ロシア海軍 ペレスヴィエト級戦艦
及び日本海軍 戦艦相模、周防




  ロシア戦艦 ペレスヴィエト級の評価は、復原性能の不足、トップヘビー、舷側装甲の最厚部の高さの過小、主砲砲力を削った(25.4cm45口径連装砲塔2基)割には高くない速力(18.5ノット)により、日本や欧米の文献ではあまり高くありません。
  しかし、その建造の発想と経緯をたどると、発想自体は健全で、合理的な理由がありました。
  それが造船技術上の限界による欠陥と、日露戦争の実戦の実情にそぐわない部分があり、それが結果として批判の対象になっているのだと思われます。
  本稿では、ペレスヴィエト級の建造の経緯から、性能、戦歴を簡単に調査してみました。


◎艦名の由来
  3艦の艦名の由来は、次の通りです。

・ペレスヴィエト Peresvyet Пересвет
  モスクワ大公国軍がキプチャク汗国軍を破った1380年のクリコヴォの合戦に功のあった修道士。その時共に戦った修道士の名前がオスリャービャです。また、その時のモスクワ大公がドミートリイ・ドンスコイです。

・オスリャービャ Oslyabya Ослябя
  モスクワ大公国軍がキプチャク汗国軍を破った1380年のクリコヴォの合戦に功のあった修道士。彼と肩を並べて戦った修道士がペレスヴィエトです。

・ポビエダ Pobyeda Победа
  勝利の意味。


◎性能
建造:ペレスヴィエト バルチック造船所(サンクト・ペテルブルグ)
    オスリャービャ ニュー・アドミラルティ工廠(サンクト・ペテルブルグ)
    ポビエダ バルチック造船所(サンクト・ペテルブルグ)
設計排水量:12,674t
実際の排水量:ペレスヴィエト13,810t、オスリャービャ14,408t、ポビエダ13,320t
垂線間長:122.3m 水線長:130m 全長:132.4m
全幅:21.8m 吃水:8m
主缶:ベルヴィール缶30基
主機/軸数:三気筒直立三段膨張機械3基、3軸推進
機関出力:14,500hp
速力 計画:18ノット
速力 公試:ペレスヴィエト18.44ノット、オスリャービャ18.3ノット、ポビエダ18.5ノット
燃料搭載量 常備:石炭1,060t 満載:石炭2,060t
航続距離 常備:6,200浬/10ノット 満載10,000浬/10ノット
兵装:25.4cm45口径連装砲塔2基
    15.2cm45口径単装砲11門
    75mm50口径単装砲20門
    47mm43口径単装砲20門
    37mm23口径単装砲8門
    機関銃4門(ポビエダのみ)
    陸戦用63.5mm19口径砲2門
    38.1cm魚雷発射管5門(水上発射管3門、水中発射管2門)
防御:主舷側装甲/機関区画229mm(下部に向け127mmにテーパー)
    主舷側装甲/主砲弾火薬庫脇178mm(下部に向け102mmにテーパー)
    上部舷側装甲/機関区画のみ102mm
    砲塔/側面229mm 天蓋37mm
    主砲バーベット203mm
    防御甲板/シタデル内 水平部 装甲37mm+甲板19mm 舷側傾斜部63mm
    防御甲板/シタデル前後 艦首尾部76mm
    シタデル前後横隔壁 下部178mm 上部102mm
    ケースメイト127mm ケースメイト背面隔壁50.8mm
    司令塔 ペレスヴィエト 前後152mm、天蓋不明、交通筒76mm
         オスリャービャ、ポビエダ 前部のみ229mm、天蓋不明、交通筒76mm
乗員:士官27名 兵744名


◎建造経緯
  ペレスヴィエト級が、設計された当時のロシアの太平洋での主要な仮想敵は香港を拠点に持つ、極東のイギリス海軍でした。
  これに対して、ロシア海軍は、ウラジオストクを根拠地として、通商破壊戦を展開することにより対抗するものとされました。
  その為の戦力として整備されたのが装甲巡洋艦リューリック(1895年竣工)や、その発展型であるロシア(1897年竣工)でした。
  装甲巡洋艦リューリックは、通商破壊任務に適合するよう、大きな船体(11,690t)に比較的軽度な兵装(20.3cm45口径単装砲4基、15.2cm45口径単装砲16基 両舷に配置)と防御を備え、高速(機関設計馬力13,250hp、設計速力18ノット)で、多くの石炭(最大1,933t)を搭載出来ました。これにより、長大な航続距離(汽走で6,700浬/10ノット 2軸推進)を持ち、更に補助的に帆装を備えました。
  装甲巡洋艦ロシアはそれの発展型であり、更に大きな船体(12,195t)を持ち、リューリックと同程度の武装と更なる高速(機関設計馬力14,500hp、設計速力19ノット)、更に多くの石炭(最大2,200t)を搭載し、更に長い航続力(汽走で7740浬/10ノット)を持っていました。ロシアは3軸の推進軸を備え、中央の推進軸は軸馬力2500hpを持ち、巡航に用いられるものとされました。
  両艦とも長期の外洋行動に備え、艦底を木材と銅板で被覆していました。

  ところが1890年代初頭、イギリス海軍の二等戦艦バーフラー級(バーフラー、センチュリオン)の建造が、この戦略に大きな問題を投げかけました。

イギリス海軍二等戦艦 バーフラー(1894年)
イギリス海軍二等戦艦 バーフラー(1894年)。極東に配備され、ロシア海軍装甲巡洋艦の大きな脅威となった。
・世界の艦船別冊NO.429「イギリス戦艦史」 出版社 海人社より引用。


  バーフラー級は1889年の海軍防衛条例で計画された二等戦艦で、中国や太平洋方面の植民地警備の為に建造されました。常備状態でスエズ運河を通過でき、中国の河川で行動できる7.8mの吃水を備えること、750tの石炭搭載量で6,000浬の航続力を得ること、建艦費削減のため排水量を10,000t程度に留めることが要求されました。
  設計はロイヤル・ソブリン級戦艦の縮小型として進められ、常備排水量10,500t、航続距離5,230浬/10ノット、武装は25.4cm32口径連装砲塔2基、12cm単装砲10基を装備し、適度な防御を備え、機関馬力13,000hp、自然通風状態で最大速力17ノット、強制通風状態で18.5ノットという性能で完成しました。
  艦底は長期の外洋行動に備え、木材と銅板で被覆されていました。
  これらの艦は当時の戦艦(速力15〜16ノット)より高速で、長い航続距離を持っていました。
  バーフラーは竣工後地中海艦隊へ、後に支那方面艦隊に配属されました。センチュリオンは1894年に竣工後、直ちに支那方面艦隊に配属されました。この2艦は、ウラジオストクを根拠地とする、極東配備のロシアの装甲巡洋艦に対する大きな脅威となりました。

  ロシア海軍は、バーフラー級に対抗し、装甲巡洋艦の通商破壊戦をサポートする戦力の整備の必要に迫られました。この為リューリックやロシアなどの装甲巡洋艦の延長線上に、いわゆる“巡洋戦艦”的な存在として建造されたのがペレスヴィエト級だったのです。

  ペレスヴィエト級の設計要素の検討は、1890年に開始されました。これに関与したのはバルチック造船所長ラトニク(K. K. Ratnik)で、この時点で検討されたのは、排水量10,500tの案で、タンブルホームの採用と、新型の25.4cm45口径砲の採用が計画されました。前者は高い航洋性を持たせながら船体重量を軽減する有効な方法とされました。後者は戦艦搭載の30.5cm40口径砲より軽量(砲身重量 30.5cm砲43tに対し、25.4cm砲22.5t)でありながら、高い発射速度で攻撃力の不足(砲弾重量 30.5cm砲弾730ポンド-331.42kg-に対し、25.4cm砲495ポンド-224.73kg-)を補い、軽重量で同等の威力を持たせる有効な方策とされました。

  1894年のバーフラー級の竣工により、1894年夏、海軍科学技術委員会で、より詳細な検討が開始されました。タイプシップとしては、やはりバーフラー級が考慮されました。
  新戦艦、10,500t級戦艦の最初の設計案は、海軍科学技術委員会によって1894年11月に検討されました。この案では、イギリス艦と比べ、バーフラー級の舷側防御範囲55パーセントに対し、舷側防御範囲66パーセントとされ、イギリスの次の二等戦艦レナウンで採用された、防御甲板を舷側で傾斜させる構造も採用されるものとされました。また、航洋性の確保の為、長船首楼船型の採用が決定されました。
  艦は3軸推進とし、中央軸は巡航に当てるものとされました。
  速力は当初17ノットとされましたが、ロシア海軍省長官チハチェフ大将(Admiral N.M.Chikhahev)はこれに不満で、排水量を11,232tに拡大して、18ノットに増加されました。
  また、太平洋での長期行動に備え、艦底に木材と銅板による被覆が施される予定とされました。
  この案は多くの提督の間で回覧され、低速重兵装か、高速軽兵装か、多くの意見が交わされました。

  1895年1月、チハチェフ大将は、上記の海軍科学技術委員会の案に不満を持ち、速力18ノットで長い航続距離を持つ、高速軽戦艦の設計をバルチック造船所に要求しました。
  バルチック造船所は、これに対して4つの案−英国の二等戦艦レナウンをベースにした案、ペトロパヴロフスク級戦艦をベースにした案、海軍科学技術委員会案をより大型化した2案−を提示しました。
  チハチェフ大将は、その内、海軍科学技術委員会案を基にした案の1つ、排水量12,380t案を、排水量を12,577tに増やした上で採用しました。

  1895年3月、新たに設けられた実験用水槽による船型試験の結果、従来の船型の設計では、機関馬力14,500hpでは速力18ノットを達成出来ず、機関馬力17,600hpが必要とされることが判明しました。
  これに対して海軍科学技術委員会は、船体幅を減らし、船体の長さを20フィート(6.1m)長くすることにより、機関馬力14,500hpで速力17.5ノットを達成出来るとしましたが、チハチェフ大将はウラジオストクのドックの大きさの制限により、船体の延長には反対しました。結局他の船型試験の結果に基づき、船体の長さを変えずに、船体中央をふくらませ、艦首と艦尾の船型をよりシャープにすることでこの問題に対処することとなりました。
  また、吃水は常備状態でスエズ運河を通過可能であるよう、8m以下に制限されました。

  これらの設計変更後、設計案は7月6日に皇帝に提出されました。
  この時点では、まだ設計案は実際に建造されたものとは異なっていました。武装は副砲が15.2cm45口径単装砲8門と12cm単装砲5門の混載で、速力は自然通風状態で機関出力11,500hp、速力16ノット、強制通風状態で14,500hp、18ノットとされていました。

  ペレスヴィエトとオスリャービャは1895年夏から秋には建造が開始され、11月21日に、それぞれサンクト・ペテルブルグのバルチック造船所とニュー・アドミラルティ工廠で船体が起工されました。
  しかし、チハチェフ大将の指示により、早くも10月28日には設計の変更がなされ、副砲が15.2cm45口径単装砲11門に統一されました。
  更に水雷艇防御用に75mm50口径単装砲が初期には14門、後には16門、最終的には20門とされました。
  47mm43口径単装砲も同様に14基から20基へと増やされました。
  これらの変更による重量増加に対応するため、1番艦のペレスヴィエトでは前後檣両方ミリタリーマストであったのが、2番艦のオスリャービャでは、後檣は単純な棒檣とされました。(オスリャービャ用に建造された後部ミリタリーマストは、ポビエダの前檣として流用されました。)

  3番艦のポビエダの建造の決定は、多少の混乱を伴いました。ペレスヴィエトとオスリャービャの進水を控えた1897年末頃には、この2隻の進水後、どのような艦を建造するか、計画の再検討が必要となったのです。
  ペレスヴィエトとオスリャービャが建造中に、極東の軍事情勢が大きく変化していました。日本が多くの一等戦艦をイギリスに発注しており、その戦力はペレスヴィエト級を大きく上回ることが判明したからです。1893年に富士、八島が計画、1896年に第一期拡張計画により敷島が計画、1897年に第二期拡張計画により初瀬、朝日、三笠が計画されていました。これらの艦は30.5cm連装砲塔を2基備え、有力な15.2cm副砲と、18ノットの高速を持っていました。
  1898年3月、海軍の最高責任者、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公から、建造中のペレスヴィエトとオスリャービャに30.5cm砲の装備が要求されましたが、建造が既に進みすぎていたため、無理でした。
  1898年4月20日の会議では、何人かの提督により、排水量15,000t、30.5cm砲装備の戦艦の建造が提唱されましたが、ドックなどの設備の問題から、このような巨大な戦艦の建造への批判が起こりました。
  結局、ペレスヴィエト級と同じ大きさで、30.5cm砲を装備した艦が要望されました。これには、黒海艦隊用に建造されている、戦艦クニャージ・ポチョムキン・タウリチェスキー程度の艦が適当とされましたが、黒海艦隊用の短い航続距離が、バルト海や太平洋での運用に適さない点が問題とされました。
  この会議ではペトロパヴロフスク級戦艦ポルターヴァの改正型が、排水量と戦闘能力の点から望ましいとされましたが、設計が間に合わない点と、造船所側の準備が整わない点により、現実的には無理であろうと判断されました。
  最終的には海軍省により、実現可能な最良のプランとして、ペレスヴィエト級の小改正型の建造が決定されました。
  海軍科学技術委員会は4月27日に、日本の一等戦艦に戦力で劣っている事実を承知の上で、ペレスヴィエト級の小改正型の追加建造を決定しました。この艦−ポビエダ−は、1898年5月、バルチック造船所で起工されました。
  ポビエダでは多くの設計変更が行われました。トップヘビーの改善と重量軽減の為、艦底の木材と銅板による被覆は省略され、ベデットデッキの高さは14インチ(35.6cm)減らされました。また、燃料搭載量は通常搭載量で石炭1,046tから1,142tに増やされました。

  この間、ニュー・アドミラルティ工廠で建造中のオスリャービャでは、工廠の労働力の不足と技術力の未熟により、工期の遅延という問題が発生していました。結局、オスリャービャの完成は3番艦のポビエダの後となり、排水量も1,700t超過するという事態となりました。
  ペレスヴィエトは1901年7月に、ポビエダは1902年6月竣工し、極東に送られました。しかし、オスリャービャは排水量のの超過とバルト海とクロンシュタットを結ぶ運河の水深の問題から、造船所で武装、装甲、司令塔、艦底の木材と銅板の被覆を施すことが出来ず、クロンシュタットに移動してから大半の艤装を行ったため、1903年まで実働状態になりませんでした。

  バルチック造船所で建造されたペレスヴィエトの建造には、1054万ルーブルの費用がかかりました。 ニュー・アドミラルティ工廠で建造されたオスリャービャには1134万ルーブルかかり、最も費用が高額でした。
  ポビエダはペレスヴィエト建造後、バルチック造船所で建造されましたが、費用は1005万ルーブルで済み、最も費用が安価でした。

ロシア海軍 ペレスヴィエト級戦艦 オスリャービャ 竣工時
ロシア海軍 ペレスヴィエト級戦艦 オスリャービャ 竣工時。
後檣が1番艦ペレスヴィエトと比べ、棒檣になっているのが特徴。
「Броненосчъi типа <<ПЕРЕСВЕТ>>」 出版社 Морская коллекчияより引用。


◎特徴
・艦型
  ペレスヴィエト級は、排水量12,000tを超えた最初のロシア戦艦となりました。
  また、他のロシア戦艦より細長い縦横比を持ち、長大な船首楼とタンブルホーム、高い乾舷を持ち、極めて特徴的な艦影を持っていました。
  また、船体容積が広く、他のロシア戦艦に比べて上部構造物が少なくなりました。
  一方で、設計の重心の高さ、タンブルホームの採用、建造中の重量の増加(設計排水量12,674tに対し、ペレスヴィエト13,810t、オスリャービャ14,408t、ポビエダ13,320t)により、トップヘビーで復原性が不足していました。

  各艦の船型の違いとしては、ペレスヴィエトは艦尾のラインが喫水線上から垂直に近いのに較べオスリャービャはラインが斜めになって丸みを帯び、ポビエダはもっと斜めの傾斜が大きくなっています。
  また、ポビエダのみ、艦首の衝角のラインのカーブが急になっています。
  司令塔はペレスヴィエトのみ前後に設けられ、オスリャービャ、ポビエダでは前部のみに設けられました。
  探照燈台はポビエダにはメインマストに2基設けられましたが、オスリャービャには設けられませんでした。

・武装
  主砲には、25.4cm45口径連装砲塔2基が採用され、弾薬は砲毎に75発でした。
  この砲は、先に黒海艦隊用の戦艦ロスティスラブに採用されていましたが、軽量構造により問題(砲身の強度不足による破裂)が生じていたので、ペレスヴィエト級では、重量を増やして砲を補強し、装薬を減らし、砲口初速を減らす対応が成されました。
  この砲の最大の問題は、発射速度が遅いことでした。(これは同時期の他のロシア戦艦の主砲にも見られた問題です。)これにより、建造当初の、発射速度の高さで主砲口径の小ささを補うという目的が阻害されました。オスリャービャの1902年10月の砲術公試での発射速度は82秒/発でした。
  また、砲の旋回俯仰、揚弾動力は電動動力とされましたが、回路の構成と操作が複雑で、故障が多いという欠点がありました。
  砲の仰角はペレスヴィエトとオスリャービャで最大35度でしたが、ポビエダでは砲がより補強され重量が増した関係で、最大25度に制限されました。

  副砲の15.2cm45口径単装砲は、ロシア戦艦で初めての速射砲が採用されました。両舷側に5門ずつ、艦首に1門の計11門装備され、最大仰角は15度、最大俯角は5度でした。弾薬は砲毎に220発でした。
  舷側の砲配置は、イギリスの一等防護巡洋艦パワフル級を参考にし、前後にケースメイトを2段重ねにし、その間にもう1門のケースメイトを配置しました。この配置は、副砲を一段のケースメイトに均等配置するより、装甲重量が節約出来るとされました。
  艦首の砲は無防御であり、ここに砲が配置された理由は不明ですが、おそらくは通商破壊戦時の追撃砲として用いる予定だったと考えられます。
  また、副砲は、通商破壊戦時に主砲弾を節約するためにも用いられるとされました。
  75mm50口径単装砲は、水雷艇の艦型の増大に対応した装備で、舷側ケースメイト部に2段4門づつ砲門が設けられたのと、船首楼甲板上、副砲の2段ケースメートの上に1門づつで、計20門装備されました。弾薬は砲毎に300発でした。
  47mm43口径単装砲は20門以上が装備されました。弾薬は砲毎に810発でした。
  ペレスヴィエトでは、前部ミリタリーマストのファイティングトップに4門、後部ミリタリーマストのファイティングトップに2門、舷側上部のケースメート間に3門づつ砲門を設けて装備、艦前部のホースパイプ付近に4門、艦尾スターンウォーク付近に2門、前部艦橋ウイングに2門、後部艦橋ウイングに2門、中央の15.2cm砲ケースメイト上に1門ずつ、後部司令塔に2門装備されました。
  オスリャービャでは後部司令塔と後部ミリタリーマストがないので、そこに装備されていた4門は、船首楼甲板の後部に4門装備されています。
  ポビエダでは、更に舷側上部のケースメート間に追加で1門、計4門砲門を設けて装備されたとありますが、位置は写真などでは不鮮明で判別出来ません。
  37mm23口径単装砲は8門、船首楼甲板の47mm砲の間に4門づつ装備されました。
  水雷兵装は、38.1cm魚雷発射管が5門装備されました。
  装備位置は水上発射管が艦首に1門、後部の副砲2段ケースメイトの下に両舷1門ずつの計3門、水中発射管が前部主砲塔の後ろ辺りに1門づつの計2門が装備されました。
  魚雷発射管用に12発のホワイトヘッド魚雷が用意され、その他に艦載水雷艇用に全長の短い魚雷が用意されていました。
  また、ポビエダのみ機関銃を4門装備していました。
  その他、陸戦機材として、63.5mm19口径砲が2門装備されていました。

  探照燈は、75cm探照燈が6基装備されました。
  また、必要な場合、機雷を45発装備することが出来ました。

・防御
  ペレスヴィエト級は、ロシア戦艦で初めてクルップ浸炭鋼板を採用した艦となりました。
  ただ、ペレスヴィエトとオスリャービャでは、垂直防御にはハーヴェイ・ニッケル鋼板を併用しており、クルップ浸炭鋼板は砲塔と砲塔バーベット、装甲甲板への砲塔の支筒に使用されました。
  ポビエダでは、全ての垂直防御にクルップ浸炭鋼板を採用しました。
  水平防御は、ペレスヴィエトとオスリャービャでは軟鋼が使用され、ポビエダではクローム・ニッケル鋼板が使用されました。

  水線部の主舷側装甲は、機関区画脇が厚さ229mmで、下部が127mmにテーパーしていました。砲塔脇の水線部の主舷側装甲は厚さ178mmで、下部が102mmにテーパーしていました。
  本級の重大な防御上の弱点として挙げられるのが、この水線部の主舷側装甲の高さ不足でした。設計排水量の状態では36インチ(91.44cm)水線上に露出している筈でしたが、計算上排水量が設計排水量から52t増加する毎に1インチづつ水没して行き、ペレスヴィエトでは22インチが水没し、14インチ(35.6cm)が水線上に出ているに過ぎず、最悪のオスリャービャでは33インチが水没し3インチ(7.56cm)しか水線上に出ていませんでした。
  船体の軽量化が図られたポビエダでは12インチ(30.5cm)の水没で済み、24インチ(60.96cm)が水線上に出ていました。
  ただし、これは常備排水量の状態での話で、石炭を満載した状態では、ペレスヴィエトとオスリャービャでは水線部の主舷側装甲帯は完全に水没し、ポビエダのみ4インチ(10.2cm)水線上に現れているという状態になりました。
  結局、ペレスヴィエト級の実際上の舷側防御は、主舷側装甲の上の上部舷側装甲(102mm厚 機関区画脇のみ)だけと言っても過言ではないでしょう。

  主装甲区画の前後の装甲横隔壁の装甲厚は、下部が178mm、上部が102mmでした。
  舷側の副砲ケースメイト部の装甲は厚さ127mm、ケースメイト背面の隔壁が50.8mmでした。

  主砲塔の装甲厚は、側面229mm、天蓋37mm、砲塔バーベット、装甲甲板への砲塔の支筒は203mmでした。
  司令塔はペレスヴィエトのみ前後に持ち、装甲厚は前後共に152mm、装甲甲板への交通筒が76mmでした。
  オスリャービャとポビエダは、前部にのみ司令塔を持ち、229mmの装甲を持っていました。装甲甲板への交通筒の装甲厚は76mmでした。

  甲板防御は、防御甲板と、防御甲板両端の舷側傾斜部(主舷側装甲の下部に接続)の2部分よりなっていました。
防御甲板は、37mm厚の装甲が19mm厚の甲板上に装備されていました。舷側傾斜部の装甲厚は63mmでした。
  シタデル前後の船首、船尾区画の防御甲板の装甲厚は76mmでした。

ペレスヴィエト級戦艦 装甲配置図
ペレスヴィエト級戦艦 装甲配置図。
主舷側装甲の高さの不足に注目。その上部が102mm厚の上部舷側装甲。司令塔の()内は、オスリャービャ、ポビエダの装甲厚。
「Броненосчъi типа <<ПЕРЕСВЕТ>>」 出版社 Морская коллекчияより引用。


・機関
  缶は、30基のベルヴィール缶が、3つの缶室に分けて装備されました。
  缶室の中心に縦隔壁は設けられませんでした。
  推進軸の構成は、装甲巡洋艦ロシアから引き継いだ三軸推進でした。
  主機械は三気筒直立三段膨張機械で、3艦用全てがバルチック造船所で製造されました。機関は3つの機械室に1基ずつ装備されました。両舷の推進軸用の2つの機械室は缶室の直後にあり、中心に縦隔壁を持ちました。その後ろに中央の推進軸用の機械室が配置されていました。

・水中防御
  ペレスヴィエト級の2重底は3フィート3インチ(99.06cm)の高さを持ち、フレーム番号18から96の間に広がっていました。
  2重底部分のフレーム間隔は4フィート(122cm)、その前後の船首、船尾の区画のフレーム間隔は3フィート(91.5cm)でした。
  弾火薬庫は主砲の下部にあり、機雷庫は前部主砲の弾火薬庫の前に設けられていました。
  船体横の部分は横隔壁により区切られ、10個の主水防区画が設けられていました。
  缶室の中心に縦隔壁は設けられませんでした。

  ペレスヴィエト級に採用された最も革新的な装備に、新型の排水システムがありました。
  それまでの艦では、メインの排水管が艦を縦通しており、そこからサブの排水管が派生するシステムとなっていましたが、艦の大型化につれて管の構成が複雑化し、水防壁の貫通部分の増加と操作バルブの多数化を招き、ダメージコントロール上の間違いを犯しやすい状態となっていました。
  これは単なる理論上の問題ではありませんでした。1893年のイギリス地中海艦隊で発生した装甲艦ヴィクトリアとキャンパーダウンの衝突事故で、衝突した側のキャンパーダウンにおいて、浸水の制御を誤り、艦を危うく沈めかけた実例がありました。
  1896年9月のペレスヴィエト級の設計時に、その事故の例が検討されました。結果的にメインの排水管を廃止し、区画毎に独立した排水ポンプを設けたシステムが開発され、浸水時の艦の生存性に大きく寄与するであろうと期待されました。このシステムは、その後のロシア戦艦に装備された排水システムの先駆となりました。

  また、舷側下部のケースメイト間の75mm砲の4つの砲門は、水線上の高さが3mと高さが不足しており、水防上の問題があると共に、傾斜時の浸水の問題がありました。

・その他
  ビルジキールは2フィート6インチ(76.2cm)の幅がありました。
  また、旧来の収用に時間の掛かる海軍式の主錨ではなく、マーチン式の主錨を採用した最初のロシア戦艦となりました。
  発電機は、4基のターボ発電機が装備されており、内2基は発電量1000アンペア、残り2基は発電量640アンペアでした。
  合計して電圧105ボルトで電力555kwを発揮しました。


◎改装
・ペレスヴィエト
・1904年夏
  黄海海戦前、陸戦支援のため、15.2cm50口径砲3門、75mm50口径砲2門、47mm43口径砲2門、37mm23口径砲4門を陸揚げしていました。

・オスリャービャ
・日露戦争開戦後
  旧式のリュージョリ・ミャキーシェフ測距装置(物体の高さを測り、測距する機材)に代わり、基線長4.5フィート(137.25cm)のバー・アンド・ストラウド測距儀と望遠照準器が装備されました。
  同時に、無線機が装備されました。

・ポビエダ
・1904年夏
  黄海海戦前、陸戦支援のため、15.2cm50口径砲3門、75mm50口径砲2門、47mm43口径砲1門、37mm23口径砲4門を陸揚げしていました。


◎日本戦艦としての改装
  ペレスヴィエトとポビエダは日本陸軍の28cm砲の砲撃を受けて旅順港内に着底し、旅順開城後、日本海軍に捕獲され、修理・改装して使用されました。ペレスヴィエトは相模、ポビエダは周防と名付けられました。
  改装は主に本級の欠陥である、復原性の不足の改善と重心の降下が行われました。
  ロシア艦時代からの改装の内容は次の通りです。

・船体
  両艦とも、マストからのファイティングトップの除去が行われました。周防の前部マストは砲撃で倒壊していたため、前部マストは新造されました。
  「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressによると、周防には重心降下と復原性回復のため、800tのバラストの搭載が行われたとされています。
  また、舷側下部の15.2cm副砲ケースメイト間の75mm砲の4つの砲門とその他小口径砲の砲門は、水線上の高さが3mと高さが不足しており、水防上の問題があると共に、傾斜時の浸水の問題があったので、砲の撤去と共に閉塞されました。

  これらの対策により、周防は排水量は常備状態で13,500tとなりました。相模も結果的にほぼ同じ排水量になっていますので、バラストの搭載を行った可能性があります。
  最大速力は、日本の文献では、相模19.1ノット、周防18.5ノットとありますが、「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressによると、周防はバラスト搭載のため、最大速力16ノット程度に低下していたとあります。これについても、排水量がほぼ等しい点から、相模も同程度の速力に低下していた可能性があります。

・武装
  主砲に変更はありませんが、副砲以下の武装は重心降下のため、装備数が減らされました。
  15.2cm45口径単装砲と75mm40口径単装砲と47mm43口径単装砲は、日本海軍仕様の砲に交換されました。「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ、「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズによると、相模は安式15.2cm45口径単装砲と安式76mm40口径単装砲と保式47mm単装砲、周防は四一式15.2cm45口径単装砲と四一式76mm40口径単装砲と山内式47mm単装砲に変更されたとあります。
  15.2cm45口径単装砲は11門から10門に減らされました。撤去されたのは艦首の追撃砲で、砲門は塞がれて菊の紋章が取り付けられました。
  76mm40口径単装砲は、16門に減らされました。撤去されたのは下部副砲ケースメイト間の砲門装備の砲、片舷4門計8門で、砲門は閉塞されました。4門は上部構造物に移設されたものと思われます。
  47mm単装砲は、門数は相模では2門、周防では4門と大幅に減らされました。
  37mm23口径単装砲は撤去され、装備されませんでした。
  魚雷発射管は日本海軍標準の18インチ(45.72cm)魚雷発射管に変更され、装備数は水上魚雷発射管2門に減らされました。おそらく、後部の副砲2段ケースメイトの下の両舷の、元の水上発射管の位置に1門ずつ装備されたものと思われますが、詳細は不明です。

  機雷の搭載はされなかったと思われます。

・防御
  装甲防御、水中防御に手は加えられませんでしたが、排水量を考えると、主舷側装甲帯の大半は水没し、上部舷側の102mmの装甲が事実上の舷側装甲となっていたと思われます。

・機関
  缶については、ロシア艦時代のベルヴィール缶30基のままという資料がほぼ大半ですが、「日本の戦艦パーフェクトガイド」 出版社 学習研究社に宮原缶30基に換装されたとの記載があります。どちらにせよ、馬力は14,500hpとロシア艦時代と同等でした。
  機械については、ロシア艦時代そのままとされました。
  燃料搭載量は常備状態1,060t、満載状態で2,058tとされ、航続力はロシア艦時代と同じであったようです。

・乗員
  乗員数は相模が783名、周防が791名となりました。

・修理費用
  修理に掛かった費用は、1905年度から1908年度の4年間の「海軍省統計年報」から計算すると、相模が207万2,586円、周防が128万6,979円となります。
  これには、武装の変更に要した費用は含まれていないと思われます。

  参考までに挙げると、日本海海戦後佐世保軍港で爆沈した三笠の1906年から1907年の修理費用が153万1,064円でした。
  新艦の外国からの購入の場合、装甲巡洋艦日進、春日の購入代金が1,598万4,593円でした。
  新艦を購入・建造するとなると、かかる費用は修理費の比ではありません。また外国からの購入の場合はもちろん、新艦の建造を行っても、当時は建艦資材の多くを輸入に頼っている関係から、莫大な外貨の流出が発生します。
  国内での修理ならば、修理費用は国内に落ちるし、公共事業として戦後の雇用対策にも役立ちます。加えて、海軍は捕獲艦の分も人員と維持費を獲得出来ます。
  これらの観点からすると、捕獲艦の修理と海軍への編入は、ド級艦の時代の到来による旧式化・戦力劣化という点を考えても、妥当な政策だったといえるのではないでしょうか。

日本戦艦相模(元ペレスヴィエト)明治41年10月10日 横須賀軍港で撮影
修理が完成した戦艦相模(元ペレスヴィエト)。
明治41年10月10日 横須賀軍港で撮影。ロシア戦艦時代にあった、下部副砲ケースメイト間の75mm砲他の砲門が閉塞されているのに注目。
「日本海軍艦艇写真集 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 ダイヤモンド社より引用。


◎戦歴
・ペレスヴィエト 後に日本戦艦相模
  1895年11月21日起工、1898年5月19日進水。1898年11月15日、艤装の為にクロンシュタットに移動、1901年夏に公試を完了し、1901年10月、極東に送られました。
  日露戦争中は旅順を基地とし、次席司令官ウフトムスキー少将(Rear Admiral Prince P.P.Ukhtomskii)の旗艦として使用されました。
  1904年3月26日、旅順港外で艦隊運動の演習中、戦艦セヴァストーポリ Sevastopol' Севастополь と衝突し、軽微な損害を受けました。
  1904年4月15日、旅順を砲撃しに来寇した日本艦隊に反撃を行い、装甲巡洋艦日進に命中弾を与えました。
  1904年8月10日の黄海海戦においては相当の被害を受け、死者13名、負傷者69名の損害を被りました。
  1904年9月から11月までの日本陸軍の28cm砲の砲撃により多数の命中弾を被り、12月7日に港内の浅い水域に自沈して着底しました。

  日本軍の旅順占領後、日本の手により1905年5月15日から6月29日にかけて浮揚作業が行われ、8月22日、帝国軍艦籍に編入、一等戦艦相模、12月12日、等級を廃して戦艦相模となりました。
  8月23日に佐世保に到着、1908年10月まで佐世保工廠で修理が行われました。
  1912年8月28日、一等海防艦に艦種変更されました。

  その後、第一次世界大戦中、一等海防艦丹後(元ロシア戦艦ポルターヴァ Poltava Полтава)、二等巡洋艦宗谷(元ロシア防護巡洋艦ヴァリャーク Varyag Варяг)と共に、1,500万ルーブルでロシア海軍に譲渡されることとなりました。1916年4月4日1200時、帝国軍艦籍から除籍され、ウラジオストクでロシア海軍籍番号23番に登録、ペレスヴィエトの旧名に復しました。ただ、艦種は弱武装と弱装甲から、装甲巡洋艦とされました。
  ロシア側の評価ですと、3隻とも艦の状態はあまり良くなかったようです。
  ペレスヴィエトは、この3隻の艦隊の旗艦として使用され、司令官としてベストゥージェフ=リューミン少将(Rear Admiral A.I.Bestuzhev-Riumin)が着任しました。

  引き渡し直後、ロシア海軍によって完熟訓練中、5月23日にウラジオストク港外で座礁損傷し、7月9日、日本海軍の手により救難され、8月に舞鶴工廠で修理が行われました。
  1917年1月4日、白海に回航中、地中海、ポートサイド北方10浬沖で、ドイツ潜水艦U73敷設の機雷に2発触雷しました。1発は前部弾火薬庫の近くに触雷、弾火薬庫の誘爆を引き起こし、砲塔天蓋を吹き飛ばしました。2発目は中部缶室の近くに触雷し、急速な浸水を引き起こしました。艦は艦首を沈め、艦尾を上げて沈没しました。報告によると、生存者は737名、死者は90名でした、その他、多くの人間が爆発で負傷し、後に怪我で病院で死亡した者が6名いました。(日本、欧米の文献には、116名戦死、167名戦死などの説があります。)

・オスリャービャ
  1985年11月21日起工、1898年11月8日進水。1900年秋に艤装の為にクロンシュタットに移動しましたが、未搭載の装備品が多いため艤装に時間が掛かり、1903年完成しました。
  1903年8月7日、ウィレニウス少将(Rear Admiral A.A.Virenius)に率いられ、極東への回航の路に尽きましたが、1903年8月21日、ジブラルタル海峡で座礁し、イタリアのラ・スペチアで修理を行いました。日露戦争開戦時にはまだ紅海にあったので、バルト海に呼び戻されました。
  その後、ロジェストヴェンスキー中将(Vice Admiral Z.P.Rozhestvenskii)率いる第二太平洋艦隊に配属され、フェリケルザム少将(Rear Admiral D.G.fon-Fel'kerzam)の第二戦艦戦隊の旗艦となり、1904年10月15日、リバウを出港しました。
  途中11月3日、タンジール(モロッコ)でスエズ運河通過可能の艦艇と共にフェリケルザム支隊として主力艦隊と分離し、スエズ運河を通り、1905年1月16日、マダガスカルで本隊に合同しました。
  フェリケルザム少将は4月16日、カムラン湾在泊中に脳溢血で斃れ、日本海海戦の直前、5月23日に病死し、第二戦艦戦隊は司令官不在の状況となりました。

  1905年5月27日、日本海海戦に参加、第二戦艦戦隊の旗艦として左翼列の先頭にあったオスリャービャは、日本主力部隊の集中砲火を浴びて転覆沈没し、戦死470名の損害を出しました。376名が駆逐艦に救助されました。

・ポビエダ 後に日本戦艦周防
  1899年2月21日起工、1900年5月10日進水。1901年8月、艤装の為にクロンシュタットに移動、1902年遅くに公試完了。1902年11月13日、リバウを出港し、極東に向かい、1903年6月23日旅順に到着しました。
  1904年2月9日、日本艦隊の旅順攻撃に対し応戦、2弾被弾、2人戦死、4人負傷の損害を被りました。
  1904年4月13日、戦艦ペトロパヴロフスク被雷沈没直後に触雷しましたが、自力で泊地に帰り着きました。修理は6月9日に完了しました。
  1904年8月10日の黄海海戦においては、11弾の大口径砲弾を受け、4名戦死、29名負傷の損害を受けました。
  その後旅順に帰港、1904年9月から11月までの日本陸軍の28cm砲の砲撃により約30発の命中弾を被り12月7日に港内の浅い水域に浸水して着底しました。

  日本軍の旅順占領後、日本の手により1905年6月6日から10月17日に浮揚作業が行われ、10月25日、帝国軍艦籍に編入、一等戦艦周防、12月12日、等級を廃して戦艦周防となりました。
  12月26日に佐世保着、1908年10月まで横須賀工廠で修理が行われました。
  1912年8月28日、一等海防艦に艦種変更されました。

  第一次世界大戦では、1914年8月23日から12月2日まで、第二艦隊加藤定吉長官中将の旗艦として青島攻略戦に参加、青島の砲台への砲撃と封鎖に従事しました。9月28日から11月6日までの主砲発射弾数として、349発という記録が残っています。

  1922年4月1日、ワシントン条約により除籍され、軍艦籍から除き、雑役船に類別されました。その後5月22日、呉工廠で解体作業が開始されましたが、装甲撤去後の7月13日、呉繋船堀にて撤去した装甲板が落下して船底を傷付けたため浸水して転覆しました。後浮揚されて、9月25日解体完了、船体は呉港外三ツ子島の護岸用に沈置され、9月30日廃船とされました。
  最終的な解体処理は、1955年前後に終了したと言われています。


◎総論
  個人的な感想ですが、これらの戦艦はそもそも太平洋での使用を想定した、通商破壊戦用の大型装甲巡洋艦的な発想の延長線上にありました。加えてイギリスの二等戦艦への対抗を目指し、それをタイプシップとしていた点で、同時期のロシア戦艦の中でも異端的な存在でした。弱武装、高速、長大な航続力、外洋での長期行動のための、艦艇の木材と銅板による被覆等がそれを示しています。
  ただ、この高速もあくまで設計当時のロシア戦艦と比べてであり、その後、戦艦の速力が18ノット代に増加されるにいたり、目立った利点とは言えなくなります。
  まして、30.5cm連装砲塔2基、有力な15.2cm副砲、速力18ノットを備える日本の一等戦艦には対抗する戦力を持たず、運用側のロシア海軍もそれを承知で建造し、使用せざるを得ない状況にありました。
  結局、日露戦争当時では、ペレスヴィエト級は、弱武装軽防御の戦艦に過ぎない存在になってしまったのです。

  また、設計当初から存在したトップヘビー、復原性不足の問題は、建造中の排水量増加により、更に甚だしくなりました。元々高さが不足していた主舷側装甲もほぼ水没してしまい、防御上重大な問題となりました。舷側下部のケースメイト間の75mm砲の砲門も、水線上の高さが3mと高さが不足しており、水防上の問題が発生しました。

  その一方で、クルップ鋼板の採用、新規設計の排水システムの搭載、マーチン主錨の装備と、この艦で初めて装備された新機軸も多く、それらの特徴の多くは後のロシア戦艦の設計に取り入れられて行ったのも事実です。

  結局、登場時期が悪い過渡期の存在、完成時には中途半端な性能になってしまった、日陰者の戦艦であると言えるでしょう。

  ただ、軍艦の存在価値は必要な能力−航続距離、居住性、航洋性など戦闘力以外の要素も含む−と必要な性能−これも戦闘力以外の要素を含む−を持っていることなので、戦闘力のみを評価軸にしてしまうのは危険であると思います。
  ペレスヴィエト級は、ロシア艦時代、日本艦時代と旗艦に用いられることが結構あったようですので、旗艦設備や居住性とか、これに関係する艤装などは良好だったのかもしれません。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。
※2 日本海軍による戦艦相模、周防の武装及び缶、船体の改装について。
   究極的には、防衛研究所などに行き、原資料を当たるしか確認方法はないと思われますが、現状管理人にはそれが出来ません。
   文献に諸説有り、判別が付かないので、説と出典を明記するに留めました。


   ◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「WARSHIP 1999-2000」FROM RIURIK TO RIURIK:Russia’s Armoured Cruisers 出版社 CONWAY
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「Броненосчъi типа <<ПЕРЕСВЕТ>>」 出版社 Морская коллекчия
・「日本戦艦戦史」 出版社 図書出版社
・「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍艦艇写真集 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 ダイヤモンド社
・「日露海戦記 全」 出版社 佐世保海軍勲功表彰會
・世界の艦船別冊NO.391「日本戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.429「イギリス戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.500「日本軍艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.517「イギリス巡洋艦史」 出版社 海人社
・「日露戦争」1〜8 児島襄著 出版社 文藝春秋 文春文庫
・歴史群像シリーズ「日本の戦艦 パーフェクトガイド」 出版社 学習研究社
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 上」出版社 グランプリ出版
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 下」出版社 グランプリ出版



  艦名のロシア語発音及び艦名の由来につきましては、本ホームページからもリンクさせていただいている、大名死亡様のホームページ、「Die Webpage von Fürsten Tod 〜討死館〜」を参考にさせていただいております。
  詳しくは、次のリンクをご参照下さい。

日本海海戦に参加したロシヤ艦名一覧
(第一)太平洋艦隊のロシヤ艦艦名一覧

  また、資料の内、「Броненосчъi типа <<ПЕРЕСВЕТ>>」 出版社 Морская коллекчияは、ホームページ、三脚檣の管理人、新見志郎樣よりお貸しいただきました。厚く御礼申し上げます。



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