ロシア海軍 戦艦レトヴィザン
及び日本海軍 戦艦肥前




  戦艦レトヴィザンは、ロシア海軍で唯一アメリカで建造された戦艦です。日本や西欧の文献では、日露戦争期、最良のロシア戦艦とされる場合が多いですが、ロシア海軍部内での評価は、違うものがある模様です。
  その理由は、艦の性能の他、アメリカとの商習慣の差がもたらした軋轢などがあるように思われます。
  本稿では、開発経緯、艦歴などを簡単に追ってみようと思います。


◎艦名の由来
・レトヴィザン Retvizan Ретвизан
  もとは1790年にロシヤ海軍のクロウン艦長がスウェーデン軍から捕獲した64門艦の艦名。
  スウェーデン艦時代の艦名は "Rättvisa" で、意味は「正義」。


◎性能
建造:ウィリアム・クランプ・アンド・サンズ造船所(フィラデルフィア)
設計排水量:12,746t
実際の排水量:12,902t
垂線間長:114.6m 水線長:116.5m 全長:117.85m
全幅:22.0m 吃水:7.6m
主缶:ニクローズ缶24基
主機/軸数:三気筒直立三段膨張機械2基、2軸推進
機関出力:設計16,000hp 実際17,111.7hp
速力 計画:18ノット
速力 実際:17.99ノット
燃料搭載量 常備:石炭1,016t 満載:石炭2,000t
航続距離 常備4,900浬、満載8,000浬/10ノット
兵装:30.5cm40口径連装砲塔2基
    15.2cm45口径単装砲12門
    75mm50口径単装砲20門
    47mm43口径単装砲24門
    37mm23口径単装砲6門
    マキシム機関銃2挺
    63.5mm19口径バラノフスキー陸戦砲2門
    38.1cm水上魚雷発射管4門 38.1cm水中魚雷発射管2基
    機雷45発装備可能
防御:装甲材質は全てクルップ浸炭甲鈑
    主舷側装甲/機関区画、弾火薬庫脇 229mm(下部に向け127mmにテーパー)
    主舷側装甲/船体前後部 51mm
    上部舷側装甲/機関区画、弾火薬庫脇 152mm
    副砲ケースメイト 127mm ケースメイト天蓋及び背面 37mm
    主砲塔/側面 229mm
    主砲塔/天蓋51mm
    主砲塔バーベット 203mm
    防御甲板/機関区画及び主砲弾火薬庫上面 51mm 舷側傾斜部63mm(主舷側装甲下端に接続)
    防御甲板/シタデル前後 艦首尾部 76mm
    シタデル前後横隔壁 前後部 178mm
    47mm砲、37mm砲砲門 非装甲
    司令塔 側面 254mm、天蓋不明、交通筒 254mm
乗員:士官28名 兵722名


◎建造経緯
  極東配備用に建造された、ペレスヴィエト級戦艦の戦力が日本海軍のイギリス製一等戦艦に劣る事実から、1897年から1898年にかけて、ロシア海軍の海軍科学技術委員会で新しい戦艦の検討が開始されました。検討の結果は、排水量12,000t、30.5cm40口径連装砲塔2基、15.2cm45口径単装砲12門、速力18ノット、航続距離5,000浬/10ノット、艦底の銅板被覆は不要という内容でした。排水量が比較的小型なのは、極東のドックに入渠可能な点と、スエズ運河を常備状態で通過可能な点が求められた為です。
  建造に当たっては、国内の造船所が既に他の艦を建造しており、ドックを増設する余裕もないことから、国際的なコンペティションを開いて建造企業を決定することとなりました。しかし、当初、コンペティションに参加する企業の中には、アメリカのクランプ造船所は含まれていませんでした。

  クランプ造船所(フィラデルフィア)は1898年までに、アメリカ海軍の11隻の戦艦の内4隻、巡洋艦18隻の内7隻を建造しており、その他に日本海軍の二等巡洋艦笠置を建造していました。アメリカ合衆国の中で最も成功した造船所と言える実績を持っていました。
  クランプ造船所は、更なる将来の展望を描いていました。イギリスのウィリアム・アームストロング卿のアームストロング社のように、国際的な販路を持つ、自国での艦艇建造が出来ない国家の「海軍の建造者」となることを考えていたのです。しかし、国際的な軍艦輸出市場はイギリスの造船会社に独占されており、新規参入は難しい状況でした。
  そこでクランプ造船所が目を付けたのが、イギリスから軍艦を輸入できない立場にある国家でした。ロシアはその典型でした。

  ロシア海軍とクランプ造船所は、これまで何度か取引がありました。露土戦争の間の1878年、ロシア海軍は補助巡洋艦へ転換するため、クランプ造船所の工事中の3隻の商船を購入しました。追加として4隻目の船、ザビヤカ(Zabiiaka)が新規に発注、建造されました。
   1893年、ロシア海軍はアメリカに調査の人員を送り込みました。その後、何隻かの巡洋艦の修理をクランプ造船所で行いましたが、ロシア側はクランプ造船所の設備と作業の効率の良さに良い印象を受けました。
  その後、1894年から1896年まで、クランプ造船所はロシア海軍の何人かの士官と接触を持ち、関係を深めました。
  また、クランプ造船所は、アメリカの駐ロシア大使ヒッチコック(Ethan A. Hitchcock)、クランプ造船所の取締役会の役員と姻戚関係のあるセリグマン・フリア社(Seligman Freres et Cie)のパリ支社長、ヘルマン(Max Hellman)のロシア海軍とのコネクションを利用しました。
  これらのコネクションを通して、クランプ造船所のチャールズ・ヘンリー・クランプ(Charles Henry Cramp)は、1898年初頭、ロシア海軍が外国へ戦艦を発注する意図があること、ウラジオストクに水雷艇の完全な建造が可能な造船所を構築する予定があることを掴みました。彼は少数のスタッフを連れ、1898年3月初め、急遽サンクト・ペテルブルグに向かいました。これは、ロシア海軍省の予想外の出来事でした。

  クランプはロシア海軍に対し、クランプ造船所で建造されたアメリカ戦艦アイオワをベースにした戦艦の建造を提案しました。これは、ロシア海軍のペトロパヴロフスク級戦艦とアイオワが類似した性能を持ち、4,500浬/10ノットの良好な航続力を持っていることが理由でした。
  それに対し、ロシア海軍の海軍科学技術委員会は、設計のベースとしてペレスヴィエト級戦艦を用いる考えと、戦艦クニャージ・ポチョムキン・タヴリチェスキーを用いる考えを持っていました。海軍科学技術委員会はクランプに両艦の設計を公開しました。クランプは、戦艦クニャージ・ポチョムキン・タヴリチェスキーをより高速化し、航洋性を持たせる設計を検討しました。

  これらの要求及び設計に基づいて、クランプと彼のスタッフは彼ら自身のアイデアとロシア海軍のアイデアを総合したスケッチデザインを作成しました。それは、戦艦ポチョムキンに高速と航洋性を持たせ、航続距離を伸ばすという設計でした。戦艦ポチョムキンとの差異は航続距離で、戦艦ポチョムキンの15.2cm副砲4門を犠牲にして、燃料搭載量を1,100tから2,000tに増やすという案でした。そのため艦内容積を増やす必要から、船型を船首楼船型から平甲板船型に変更しました。また、最大速力を16ノットから18ノットに伸ばすため、船体を狭くし、少し長くするとしました。

  設計はロシア海軍側が概要を示し、細目をクランプとそのスタッフが設計するという形となりました。クランプは本国の造船所の支援を得ずに、時間的制約の中、それを成し遂げました。
  1898年4月23日、クランプはロシア海軍と、戦艦1隻−後のレトヴィザン−と防護巡洋艦−後のヴァリャーク−の建造契約を結びました。この契約では、戦艦は30ヶ月、防護巡洋艦は20ヶ月で完成させるとされました。
  この際、クランプは、ロシア海軍より、2つの譲歩を得ました。1つは新戦艦の排水量を12,000tから12,700tに増加させる許可、1つはロシア海軍で主用されていたベルビール缶ではなく、強制通風を前提としたニクローズ缶を使用する許可でした。
  また、クランプは契約書は英語を基本とし、クランプ造船所に有利な条項を盛り込むことにも成功しました。これは、後にロシア海軍とクランプ造船所の間に軋轢が発生した際に、クランプ側に有利に働きました。
  クランプの商談は素早く、当初の国際的なコンペティションを行うという予定は無くなりました。クランプ造船所はアメリカ造船界で最大の艦の受注に成功しました。戦艦の契約価格は436万ドル、防護巡洋艦の契約価格は213万8,000ドルでした。
  一方、クランプはロシア海軍から2隻の戦艦、4隻の巡洋艦、約30隻の水雷艇、ウラジオストクの造船設備を受注することを希望していましたが、それは失敗に終わりました。


  クランプは1898年5月12日に帰国し、米西戦争の勃発を知りました。クランプ造船所はアメリカ海軍のために緊急の作業を行う必要が生じ、ロシア戦艦の起工は遅れました。しかし、これはこの後発生した多くの問題の始まりでしかありませんでした。

  戦艦の詳細設計のため、クランプ造船所とサンクト・ペテルブルグの間で、膨大なやりとりが行われました。
  この設計作業中、多くの仕様変更が行われました。一例として、契約した最大速力の達成を心配したクランプ造船所側が、艦の幅を1フィート(30.5cm)減らそうとしたことがありました。サンクト・ペテルブルグで行われた試算では、これは艦のメタセンター高さを3フィート(91.5cm)増やす結果になると予想されました。サンクト・ペテルブルグより叱責の電報が届き、これは中止され、メタセンター高さは4フィート(122cm)以下に抑えられました。
  また、艦は重量計算の誤算を修正するため、わずかに長くされなければなりませんでした。
  最初の施工図は、1898年末にサンクト・ペテルブルグに送られました。

  戦艦は公式に船体番号300番として1899年7月29日に起工され、レトヴィザンと名付けられました。実際は、これ以前の1898年12月には建造が始まっており、既に約1,000tの鋼材が組み立てられていました。
  建造はトラブル続きでした。特に、クランプ造船所は、厳しい労働条件から労働者の不満が高まっており、1899年8月にはそれがストライキに発展しました。ストライキは1900年春まで続き、その間艦の建造は止まっていました。
  クランプ造船所は、艦の完成を早めるために、ストライキの要求をある程度飲まざるを得ませんでした。

  戦艦レトヴィザンは1900年10月23日進水しましたが、その後労働力の重点が防護巡洋艦ヴァリャークの完成に移され、建造が暫く停滞しました。最終的に、1901年10月に完成し、受領公試を開始しました。
  1902年1月17日の計測では、排水量は設計値12,745.56tに対し、12,409.93tと軽く仕上がっていました。メタセンター高は約3.17フィート(96.5cm)で満足行くものでしたが、重心を落とし復原性を高めるため、227tのバラストが搭載されました。

  戦艦レトヴィザンは1902年3月23日に正式にロシア海軍に受領されました。
  欧米及び日本の文献では、アメリカの戦艦メインの設計が戦艦レトヴィザンの設計に影響を与えたと書かれる場合が多いですが、現実は逆で、戦艦レトヴィザンはロシア的設計要素の強い戦艦でした。レトヴィザン建造後、このロシア的な設計要素の多くがアメリカ戦艦に取り込まれました、舷側部で傾斜した防御甲板(アメリカ戦艦では1901年のヴァージニア級から採用)やニクローズ缶の採用、18ノットの高速などがそれに当たります。実際、アメリカ戦艦メインには、戦艦レトヴィザンとその原型の戦艦ポチョムキンの面影を見ることが出来ます。

戦艦レトヴィザン 竣工時
戦艦レトヴィザン 竣工時
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎特徴
・艦型
  戦艦レトヴィザンは、平甲板船型と高い乾舷を持ち、満足すべき航洋性を持っていました。
  復原性能も満足のいくもので、長い航続距離と共に、外洋での作戦に適した能力を持っていました。
  また、船内の機器の多くは、当時のアメリカ戦艦と同じく、電気動力が採用されていました。

・武装
  主砲塔は、ロシア戦艦標準のオブコフ式の30.5cm40口径連装砲塔2基でした。最大仰角は15度、最大俯角は5度でした。
  当初、主砲塔は船体と別の入札であり、クランプ造船所がアメリカ式の砲塔を提案し、かなり契約に近いところまで行ったのですが、結局、1898年6月の会議で海軍科学技術委員会の造兵部門が、仕事の品質を監督しやすい国内のメタリチェスキー重工(Metallicheskii Works)に発注するべきだと主張し、結局その通りとなりました。
  主砲塔は全周装填が可能で、電力で操作されていました。砲術公試は1901年10月に実施され、満足すべき成果を収めました。
  弾薬は砲毎に77発でした。

  15.2cm45口径単装砲は、片舷に付き船体メインデッキのケースメイトに4門、上部構造物内のケースメイトに2門の計6門、両舷で計12門装備されました。最大仰角は15度、最大俯角は5度でした。
  この砲は速射砲であり、発射速度は1分間に5発程度でした。
  副砲の弾薬は、砲毎に200発でした。

  75mm50口径単装砲は、メインデッキの砲門に片舷艦首4門、艦尾3門の両舷計14門、上甲板の15.2cm砲ケースメイトの間に片舷3門づつ、両舷計6門、総計20門が装備されました。
  弾薬は砲毎に325発でした。

  47mm43口径単装砲は、ミリタリーマストのファイティングトップに4門づつ、8門が上部構造物前端(片舷1門ずつが最前端の上部構造物に、片舷3門ずつが司令塔の側面の上部構造物に装備)、8門が上部構造物後端(上部構造物甲板に片舷3門づつ、その上のプラットフォームに片舷1問筒が装備)に装備されていました。

  37mm23口径単装砲は、6門がブリッジウィングに、2挺のマキシム機関銃と共に装備されていました。

  その他、63.5mm19口径バラノフスキー陸戦砲が陸戦用に装備されていました。

  魚雷兵装は38.1cm魚雷発射管6門でした。水上発射管が艦首と艦尾、後部舷側両舷の4門、水中発射管が前部主砲弾火薬庫前の舷側両舷の2門、計6門が装備されていました。
  魚雷は17発が装備され、艦載水雷艇にも装備可能になっていました。
  その他に、機雷45発を装備できました。他の艦の例を考えると、前部主砲弾火薬庫の前に機雷庫があったと思われます。

  探照燈は75cm探照燈が6基装備されていました。

戦艦レトヴィザン 防御配置図
戦艦レトヴィザン 防御配置図
「Броненосец <<РЕТВИЗАН>>」 出版社 Морская коллекчияより引用。


・防御
  戦艦レトヴィザンの装甲は、全てクルップ浸炭甲鈑が使用されました。
  主舷側装甲は機関区画と弾火薬庫脇に及び、装甲厚229mm(下部に向け127mmにテーパー)でした。長さは256フィート(78.08m)に及び、、高さは7フィート(213.5cm)、その内水中部分は3フィート(91.5cm)でした。
  主舷側装甲前後の船体前後部の舷側装甲厚は51mmで、高さは上部舷側装甲の上端の高さまで及びました。
  上部舷側装甲は機関区画と弾火薬庫脇に及び、装甲厚152mmでした。
  副砲ケースメイトの装甲厚は127mm、ケースメイト天蓋及び背面の装甲厚は37mmでした
  主砲塔の側面の装甲厚は229mmで、天蓋は51mm、バーベットは203mm
  防御甲板は機関区画及び主砲弾火薬庫上面の装甲厚が51mm、舷側傾斜部63mmで、傾斜部の端は主舷側装甲下端に接続していました。
  シタデル前後の防御甲板の装甲厚は、艦首尾部ともに76mmでした。艦首部の甲板装甲は、衝角の強度保持にも役に立っていました。
  シタデル前後横隔壁は、前後部とも装甲厚178mmでした
  47mm砲、37mm砲砲門は非装甲でした。
  司令塔の装甲厚は側面254mm、防御甲板への交通筒が254mmでした。

  総合して、舷側の装甲範囲は広く、良好な防御力を持っていると言えるでしょう。
  加えて、他のロシア国内建造のロシア戦艦と比べ、計画排水量からの排水量の増加もが少なく、舷側装甲の過度の水没がなく、良く防御の役割を果たしていた点も、クランプ造船所の造船技術の高さを表している点として注目に値します。
  また、米西戦争の戦訓により、可燃物は可能な限り少なくされました。

戦艦レトヴィザン 艦内配置図
戦艦 レトヴィザン 艦内配置図
「Броненосец <<РЕТВИЗАН>>」 出版社 Морская коллекчияより引用。


・機関
  缶は、中央隔壁1枚と中央横隔壁1枚で区切られた4缶室に一缶室横3基縦2列、ニクローズ缶計24基が装備されました。この中央縦隔壁は、浸水時の傾斜の危険を増すので、防御上の問題であったと思われます。
  ニクローズ缶は蒸気性状18atu(1atu = 1.03kg/cu)、飽和蒸気で強制通風を前提としていました。
  推進軸の構成は、2軸推進でした。
  主機械は三気筒直立三段膨張機械で、2つの機械室は缶室の後ろにあり、中央に縦隔壁を持ちました。
  計画された機関出力は16,000hpでした。

  戦艦レトヴィザンの最初公試は1901年9月に、デラウエア岬沖で行われましたが、速度は17ノットに止められました。同時に行われた砲熕公試は満足の行く結果でした。
  その後、艦は最終公試に向けてクランプ造船所に戻って整備を受けた後、、ブルックリン海軍工廠でドック入りし、10月21〜24日に、アン岬沖のアメリカ海軍の公試海域で最終公試が行われました。
  良好な整備状態と選抜された給炭要員、強制通風により機関出力が17,111.7hpに達したにもかかわらず、最大速力は契約に定められた18ノットに達せず、17.99ノットに止まりました。

  ロシア海軍省は、契約で定められた通り、15,000ドルの罰金をクランプ造船所に課すことを企図しました。しかし、クランプ造船所側は艦は18.01ノットを達成したと見なされるとして、これに反論しました。
  極めて長い不毛な議論がロシア海軍省とクランプ造船所の間に交わされましたが、結局ロシア側は、バルト海で再公試を行い、艦の速度性能を自分の手で確認する余裕のないことから、罰金の取り立てを取り下げました。

  ロシア海軍は、ニクローズ缶に対し、信頼感を持っていませんでした。故障の多さと石炭消費量の多さがその理由でした。アメリカ海軍もそれと似た考えを持っていました。
  ニクローズ缶の不調は、防護巡洋艦ヴァリャークでも発生していました。これは、後の日露戦争開戦後、仁川沖海戦で証明されました。この時、防護巡洋艦ヴァリャークに積まれた30基のニクローズ缶の内、使用可能なのは22基に過ぎず、速力は16ノットしか出せませんでした。

  アメリカ海軍でも、戦艦メインに積んだニクローズ缶のトラブルが多く、1910年には缶の交換をせざるを得ませんでした。

・水中防御
  戦艦レトヴィザンの2重底は、主砲弾火薬庫と機関室の下に広がっていました。
  機関室の二重底の深さは3フィート(91.5cm)、主砲弾火薬庫の二重底の深さは5フィート(152.5cm)でした。この二重底は船体の横に回り込み、装甲甲板の高さまで続き、水雷防御も兼ねていました。また、両舷側の石炭庫が、追加の水雷防御を兼ねていました。石炭庫の内側の縦隔壁は、船の外舷からおよそ15フィート(457.5cm)の位置に設置されており、追加の水雷防御中壁として働きました。ただ、缶室には中央隔壁があり、浸水時に傾斜を増す可能性があり、防御上危険だったのではないかと思われます。
  船体舷側部、缶室、機械室の横は、14枚の横隔壁により区切られた水防区画が設けられていました。

  排水ポンプ系統は、最新の水防区画毎に独立した排水ポンプを設けたシステムが採用されました。

・その他
  戦艦レトヴィザンは旗艦としても使用できるように、船尾にスターンウォークを含む提督の居室と参謀のための宿泊施設など、旗艦設備が設けられました。

  建造期間中、戦艦レトヴィザンには、メインマストからフォアマストまでワイヤーで結び、蒸気動力とウインチを用いて石炭を補給するスペンサー・ミラー式石炭補給装置が搭載され、テストされました。
  この設備は石炭船からの給炭の他、水雷艇など他の艦艇への給炭にも役立ちました。
  実験は成功裏に終わり、戦艦レトヴィザンに搭載された装置は、戦艦シソイ・ヴェリキイに移設されました。

  この給炭装置は、第二太平洋艦隊の戦艦10隻に装備されました。

◎改装
・1904年夏
  黄海海戦前、陸戦支援のため、15.2cm50口径砲2門、75mm50口径砲2門、47mm43口径砲2門、37mm23口径砲6門を陸揚げしていました。

日本戦艦 肥前(元レトヴィザン)
日本戦艦 肥前(元レトヴィザン)
世界の艦船別冊NO.391「日本戦艦史」 出版社 海人社より引用。


◎日本戦艦としての改装
  戦艦レトヴィザンは日本陸軍の28cm砲の砲撃を受けて旅順港内に着底し、旅順開城後、日本海軍に捕獲されました。その後、戦艦肥前と命名され、修理・改装して使用されました。
  ロシア艦時代からの改装の内容は次の通りです。

・船体
  船体は損傷復旧を行うと共に、ファイティングトップの撤去、煙突の交換が行われました。排水量は、日本の文献には、12,700tと計画排水量と等しい数値が残されていますが、ロシア艦時代、実際には排水量はそれを200t弱オーバーしていました。日本艦になった際に、軽量化されていたかどうかは不明です。
  艦尾の75mm、47mm、37mm砲の砲門は、砲の撤去に伴い、閉塞されています。
  外見上には現れませんが、艦内区画はかなり変更されているのが、「海軍造船技術概要別冊 海軍艦艇公式図面集」 出版社 今日の話題社より分かります。
  また、アメリカ建造艦であるが故の電動機器の多さも、日本海軍に取っては印象的だったようです。

・武装
  武装は、「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ、「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズによると、30.5cm40口径主砲と15.2cm45口径副砲は露式砲のままだったとされています。小口径砲は大幅に削減されました。
  75mm50口径単装砲は四一式76mm40口径単装砲に変更され、メインデッキの砲門に片舷艦首4門、艦尾1門の両舷計10門、上甲板の15.2cm砲ケースメイトの間に片舷2門づつ、両舷計4門、総計14門が装備され、6門が削減されました。
  その他、山内式47mm単装砲4基が装備とされたとあります。
  37mm単装砲は装備されませんでした。
  魚雷発射管は、前部主砲弾火薬庫前に日本海軍規格の45.7cm水中発射管を片舷1門、計2門装備し、水上発射管は全廃しました。

  機雷の搭載はされなかったと思われます。

・防御
  装甲防御、水中防御に特に手は加えられませんでした。

・機関
  缶については、「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ、「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズによると、ニクローズ缶24基のままとあります。一方、「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press及び歴史群像シリーズ「日本の戦艦 パーフェクトガイド」 出版社 学習研究社によると、宮原缶24基に換装されたとあります。馬力は16,000hpとロシア艦時代の計画馬力とほぼ同等でした。
  機械については、ロシア艦時代そのままとされました。速力は18.0ノットとあります。
  燃料搭載量は石炭2000tとされ、航続力は8,300浬/10ノットとなり、ロシア艦時代の満載時より長くなりました。

・乗員
  乗員数は796名となりました。

・修理費用
  修理費用は1905年から1908年までの4年間の「海軍省統計年報」から集計すると、105万2,121円でした。この金額には、武装の変更は含まれていない模様です。

  参考までに挙げると、日本海海戦後佐世保軍港で爆沈した三笠の1906年から1907年の修理費用が153万1,064円でした。
  新艦の外国からの購入の場合、装甲巡洋艦日進、春日の購入代金が1,598万4,593円でした。
  新艦を購入・建造するとなると、かかる費用は修理費の比ではありません。また外国からの購入の場合はもちろん、新艦の建造を行っても、当時は建艦資材の多くを輸入に頼っている関係から、莫大な外貨の流出が発生します。
  国内での修理ならば、修理費用は国内に落ちるし、公共事業として戦後の雇用対策にも役立ちます。加えて、海軍は捕獲艦の分も人員と維持費を獲得出来ます。
  これらの観点からすると、捕獲艦の修理と海軍への編入は、ド級艦の時代の到来による旧式化・戦力劣化という点を考えても、妥当な政策だったといえるのではないでしょうか。

◎戦歴
  1898年12月に建造開始、1899年7月29日起工、1900年10月23日進水。1901年10月に完成、1902年3月23日、ロシア海軍に受領されました。1902年5月13日にアメリカ発、ロシア、バルト海に向かいました。1902年6月14日、ニクローズ缶に事故が発生し、2名死亡、6名火傷により負傷とあります。
  1902年11月13日に極東へ向けロシアを出発、1903年5月4日に旅順に到着しています。

  日露戦争開戦時、1904年2月8〜9日夜の日本第一、第二、第三駆逐隊の奇襲攻撃により、魚雷の命中を受け浸水、旅順港の入り口付近に着底しました。
  2月23〜24日の第一次旅順港閉塞作戦では、着底した状態で発砲し、その阻止に参加しています。
  その後、1904年3月8日に浮揚され、6月3日に修理が完了しました。
  1904年8月10日の黄海海戦では、18発の30.5cm砲弾及び20.3cm砲弾を受け、6名戦死、43名負傷の損害を受けています。
  1904年12月5〜6日、日本陸軍の28cm砲の標的にされ、旅順港内に着底しました。

  日本軍の旅順占領後、日本の手により1905年5月25日に浮揚着手、9月22日浮揚、9月24日帝国軍艦籍に編入、一等戦艦肥前、12月12日、等級を廃して戦艦肥前となりました。
  1905年11月27日修理のため佐世保着、修理に入りました。1908年11月に修理が完成しました。

  第一次世界大戦では、装甲巡洋艦出雲、浅間と組んで、出雲艦長森山慶三郎大佐指揮の遣米支隊に所属、1914年10月8日横須賀をカナダに向けて出港しましたが、途中ハワイへ寄港し、同地のドイツ砲艦ガイエルを警戒するよう無線が入り、急遽単艦目的地をハワイに変更しました。
  砲艦ガイエルは8月5日にボルネオ方面でオランダ商船を臨検した後北上しましたが、日本南遣艦隊の動きを見て、10月15日、当時まだ中立国だったハワイに入港しました。日本側として心配なのは、翌16日北米定期船である、東洋郵船の春陽丸がハワイ入港予定で、これが砲艦ガイエルに襲撃される可能性があったことでした。そのため、春陽丸はハワイの沖に待機し、東洋汽船のホノルル支社から無電で安全が保証されたら入港することとなりました。
  戦艦肥前は1度ハワイ入港後、領海外へ出て、砲艦ガイエルの監視に移りました。その後、南洋諸島からハワイに逃げ込んで来るドイツ船を捕獲しつつ、砲艦ガイエルの出港を待ちました。
  結局砲艦ガイエルは、日英両国大使がアメリカ政府に抗議を行った結果、アメリカ政府より「11月7日午後12時まで出港せよ」と通達を受け、アメリカによる武装解除を受け入れました。
  その後、戦艦肥前はカナダのエスカイモルトに入港し、装甲巡洋艦出雲、浅間と合流、出雲の指揮下に入り、ドイツ東洋艦隊の警戒、捜索に当たりました。結局ドイツ東洋艦隊と会敵することはありませんでしたが、肥前の行動範囲は東太平洋から北米西岸、南米チリ沖、ガラパゴス諸島にまで及び、戦闘航海で最も遠くまで進出した日本戦艦となりました。
  1915年2月14日、遣米支隊は横須賀に帰投しました。

  その後、戦艦肥前は1918年4月6日から1921年7月にかけて、シベリア出兵に伴い、第五戦隊に所属し、ウラジオストクを根拠地に沿海州方面の作戦に参加しました。また、その間の1920年4月には尼港事件に伴い、沿海州警備も行っています。
  1921年9月1日、一等海防艦に艦種変更されました。

  1923年9月20日、ワシントン条約により除籍され、1924年7月13日、標的艦摂津に曳光されて佐世保から佐伯湾に回航、7月25日、豊後水道水ノ子灯台付近にて実艦的として連合艦隊の射撃標的に供され、撃沈処分されました。


◎総論
  戦艦レトヴィザンは、太平洋において日本海軍の一等戦艦に対抗するために建造された、ロシア唯一のアメリカ製戦艦でした。本来この艦の建造先は国際的なコンペティションで決定される予定でしたが、クランプ造船所の実にアメリカ企業らしい積極的な営業政策により、本来予定外のクランプ造船所での建造が実現してしまいました。
  戦艦レトヴィザンの性能については、欧米の文献及び捕獲して使用した日本海軍では一般に高く評価されています。特に日本海軍では、日露戦争の捕獲艦で、第一次世界大戦後まで戦艦籍に止まったのは戦艦肥前一隻のみで、それだけ高く評価されていた事実が分かります。排水量は六六艦隊の戦艦の内、初期の富士、八島並みに小型であるものの、新式であり、良く防御され、砲力、速力も前ド級艦としては満足のいく水準に達していたのがその理由と思われます。
  一方、本来の使用者であるロシア海軍では、同時期にフランスで建造された戦艦ツェザレヴィチに比べ、低い評価に止まりました。理由は、建造中の仕様策定時、建造時、公試後の領収時の交渉にあたって、クランプ造船所側が往々にして契約を盾に取る態度を取ったこと、速力がわずかでありますがロシア海軍の要求に達しなかったこと、クランプ造船所側の主張により採用されたニクローズ缶への不信などがありました。
  ロシア海軍にとっては、戦艦レトヴィザン建造時の契約の締結方法は艦艇外注の契約の失敗例となったらしく、フランスに戦艦ツェザレヴィチを発注する際に、「戦艦レトヴィザン建造時の契約の失敗の反省をふまえて」、契約の詳細までを煮詰めて検討したという記述があります。
  意外と、戦艦レトヴィザンへのロシア海軍の不満・不評は、性能以外の所−建造経緯−などにもあったのかもしれません。
  しかし一方で、他のロシア国内建造のロシア戦艦と比べ、計画排水量からの排水量増加が少ない点は、クランプ造船所の技術力の高さを表す点として評価に値すると思います。

 本来の使用者であるロシアより、敵国である日本に高く評価された、ある意味面白い戦艦だと思います。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。
※2 日本海軍による戦艦肥前の缶の改装について。
   究極的には、防衛研究所などに行き、原資料を当たるしか確認方法はないと思われますが、現状管理人にはそれが出来ません。
   文献に諸説有り、判別が付かないので、説と出典を明記するに留めました。


◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「Броненосец <<РЕТВИЗАН>>」 出版社 Морская коллекчия
・「日本戦艦戦史」 出版社 図書出版社
・「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍艦艇写真集 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 ダイヤモンド社
・「海軍造船技術概要別冊 海軍艦艇公式図面集」 出版社 今日の話題社
・「日露海戦記 全」 出版社 佐世保海軍勲功表彰會
・世界の艦船別冊NO.391「日本戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.500「日本軍艦史」 出版社 海人社
・「日露戦争」1〜8 児島襄著 出版社 文藝春秋 文春文庫
・歴史群像シリーズ「日本の戦艦 パーフェクトガイド」 出版社 学習研究社
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 上」出版社 グランプリ出版
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 下」出版社 グランプリ出版



  艦名のロシア語発音及び艦名の由来につきましては、本ホームページからもリンクさせていただいている、大名死亡様のホームページ、「Die Webpage von Fürsten Tod 〜討死館〜」を参考にさせていただいております。
  詳しくは、次のリンクをご参照下さい。

(第一)太平洋艦隊のロシヤ艦艦名一覧

  また、資料の内、「Броненосец <<РЕТВИЗАН>>」 出版社 Морская коллекчияは、ホームページ、三脚檣の管理人、新見志郎樣よりお貸しいただきました。厚く御礼申し上げます。



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