ロシア海軍 インペラトール・アレクサンドル2世級戦艦
及び日本海軍 二等戦艦壹岐




  インペラトール・アレクサンドル2世級戦艦は、バルト海艦隊用に、ドイツやデンマークの装甲艦に対抗するために建造された艦ですが、計画は様々な案があって迷走し、結果的に準同型艦になったものの、可能性が許せば、別の級の艦になっていた可能性もあります。(事実、そのように扱っている文献もあります。)
  2番艦、インペラトール・ニコライ1世は、第三太平洋艦隊旗艦として、極東への回航に参加しますが、改装はされていたものの、日露戦争に参加したロシア戦艦の中では、一番の旧式戦艦でした。
  本稿では、インペラトール・アレクサンドル2世級の建造の経緯から、性能、戦歴を簡単に調査してみました。


◎艦名の由来
  2艦の艦名の由来は、次の通りです。

・インペラトール・アレクサンドル2世 Imperator Aleksandr II Император Александр II
  日露戦争当時の皇帝ニコライ2世の2代前の皇帝。在位1855年〜1881年(暗殺)。

・インペラトール・ニコライ1世 Imperator Nikolay I Император Николай I
  クリミヤ戦争の時の皇帝。日露戦争当時の皇帝ニコライ2世の3代前の皇帝。在位1825年〜1855年。

・ザーリャ・スヴォボードゥイ Zaria Svobody Заря Свободы
  自由の始まりの意味。


◎性能
建造:インペラトール・アレクサンドル2世 ニュー・アドミラルティ工廠(サンクト・ペテルブルグ)
     インペラトール・ニコライ1世 ガレルニィ島工廠(サンクト・ペテルブルグ)
設計排水量:8,440t
実際の排水量:インペラトール・アレクサンドル2世9,244t、インペラトール・ニコライ1世9,554t
船体寸法:
・インペラトール・アレクサンドル2世
 垂線間長:99.36m 水線長:101.78m 全長:105.60m
 全幅:20.40m 計画吃水:7.00m 実際の吃水7.85m
・インペラトール・ニコライ1世
 垂線間長:99.30m 水線長:101.65m 全長:105.60m
 全幅:20.40m 計画吃水:7.00m 実際の吃水7.40m
主缶:円缶12基
主機/軸数:三気筒直立複式膨張機械2基、2軸推進
機関出力:インペラトール・アレクサンドル2世 計画8,500hp 実際8,289hp
       インペラトール・ニコライ1世 計画8,000hp 実際7,842hp
速力 公試:インペラトール・アレクサンドル2世15.27ノット(1890年9月30日 公試時)
        インペラトール・ニコライ1世14.5ノット
燃料搭載量 常備:インペラトール・アレクサンドル2世石炭満載967t インペラトール・ニコライ1世847t
航続距離:インペラトール・アレクサンドル2世 4,440浬/8ノット 1,770浬/15ノット
       インペラトール・ニコライ1世 2,680浬/10ノット
兵装:30.5cm30口径砲2基を装甲フード付き前部バーベットに装備(インペラトール・アレクサンドル2世)
    30.5cm30口径連装砲塔1基(インペラトール・ニコライ1世)
    22.8cm35口径単装砲4門
    15.2cm35口径単装砲8門
    47mm5銃身ガトリング砲10門
    37mm5銃身ガトリング砲8門
    38.1cm水上魚雷発射管5門
防御:インペラトール・アレクサンドル2世
    装甲材質 垂直防御:複合装甲 甲板装甲:軟鋼
    舷側装甲/機関区画356mm(下部に向け203mmにテーパー)
    舷側装甲/主砲弾火薬庫脇305mm(下部に向けテーパー、厚さ不明)
    舷側装甲/主砲弾火薬庫から艦首前端に向かって254mm、225mm、203mm、152mm、100mm
    (下部に向けテーパー、厚さ不明)
    舷側装甲/機関区画から艦尾後端に向かって305mm、225mm、100mm
    (下部に向けテーパー、厚さ不明)
    主砲バーベット254mm
    主砲バーベットの装甲フード76.2mm
    防御甲板44.45mm+甲板19.05mm
    22.8cm35口径単装砲ケースメイト76.2mm
    15.2cm35口径単装砲ケースメイト50.8mm
    ケースメイト前後端隔壁152mm
    司令塔 前部のみ203mm 天蓋63.5mm 交通筒装甲無し

    インペラトール・ニコライ1世
    装甲材質 垂直防御:複合装甲 甲板装甲:軟鋼
    舷側装甲/機関区画356mm(下部に向け203mmにテーパー)
    舷側装甲/主砲弾火薬庫脇305mm(下部に向けテーパー、厚さ不明)
    舷側装甲/主砲弾火薬庫から艦首前端に向かって254mm、225mm、203mm、152mm
    (下部に向けテーパー、厚さ不明)
    舷側装甲/機関区画から艦尾後端に向かって305mm、225mm、152mm
    (下部に向けテーパー、厚さ不明)
    主砲塔/側面254mm 天蓋63mm
    主砲バーベット254mm
    防御甲板63mm
    22.8cm35口径単装砲ケースメイト76.2mm
    15.2cm35口径単装砲ケースメイト50.8mm
    ケースメイト前後端隔壁152mm
    司令塔 前部のみ152mm 天蓋63.5mm 交通筒装甲無し
乗員:士官31名 兵585名


◎建造経緯
  インペラトール・アレクサンドル2世級戦艦は、ピョートル・ヴェリキィ(Pëtr Velikii 1874年公試開始)以来、10年振りに計画されたのバルト海艦隊用の装甲艦でした。同時期に黒海艦隊用に建造されていたインペラトリッツァ・エカテリーナ2世級戦艦とは違い、小型の装甲艦として計画されました。
  インペラトール・アレクサンドル2世が計画された時、海軍省長官シェスタコフ大将(Admiral Shestakov)が主な対抗目標、タイプシップとして指定した艦は、ドイツ海軍のザクセン級装甲艦、デンマーク海軍の海防艦ヘルゴラントでした。

ドイツ海軍 ザクセン級装甲艦(1878年)
ドイツ海軍 ザクセン級装甲艦(1878年)
常備排水量7,677t、全長98.2m、水線長93.0m、全幅18.4m、吃水6.53m
武装 26cm砲6門(4門を中央砲郭の四隅に配置、2門を艦首バーベットに配置)
87mm砲6門、37mmガトリング砲8門 最大装甲厚254mm 速力13.6ノット 国産
「German Warships 1815-1945 Volume One:Major Surface Vessels」 出版社 CONWAYより引用。


デンマーク海軍 海防艦ヘルゴラント(1878年)
デンマーク海軍 海防艦ヘルゴラント(1878年)
常備排水量5,332t、全長79.12m、全幅18.03m、吃水5.89m
武装 30.5cm22口径単装砲1門、26cm22口径単装砲4門、12cm25口径砲5門、1ポンドガトリング砲10門
38.1cm魚雷発射管2門、15.6cm魚雷発射管3門、装甲材質鉄 最大装甲厚305mm 速力13.75ノット 国産
「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAYより引用。


  設計作業は1882年の終わりに開始されました。新装甲艦には、バルト海外で活動できる航洋性と、出来るだけ小さな船型が要求されました。
  シェスタコフ大将の提案は、海軍科学技術委員会によって検討されました。一週間の検討の結果、新装甲艦のタイプシップとして、ザクセン級装甲艦や海防艦ヘルゴラントを検討するのは難しいとされました。
  ザクセン級装甲艦は航洋性と速度が不足しており、どの速度域でも艦首波が大き過ぎるとされました。
  海防艦ヘルゴラントは26cm単装砲ケースメイトの位置が低すぎて、航洋性に問題があるとされました。
  ただ、艦の前方に主砲を設置したバーベットを置き、大型の中口径砲を舷側の砲郭4隅にケースメイト配置にするという配置は認められました。
  海軍科学技術委員会の造船部が、新装甲艦の仕様として、排水量7,500t、吃水20フィート(6.1m)、速力14ノット以上、石炭搭載量全速で5日分という仕様を作成しました。帆装は施さず、汽走のみを用いるとされました。
  兵装は、前部バーベットに30.5cm単装砲1門、船体砲郭の4隅に22.8cm砲を装備、艦首に衝角を装備するとされました。
  装甲は複合装甲を用い、船体の2/3を防御し、装甲の最大厚は356mmとされました。機関区画は356mm、弾火薬庫は254mmとされました。甲板防御は、中央の砲郭内部は38.1mm、その前後は50.8mmとされました。

  その後、石炭搭載量は、シェスタコフ大将の注文で、全速で6日分に増やされました。海軍科学技術委員会は、主砲を30.5cm30口径砲にし、魚雷発射管2門を追加しました。
  防御は、インペラトリッツァ・エカテリーナ2世級と同様に、水線部の全部をカバーするように変更されました。これらの変更により、吃水は当初の20フィート(6.1m)から23フィート(7.015m)に増えました。
  また、帆装の廃止が撤回され、完全な帆装(面積2.265u)が導入されました。

  1883年9月5日、海軍科学技術委員会によって、艦首の30.5cm30口径砲が1門追加され2門とされ、15.2cm砲が舷側に片舷4門、計8門追加されました。これによる重量増加を軽減するため、船体砲郭の装甲は廃止され、副砲以下は無防御とされることとなりました。石炭搭載量も、全速で4日半分とされ、追加で500t搭載できる仕様に変更されました。
  また、艦底にはバルト海外での行動を考慮して、銅板被覆が行われる決定がされました。

  一方、海軍科学技術委員会の内部検討案に不満があるシェスタコフ大将は、ベルト重工から改名した、フランコ・ロシア重工の社長デュ・ビュイ(S. K. Diu-Biui)に、設計案の作成を依託しました。
  1883年4月、フランコ・ロシア重工の設計案は、海軍科学技術委員会にもたらされました。この設計案は、7,650tで、可能な限り浅い吃水と、イタリア海軍のカイオ・ドゥイリオ級装甲艦のような、船体中央の梯形配置された2つの砲郭にに30.5cm35口径主砲を2門ずつ計4門装備した艦でした。更に12門の小口径砲をフライングデッキ上に装備し、3000hpの機械2基で14ノットの速力を発揮するとされました。

イタリア海軍 カイオ・ドゥイリオ級装甲艦(1880年)
イタリア海軍 カイオ・ドゥイリオ級装甲艦(1880年)
常備排水量11,138t、全長109.2m、垂線間長103.5m、全幅19.7m、吃水8.8m
武装45cm20.4口径連装砲2基、12cm40口径単装砲3門、35.6cm水中魚雷発射管3門
装甲材質甲鉄 舷側550mm 砲郭450mm 速力15ノット 国産
「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAYより引用。


  この提案を、海軍科学技術委員会は、造船官グリャーエフ(E. E. Guliaev)に検討させました。グリャーエフの報告は、シェスタコフ大将に不利でした。
  問題は次の通りでした。

・30.5cm35口径砲が開発されておらず、新規開発が必要。
・機械の出力不足。14ノットの速力発揮が疑わしい。
・船体が大きすぎる。また、主砲の梯形配置は好ましくない。
・中口径砲(22.8cm砲)が装備されていない。
・石炭搭載量が、要求された航続距離に不十分。

  グリャーエフは、これらの欠陥の除去には、8,710tの排水量が必要だろうとしました。これに基付き、海軍科学技術委員会は、フランコ・ロシア重工の提案を否決しました。

  海軍科学技術委員会の設計が決定されつつある頃、サンクト・ペテルブルグのニュー・アドミラルティ工廠では、艦の建造準備が始まっていました。1883年11月中旬に建造が開始され、1885年7月27日に戦艦インペラトール・アレクサンドル2世と命名されました。

  船首甲板が船首に向けて下に傾斜していて、主砲の前方発砲が可能な艦型と、前方発砲可能の中口径砲(22.8cm砲)配置から見て取れる通り、衝角戦術が可能なように設計されていました。中口径砲の前には装甲厚152mmのケースメイト前端隔壁があり、突撃時の中口径砲の前方防御となっていました。
  しかし、衝角戦術は多くの士官の支持するところと成らず、舷側砲火の増加が支持されました。

  その中で、中口径砲を廃止して、艦尾にもう2門の30.5cm30口径砲を装備する案が海軍科学技術委員会内から出されました。しかし、これは、衝角攻撃を行う場合、発射速度の遅い30.5cm30口径砲だけではなく、発射速度の早い中口径砲は不可欠であると反対されました。また、舷側砲火で戦闘を行う場合も、30.5cm30口径砲は重装甲目標に対して有効ですが、発射速度の早い中口径砲も大抵の装甲目標に有効な装備であるともされました。
  これらの検討に基付き、海軍科学技術委員会は、艦尾30.5cm30口径砲装備案を廃案にしました。

  これと同時に、黒海艦隊のインペラトリッツァ・エカテリーナ2世級戦艦シノープと同様に、30.5cm30口径砲2門の装備間隔を狭くし、バーベットを縮小する改良が行われました。この変更は140tの重量を節約し、中口径砲と15.2cm砲のケースメイトへの装甲を砲の前面のみですが、可能としました。
  その他、建造中の変更として、帆装の面積の縮小(1,560u)、艦底の銅板被覆の廃止、魚雷兵装の削減がありました。魚雷兵装は当初艦首両舷に水上発射管2門、舷側水上発射管(旋回式 射界70度)片舷2門計4門、艦尾水上発射管1門、総計7門が予定されていましたが、舷側後部の2門が削減され、艦首両舷に水上発射管2門、舷側水上発射管(旋回式 射界70度)片舷2門、艦尾水上発射管1門、総計5門に削減されました。
  これらの重量削減の一方で、数々の重量増加が発生しました。22.8cm砲と15.2cm砲は35口径砲とされ、70tの重量増加をもたらしました。これは、石炭供給量の設計上の見直しで対応が取られました。また、船体の各部分での重量増加の抑制の失敗により、船体重量は大幅に増しました。これらは最終的に、計画排水量から800tの排水量増加に繋がりました。

ロシア海軍 戦艦インペラトール・アレクサンドル2世(1892年)
ロシア海軍 戦艦インペラトール・アレクサンドル2世(1892年)
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


  2隻目のバルト海艦隊用の装甲艦は、シェスタコフ大将より、6ヶ月前に設計が認められた、現在建造中の戦艦インペラトール・アレクサンドル2世より小型の装甲艦にするよう、海軍科学技術委員会に指示がありました。設計作業は1884年3月15日に開始されました。
  シェスタコフ大将は、同時にブラジル海軍の装甲艦リアシュエロ(1883年竣工)をタイプシップとするよう指示を出しました。リアシュエロは戦隊中央部に梯形配置にされた23.3cm連装砲塔を2基持つ中央砲郭艦で、以前、フランコ・ロシア重工が提案した設計案と同じ配置を用いていました。シェスタコフ大将は、これをタイプシップとすることによって、前後方と、角度は限定されますが舷側に主砲全門を指向できる、航洋性のある装甲艦が建造できると主張しました。

ブラジル海軍 装甲艦リアシュエロ(1883年)
ブラジル海軍 装甲艦リアシュエロ(1883年)
常備排水量5,610t、垂線間長92.96m、全幅15.85m、吃水5.99m
武装23.3cm連装砲塔2基、14cm単装砲6門、1ポンド単装砲15門、35.6cm水中魚雷発射管5門
装甲材質複合装甲 最大装甲厚283mm 速力16.7ノット 建造 イギリス サミューダ社
「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAYより引用。


  海軍科学技術委員会は、指示に従って設計作業を開始しましたが、問題に突き当たりました。30.5cm単装砲塔は23.3cm連装砲塔より大きく、要求される速度を考えると、機関重量は装甲艦リアシュエロのそれより重くなるとされました。結果として、排水量はリアシュエロより1,700t大きくなるだろうと予想されました。
  1884年11月17日、加えて、シェスタコフ大将は、不要物と見なしていた監獄船オプイト(Опыт 元皇帝用ダンスホール船リヴァディア:新見志郎様のホームページ「三脚檣」の皇帝とポポフの浮かぶダンスホールに詳しい解説が載っています)の3基の機械の内、両舷の2基を新戦艦に流用するよう要求しました。
  これに対して、黒海艦隊司令長官から、ボスポラス海峡が襲撃された際、オプイトを兵員輸送用に利用する予定があり、2基の機械を外されると、艦の航行のコントロールが難しくなり、使用出来なくなるという抗議が届きました。
  そのため、オプイトの3基の機械の内、中央軸の1基を新戦艦に流用し、もう1基の機械は新造するという方針に変更されました。
  1885年4月22日、海軍科学技術委員会はこの指示を実現可能であると判断し、新規機械の新造の予備的な作業がバルチック造船所で行われることとなりました。
  しかし、最終的にこの提案は廃案となり、新戦艦用の機械は2基とも新造されることとなりました。

  一方、新戦艦には、2門の30.5cm砲と2門の22.8cm砲か25.4cm砲の装備が要求されました。これは、30.5cm単装砲塔の中央梯形配置案の取り消しに繋がりました。2門の30.5cm砲は艦前部のバーベットに装備され、2門の22.8cm砲または25.4cm砲は、艦後部の小型のバーベットに装備されるとされました。
  海軍科学技術委員会は、すぐ25.4cm砲の装備を禁じました。この砲は開発されておらず、新規開発の必要があるからでした。22.8cm砲は、殆どの装甲を貫通する威力があることも理由とされました。
  最終設計案は、1885年4月15日にまとめられました。内容は次の通りでした。

排水量:7,572t
垂線間長:93.1164m 全幅17.2212m 吃水:7.1675m
主缶:円缶12基
主機/軸数:レシプロ2基、2軸推進
機関出力:7,500hp
速力:15ノット
燃料搭載量 常備:546t
航続距離:1,080浬/15ノット
兵装:30.5cm30口径砲2門を前部バーベットに装備
    22.8cm35口径単装砲2門を後部バーベットに装備
    15.2cm35口径単装砲10門
    38.1cm水上魚雷発射管5門
防御:装甲材質:複合装甲 甲板装甲 軟鋼
    舷側装甲/最厚部330.2mm
    前部主砲バーベット152mm〜127mm
    後部部中間砲バーベット127mm〜102mm
    防御甲板シタデル内50.8mm 艦全後部76.2mm
    シタデル前後端横隔壁305mmmm

おそらく、帆装を装備したと思われます。

  この設計案は、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世より排水量が1,000t軽くなっていました。
  重量の削減は、砲弾搭載量の削減にもよりました。30.5cm砲弾は砲毎に60発から50発に、22.8cm砲弾は砲毎に125発から50発に、15.2cm砲弾は砲毎に125発から100発に減らされました。
  燃料搭載量は最大速力で6日分から3日分に減らされました。
  詳細設計と施工図の作成は1885年の夏までに行われました。秋までに設計作業が完了し、1885年11月6日にバルチック造船所で艦の建造契約が締結されました。

  しかし、建造契約はシェスタコフ大将によって突然取り消されました。シェスタコフ大将は新戦艦を戦艦インペラトール・アレクサンドル2世の設計に基付いて、フランコ・ロシア重工により設計される予定に変更しました。
  この変更の理由は明らかになっていませんが、フランコ・ロシア重工の社長デュ・ビュイが何らかの根回しをしたとも、妻を通じてデュ・ビュイと個人的な関係があったシェスタコフ大将が、フランコ・ロシア重工の財政に何らかの関心を抱いていたとも言われます。加えて、デュ・ビュイは、皇帝とのコネクションも持っていました。結局の所、シェスタコフ大将が自分が手がけたバルチック造船所に発注した設計を破棄して、フランコ・ロシア重工に設計を依託した理由は明らかになっていません。

  結果的に、新戦艦の設計は、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世に基付くものになりました。新契約では、艦は1888年の春までに進水し、艤装を行った後、1889年7月以降に海軍に引き渡されるとされました。
  フランコ・ロシア重工は、賢明にも、 海軍省により設計の変更が行われた場合は、これらの期間を延長しても良いという条項を付け加えました。

  新戦艦の設計を既存の艦のものに逆戻りさせることは、結果的に建造期間の短縮に繋がりませんでした。フランコ・ロシア重工は、多くの設計変更を行わなければ成りませんでした。
  例えば、艦尾の提督用居室の設計変更の討論に、1年以上の年月が費やされました。インペラトール・アレクサンドル2世では、艦尾まで上部構造物が広がっていなかったため、提督用居室は艦尾まで伸びていませんでしたが、新戦艦では艦尾まで上部構造物を延長し、提督用居室を延長しました。これは48.45tの重量増加に繋がりました。
  魚雷発射管の配置は変更され、短艇類は外舷に移されました。艦内の区画は変更され、隔壁が移されたり、補強されたりしました。また、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世では施されなかった艦底の銅板被覆が施されました。
  珍しい提案としては、平時は排水用ポンプを換気用に使用するという点がありました。これは、隔壁や甲板の貫通口を減らすだろうとされました。しかし、バルブ類のコントロールが複雑となり、損傷時に必要のない区画への浸水を招きかねないとして却下されました。
  最大の変更点は、前部30.5cm30口径砲2門を、バーベット装備から30.5cm30口径連装砲塔1基に変更する点でした。これは、1887年の春までには決定されていましたが、砲塔の設計に手間取り、砲塔の大きさが明らかにならなかったため、1888年3月まで船体前部の建造は6ヶ月停止していました。このような建造の停止はたびたび発生しました。
  砲塔の設計は最終的に、1889年4月16日に海軍科学技術委員会によって認可されました。 主砲の砲塔化による重量増加は、44.9t以上だろうと見積もられました。この代償重量として、舷側装甲の高さが減らされることとなりました。
  1887年の春、主砲塔を30.5cm30口径連装砲塔から30.5cm35口径連装砲塔に変更する決定が下されましたが、砲塔直径が増すことが分かったために、後に撤回されました。
  これらの変更により、建造は遅延し、艦の進水は予定されていた1888年10月から、1889年春に延期されました。結局、それにも間に合わず、艦の進水は1889年6月となりました。艦は、戦艦インペラトール・ニコライ1世と名付けられました。
  戦艦インペラトール・ニコライ1世は残工事のため1890年秋までフランコ・ロシア重工に留められた後、艤装のためにクロンシュタットに移動し、1891年の夏に完成しました。完成時、艦は設計排水量から1,154t超過していました。
  最後の変更は、海軍の最高責任者であるアレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公からの命令でした。艦の美観の為、トップマストを延長するよう命令が下されましたのです。トップマストは大急ぎで延長されました。
  戦艦インペラトール・アレクサンドル2世では既に帆装が縮小されており、トップマストが短縮されていました。造船官クテイニコフ(N. E. Kuteinikov)は帆装の縮小とマストの短縮の理由の説明ををアレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公に書き送りましたが、徒労に終わりました。この変更は、艦の性能に何の利益も与えませんでした。

  インペラトール・アレクサンドルU世の総費用は8,000,000ルーブルを超えていました。
  インペラトール・ニコライ1世の設計の契約金額は、2,853,756ルーブルでした。総費用は不明です。

ロシア海軍 戦艦インペラトール・ニコライ1世(1893年)
ロシア海軍 戦艦インペラトール・ニコライ1世(1893年)
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎特徴
・艦型
  戦艦インペラトール・アレクサンドル2世は、艦首に2.2mの衝角を備えていました。
  計画排水量でのメタセンター高さは1.12mでしたが、排水量の増加により、より悪化していたと思われます。
  艦は良い航洋性を持っており、外洋での行動も可能でした。
  艦の旋回半径は520mで、360度旋回に掛かる時間は7分32秒でした。

  戦艦インペラトール・ニコライ1世は、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世と多くの相違点を持っていました。
  艦首の衝角はより顕著に突出しており、艦尾の上部構造物は大きく、広い空間を持っていました。
  また、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世には装備されなかった、艦底の銅板被覆を持っていました。

・武装
  戦艦インペラトール・アレクサンドル2世のオブコフ式30.5cm30口径主砲は、装甲フード付きの前部バーベットに2門装備されており、最大仰角15度、最大俯角2度でした。射界は220度でした。主砲は全周旋回範囲で装填が可能であり、発砲速度は4〜5分/発でした。
  砲熕公試は満足の行く結果で、インペラトリッツァ・エカテリーナ2世級とは違い、主砲を低い仰角で発砲しても、船体や甲板に損傷は発生しませんでした。
  弾薬は砲毎に60発でした。

  4門の22.8cm35口径単装砲はセンターピボット式砲架に装備されており、速射砲でありませんでした。砲はケースメイトの4隅に装備されており、片舷2門両舷計4門でした。
  前部の砲は前方4度に発砲可能で、125度の射界を持っていました。
  後部の砲は、後方10度に発砲可能で、105度の射界を持っていました。
  発砲速度は1〜2分/発でした。
  弾薬は、砲毎に125発でした。

  8門の15.2cm35口径単装砲は、速射砲でありませんでした。
  片舷1門両舷計2門が艦首主砲前の船体に装備され、直前方に発砲可能でした。射界は130度でした。
  片舷1門両舷計2門が艦尾舷側の船体に装備され、直後方に発砲可能でした。射界は130度でした。
  ケースメイト内には22.8cm砲の間に片舷2門両舷計4門装備されており、射界は100度でした。
  発砲速度は30秒/発でした。
  砲毎の弾薬数は125発でした。

  10門の47mm5銃身ガトリング砲は、22.8cm砲と15.2cm砲のケースメイトの間に砲口を設けて片舷5門計10門装備されました。砲口には保護シャッターが着いていました。
  8門の37mm5銃身ガトリング砲は、前後檣のファイティングトップ上に4門づつ取り付けられました。
  これらの小口径砲の多数装備は、水雷艇の脅威が増し、至近距離での戦闘が起こり得るという考えに基付いていました。

  38.1cm水上魚雷発射管は、艦首両舷に水上発射管2門、舷側水上発射管(旋回式 射界70度)片舷2門、艦尾水上発射管1門、総計5門が装備されました。また、4隻の艦載カッターは、35.6cm魚雷発射管を備えていました。

  探照燈は、30cm信号探照燈2基に加えて、90cm探照燈が2基艦橋上のプラットフォームに装備されました。
  また、一時的な停泊地の防御のために、36発の機雷を装備出来ました。

  戦艦インペラトール・ニコライ1世の武装は、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世と次の点が異なりました。
  主砲は、30.5cm30口径連装砲塔を1基艦首に装備しました。これはセンターピボット式ではなく、コールズ砲塔の改良型に近いもので、メタリチェスキー重工(Metallicheskii Works)で製造されました。この主砲は、ロシア戦艦では初めて、砲毎に装填が可能でした。発射速度は戦艦インペラトール・アレクサンドル2世と同程度と思われます。

  魚雷兵装は配置が異なり、38.1cm水上魚雷発射管が艦首に1門、片舷2門両舷計4門、総計5門が装備されました。

戦艦インペラトール・アレクサンドル2世 防御配置図
ロシア海軍 戦艦インペラトール・アレクサンドル2世 防御配置図。
円内はインペラトール・ニコライ1世の砲塔部分の防御。
「Броненосец Император Александр II」 出版社 Корабли и сраженияより引用。


・防御
  インペラトール・アレクサンドル2世の装甲材質は、垂直防御は複合装甲、甲板装甲は軟鋼でした。複合装甲は、イジョルスキー重工で生産されました。
  舷側装甲は259.25cmの高さがあり、設計排水量では106.75cmが水上に出ている予定でしたが、排水量の増加により、実際は61cmしか水上に出ていなかったと思われます。
  舷側装甲の装甲厚は、機関区画356mm(下部に向け203mmにテーパー)、主砲弾火薬庫脇305mm(下部に向けテーパー、厚さ不明)、主砲弾火薬庫から艦首前端に向かって254mm、225mm、203mm、152mm、100mmに減厚(下部に向けテーパー、厚さ不明)、機関区画から艦尾後端に向かって305mm、225mm、100mmに減厚(下部に向けテーパー、厚さ不明)でした。舷側装甲の背材には、25.4cmのカラマツ材が用いられていました。
  主砲バーベットの装甲厚は254mm、主砲バーベットの装甲フードは76.2mmでした。
  防御甲板は舷側装甲の上端に水平に張られており、19.05mm厚の甲板に、44.45mmの軟鋼が貼られていました。
  22.8cm35口径単装砲ケースメイトの装甲厚は76.2mm、15.2cm35口径単装砲ケースメイトは50.8mmで、ケースメイト間の隔壁はありませんでした。また、ケースメイトの砲の無い部分も非装甲で、ここに被弾した場合、内部に損害が広がる可能性がありました。
  舷側装甲とケースメイトの間は非装甲でしたが、石炭庫が設置されており、触発信管の弾丸ならば、ここで爆発させてある程度防御できると考えられていました。しかし、この部分の被弾で、上面のケースメイトの砲が弾片や爆発で使用不能になる可能性がありました。
  ケースメイト前後端隔壁の装甲厚は152mmでした。
  司令塔は前部にのみ設置されており、装甲厚は203mm、天蓋は63.5mmで、装甲された交通筒はありませんでした。

  インペラトール・ニコライ1世の装甲材質は、垂直防御は複合装甲、甲板装甲は軟鋼でした。複合装甲はイギリスで生産されましたが、これの製造の遅れが、艦の完成を遅らせました。
  舷側装甲の高さは244cmに減らされており、設計排水量で、91.5cmが水上に出ており、152.5cmが水面下にある予定でしたが、排水量の増加による吃水増加0.4m程発生していたので、水上高さは51cm程度に減っていたと思われます。
  舷側装甲の装甲厚は、機関区画356mm(下部に向け203mmにテーパー)、主砲弾火薬庫脇305mm(下部に向けテーパー、厚さ不明)、主砲弾火薬庫から艦首前端に向かって254mm、225mm、203mm、152mmに減厚(下部に向けテーパー、厚さ不明)、機関区画から艦尾後端に向かって305mm、225mm、152mmに減厚(下部に向けテーパー、厚さ不明)でした。
  主砲塔の装甲厚は側面254mm、天蓋63mmでした。主砲バーベットの装甲厚は254mmでした。
  防御甲板は舷側装甲の上端に水平に張られており、63mmの軟鋼で出来ていました。
  22.8cm35口径単装砲ケースメイトの装甲厚は76.2mm、15.2cm35口径単装砲ケースメイトは50.8mmで、ケースメイト間の隔壁はありませんでした。また、ケースメイトの砲の無い部分も非装甲で、ここに被弾した場合、内部に損害が広がる可能性がありました。
  舷側装甲とケースメイトの間は非装甲でしたが、石炭庫が設置されており、触発信管の弾丸ならば、ここで爆発させてある程度防御できると考えられていました。しかし、この部分の被弾で、上面のケースメイトの砲が弾片や爆発で使用不能になる可能性がありました。
  ケースメイト前後端隔壁の装甲厚は152mmでした。
  司令塔は前部にのみ設置されており、装甲厚は152mm、天蓋は63.5mmで、装甲された交通筒はありませんでした。

・機関
  缶室は、前後に分ける横隔壁と、艦中央部の縦隔壁があり、縦横4室に分割されていました。1缶室に円缶が縦に3基づつ、計12基設置されていました。
  蒸気性状は6.3atu、最大で11.6atu(1atu=1.03kg/cu)でした。
  戦艦インペラトール・アレクサンドル2世の機械は、インペラトリッツァ・エカテリーナ2世級と同じ三気筒直立複式膨張機械が2基、バルチック造船所で製造されました。機械室は缶室の後ろにあり、中央横隔壁で区切られた2室に、機械が1基ずつ配置されました。設計馬力は、8,500hpでした。
  推進軸は2軸で、推進器の直径は5.185mでした。   戦艦インペラトール・アレクサンドル2世の公試は、1890年9月30日に実施されました。8,748トンの排水量で、8,289 hpの出力で、15.27ノットの速度を出しました。馬力は設計を下回りましたが、速度は設計を上回りました。

 戦艦インペラトール・ニコライ1世の機械は、三気筒直立複式膨張機械が2基、フランコ・ロシア重工で製造されました。設計馬力は8,000hpで、一番艦より低い値でした。機械室は缶室の後ろにあり、中央横隔壁で区切られた2室に、機械が1基ずつ配置されました。推進軸は2軸でした。
  1891の秋の公試では、7,842hpしか出力が出ず、速力も艦の重量超過と合わせて、14ノットの最大速度しか出ませんでした。
  1893年5月の報告では、艦はアメリカ大陸発見400年記念祭参加のために良く整備されていたので、再度の公試を行うべきであるとされましたが、結局再公試は行われませんでした。この時期は14.5ノット程度の速力が出ていた模様です。
  ただ、この機械は幾分性能が低いものの、実用してみると信頼性が高いことが分かりました。
  石炭搭載量は、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世は967t、戦艦インペラトール・ニコライ1世は847tでした。
  航続距離は、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世が4,440浬/8ノット、1,770浬/15ノットでした。
  戦艦インペラトール・ニコライ1世は、2,680浬/10ノットでした。

・水中防御
  インペラトール・アレクサンドル2世級戦艦の船体は、10枚の横隔壁と1枚の中央の縦隔壁によって細分化されていました。二重底はフレーム12からフレーム74の間に設置されていました。 排水システムは、メインの排水管が艦を縦通しており、そこからサブの排水管が派生するシステムとなっていました。
  船体中央の縦隔壁は、浸水時の傾斜を早める危険性があったと思われます。
  排水用に、4つの蒸気動力ポンプ、2台の排出装置、2つの蒸気吸引ポンプを備えました。
  また、消火用に、1台の消火ポンプを備えました。

・その他
  2艦の帆装設備は使用されることがなく、後の20世紀初頭の改装時、撤去されました。


◎改装
 2艦は、ロシア戦艦として、多くの改装を施されました。特に、インペラトール・アレクサンドル2世の場合、それは砲熕兵装にも及びました。

・インペラトール・アレクサンドル2世
・1892年春   トップマストが延長されました。これは、 インペラトール・ニコライ1世の場合と同じで、アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公の指示により実施されました。性能には何の良い影響も与えませんでした。
  同時期に、水雷防御網が設置されました。

・1893年末
  主砲バーベット上の装甲保護フードが設置されました。

・1890年代末
  ファイティングトップが撤去されました。
  探照燈が艦橋上の探照燈プラットフォームから、後檣に設けられた探照燈台に移設されました。

・1903年〜1905年
  缶をベルヴィール缶16基に換装しました。
  帆装を撤去し、マストを改造しました。
  武装は、主砲はそのままでしたが、砲術練習艦として使用するため、フランスで22.8cm単装砲を新型の20.3cm45口径単装砲に、15.2cm35口径単装砲を15.2cm45口径単装砲に変更しました。新しい15.2cm砲は速射砲でした。
  旧来の47mm砲及び37mm砲は撤去され、新しく新型の47mm43口径単装砲4門がケースメイト間の砲門に設置されました。
  後檣から後ろの後部上部構造物は一甲板削減され、そこに12cm45口径単装砲が片舷2門両舷計4門装備されました。
  また、独立した探照燈台が後部煙突両後ろに設けられました。
  舷側の魚雷発射管は撤去されました。
  公試は1905年6月に実施され、その際にベルヴィール缶の水管の蒸気漏れを起こしましたが、一時的な修理を行ってそのまま運用されました。完全な修理は1911年に行われました。

  第一次世界大戦頃には、速力は12.7ノット程度になっていました。

・インペラトール・ニコライ1世
・1890年代末
  水雷防御網が設置されました。
  ファイティングトップの位置が下に移動されました。
  探照燈が艦橋上の探照燈プラットフォームから、後檣に設けられた探照燈台に移設されました。
  また、独立した探照燈台が前部煙突両側面に設けられ、ベンチレーターのカウルの形状が変更されました。

・1900年〜1901年
  缶をベルヴィール缶16基に変更し、機械を新しい三気筒直立三段膨張機械に変更しました。
  後檣から後ろの後部上部構造物は一甲板削減されました。
  47mm砲と37mm砲は37mm砲2門を残して撤去され、新型の47mm43口径単装砲16門と37mm23口径単装砲2門が搭載されました。船体の砲口の砲は、大抵新型に変更されたと思われます。
  この時期に帆装が撤去とマストの変更がなされたと思われます。

・日露戦争開戦後
  後部上部構造物上に、15.2cm35口径単装砲1基(1説には15.2cm45口径単装砲1基)が設置されました。

ロシア海軍 戦艦インペラトール・ニコライ1世(1905年)
ロシア海軍 戦艦インペラトール・ニコライ1世(1905年)
艦尾上部構造物の削減と、艦尾甲板上の15.2cm単装砲の追加に注目。
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎日本戦艦としての改装
  戦艦インペラトール・ニコライ1世は1905年5月28日、日本海海戦後、日本海軍に降伏して捕獲され、修理・改装して使用されました。当初、二等戦艦壹岐と名付けられましたが、修理が完了した時には、一等海防艦壹岐となっていました。
  改装は特に行われることなく、損傷の復旧と武装の変更のみを行い、即戦力化を行いました。
  ロシア艦時代からの改装の内容は次の通りです。

・船体
  損傷の復旧が行われると同時に、マストからのファイティングトップの除去が行われました。
  水雷防御網も撤去されています。

・武装
  主砲に変更はありませんが、副砲以下の武装は日本式に変更されました。
  15.2cm35口径単装砲と47mm43口径単装砲、37mm23口径単装砲、37mm5銃身ガトリング砲は撤去され、日本海軍仕様の砲に交換されました。これは筆者の予想ですが、明治39年2月12日横須賀で修理完了時の写真を見ると、中間砲の22.8cm砲はそのまま残置され、艦尾後端に15.2cm単装砲らしきものが見える点から、安式15.2cm40口径単装砲は恐らく従来の装備位置に総計9門装備されたと思われます。その他、安式76mm40口径単装砲6門、保式47mm単装砲8門、山内式47mm単装砲2門が装備されました。76mm単装砲、47mm単装砲の装備位置は不明ですが、従来の船体の砲口や後部上部構造物やその他の上部構造物上に装備されたものと思われます。
  「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ、「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズによると、1906年〜1907年には後部22.8cm砲を安式15cm40口径単装砲に換装、1908年頃には前部22.8cm砲も撤去され、副砲以下は安式15.2cm45口径単装砲6門、安式12cm40口径砲を6門、安式76mm40口径単装砲6門、保式47mm単装砲8門、山内式47mm単装砲2門が装備されました。
  魚雷発射管は全て撤去されました。

  機雷の搭載はされなかったと思われます。

・防御
  装甲防御、水中防御に手は加えられませんでした。

・機関
  缶については、ロシア艦時代のベルヴィール缶16基のままでした。
  機械については、ロシア艦時代そのままとされました。速力は15.5ノットでした。
  燃料搭載量は1,200t、4,900浬/10ノットとなりました。

・乗員
  乗員数は625名となりました。

・修理費用
  修理に掛かった費用は、1905年度から1908年度の4年間の「海軍省統計年報」から計算すると、83万2,625円となります。
  これには、武装の変更に要した費用は含まれていないと思われます。

  参考までに挙げると、日本海海戦後佐世保軍港で爆沈した三笠の1906年から1907年の修理費用が153万1,064円でした。
  新艦の外国からの購入の場合、装甲巡洋艦日進、春日の購入代金が1,598万4,593円でした。
  新艦を購入・建造するとなると、かかる費用は修理費の比ではありません。また外国からの購入の場合はもちろん、新艦の建造を行っても、当時は建艦資材の多くを輸入に頼っている関係から、莫大な外貨の流出が発生します。
  国内での修理ならば、修理費用は国内に落ちるし、公共事業として戦後の雇用対策にも役立ちます。加えて、海軍は捕獲艦の分も人員と維持費を獲得出来ます。
  これらの観点からすると、捕獲艦の修理と海軍への編入は、ド級艦の時代の到来による旧式化・戦力劣化という点を考えても、妥当な政策だったといえるのではないでしょうか。

日本海軍 一等海防艦壹岐(1906年)
日本海軍 一等海防艦壹岐(1906年)
「Battle Ships of World War 1」 出版社 Arms and Armour Pressより引用。


◎戦歴
・インペラトール・アレクサンドル2世
  1883年11月建造開始、1885年7月12日起工、1887年7月13日進水。1890年春、艤装の為にクロンシュタットに移動、1891年6月完成、1891年9月に公試開始、1891年中に艦隊に加わりました。ただ、帆走試験は1892年春まで続きました。
  1895年6月、装甲巡洋艦リューリックと共に、ドイツのカイザー・ヴィルヘルム運河開通の祝祭に参加しました。
  1895年末、ブイボルグ湾で座礁し、損傷を受けました。
  1896年8月、戦艦ナヴァリンと共にクレタ島に向かい、オスマン・トルコの支配に対するギリシア人の反乱に対するロシアの介入任務についていた、戦艦インペラトール・ニコライ1世と交代しました。そのまま、1901年まで、地中海戦隊に所属し、1901年9月にクロンシュタットに帰還しました。
  1903年12月より缶の換装を含む改装に入り、1904年には、砲術練習艦として使用するように武装が変更されました。この改装工事は1905年まで続きました。
  1906年、フォート・コンスタンチンのフォートレス・マイン社の暴動の鎮圧に参加することを、乗組員が拒否するという小さな反乱が艦内で起こりました。
  1907年に練習艦隊の所属となり、第一次世界大戦の殆どの帰還をクロンシュタットで過ごしました。1917年5月22日、艦はソヴィエトに参加することを表明し、ザーリャ・スヴォボードゥイ(Zaria Svobody Заря Свободы 自由の始まりの意味)と改名されました。
  艦は1921年4月21日、クロンシュタットの港湾当局の管理に移され、8月15日、解体のためドイツへ売却されることが決定されました。
  1922年秋にドイツへ曳航され、1925年11月21日に除籍されました。

・インペラトール・ニコライ1世 後に日本二等戦艦壹岐
  1886年6月9日建造開始、1886年8月4日起工、1889年6月1日進水。1890年10月8日、艤装の為にクロンシュタットに移動、1891年7月に竣工、1892年末に艦隊に加わりました。
  1892年7月11日、アメリカ発見400周年記念祭に参加するためにクロンシュタットを出港し、ファルマスとアゾレスで石炭を補給し、7月24日にニューヨークに到着しました。
 その後、地中海戦隊に所属し、1893年10月13日〜27日に、フランスのツーロンを訪問しました。これは、1891年のフランス艦のクロンシュタット訪問への返礼でした。
  日清戦争発生後、極東に赴き、1895年4月28日長崎到着、日本に対する外圧をかけ、三国干渉の成立を助けました。
  その後、1896年末まで太平洋艦隊に在籍し、長崎などには良く入港していたようです。
  1897年、地中海に向かい、クレタ島にで発生したオスマン・トルコの支配に対するギリシア人の反乱に対するロシアの介入任務に就きました。
  1898年4月にはバルト海に戻り、1899年から修理に入り、1900年〜1901年に改装を行いました。
  その後、再び1901年9月に地中海に赴き、1904年中頃まで地中海戦隊に所属しました。

  日露戦争勃発後、第3太平洋艦隊旗艦として、ネボガトフ少将(Rear Admiral N. I. Nebogatov)が座乗、1905年2月15日にリバウを出発、太平洋への回航の途に就きました。
  1905年5月9日、カムラン湾にてロジェストヴェンスキー中将(Vice Admiral Z. P. Rozhestvenskii)指揮する第2太平洋艦隊と合流、第2太平洋艦隊第3戦艦戦隊に編入され、その旗艦となりました。
  1905年5月27日、日本海海戦において、日本海軍の砲撃により、30.5cm砲弾1発、20.3cm砲弾2発、15.2cm砲弾2発を受け小破、5名戦死、35名負傷の損害を受けました。
  翌1905年5月28日、残存艦隊の旗艦として、他艦と共に竹島沖で日本海軍に降伏しました。日本海軍による捕獲後、佐世保に回航、6月6日、二等戦艦壹岐、12月12日、一等海防艦壹岐となりました。
  ロシア海軍では、1905年9月13日に除籍されています。

  その後、横須賀工廠で修理と改装が行われ、1906年2月修理完了、2月12日、韓国方面の警備に出動、その後、韓国と北清方面の警備任務に就きました。ただ、既に旧式で戦力価値乏しく、現役任務には長く留まりませんでした。
  1906年〜1907年以降には呉軍港に繋留され、定繋練習艦となっていましたが、1911年、一等海防艦鎮遠と交代して横須賀で砲術学校と海兵団の練習艦となり、その陸岸に繋留されました。
  1915年5月1除籍され、10月3日、伊勢湾外で、巡洋戦艦金剛、比叡の実艦的として沈没しました。

  壹岐が転覆沈没する場面はフィルムに撮影され、日本海海戦25周年の1930年、海軍省広報映画「此一戦」(伊藤大輔監督)に使用されました。


◎総論
  インペラトール・アレクサンドル2世級戦艦は、所謂“戦艦”が成立する前の世代の装甲艦でした。基本的な要求性能はドイツやデンマークの保有する装甲艦に対抗できる戦力を持ち、小型で航洋性の高い艦でした。砲塔形式は1番艦ではバーベット装備、2番艦では不完全ながら砲塔装備と装備形式が違い、その他船体の細部にも多くの違いがあり、準同型艦と言った方が良いと思われます。また、帆装を残した最後の世代のロシア戦艦でした。
  建造時の試行錯誤、様々な案の検討は、装甲艦の形式が定まっていない次期であるから良くあることではありますが、2番艦のインペラトール・ニコライ1世の建造決定経緯には、やや不透明な部分があるのは事実です。
  2隻とも20世紀初頭に改装されていましたが、日露戦争当時には既に旧式であり、戦力価値が少ない艦となっていました。日本海軍に捕獲され、帝国海軍籍に編入された壹岐−インペラトール・ニコライ1世−も長く現役任務に留まることなく、定繋練習艦として使われ、最後は実艦的として処分されました。
  ただ、本来要求された性能は十分に満たしており、高い航洋性を生かして遣外任務にも積極的に参加し、大いにロシア海軍の役に立ったのは事実です。軍艦とは戦時のみに役立つものではなく、平時にも役に立つべきものですから、その観点からすると、この級は良く活動したと言えるでしょう。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。


   ◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「German Warships 1815-1945 Volume One:Major Surface Vessels」 出版社 CONWAY
・「Battle Ships of World War 1」 出版社 Arms and Armour Press
・「Броненосец Император Александр II」 出版社 Корабли и сражения
・「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍艦艇写真集 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 ダイヤモンド社
・「日露海戦記 全」 出版社 佐世保海軍勲功表彰會
・世界の艦船別冊NO.391「日本戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.500「日本軍艦史」 出版社 海人社
・「日露戦争」1〜8 児島襄著 出版社 文藝春秋 文春文庫
・歴史群像シリーズ「日本の戦艦 パーフェクトガイド」 出版社 学習研究社
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 上」出版社 グランプリ出版
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 下」出版社 グランプリ出版



  艦名のロシア語発音及び艦名の由来につきましては、本ホームページからもリンクさせていただいている、大名死亡様のホームページ、「Die Webpage von Fürsten Tod 〜討死館〜」を参考にさせていただいております。
  詳しくは、次のリンクをご参照下さい。

日本海海戦に参加したロシヤ艦名一覧

  また、資料の内、「Броненосец Император Александр II」 出版社 Корабли и сраженияは、ホームページ、三脚檣の管理人、新見志郎樣よりお貸しいただきました。厚く御礼申し上げます。



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