ロシア海軍 戦艦ナヴァリン




  戦艦ナヴァリンは、インペラトール・アレクサンドル2世級装甲艦、装甲艦ガングートの次にバルト海で建造された装甲艦でした。当初は前2級より小型の装甲艦として計画されましたが、仮想敵の状況の変化により、設計の変更が成され、大型の装甲艦となりました。
  本稿では、開発経緯、艦歴などを簡単に追ってみようと思います。


◎艦名の由来
・ナヴァリン Navarin Наварин
  1826-1830年のギリシャ独立戦争の際、ギリシャに味方した英仏露連合軍艦隊がオスマン艦隊を破ったナヴァリノの海戦(1827)のこと。


◎性能
建造:フランコ・ロシア重工 ガレルニィ島工廠(サンクト・ペテルブルグ)
設計排水量:9,476t
実際の排水量:10,206t
垂線間長:103.00m 水線長:105.90m 全長:107.00m
全幅:20.42m 計画吃水:7.62m 実際の吃水:8.40m
主缶:円缶12基
主機/軸数:三気筒直立三段膨張機械2基、2軸推進
機関出力:設計9,000hp 公試9,144hp
速力 公試:14.85ノット
燃料搭載量 常備:石炭700t 満載:石炭1,200t
航続距離 3,050浬/10ノット
兵装:30.5cm35口径連装砲塔2基
    15.2cm35口径単装砲8門
    47mm43口径単装砲14門
    37mm23口径単装砲12門
    38.1cm水上魚雷発射管6門
防御:装甲材質 垂直装甲:複合装甲 砲塔の垂直装甲:ニッケル鋼 甲板装甲:軟鋼
    主舷側装甲/機関区画 406mm(下部に向け203mmにテーパー)
    主舷側装甲/主砲弾火薬庫脇 356mm〜305mm(下部に向け203mmにテーパー)
    シタデル前後の横隔壁 305mm(152mm2枚重ね)
    リダウト部分 上部舷側装甲 全面305mm
    副砲ケースメイト 八角形全面127mm
    主砲塔/側面 305mm
    主砲塔/天蓋51mm
    防御甲板/シタデル内 50mm(主舷側装甲上端に接続)
    防御甲板/シタデル前後 艦首尾部 平坦部 50mm
    防御甲板/シタデル前後 艦首尾部 傾斜部 76mm
    47mm砲、37mm砲砲 非装甲
    司令塔/側面 254mm、/天蓋51mm、/交通筒 装甲なし
乗員:士官24名 兵417名


◎建造経緯
  1887年、小型装甲艦ガングートの設計要求が固まった後、海軍省長官シェスタコフ大将(Admiral Shestakov)は、1888年1月に次期バルト海艦隊用装甲艦として、節約のため、更に小型の艦型を検討するように命じました。
  主要な敵と見なされるドイツ海軍の最強の装甲艦が旧式のザクセン級装甲艦であり、その程度で十分であると見なされたからでした。ドイツが1888年に起工した新型海防戦艦ジークフリート級が、排水量3700t、武装240mm単装砲3門と小型であったこともこれに影響しました。
  海軍科学技術委員会の検討では、新装甲艦はインペラトール・アレクサンドル2世級と同程度の武装を持ち、更に小型の船型を持つとされました。この排水量の削減を達成するために、速力を14ノットに減らし、航続距離を3,500浬に減らすこととされました。
  フランコ・ロシア重工が1888年2月23日に排水量6,431tの船の設計を提出して、6月3日に海軍科学技術委員会がこれと2つの他の設計を検討しました。それらの全てがインペラトール・アレクサンドル2世に基付いた設計でした。
  数日後、 海軍の最高責任者、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公はこれらの設計を検討して、いくつかの小さな変更を加え、設計を認可しました。後は最も良い設計を選ぶ作業が残るばかりでした。

  しかし、ここで、シェスタコフ大将は決定の変更を行いました。更に大型の艦を建造するべきであると主張したのです。
  シェスタコフ大将は、1888年5月、海軍科学技術委員会に新装甲艦について書き送りました。そこには、新装甲艦は全てのヨーロッパの海で活動可能で、極東にも派遣できる石炭搭載量を持つべきであるとありました。この要求は、ガングートのような小型装甲艦ではなく、より大型の装甲艦を求めるものでした。
  更に、シェスタコフ大将は、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公を説得し、インペラトール・アレクサンドル2世より強力な装甲艦の建造の同意を得ました。

  この急な決定変更の理由は明らかになっていませんが、二つの要因が関係していると推測されています。
  1つ目は、ドイツ海軍が1888年8月、新型戦艦の建造の検討を開始したことでした。この艦は、28cm砲6門を積むとされ、後にブランデンブルク級戦艦となりました。シェスタコフ大将がより大型の装甲艦の設計を主張し始めたのはその2ヶ月後でした。
  2つ目は、極東において、日本海軍が1888年初頭に松島型海防艦を発注したことでした。この艦は防護巡洋艦ながら、32cm砲を装備しており、極東艦隊の艦艇の脅威になる可能性があると考えられました。
  とにかく、今やより大きな装甲艦の建造が望まれる状況となっていました。

  ここで、再びフランコ・ロシア重工の社長デュ・ビュイ(S. K. Diu-Biui)がしつこく接触を図ってきました。彼は、フランコ・ロシア重工の主任設計技師ティトフ(P. A. Titov)の設計を提案しました。
  この設計は、1886年にイギリスで起工されたトラファルガー級装甲艦をタイプシップとし、それを縮小した艦でした。これまでのロシア装甲艦の乾舷が高かったのに対して、艦首尾の乾舷は低く、艦の中央に大きな上部構造物を持つ設計でした。ただ、トラファルガー級より小型で、30.5cm30口径連装砲塔2基、15.2cm単装砲をケースメイトに4門装備し、防御も軽くなっていました

イギリス戦艦トラファルガー 1886年計画 1890年竣工
イギリス戦艦トラファルガー 1886年計画 1890年竣工
常備排水量12,590t、垂線間長105.2m、全幅22.3m、吃水8.70m
武装 34.3cm連装砲塔2基、12cm単装砲6門、57mm単装砲8門、47mm単装砲9門
35.6cm水上魚雷発射管2門 36.6cm水中魚雷発射管2門 最大装甲厚508mm 速力16.8ノット
世界の艦船別冊NO.429「イギリス戦艦史」 出版社 海人社より引用


  海軍科学技術委員会は1888年10月25日にこの設計を検討しました。結果、概ね満足が行くとみなされましたが、数カ所の変更が要求されました。
  一つは、38.1cm魚雷発射管の増載でした。設計には艦首1門、舷側片舷2門計4門、総計5門の水上魚雷発射管を持っていました。これに、艦尾にもう1本水上発射管を加え、計6門とされました。
  司令塔の装甲は増加させるよう要求されました。
  最も重要な変化は、速力は15ノットから自然通風で16ノットに増やされたことでした。
  海軍科学技術委員会は、速力の増加が排水量の増加に繋がることを許容しました。排水量は9,400tとされました。ただ、艦の横幅は、クロンシュタットのコンスタンティノフスキー・ドックを使用するため、67フィート(20.435m)に制限されました。また、委員会は、砲戦距離の遠距離化と舷側砲戦の機会増加に対応して、装甲横隔壁の減厚を指示しました。
  そして、設計はもう一度検討を受け、15.2cm単装砲の8門への増加と、水雷防御網の設置が決定されました。
  1889年2月25日、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公に示された新しい設計は排水量9,476tとなっていました。大公は原則としてそれを認可しました。3月25日に海軍科学技術委員会は詳細な設計及び仕様を認可しました。そして1889年4月24日にフランコ・ロシア重工と、艦の建造契約が結ばれました。

  契約の条件では、艦は1891年7月に進水することとなっていて、1892年8月までに艤装のためにクロンシュタットに移動する準備を完了することとなっていました。
  建造が1889年7月13日にガレルニィ島工廠で始まり、1889年8月31日、艦は戦艦ナヴァリンと名付けられました。

  これに先立つ1888年11月、海軍省長官シェスタコフ大将は在職のまま死去し、後任にチハチェフ中将(Vice Admiral N. M. Chikhachev)が任命されていました。建造開始3ヶ月後、チハチェフ中将から最初の変更の指示が届きました。
  チハチェフ中将は主砲の30.5cm30口径連装砲塔を30.5cm35口径連装砲塔に変更するよう求めました。砲口径の長大化は砲架にかかる力を大きくし、大きな設計の変更を伴うものでしたが、フランコ・ロシア重工はこれに従わざるを得ませんでした。設計の変更作業が行われましたが、1890年1月までかかりました。
  もう一つの変更要求は、前部マストの追加でした。当初の設計には後部に1本のマストしかありませんでした、しかし、1889年11月にチハチェフ中将は2本目のマストを加えるべきであると主張しました。このため、艦の前部に小型のマストが追加されました。
  同時に、海軍科学技術委員会は、副砲ケースメイトの上端の断面が黒海艦隊の戦艦ドヴィエナザット・アポストロフと同じように丸く処理されていたのを、角形に変更しました。
  また、チハチェフ中将はケースメイト装備の15.2cm単装砲の内4門をケースメイト4端に移動させ、前後方にも火力を発揮できるようにするよう要求しましたが、造船所側が15.2cm単装砲の移動に反対し、これは撤回されました。
  1891年4月、チハチェフ中将は舷側の片舷2門計4門の水上魚雷発射管の内片舷1門計2門を水中魚雷発射管と交換するよう命じたましたが、ホワイトヘッド社はそれに応じた魚雷を供給できないと返答したため、取り消されました。結局、全ての発射管が水上発射管のままでした。

  これらの変更や材料の供給の遅れにより、1890年7月には、1890年の終わりまでに艦は進水しないだろうと予想されました。海軍省は8月15日まで進水の時期の変更に同意し、結局戦艦ナヴァリンは1891年10月20日、ナヴァリノの海戦の64年記念日に進水しました。

  その後、戦艦ナヴァリンは、材料供給の遅れのため、丸1年近く、フランコ・ロシア重工に留められていました。フランコ・ロシア重工はイジョルスキー重工を装甲供給の遅れのため告発しました。しかし、一部海軍士官の間では、原因はフランコ・ロシア重工側にあるのではないかと推測されていました。いずれにせよ、注文の未調整と材料の供給不足の問題がありました。
  建造工事は艦が1892年10月にクロンシュタットに移された後も緩慢でした。 特に、装甲板の供給の遅れと主砲砲架の製作の技術的困難が原因となりました。
  クロンシュタットに艦が有った時期、海軍科学技術委員会の評議員長である、ピルキン中将(Vice Admiral P. P. Pilkin)と、マカロフ少将(Rear Admiral S. O. Makarov)が艦の調査に訪れました。マカロフ少将は艦の生残性を向上させる研究の長でした。
  マカロフ少将は、ナヴァリンについて、水密横隔壁の上方への延長を主張しました。水密横隔壁は水線上3フィート(91.5cm)のバースデッキまでしか達しておらず、この状態だと一つの水防区画場満水すると、バースデッキから進水が横に広がる危険性があると指摘しました。
  海軍科学技術委員会は、「既に取り付けられた装甲を変更しない範囲で」水密横隔壁の上方への延長を指示しましたが、フランコ・ロシア重工は、工期の遅れに繋がるとして反対し、1895年7月2日、チハチェフ中将もそれに同意しました。
  結局、マカロフ少将の改善提案は実行されませんでした。

  艦が完成してみると、設計排水量9,476tであったのが、実際の排水量は10,206tとなっており、吃水が約0.8m増しているという結果となりました。これは、各種の設計変更と建造技術の未熟の結果で、舷側装甲帯の水没を招き、防御力の悪化をもたらしました。

  その後、艦は1895年11月に機械公試を開始しましたが、武装を欠いた状態でした。
  戦艦ナヴァリンが完成したのは、1896年6月になってからでした。総費用は900万ルーブル以上でした。

戦艦ナヴァリン 竣工時1年後の艦影。
戦艦ナヴァリン 竣工1年後の艦影。小型の前部マストが見える。
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎特徴
・艦型
  戦艦ナヴァリンの特徴は、艦首尾部の乾舷の低さと、中央構造物の高さでしょう。艦首尾部の乾舷は12フィート(3.66m)と低く、特に、艦首部は波をかぶりやすい状態でした。そのため、前部主砲塔の前には波除が付けられていました。
  また、特徴的な横2本、縦2列の4本の煙突は、乗組員達から「工場」とあだ名されました。
  竣工当初は前檣が短く、後檣が大型であったのも、外見上異彩を放つ原因となりました。

・武装
  主砲塔は、イギリスのイーストン・アンド・アンダーソン社(firm of Easton and Anderson)で設計され、オブコフスキー重工で製作された、オブコフ式の30.5cm35口径連装砲塔2基でした。
  この砲の取り付け時、砲塔基部の直径が24フィート4インチ(7.4168m)であるのに、フランコ・ロシア重工が船体の砲塔基部の直径を24フィート(7.32m)として建造してしまったため、砲塔が取り付けられないという問題が発生しました。
  この問題は、砲塔基部の背材の木材の厚さを減らすことで解決しました。
  また、もう一つの問題は、1891年に明らかになりました。砲塔の重心が4.5フィート(1.3725m)砲塔の中心の前方にあり、砲塔のバランスが取れていなかったのです。これは、建造中に主砲口径を30.5cm30口径砲から30.5cm35口径砲に変更したためでした。
  海軍科学技術委員会の造兵部門は、主砲口径を30.5cm30口径に戻せば、重心が4.5フィート後方に戻り、問題は解決すると主張しました。また、砲身の設計をし直せば、短口径砲でも弾道の改善が出来ると主張しました。
  しかし、オブコフスキー重工のトップはこれに反対し、チハチェフ中将もこれに反対したため、主砲口径は30.5cm35口径のまま、砲塔内の配置変更で問題に対処すると決定されました。

  主砲塔は水圧動力で旋回し、前部砲塔243度、後部砲塔214度の射界を持っていました。最大仰角は12.5度、歳代俯角は4度でした。
  主砲は前旋回範囲で装填可能で、装填角度15度の固定装填でした。装填角度が最大仰角より大きいのは、仰角は取れる15度まで取れるものの、発砲が可能なのが12.5度までだったからだと思われます。
  発砲速度は2分22秒/発でした。弾薬は砲毎に80発でした。

  15.2cm35口径単装砲は、片舷4門両舷計8門、ケースメイトに装備されました。速射砲ではありませんでした。荒天時には、艦内に引き込めるようになっていました。
  発砲速度は30秒/発でした。弾薬は、砲毎に200発でした。

  47mm43口径単装砲は、14門が装備されました。副砲ケースメイト上のブルワークに片舷4門計8門、前部上部構造物上のプラットフォームに2門、船体中央部の小型プラットフォームに2門、上部構造物の後端に2門装備されました。

  37mm23口径単装砲は、12門が装備されました。後檣のファイティングトップに8門、他の4門は艦載艇用に装備された模様です。

  魚雷兵装は38.1cm水上魚雷発射管6門でした。艦首に1門、片舷2門両舷計4門、艦尾1門装備されていました。
  艦尾発射管は固定ですが、それ以外の発射管は旋回可能で、艦首のものは10度の射界を持っていました
  魚雷は各発射管に2発ずつ装備されていました。

  その他、75cm探照燈が後檣のプラットフォームに1基、艦橋のウィングに1基づつ装備されました。

イギリス戦艦 トラファルガー級防御配置図
イギリス戦艦 トラファルガー級防御配置図
ナヴァリンのタイプシップであり、防御様式もほぼ同じなので掲載しました。
舷側装甲とその上のリダウト、バーベットを持たない主砲塔、その上の副砲ケースメイトの装甲に注目。
「Броненосец Наварин」 出版社 Корабли и сраженияより引用。


戦艦ナヴァリン 前部主砲塔付近断面。
戦艦ナヴァリン 前部主砲塔付近断面
舷側装甲とその上のリダウトに注目。主砲塔はバーベットの上に載っていない。
「Броненосец Наварин」 出版社 Корабли и сраженияより引用。


・防御
  戦艦ナヴァリンの装甲材質は、垂直装甲が複合装甲、砲塔の垂直装甲がニッケル鋼、甲板装甲が軟鋼でした。
  装甲様式は主舷側装甲が舷側部分を取り巻き、主砲塔の前後に装甲横隔壁を持ち、シタデルを構成していました。
  その上にリダウトがあり、前後の主砲塔基部の防御と上部舷側装甲を兼ねていました。
  上部構造物の副砲ケースメイトには全面に装甲が施されました。
  装甲横隔壁より前後の艦首尾部は、水平甲板と、舷側の傾斜甲板で防御されていました。

  装甲はイジョルスキー重工が製造する予定でしたが、製造能力が限界に達し、工期の遅れを招いたため、他の会社にも発注が出されました。特に、主砲塔側面の装甲は、1894年1月、イジョルスキー重工が、砲口を空けた大面積の装甲の製造能力を持たないと報告したため、フランスのサン・シャモン社に発注されました。そのため、この部分だけ、装甲材質がニッケル鋼でした。

  (装甲区画の用語については、新見志郎様のホームページ「三脚檣」の装甲艦時代の装甲区画の呼称についてに詳しい解説が載っています)

  主舷側装甲は長さ228フィート(69.54m)、高さ7フィート(2.135m)でしたが、建造中の排水量の増大により、吃水が約0.8m増し、その内6フィート(1.83m)が水線下に没し、水線上には1フィート(0.305m)しか出ていませんでした。
  機関区画の主舷側装甲は、装甲厚406mmで、下部に向け203mmにテーパーしていました。
  主砲弾火薬庫脇の主舷側装甲は、装甲厚356mm〜305mmで、下部に向け203mmにテーパーしていました。
  シタデル前後の横隔壁の装甲厚は、305mmで、152mm2枚重ねでした。
  上部舷側と主砲塔基部を保護するリダウト部分は、長さ150フィート(45.75m)で、高さ7フィート10インチ(2.3876m)で、装甲厚は、全面305mmでした。
  その上の副砲ケースメイト部分の装甲厚は、全面127mmでした。ケースメイト間の隔壁の装甲厚は、25.4mmでした。

  主砲塔の装甲厚は、側面305mm、天蓋51mmでした。
  司令塔の装甲厚は、側面254mm、天蓋51mmで、交通筒は非装甲でした。
  防御甲板は、シタデル内の平坦部の装甲厚が50mmで、主舷側装甲上端に接続されていました。
  艦首尾部の防御甲板の装甲厚は、平坦部50mm、舷側傾斜部76mmでした。
  47mm砲、37mm砲は、非装甲でした。

・機関
  缶室は、前後に分ける横隔壁と、艦中央部に前後の弾火薬庫を結ぶ通路があり、縦横4室に分割されていました。1缶室に円缶が縦に3基づつ、全缶室計12基設置されていました。
  艦中央部の前後の弾火薬庫を結ぶ通路は、機関室の中央縦隔壁と同様に、浸水時の傾斜の危険を増した可能性があります。
  円缶は蒸気性状9.4atu(19kg/cu 1atu = 1.03kg/cu)、飽和蒸気で自然通風を前提としていました
  推進軸の構成は、2軸推進でした。
  主機械は三気筒直立三段膨張機械で、2つの機械室は缶室の後ろにあり、中央に縦隔壁を持ちました。
  計画された機関出力は9,000hpでしたが、当初からこの馬力を発揮できたわけではありませんでした。

  円缶と機械は両方ともフランコ・ロシア重工で生産されました。機械の性能は最初から要求を満たしていたものの、円缶の性能に当初問題がありました。
  1891年5月、工場での最初の4基の缶の蒸気公試が行われ、指定された蒸気圧を維持できないことを明らかにしました。これらの缶は設計通りに建造されていないことが分かり、解体されました。
  チハチェフ中将は、フランコ・ロシア重工が自己負担で4基の缶を新造するように主張しました。フランコ・ロシア重工は抗議しましたが、チハチェフ中将はこれを拒否し、結局会社側が折れて従いました。
  しかし、新しい缶の公試が1893年8月10日に行われましたが、結果はまだ不満足でした。
  缶の蒸気出力が不十分で、海軍省はフランコ・ロシア重工に問題を直すよう要求しました。会社側はこれに同意しましたが、1895年の春まで機械公試を1年延期するよう要請しました。
  1894年内に機械公試を実施する準備が出来ていないことが明らかだったので、海軍省はこれに同意しました。
  1895年11月22日、戦艦ナヴァリンは12時間の指定された公試ではなく、半分の6時間公試を実施しました。4つのマイルポストの平均速度は15.85ノット、機関馬力は9,144hpで、缶と機械は良く作動しました。
  1895年、海軍は機械公試を終了し、艦を領収しました。

・水中防御
  水中防御は、二重底がフレーム20から76まで設けられました。艦内には9枚の水密横隔壁と、2枚の水密縦隔壁がフレーム31から65の間に設けられました。排水システムは、メインの排水管が艦を縦通しており、そこからサブの排水管が派生するシステムとなっていました。


◎改装
  戦艦ナヴァリンは竣工後、地中海戦隊に配属され、短期間バルト海に戻ったものの、直ぐに極東に派遣され、1902年まで改装の機会を得ませんでした。改装が計画されたのは日露戦争の直前で、結果的に部分的な改装に終わりました。

・1904年
  旧式のリュージョリ・ミャキーシェフ測距装置(物体の高さを測り、測距する機材)に代わり、基線長4.5フィート(137.25cm)のバー・アンド・ストラウド測距儀と望遠照準器が装備されました。
  同時に、無線機が装備され、前檣が延長されました。
  主砲砲身をより近代的なものに改装する計画がありましたが、時間の不足によりキャンセルされました。
  同様の理由で、副砲の15.2cm35口径単装砲を15.2cm45口径速射砲に換装する計画もキャンセルされました。
  水雷艇防御用に、副砲ケースメイト上のブルワークの47mm43口径単装砲の内4門を取り外し、その位置に75mm50口径単装砲を装備しました。取り外された4門の47mm43口径単装砲は、2門ずつ前後の主砲の天蓋に装備されました。

戦艦ナヴァリン 1905年 改装後。
戦艦ナヴァリン 1905年 改装後。
延長された前檣と、砲塔正面に移設された47mm43口径砲が見える。
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎戦歴
  1889年7月13日建造開始、1890年5月30日起工、1891年10月20日進水。1893年に艤装のためにクロンシュタットに移動、1895年11月には完成し、諸公試を実施しました。1896年春には公試終了、1896年6月竣工しました。
  1896年8月、地中海に送られ、1896年10月1日にピレウスに到着しました。
  そのまま1898年春まで地中海戦隊に所属し、シソイ・ヴェリキィと共に極東に送られ、3月28日、旅順に到着しました。
  1900年6月、義和団事変に際して、大沽に派遣されました。

  その後、バルト海に帰還することとなり、1901年12月25日、ドミートリイ・ドンスコイ、ヴラジーミル・モノマーフ、アドミラル・ナヒーモフ、アドミラル・コルニロフ、及びシソイ・ヴェリキイと共に旅順を出発し、1902年5月初頭にリバウに到着しました。

  1902年9月に修理と改装が開始され、日露戦争の勃発により作業が急がれ、一部省略されて、1904年6月に完了しました。
  1904年10月15日、第二太平洋艦隊に所属、リバウを出港しました。
  1905年5月27日、日本海海戦において、日本海軍の砲撃により、昼戦において少なくとも5発の被弾を受けました。
  その後の夜戦において、水雷艇の攻撃を受け、これに反撃しました。「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressによると、第三四号水雷艇か第三五号水雷艇のどちらか1隻を撃沈したとしています。
  22時頃、左舷部に1発の魚雷を受け、船倉に破孔を生じ、後部砲塔付近まで海水が進入し、艦尾が沈下しました。5月28日1時頃、第四駆逐隊の雷撃により、2発の魚雷を右舷中部と左舷後部主砲塔付近に受け、転覆して沈みました。3名が生存し、700名が戦死しました。
  この最後の攻撃は、一説によると日本駆逐艦による連係水雷の攻撃の命中とも言われています。


◎総論
  戦艦ナヴァリンは、バルト海で建造された、ピョートル・ヴェリキィ以来の大型艦でした。当初は小型装甲艦として建造される予定でしたが、ドイツ海軍のブランデンブルク級戦艦の計画や日本の松島級海防艦の情報に刺激され、大型の装甲艦に計画変更されました。建造途中にも、主砲口径の増大や副砲装備数の増大など、計画変更が重なり、更に装甲板の供給の遅れが重なって、工期は長く伸びました。
  艦型としては、前ド級戦艦への発達の前段階にある艦で、艦首尾の乾舷が低く、凌波性に問題があったものの、重厚な装甲防御を持っていました。ただ、日露戦争開戦により、主砲と副砲の換装がキャンセルされたため、砲は旧式で発射速度が遅く、速射砲も装備していませんでした。
  平時には遣外活動に良く活躍し、日本海海戦においては、良く昼戦の砲弾に耐えましたが、夜間の水雷夜襲によって撃沈され、わずか3名の生存者を残して全員戦死するという悲壮な最期を遂げました。

  それでも、ロシア海軍の戦艦の発展の重要な一段階となった価値ある艦であると思われます。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。


◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「Броненосец Наварин」 出版社 Корабли и сражения
・「千九百四五年露日海戦史」 露国海軍軍令部編纂 海軍軍令部翻訳
・「日露海戦記 全」 出版社 佐世保海軍勲功表彰會
・世界の艦船別冊NO.429「イギリス戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社
・「日露戦争」1〜8 児島襄著 出版社 文藝春秋 文春文庫



  艦名のロシア語発音及び艦名の由来につきましては、本ホームページからもリンクさせていただいている、大名死亡様のホームページ、「Die Webpage von Fürsten Tod 〜討死館〜」を参考にさせていただいております。
  詳しくは、次のリンクをご参照下さい。

日本海海戦に参加したロシヤ艦名一覧

  また、資料の内、「Броненосец Наварин」 出版社 Корабли и сраженияは、ホームページ、三脚檣の管理人、新見志郎樣よりお貸しいただきました。厚く御礼申し上げます。



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