ロシア海軍 ペトロパヴロフスク級戦艦
及び日本海軍 戦艦丹後




  ペトロパヴロフスク級戦艦は、開発当時の列強の戦艦と互角に戦える戦力と、高い乾舷と高い外洋での航洋性を持つ、初めてのロシア戦艦として建造されました。3隻とも極東 旅順に配備され、日露戦争初期、日本海軍と激しい戦いを演じました。
  本稿では、開発経緯、艦歴などを簡単に追ってみようと思います。

◎艦名の由来
・ペトロパヴロフスク Petropavlovsk Петропавловск
  カムチャトカ半島の港町の名。クリミヤ戦争で優勢な英仏艦隊の攻撃を受けて激戦地となりましたが、ロシヤ軍の奮戦により守り切りました。

・ポルターヴァ Poltava Полтава
  北方戦争の際、スウェーデンのカール12世の軍をピョートル1世のロシヤ軍が打ち破った古戦場。

・セヴァストーポリ Sevastopol' Севастопол
  クリミヤ半島西岸にある港町。ロシヤ黒海艦隊の根拠地。クリミヤ戦争では最大の激戦地となりました。

・チェスマ(元ポルターヴァ) Chesma Цесма
  第一次露土戦争(1768〜1774)における、1769年の海戦名。ロシア側の大勝に終わりました。


◎性能
建造:ペトロパヴロフスク ガレルニィ島工廠(サンクト・ペテルブルグ)
    ポルターヴァ ニュー・アドミラルティ工廠(サンクト・ペテルブルグ)
    セヴァストーポリ ガレルニィ島工廠(サンクト・ペテルブルグ)
設計排水量:10,960t
実際の排水量:ペトロパヴロフスク11,354t、ポルターヴァ11,500t、セヴァストーポリ11,842t
垂線間長:108.5m 水線長:112.5m 全長:114.6m
全幅:21.33m 計画吃水:7.9m 実際の吃水8.60m
主缶:円缶14基(セヴァストーポリ 16基)
主機/軸数:三気筒直立三段膨張機械2基、2軸推進
機関出力:設計10,600hp
機関出力:実際 ペトロパブロフスク11,255hp ポルターヴァ11,213hp セヴァストーポリ9,368hp
速力 計画:16ノット
速力 公試:ペトロパヴロフスク16.38ノット、ポルターヴァ16.29ノット、セヴァストーポリ15.30ノット
燃料搭載量 常備:石炭700t 満載:石炭1,050t
航続距離 3,500浬/10ノット
兵装:30.5cm40口径連装砲塔2基
    15.2cm45口径連装砲塔4基 単装砲4門
    47mm43口径単装砲12門(セヴァストーポリ10門)
    37mm23口径単装砲28門
    陸戦用63.5mm19口径砲2門
    38.1cm水上魚雷発射管4門 45.7cm水中魚雷発射管2基
    機雷50発装備可能
防御:主舷側装甲/機関区画
           ペトロパヴロフスク406mmニッケル甲鈑(下部に向け203mmにテーパー)
           ポルターヴァ368mmクルップ浸炭甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)
           セヴァストーポリ368mmハーヴェイ・ニッケル甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)
    主舷側装甲/主砲弾火薬庫脇
            ペトロパヴロフスク305mmニッケル甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)
            ポルターヴァ305mmクルップ浸炭甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)
            セヴァストーポリ254mmハーヴェイ・ニッケル甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)
    上部舷側装甲/機関区画のみ127mm
    主砲塔/側面
          ペトロパヴロフスク254mmニッケル甲鈑
          ポルターヴァ254mmクルップ甲鈑
          セヴァストーポリ254mmニッケル甲鈑
    主砲塔/天蓋50.8mmニッケル甲鈑
    主砲塔バーベット
              ペトロパヴロフスク254mmニッケル甲鈑
              ポルターヴァ254mmクルップ浸炭甲鈑
              セヴァストーポリ254mmニッケル甲鈑
    副砲塔/側面及びバーベット 127mmニッケル甲鈑
    副砲塔/天蓋25.4mmニッケル甲鈑
    防御甲板/機関区画及び主砲弾火薬庫上面 51mmニッケル甲鈑(主舷側装甲上端に接続)
    防御甲板/シタデル前後 艦首尾部 平坦部63mmニッケル甲鈑 舷側傾斜部76mmニッケル甲鈑
    シタデル前後横隔壁 前部229mmニッケル甲鈑 後部203mmニッケル甲鈑
    船体部副砲、47mm砲、37mm砲砲門 非装甲
    司令塔 側面229mmニッケル甲鈑、天蓋不明、交通筒装甲なし
乗員:士官26〜27名 兵605〜625名 ペトロパヴロフスク 旗艦時750名


◎建造経緯
  ペトロパヴロフスク級戦艦は、列強の戦艦と比べて、排水量は少ないものの、遜色ない戦力を備えた初めてのロシア戦艦でした。また、乾舷が高く、満足すべき外洋での航洋性を備えた初のロシア戦艦でもありました。
  1890年11月、ロシア海軍省長官チハチェフ中将(Vice Admiral N. M. Chikhachev)が、一等戦艦と二等戦艦の検討を命令し、設計の検討が始まりました。
  この一等戦艦が後にペトロパヴロフスク級戦艦となり、二等戦艦が、シソイ・ヴェリキィとなりました。
  チハチェフ中将は、この一等戦艦に、排水量10,500t、高い航洋性、重装甲、17ノットの高速、最大喫水7.9m、7,000浬の航続力を要求しました。当初、戦艦インペラトール・ニコライT世の艦尾に主砲塔を増設し、副砲を強化した案が検討されました。

  この設計に際し、海軍科学技術委員会は、1890年9月に公試を始めていた戦艦インペラトール・アレクサンドルU世の航洋性の実績を参考にすることが出来ました。それによると、船体に副砲として取り付けられている、22.8cm単装砲と15.2cm単装砲が、海が荒れると使用不能になることが分かりました。また、熱帯地方や地中海、または寒冷なバルト海での使用を考えると、船体に砲門を空けて装備して、水密カバーを付け、必要に応じて開閉する構造は使用が難しいことが分かりました。  そのため、副砲には、別の装備方法を考える必要が生じました。

  海軍科学技術委員会は、外国の艦の構造を研究しました。そこで関心を引いたのが、アメリカのインディアナ級戦艦が、20.3cm副砲を砲塔形式にして舷側に装備している点でした。それは、1888年完成の装甲巡洋艦アドミラル・ナヒーモフに似た配置でした。
  1890年末までに、デザインスケッチが完成しました。これは、インディアナ級より高い乾舷を持ちましたが、主砲、副砲は砲塔構造ではなく、バーベットに装備され、その上に装甲フードを載せた形でした。
  海軍科学技術委員会は、1891年1月より、より詳細な設計作業に入り、秋には詳細な設計が完成しました。

ペトロパヴロフスク級戦艦 1891年原案
ペトロパヴロフスク級戦艦 1891年原案。
バーベット装備の30.5cm35口径主砲、20.3cm35口径副砲(共に装甲フード付き)に注目。
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


  この設計は、排水量10,960t、主砲として30.5cm35口径砲を2門づつ前後のバーベットに計4門装備し、副砲として20.3cm35口径砲を2門づつ、両舷側に2基づつのバーベットに計8門装備していました。防御は機関区画脇の主舷側装甲帯が406mm、弾火薬庫脇の主舷側装甲帯が305mで、上部舷側装甲は持ちませんでした。速力は、戦艦ゲオルギィ・ポビエドノセッツと同じ機関を用い、10,600hpで、自然通風状態で16ノット、強制通風状態で17ノットとされました。
  船体の特徴としては、装甲巡洋艦アドミラル・ナヒーモフで用いられたような、舷側上縁がカーブしているタンブルホーム形状と、バーベット上に装甲フードをかぶせる様式が採用されました。
  その後、防御の設計は、速射砲の出現により、変更されました。機関区画の主舷側装甲の上に127mmの上部舷側装甲が取り付けられるとされました。代償重量として、艦尾の舷側装甲が取り除かれ、艦首尾の垂直防御は防御甲板の傾斜部のみで行うとされました。
  船型に関しては、スコットランドの造船会社、デニー社に依託して、1891年9月に水槽試験を行いました。それによると、この船型では17ノットの速力発揮は無理であり、16ノットが限界だろうという結果が出ました。
  ロシア海軍は、時間をかけて船体を設計し直すか、直ぐに建造を開始するかの決断を迫られました。結局、速力が16ノットであることを承知の上で、直ぐに建造が開始されることとなりました。
  その後、1893年3月、ロシア初の試験用水槽が完成し、船型の水槽試験が行われましたが、結果はデニー社の実験結果と同じでした。

  その頃、造船所では熟練工の不足が、建造中の艦の工期の遅れを招いていました。更に、サンクト・ペテルブルグの造船所では、戦艦シソイ・ヴェリキイ、戦艦ポルターヴァ、海防戦艦アドミラル・ウシャコーフ、装甲巡洋艦リューリックが既に並航して建造されていました。
  工期の短縮のため、ペトロパヴロフスク級では、艦の資材の多くを外国からの輸入に頼ることになりました。 装甲はアメリカとドイツから、機関はイギリスから輸入されることとなりました。

  その後、設計に何点か変更が加えられました。
  最大の変更は、1893年に行われた、主砲の変更でした。主砲は30.5cm35口径砲から、シソイ・ヴェリキィと同形の、センターピボット型の30.5cm40口径連装砲塔2基に変更されました。
  副砲は、20.3cm35口径砲から、15.2cm45口径速射砲に変更されました。15.2cm45口径速射砲は、連装砲塔が両舷側に2基づつ、砲塔の間の船体に砲門を設けて単装砲が2門づつ装備され、片舷6門、両舷で計12門となりました。

  1897年6月12日、バルト海艦隊の小型戦艦ガングートが座礁沈没しました。原因は船体の水密隔壁の不完全とされ、水密隔壁の試験規則がより厳重になりました。ペトロパヴロフスク級は、この試験規則が採用された最初の艦の1つとなりました。

  砲と装甲を含むペトロパヴロフスクの総費用は、9,225,309ルーブルに達しました。

  3艦は完成後、極東に配属されるものとされました。

ペトロパヴロフスク級戦艦 ポルターヴァ 竣工時
ペトロパヴロフスク級戦艦 ポルターヴァ 竣工時。
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎特徴
・艦型
  ペトロパヴロフスク級は、高い乾舷を持ち、満足すべき航洋性を持っていました。
  船型には重量軽減のため、タンブルホームが用いられましたが、舷側上縁のみに用いられており、吃水線辺りからタンブルホームを付けるフランス軍艦とは形状が異なっていました。
  この級は一般的に、嵐の中でも動揺が少なく、良い航洋性を示しました。ビスケー湾で嵐にあった際にも問題なく航行出来ましたが、この時は前部甲板に海水をかぶりました。

  3隻は外見上よく似ており、識別点は煙突の高さとデリックポストの位置でした。
  ペトロパヴロフスクの煙突はマストより背が高く、ポルターヴァはマストと同じ高さで、セヴァストーポリはマストより低く作られていました。
  煙突間のデリックポストは、ペトロパヴロフスクは煙突間の中心に立っており、ポルターヴァとセヴァストーポリは、煙突間の中心よりやや後ろに立っていました。

・武装
  主砲の30.5cm40口径砲の開発の遅れが、艦の完成を遅らせる原因となりました。1897年初頭まで、3隻の艦には1門も主砲が供給されていませんでした。

  主砲塔は、シソイ・ヴェリキィに装備されたものと同形で、完全な砲塔形式で、センターピボット式でした。旋回動力と装填動力は水圧で、揚弾動力は電動でした。
  主砲はどの旋回角度でも装填可能で、装填角度は固定角度でした。
  ただ、全旋回角度で装填出来る利点にもかかわらず、発射速度は他の列強の戦艦より緩慢でした。設計では発射速度は90秒/発でしたが、実際には3分/発でした。
  砲塔の旋回範囲は270度で、最大仰角は15度でした。弾薬は、砲毎に58発でした。

  ペトロパヴロフスクは1899年10月に急いで極東に送られていて、砲術公試は形式的なものでした。そのため、1900年6月のポルターヴァの公試により、主砲の問題が初めて明らかになりました。
  主砲の装薬は375ポンド(170.25kg)でしたが、発砲による主砲の後座により、砲塔の支持架に負荷が掛かり、砲塔が故障する事実が判明したのです。問題の修正には、様々な改良が必要でした。
  ポルターヴァとセヴァストーポリに対しては、極東に送られる前に、一部の改善工事が実施されました。
  ペトロパヴロフスクの改善工事と、ポルターヴァとセヴァストーポリの残工事は、1901年に、ウラジオストクと旅順で行われました。
  海軍科学技術委員会は、太平洋艦隊の司令官に対して、この工事が完了するまで、ペトロパヴロフスク級3隻と、シソイ・ヴェリキィの30.5cm主砲の斉射を行わないように勧告しました。

  15.2cm45口径副砲は、片舷に付き連装砲塔2基、その間の船体の砲門に2門の計6門、両舷で計12門装備されました。
  副砲塔の旋回と弾薬供給は電動で行われ、手動動力でバックアップされました。砲の俯仰は手動で行われ、最大仰角は15度、最大俯角は5度でした。副砲塔の射界は135度で、前の砲塔は艦尾に、後ろの砲塔は艦首に45度の死角を持っていました。
  砲塔装備の15.2cm45口径砲の発砲速度は、単装砲架の半分程の1分に2〜3発程度でした。
  実際の発射速度は砲塔の電動モーターや砲弾供給機構の問題により、1分に1発程度で、期待を大きく裏切る結果となりました。
  砲塔間の船体の砲門に装備された15.2cm45口径単装砲は、左右に50度の射界を持ち、発射速度は1分間に5発程度で、期待通りの性能を示しました。
  副砲の弾薬は、砲毎に200発でした。

  47mm43口径単装砲は、6門が艦橋付近の上部構造物甲板上、司令塔の両側に1門ずつ、前部煙突の両側に1門ずつ、メインマストの両側に1門ずつ配置されていました。
  セヴァストーポリの場合、司令塔の両側の2門が、63.5mmバラノフスキー陸戦砲と交換されました。
  残りの6門は全て船体の砲門に装備されており、錨の近くに1門ずつ、スターンウォークのの前方に1門ずつ、スターンウォークの下の甲板に1門ずつ配置されていました。

  37mm23口径単装砲は、10門がファイティングトップに、6門がフライングデッキに、艦尾47mm43口径単装砲の砲門の近くに10門未満が装備されていました。2門は、艦載水雷艇用に用意されていました。

  魚雷兵装は、珍しく、38.1cmと45.7cmの2種類の口径が混載されていました。
  38.1cm水上魚雷発射管は、前部主砲塔前の両舷の無防御部分に1門ずつ、後部主砲塔前の両舷の127mm装甲で防御された部分に1門ずつ、計4門装備されました。45.7cm水中魚雷発射管は、前部主砲弾火薬庫の前、アンカーベッドの下付近の両舷に1門ずつ、計2門装備されました。
  その他、機雷50発を、前部主砲弾火薬庫の前の機雷弾庫に装備出来ました。この機雷弾庫は前部水中魚雷発射管室(予備魚雷の備蓄有り)の直下に位置しました。
  47mm43口径単装砲と37mm23口径単装砲の弾庫は、前部主砲弾火薬庫の両脇にありました。
  この弾火薬庫の過度の集中は防御上の重大な危険となり、ペトロパヴロフスクの触雷爆沈の原因となりました。

ペトロパヴロフスク級戦艦 防御配置図
ペトロパヴロフスク級戦艦 防御配置図。
()の中は、ペトロパヴロフスクの装甲厚。
「Броненосцы типа Полтава」 出版社 В Трёх Проекцпяхより引用。


・防御
  ペトロパヴロフスク級の建造時、ロシア国内の海軍工廠の甲鈑製造設備は未整備で、且つ既存の建造艦艇用の装甲の発注で飽和状態にあり、これ以上の厚甲鈑の製造が不可能な状態にありました。
  そのため、装甲は外国に発注され、コンペティションが開かれました。これには、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカの会社が参加し、競争が行われました。
  競争を僅差で制したのは、アメリカのベツレヘム製鋼でした。
  余談ですが、ベツレヘム製鋼からの甲鈑の購入を担当したのは、元ロシア海軍士官のマクシーモフ(N. V. Maksimov)でした。ニューヨークヘラルド紙によると、彼はイギリスの会社が80ポンド(389.32ドル)/tの値段を示したのを60ポンド(231.99ドル)/tとベツレヘム製鋼にリークし、甲鈑の値段を249ドル/tに値下げをさせたということでした。この値段はベツレヘム製鋼がアメリカ海軍に納めている甲鈑の価格より安いので、アメリカ議会で問題となりました。
  マクシーモフは、この働きにより、ロシア海軍省から750ドルのボーナスをもらいました。これにより、ロシア海軍は、368,000ルーブルを節約しました。

  この時期は、丁度ニッケル甲鈑からハーヴェイ・ニッケル甲鈑、クルップ甲鈑への甲鈑技術の進歩の過程に当たり、使用される甲鈑は艦によって異なる形となりました。

  ベツレヘム製鋼は、ペトロパヴロフスクの舷側装甲用に旧式な406mmニッケル甲鈑(下部に向け203mmにテーパー)と、セヴァストーポリの舷側装甲用に、より新式な368mmハーヴェイ・ニッケル甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)を生産しました。
  しかし、ベツレヘム製鋼のハーヴェイ・ニッケル甲鈑の製造力が不足したので、ポルターヴァの舷側装甲用のハーヴェイ・ニッケル甲鈑は、ハーヴェイ・ニッケル甲鈑の製造法を習得した、ロシア国内のイジョルスキー重工に注文されると思われていました。
  しかし、1894年、ドイツのクルップ社が浸炭による表面硬化甲鈑を開発したため、 ポルターヴァの舷側装甲用には、368mmクルップ浸炭甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)がクルップ社に発注されました。
  ポルターヴァの砲塔用の254mmクルップ甲鈑は、クルップ甲鈑の製造方法を習得したドイツのデーリンゲン製錬株式会社に発注されました。
  ポルターヴァのクルップ甲鈑の採用と、セヴァストーポリのハーヴェイ・ニッケル甲鈑の採用は、ペトロパヴロフスクに比べ、50tの重量を節約しました。

  総合的に見て、ペトロパヴロフスク級は良好な装甲防御を持っていましたが、設計排水量から実際排水量への、排水量増加による吃水増加は、主舷側装甲帯の過度の水没に繋がり、防御に悪影響を与えました。

  機関区画脇の主舷側装甲は、ペトロパヴロフスクが406mmニッケル甲鈑(下部に向け203mmにテーパー)、ポルターヴァが368mmクルップ浸炭甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)、セヴァストーポリが368mmハーヴェイ・ニッケル甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)でした。
  主砲弾火薬庫脇の主舷側装甲は、ペトロパヴロフスクが305mmニッケル甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)、ポルターヴァ305mmクルップ浸炭甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)、セヴァストーポリ254mmハーヴェイ・ニッケル甲鈑(下部に向け184.15mmにテーパー)でした。
  主舷側装甲の水線上の高さは、設計時は7フィート6インチ(228.6cm)でしたが、実際には4フィート6インチ(137.16cm)が水没してしまいました。
  主舷側装甲の機関区画脇の最厚部の長さは152フィート(46.36m)で、主砲弾火薬庫脇を含んだ主舷側装甲全体の長さは240(73.2m)フィートでした。
  主舷側装甲帯の前部の横隔壁は229mmニッケル甲鈑、後部の横隔壁は203mmニッケル甲鈑で区切られていました。
  主舷側装甲の上の上部舷側装甲は機関区画のみ127mmニッケル甲鈑で、高さは7フィート6インチ(228.6cm)でした。上部舷側装甲の端から主砲塔バーベットまで、斜めに127mmニッケル甲鈑の横隔壁が設けられていました。

  主砲塔の側面の装甲厚はペトロパヴロフスク、セヴァストーポリが254mmニッケル甲鈑、ポルターヴァが254mmクルップ甲鈑でした。天蓋は、全艦50.8mmニッケル甲鈑でした。
  主砲塔バーベットは、ペトロパヴロフスクとセヴァストーポリが254mmニッケル甲鈑、ポルターヴァ254mmクルップ甲鈑でした。
  副砲塔の側面及びバーベットの装甲厚は、全艦127mmニッケル甲鈑で、天蓋25.4mmニッケル甲鈑でした。
 防御甲板は水平で、主舷側装甲帯の上部に接続されており、機関区画及び主砲弾火薬庫上面は51mmニッケル甲鈑でした。
  シタデル前後、艦首尾部の防御甲板は、平坦部63mmニッケル甲鈑、舷側傾斜部76mmニッケル甲鈑でした。
  船体部副砲、47mm砲、37mm砲砲門は非装甲でした。
  司令塔は前部にのみ設けられており、装甲厚は側面229mmニッケル甲鈑で、防御甲板への交通筒はありませんでした。

ペトロパヴロフスク級戦艦 艦内配置図
ペトロパヴロフスク級戦艦 艦内配置図。缶室の中央縦隔壁、艦首部の45.7cm水中魚雷発射管及び魚雷庫に注目。
「Броненосцы типа Полтава」 出版社 В Трёх Проекцпяхより引用。


・機関
  機関は、ペトロパヴロフスク、ポルターヴァは14基の円缶、セヴァストーポリは16基の円缶が、中央縦隔壁1枚、横隔壁1枚で区切られた4つの缶室に分けて装備されました。この中央縦隔壁は、浸水時の危険を増すとして、防御上の問題となりました。その他に、2基の補助缶が装備されました。
  推進軸の構成は、2軸推進でした。
  主機械は三気筒直立三段膨張機械で、2つの機械室は缶室の直後にあり、中央に縦隔壁を持ちました。

  缶と機械は、3艦の内2艦分が外国に注文されました。
  ペトロパヴロフスクの缶と機械はイギリスのホーソン・レズリー社、ポルターヴァの缶と機械はイギリスのハンフリー・アンド・テナント社に発注されました。
  セヴァストーポリの缶と機械は国産で、フランコ・ロシア重工で製作されました。
  セヴァストーポリの缶と機械は、モーズリ・アンド・サンズ社によって製造された、黒海艦隊用の戦艦ゲオルギィ・ポビエドノセッツの缶と機械の設計に基付いて製作されました。
  計画された機関出力は10,600hpでした。

  ペトロパヴロフスクの公試は1897年11月2日に行われましたが、最初の公試は不満足な結果に終わりました。各種の改良が加えられた後、1898年10月26日に再度の公試を行い、排水量10,890tで11,213hp、16.38ノットを発揮しました。
  ポルターヴァの公試は1898年9月15日に行われ、11,223hpで16ノットの平均速度を記録しました。
  セヴァストーポリの公試は1899年10月28日に行われましたが、操舵装置の故障により、公試は延期されました。1900年6月23日に再公試が実施されましたが、排水量11,249tで9,368hp、15.30ノットという不成績でした。
  機関製造の契約では、機関成績が不良の場合、フランコ・ロシア重工は罰金を支払わなければなりませんでした。しかし、機関の設計はモーズリ・アンド・サンズ社のものを用いており、それが不成績であることがあらかじめ分かっていたため、フランコ・ロシア重工は軽い罰を受けるだけで済みました。

・水中防御
  ペトロパヴロフスク級の2重底はフレーム番号20から80の間に広がっていました。
  2重底部分のフレーム間隔は4フィート(122cm)、その前後の船首、船尾の区画のフレーム間隔は3フィート(91.5cm)でした。
  船体舷側部、缶室、機械室の横は、10枚の横隔壁により区切られた8つの水防区画が設けられていました。
  また、缶室の中心縦隔壁の存在は、浸水時に防御上危険であるとされました。

  ペトロパヴロフスク級の水中防御の問題は、排水ポンプ系統にもありました。メインの排水管が艦を縦通しており、そこからサブの排水管が派生するシステムとなっていましたが、艦の大型化につれて管の構成が複雑化し、水防壁の貫通部分の増加と操作バルブの多数化を招き、ダメージコントロール上の間違いを犯しやすい状態となっていました。
  これらはペトロパヴロフスク級以前の小さな艦では問題ありませんでしたが、より大型のペトロパヴロフスク級では重大な問題となりました。造船官と造船所の技師にも、ダメージコントロールをどのように行うかが複雑でよく分からない状況になっていました。
  マカロフ中将(Vice Admiral S.O.Makarov)は、ポルターヴァの水密隔壁のテストの際に、この問題に気付き、造船官や造船所に注意を促しましたが、結局ペトロパヴロフスク級ではこの問題は未解決のままでした。
  これが根本的に改良されたのは1896年9月のペレスヴィエト級の設計時で、その後の艦ではメインの排水管を廃止し、区画毎に独立した排水ポンプを設けたシステムが開発され、採用されました。

・その他
  3艦は完成後速やかに旅順に送られたため、大きな改装は受けませんでした。


◎改装
・ペトロパヴロフスク
・1901年
  太平洋艦隊の旗艦として使用するために、宿泊設備など、旗艦設備が設けられました。

・1902年
  既に旅順に送られていたため、現地で無線装置が設置されました。
  
・ポルターヴァ
・1900年9月
  バルト海にて、ポポフ(A. S. Popov)の手により、無線装置が設置されました。

・1904年夏
  黄海海戦前、艦尾部の47mm砲と37mm砲の多くが撤去され、内何門かが艦尾のギャレーと上部構造物に移設され、何門かは陸上防備用に回されました。

・セヴァストーポリ
・1900年9月
  バルト海にて、ポポフ(A. S. Popov)の手により、バルト海にて無線装置が設置されました。

・1904年夏
  黄海海戦前、艦尾部の47mm砲と37mm砲の多くが撤去され、内何門かが艦尾のギャレーと上部構造物に移設され、何門かは陸上防備用に回されました。
  また、セヴァストーポリの30.5cm主砲の1門は、黄海海戦前に、日本艦隊の旅順攻撃に反撃した際に故障し、使用不能になっていた模様です。

日本戦艦 丹後(元ポルターヴァ)。1916年4月、ロシアへ譲渡時
日本戦艦 丹後(元ポルターヴァ)。1916年4月、ロシアへ譲渡時
「Броненосцы типа Полтава」 出版社 В Трёх Проекцпяхより引用。


◎日本戦艦としての改装
  ペトロパヴロフスク級3隻は、旅順の近くで全て戦没しましたが、ポルターヴァは日本陸軍の28cm砲の砲撃を受けて旅順港内に着底し、旅順開城後、日本海軍に捕獲されました。その後、戦艦丹後と命名され、修理・改装して使用されました。
  ロシア艦時代からの改装の内容は次の通りです。

・船体
  船体は損傷復旧を行うと共に、ファイティングトップの撤去、煙突の交換、缶室のベンチレーターの換装などが行われました。排水量は、日本の文献には、10,960tと計画排水量と等しい数値が残されていますが、ロシア艦時代、実際には排水量はそれをオーバーしていました。日本艦になった際に、軽量化されていたかどうかは不明です。
  また、艦尾の47mm、37mm砲の砲門は、砲の撤去に伴い、閉塞されています。

  艦内環境ですが、元がロシア艦であるためか、艦内は日本近海では酷暑で定評があったようです。

・武装
  武装は、「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ、「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズによると、30.5cm40口径主砲と15.2cm45口径副砲は露式砲のままだったとされています。小口径砲は大幅に削減され、安式76mm40口径単装砲8基、保式47mm単装砲4基とされたとあります。
  魚雷発射管は、水中発射管を廃し、水上発射管4門を日本規格の45.7cm魚雷に換装したとされています。

  一方、「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressによると、30.5cm40口径主砲と15.2cm45口径副砲も、安式砲に変えられたとあります。
  また、副砲塔も、後にロシアを訪れた日本海軍士官の談話として、戦艦オリョールから取り外した副砲塔に変えられたという話があったと記載されていますが、副砲塔の形式が違うことから、これには疑問が持たれています。

  機雷の搭載はされなかったと思われます。

・防御
  装甲防御、水中防御に手は加えられませんでした。

・機関
  缶については、宮原缶16基に換装されました。馬力は10,600hpとロシア艦時代の計画馬力とほぼ同等でした。
  機械については、ロシア艦時代そのままとされました。速力は16.2ノットとあります。
  燃料搭載量は石炭950tとされ、航続力は3,000浬/10ノットとなり、ロシア艦時代の満載時よりは短くなりました。
  特に、石炭の消費量の多さは問題とされたようです。

・乗員
  乗員数は668名となりました。

・修理費用
  修理費用は1905年から1908年までの4年間の「海軍省統計年報」から集計すると、49万2,682円でした。この金額には、武装の変更は含まれていない模様ですが、捕獲戦艦の中では、海防戦艦を除いて最も安価に修理されています。

  参考までに挙げると、日本海海戦後佐世保軍港で爆沈した三笠の1906年から1907年の修理費用が153万1,064円でした。
  新艦の外国からの購入の場合、装甲巡洋艦日進、春日の購入代金が1,598万4,593円でした。
  新艦を購入・建造するとなると、かかる費用は修理費の比ではありません。また外国からの購入の場合はもちろん、新艦の建造を行っても、当時は建艦資材の多くを輸入に頼っている関係から、莫大な外貨の流出が発生します。
  国内での修理ならば、修理費用は国内に落ちるし、公共事業として戦後の雇用対策にも役立ちます。加えて、海軍は捕獲艦の分も人員と維持費を獲得出来ます。
  これらの観点からすると、捕獲艦の修理と海軍への編入は、ド級艦の時代の到来による旧式化・戦力劣化という点を考えても、妥当な政策だったといえるのではないでしょうか。

◎戦歴
・ペトロパヴロフスク
  1892年3月31日建造が開始され、1982年5月19日起工、1894年11月9日進水。1897年10月、艤装の為にクロンシュタットに移動、機関公試は1898年まで続き、砲術公試は1899年に行われました。1899年に公試を完了し、1899年10月17日クロンシュタット発、1900年5月10日、旅順に到着、太平洋艦隊旗艦として、太平洋艦隊司令長官スクルイドロフ中将(Vice Admiral N. I. Skrydlov)の旗艦となりました。
  1900年夏、義和団事変の鎮圧に参加しました。
  日露戦争開戦時は、太平洋艦隊司令長官スタルク中将(Vice Admiral O.V.Stark)の旗艦を務めていました。1904年2月9日の日本艦隊主力の第1次旅順攻撃では、30.5cm砲弾2発、15.2cm砲弾1発を被弾しました。
  1904年3月11日にはスタルク中将が更迭され、新しい太平洋艦隊司令長官マカロフ中将の旗艦となりました。4月13日、日本艦隊主力の第7次旅順攻撃に際し、巡洋艦バーヤンと駆逐艦ストラーシュヌイを支援するために旅順を出港した際に、10時10分、機雷(4月12日夜、第四、第五、第一四水雷艇隊の援護の下、仮装敷設艦蚊龍丸の敷設したもの)に1発または2発触雷、爆発と共に白煙に包まれ、2分で沈没しました。
  マカロフ提督以下、27人の士官、652人の水兵が戦死し、士官7名、水兵73名が救助されました。
  ペトロパヴロフスクは、1904年5月7日に公式に除籍されました。

・ポルターヴァ 後に日本戦艦丹後
  1892年2月に建造が開始され、1982年5月19日起工、1894年11月6日進水。1897年、艤装の為にクロンシュタットに移動、公試は1898年9月から始まり、1899年には公試を完了し1900年10月15日にクロンシュタット発、1901年4月12日に旅順に到着しました。
  1904年1月27日、開戦前に旅順港外で日本艦隊と遭遇したと言われています。日露戦争開戦後、1904年2月9日の日本艦隊主力の第1次旅順攻撃では、数発の被弾を喫しました。
  黄海海戦の前には、何門かの47mm単装砲、37mm単装砲を陸戦支援に揚陸しています。
  1904年8月10日の黄海海戦では、12〜14発の大口径砲弾を受け、12名戦死、43名負傷の損害を受けています。
  1904年12月5日、日本陸軍の28cm砲の標的にされ、水線下の前部47mm砲弾庫(前部主砲弾火薬庫の脇)に被弾、火災が発生、前部主砲弾火薬庫が誘爆して艦底に穴が空き、旅順港内に着底しました。

  日本軍の旅順占領後、日本の手により1905年5月22日に浮揚着手、7月22日浮揚、8月29日舞鶴着、応急修理のため佐世保経由で横浜着、10月23日の凱旋観艦式に参列しました。8月22日帝国軍艦籍に編入、一等戦艦丹後、12月12日、等級を廃して戦艦丹後となりました。
  凱旋観艦式後、水線部修理のため舞鶴に戻り、水線部の修理と本修理を行い、1907年11月に修理が完成しました。その後、横須賀に回航して大整備を受けました。
  1912年8月28日、一等海防艦に艦種変更されました。

  第一次世界大戦では、1914年8月23日から12月2日まで、加藤定吉中将指揮の第二艦隊に所属して青島攻略戦に参加、青島の砲台への砲撃と封鎖に従事しました。9月28日から11月6日までの主砲発射弾数として、160発という記録が残っています。
  その後、第一次世界大戦中、一等海防艦ペレスヴィエト(元ロシア戦艦ペレスヴィエト Peresvyet Пересвет)、二等巡洋艦宗谷(元ロシア防護巡洋艦ヴァリャーク Varyag Варяг)と共に、1,500万ルーブルでロシア海軍に譲渡されることとなりました。1916年4月4日1200時、帝国軍艦籍から除籍され、ウラジオストクでロシア海軍籍に復帰しました。ただ、ポルターヴァの艦名はド級戦艦に既に使用されているため、戦艦チェスマ(Chesma Цесма)と改名されました。
  ロシア側の評価ですと、3隻とも艦の状態はあまり良くなかったようです。

  1916年9月19日にポートサイド着、ギリシアのサラミスの連合国艦隊に参加しました。1916年12月5日、機関のオーバーホールのために、イギリスのバーケンヘッドのキャメル・レアード社に着きました。その後、1917年1月16日、アレクサンドロフスクに到着、2月3日、白海艦隊に編入されました。
  1917年10月、乗組員はソヴィエトに参加することを決定、1918年3月、連合軍がムルマンスクに着いた時、ムルマンスクに在泊しており、連合軍に捕獲されました。
  艦の状態は、イギリスの評価では、座礁して使用に適さない状態であり、40人のボルシェビキを収容する刑務所用ハルクとして使用されました。
  1919年10月、イギリス軍が撤退した後、1920年4月24日、チェスマはボルシェビキの白海艦隊に所属しました。1921年6月16日に保管のためにアルハンゲリスクに移され、1924年7月3日に解役、その後アルハンゲリスクで解体されました。

・セヴァストーポリ
  1892年3月に建造が開始され、1982年5月19日起工、1895年6月1日進水。1898年10月、艤装の為にクロンシュタットに移動、公試は1899年から始まり、1900年には公試を完了し1900年10月15日にクロンシュタット発、1901年4月13日に旅順に到着しました。
  1904年2月9日の日本艦隊主力の第1次旅順攻撃では、中口径砲弾1発、昇降計砲弾数発の被弾を喫し、2名が負傷しました。
、   1904年3月26日、旅順港外で艦隊運動の演習中、戦艦ペレスヴィエトに衝突され、スクリューに損傷を受けました。
  1904年6月23日、空振りに終わった出撃の帰途、触雷し、1,000tの浸水と11名の負傷者を出しました。修理工事中の7月8日から9日にかけて、火災が発生し、2名が焼死、28名が負傷しました。
  30.5cm主砲の1門は、黄海海戦前に、日本艦隊の旅順攻撃に反撃した際に故障し、使用不能になっていた模様です。
  1904年8月10日の黄海海戦においては数発の被弾を受け、死者64名の損害を被りました。
  1904年8月23日、日本の陸上砲台への攻撃のために出撃した帰途、再度触雷しましたが、自力で旅順に帰港しました。
  1904年12月8日夜、日本陸軍の28cm砲の砲撃を避けるため、駆逐艦6隻と共に旅順を脱出しようとしましたが、日本艦隊の包囲により果たせず、やむなく旅順港を出て陸上砲台の下に投錨し、魚雷防御網を防御に敷設しました。
  その後、12月11日から12月15日のにかけて、日本の水雷艇隊の襲撃を反復して受け、激しく反撃したものの、被雷して2,500t浸水しました。
  不完全な修理が乗組員によって試みられたものの、1905年1月2日、旅順降伏により、日本軍による捕獲を防ぐため、旅順港外で自沈しました。
  セヴァストーポリの解体は日露戦争後開始され、最終的には1935〜1937年に完了しました。


◎総論
  ペトロパブロフスク級戦艦は、やや小排水量であるものの、列強海軍の戦艦と渡り合える性能を備えていました。
  一方で、装甲、機関などの大半は外国からの輸入に頼り、建造期間も長期に渡り(建造開始から戦力化まで8〜9年)、未だロシア国内の重工業が未発達であることも示しました。また、甲鈑技術と砲塔構造のの急激な発達時期とも重なり、その点でも様々な問題が発生しました。艦による装甲材質の違い、主砲塔の初期トラブルはそれを示しています。
  竣工後、高い乾舷とにより、外洋で満足すべき航洋性を示し、、復原性にも問題はありませんでした。その一方で、主砲塔、副砲塔関係のトラブルにより、実際の戦闘力は額面戦力より低いものとなりました。日露戦争開戦時、太平洋艦隊では最も旧式な設計の戦艦であり、より新式なアメリカ製のレトヴィザン Retvizan Ретвизан、フランス製のツェサレヴィチ Tsesarevich Цесаревичと比べると、主砲、副砲の発砲速度、速力などに遜色がありました。
  ペトロパヴロフスク級は全艦極東に配備され、旅順付近で戦没しましたが、ポルターヴァは後に日本海軍に浮揚され、戦艦丹後となりました。第一次世界大戦中、ロシア海軍に返還された後、ボルシェビキの手に帰し、そして解体されるという数奇な生涯を送りました。

 ただ、ロシア初の航洋型戦艦として、また日露戦争における好敵手として、記憶に止める必要のある艦だと思います。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。
※2 日本海軍による戦艦丹後の武装の改装について。
   究極的には、防衛研究所などに行き、原資料を当たるしか確認方法はないと思われますが、現状管理人にはそれが出来ません。
   文献に諸説有り、判別が付かないので、説と出典を明記するに留めました。


◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「Броненосцы типа Полтава」 出版社 В Трёх Проекцпях
・「日本戦艦戦史」 出版社 図書出版社
・「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍艦艇写真集 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 ダイヤモンド社
・「日露海戦記 全」 出版社 佐世保海軍勲功表彰會
・世界の艦船別冊NO.391「日本戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.500「日本軍艦史」 出版社 海人社
・「日露戦争」1〜8 児島襄著 出版社 文藝春秋 文春文庫
・歴史群像シリーズ「日本の戦艦 パーフェクトガイド」 出版社 学習研究社
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 上」出版社 グランプリ出版
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 下」出版社 グランプリ出版



  艦名のロシア語発音及び艦名の由来につきましては、本ホームページからもリンクさせていただいている、大名死亡様のホームページ、「Die Webpage von Fürsten Tod 〜討死館〜」を参考にさせていただいております。
  詳しくは、次のリンクをご参照下さい。

(第一)太平洋艦隊のロシヤ艦艦名一覧

  また、資料の内、「Броненосцы типа Полтава」 出版社 В Трёх Проекцпяхは、ホームページ、三脚檣の管理人、新見志郎樣よりお貸しいただきました。厚く御礼申し上げます。



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