本部は、水雷戦艦は非現実的だとしました。しかし、研究の必要は認め、1913年11月に、2回の図上演習を行いました。
  図上演習では、2回とも敵戦艦部隊が距離6,600ヤード(6032.4m)で水雷戦艦の突撃を回避してしまい、戦果なしという判定が下りました。
  原因として考えられたのは、敵艦隊に対するロシア艦隊の劣勢でした。しかし、参謀達はヤンコフに、水雷戦艦の設計をより発展、洗練するよう要請しました。
  1914年春、海軍の参謀は、水雷戦艦の能力を測るため、再び図上演習を行いました。そこでは、水雷戦艦が味方戦艦部隊に追加する補助兵力として、相応に有効かもしれないという結論が出ました。

  しかし、海軍参謀本部は、水雷戦艦は、まず主力として味方戦艦部隊があってこそで、それに追加する場合にのみ戦力を発揮する艦だと判断しました。結局、海軍参謀本部は、現状主力の戦艦部隊の戦艦が不足しており、水雷戦艦を単独で建造しても戦力にならないという理由で、水雷戦艦の建造を否決しました。ようするに通常の戦艦の建造がまず優先されるという、当たり前の結論が出たのです。
  しかし、海軍の参謀達の間には、未来の可能性として、水雷戦艦の整備の期待が残りました。これは、ロシア海軍の第一次世界大戦前の戦艦設計に相応の影響を与えました。

  水雷戦艦の発想は、他の海軍でも検討されていました。
  アメリカ海軍では、1907年に、スコフィールド少佐(Lieutenant Commander F. H. Schofield)により、似通ったアイデアが提案されていました。
  この設計当時では敵戦艦部隊の速力は18ノットとされていましたので、艦の速力はヤンコフのデザインより遅い23ノットとされました。設計は、ヤンコフの初期の14,000tのものによく似ており、16本の水中魚雷発射管、5インチより大きな砲を積むとされました。
  アメリカ海軍大学での図上演習では、敵戦艦主砲の射程の増大により、水雷戦艦は魚雷の射程に近付く前に撃破されてしまいました。
  しかし、水雷戦艦の設計案は、1911年に再度検討されました。
  数個のより大きな水雷戦艦の設計案が1912年に検討されましたが、より伸びた戦艦主砲の射程により、魚雷の射程の短さの不利が確認されて終わりました。

  装甲された魚雷装備艦の検討は、ドイツでもなされていました。1914年春、ロシアの海軍参謀本部は、ドイツのブローム・ウント・フォス社が、排水量20,000tの、水中魚雷発射管24門で武装した“装甲水雷艇”を計画しているという報告を受け取っていました。
  ロシアやアメリカの艦に関しては設計が残っていますが、このドイツの設計案に関しては、設計が現存していません。


◎特徴
・艦型
  水雷戦艦の最終案の艦型は平甲板船型で、高速発揮のため、かなり細長い船型を採用していました。前部に17.8cm52口径三連装砲塔2基が背負い式に配置されており、後部に2基が配置されていました。
  艦の中央には装甲された煙突が1本立っており、その前方に艦橋構造物が立っていました。
  水線下の区画は殆ど缶室、機械室以外は水中魚雷発射管室で占められているのが、主力艦としては特異な点でした。

・武装
  水雷戦艦の主兵装は、水線下に縦2列に配置された、45cm水中魚雷発射管でした。発射管は片舷42基、計84基装備の予定でした。発射管はこの艦のレゾンデートルそのものと言っても過言ではありません。魚雷は、戦艦部隊の決戦に先立って、敵戦艦部隊の攻撃に用いられ、損害を与えると同時に、戦列や指揮系統、砲火指揮を乱す役割を担っていました。
  要するに、水雷戦艦の雷撃は、艦隊決戦の前に行われ、それから行われる戦艦部隊の砲戦を有利に展開させるための手段であり、艦隊決戦の主力としては考えられていませんでした。

  砲熕兵装は、17.8cm52口径三連装砲塔4基12門が予定されましたが、17.8cm52口径砲は開発されておらず、新規に開発が必要な砲で、艦が実際に建造された場合は、15.2cm砲や20.3cm砲など、既に完成している既存の砲に置き換えられた可能性があります。これらの砲は、敵戦艦の直衛艦のスクリーンの突破の際などに用いられる予定でした。
  副砲に当たるものは装備される予定はありませんでしたが、他の戦艦の例を見ると、水雷艇撃退用の3インチクラスの軽い砲が追加された可能性はあると思われます。

  甲板上に機雷敷設軌条が装備され、700発の機雷の搭載が可能で、高速機雷敷設艦としても使用できるよう考慮されていました。レヴァルを出撃してドイツのキール軍港まで高速で接近し、高速で離脱する性能が要求されていた点から、実際に建造された場合、この用途に使用された可能性も高いと思われます。

・防御
  水雷戦艦の戦闘距離は、魚雷の射程により2,000〜3,000ヤード(1828m〜2742m)と考えられており、そこまで敵艦隊の砲火に耐えて接近する必要がありました。そのため、極めて重厚な装甲防御が検討されました。
  装甲材質はクルップ浸炭甲鈑とクルップ甲鈑を用いるものとし、舷側防御はシタデル部分の主舷側装甲帯が装甲厚400mm、その前後の艦首・艦尾の舷側装甲帯が150mmとされました。これは、同時期に建造されていたロシアド級戦艦(ガングート級、インペラトリッツァ・マリア級)を遙かに上回る重防御でした。
  水中区画の縦隔壁は装甲厚50mmですが、水雷防御用であったかどうかは分かりません。また、魚雷の誘爆に対して、どのような防御措置が執られていたかは定かではありません。(防御措置が執られていなかった可能性もあります。)
  シタデル前後の横隔壁には、300mmの装甲厚とされました。
  17.8cm52口径三連装砲塔の防御は資料に記載が無く、不明です。バーベットの装甲厚は125mm〜75mmで、比較的軽度でした。
  煙路防御は、同時期のロシア戦艦より重厚で、煙突は装甲厚100mm−125mm、甲板下の煙路は装甲厚75mmでした。
  防御甲板は上甲板 装甲20mm+甲板20mm、中甲板装甲75mm+甲板10mmで、やはり同時期のロシア弩級戦艦より重防御でした。
  司令塔は前部艦橋のみにあり、側面450mm、天蓋250mm、床200mm、交通筒200mmと、これも同時期のロシアド級戦艦と比較すると重防御でした。
  装甲防御を総じて見ると、垂直防御・水平防御とも同時期のロシアド級戦艦より厚くなっています。特に、舷側装甲が極めて厚くなっており、近距離砲戦に対する防御力が重視された設計であると言えるでしょう。充実した煙路防御も特徴的でした。反面、砲熕兵装周りの装甲厚は重視されておらず、同時期のロシアド級戦艦より薄いレベルに止まっています。

・水中防御・機関
  水中防御はどれ程重視されていたか不明ですが、舷側に隙間無く並んだ水中魚雷発射管を見ると、二重底があるとはいえ、脆弱だったと思われます。

  缶は、同時期のロシアド級艦が炭油混焼であったのとは違い、重油専焼のヤーロー式水管缶が用いられ、15基が3缶室に装備される予定でした。前部、中部の缶室には横3基、縦2列の計6基づつが装備され、後部の缶室には横3基、縦1列の計3基が装備される設計でした。缶室内に縦隔壁などは無く、細分化による浸水極限は考慮されていませんでした。
  主機械はパーソンズタービン4基、推進軸は2軸で、機関出力72,000hpの高馬力が予定されていました。それにより、速力は計画では28ノットと、第一次世界大戦の水準では、巡洋戦艦に匹敵するかそれ以上の速力を備えました。
  燃料搭載量は常備で重油1,100t、満載で重油1,400tでした。
  航続距離は常備状態で28ノット全力で800浬、満載で28ノット全力で1,250浬でした。
  これは、レヴァルを出撃してキール軍港まで航海し、更に25ノットでレヴァルに帰投可能な搭載量とされました。この航続距離が決められた基準は不明ですが、高速機雷敷設艦としての要求性能であったかもしれません。
  

◎総論
  水雷戦艦は本来、戦艦を代替するものではなく、十分な数の戦艦部隊が味方にいる前提で、その補助戦力として計画されたものでした。
  当時のロシア海軍は、日露戦争後の回復期、ド級戦艦建造初期に当たり、建造計画においてはまずそれが優先され、水雷戦艦の建造の余地はありませんでした。
  バルト海艦隊司令長官エッセン中将は、劣勢な前ド級戦艦、準ド級戦艦戦力しか持たないバルト海艦隊に、何とか艦隊決戦での勝機を求めるため、水雷戦艦の建造を要望しましたが、結局、通常のド級戦艦の建造が優先されるという結論となりました。

  しかし、水雷戦艦が実際に建造されてしまった場合を考えると、かなり恐ろしい光景が目に浮かびます。
  魚雷の弾頭は爆発物で、それを水中に84発も搭載しているのです。しかも、水中防御構造など2重底以外無きに等しい設計です。これでは、ちょっとした水中弾の命中や、魚雷の命中、または触雷により誘爆し、大爆発を発生する可能性もあります。
  日露戦争における、戦艦ペトロパブロフスク、戦艦初瀬の触雷による火薬庫誘爆、爆沈、第一次世界大戦のジュットランド海戦における、戦艦ポンメルンの被雷爆沈というケースを考えると、誘爆、そのまま轟沈という光景も、あながち間違いとは言い切れません。
  また、主力の戦艦部隊の支援用としては、重装甲、高速などの実現を考えると、高価に過ぎるように思われます。魚雷のプラットフォームとして考えても、水雷戦艦が艦隊決戦にしか使用出来ない(機雷敷設は可能ですが)特殊艦であるのに対し、駆逐艦(水雷艇)は、色々な任務に使用できます。実際第一次世界大戦では、駆逐艦(水雷艇)は、護衛や機雷敷設、対潜任務など、艦隊のワークホースとして、水雷襲撃以外の多岐にわたる任務に使用されました。これを考えると、水雷戦艦の建造を取りやめて、普通に駆逐艦を生産したロシア海軍の選択は正しいと言えるでしょう。

  水雷戦艦の構想は、その後艦砲の射程が順調に伸びたために、そのまま立ち消えて行きました。結局、試行錯誤の時代の産物であったと言えるでしょう。

  ちなみに、水雷戦艦を支持したバルト海艦隊司令長官エッセン中将は変人でも何でもなく、軍人として優秀な人物です。日露戦争当時は大佐で、旅順の第一太平洋艦隊艦隊で戦艦セヴァストーポリの艦長を務めています。第一次世界大戦ではバルト海艦隊司令長官として活躍しました。残念ながら、バルト海艦隊の戦艦群はペテルスブルグ軍管区の陸軍司令官の指揮に入っていたので攻勢に使用出来ませんでしたが、エッセン提督は巡洋艦以下の活発な作戦活動と機雷戦を積極的に行い、制海権を容易にドイツ側に渡しませんでした。
  エッセン中将は、残念ながら第一次世界大戦中の1915年5月20日に現職のまま死去しています。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。


◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1906-1921」 出版社 CONWAY
・「Battleships of World War T」 出版社 Arms & Armour Press
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社



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