ロシア海軍 戦艦ガングート




  戦艦ガングートは、バルト海艦隊用に、ドイツやデンマークの装甲艦に対抗するために建造された艦で、先に建造されたインペラトール・アレクサンドル2世級の縮小版とも言うべき戦艦でした。単艦のみの建造で、同型艦は持ちませんでした。
  竣工後わずか3年で座礁沈没したため、活動も活発ではありませんでしたが、当時のバルト海艦隊が必要とした“小型戦艦”の能力を過不足無く備えた戦艦でした。
  本稿では、戦艦ガングートの建造の経緯から、性能、経歴を簡単に調査してみました。


◎艦名の由来
  2艦の艦名の由来は、次の通りです。

・ガングート Gangut Гангут
  北方戦争における、ガングートの海戦。(1714年)スウェーデンに対して勝利した海戦。
  この時のロシア艦隊を率いた提督がゲネラル・アドミラル・アプラクシン General Admiral Apraksin Генерал Адмирал Апраксинでした。


◎性能
建造:ニュー・アドミラルティ工廠(サンクト・ペテルブルグ)
設計排水量:6,592t
実際の排水量:7,142t(1894年、公試時)
船体寸法:
 水線長:88.30m 全幅:18.90m 計画吃水:6.40m 実際の吃水6.99m
主缶:円缶8基
主機/軸数:三気筒直立三段膨張機械2基、2軸推進
機関出力:計画6,000hp 計画過負荷全力9,500hp 実際5,969hp
速力:計画15ノット 実際13.89ノット
燃料搭載量:552t
航続距離:2000浬/10ノット
兵装:30.5cm30口径砲1基を装甲フード付き前部バーベットに装備
    22.8cm35口径単装砲4門
    15.2cm35口径単装砲4門
    47mm43口径単装砲6門
    37mm5銃身ガトリング砲4門
    37mm23口径単装砲10門     陸戦用63.5mm19口径砲2門
    38.1cm水上魚雷発射管6門
防御:装甲材質 垂直防御:複合装甲 甲板装甲:軟鋼
    主舷側装甲/機関区画406mm(下部に向け203mmにテーパー)
    主舷側装甲/機関区画から前方へ356mm〜305mm(下部に向けテーパー、厚さ178mm〜152mm)
    主舷側装甲/機関区画から後方へ356mm〜305mm(下部に向けテーパー、厚さ178mm〜152mm)
    装甲横隔壁/シタデル前方241mm
    装甲横隔壁/シタデル後方216mm
    上部舷側装甲127mm
    主砲バーベット229mm〜179mm
    主砲バーベットの装甲フード102mm
    22.8cm35口径単装砲ケースメイト203mm
    15.2cm35口径単装砲砲口無防御
    司令塔 前部のみ254mm 天蓋不明 交通筒装甲無し
    防御甲板63mm(2枚で構成)
乗員:士官20名 兵400名


◎建造経緯
  戦艦ガングートは、インペラトール・アレクサンドル2世級戦艦の次にバルト海艦隊用に計画された戦艦でした。1887年7月16日、海軍省長官シェスタコフ大将(Admiral Shestakov)は、次期戦艦の発注を行いました。シェスタコフ大将は、インペラトール・アレクサンドル2世級は多くの変更(その中には、彼自身の指示も含まれています)により排水量が大きくなりすぎていると考えていました。
  新戦艦の仕様は、1887年11月29日に発表されました。ここで、装備として指定された砲は22.8cm35口径砲でした。この砲は、仮想敵であるドイツ海軍の全ての艦の装甲を想定された戦闘距離で貫通する威力を持ち、且つ複雑な水圧式の砲架を必要としない点が評価されました。副武装としては、15.2cm35口径砲が指定されました。
  吃水は22フィート(6.71m)と指定されました。これは、リガ湾のムーン水道など、バルト海に存在する浅い水道を問題なく通過出来る吃水でした。航続距離はムーン水道に進出し、14〜15ノットで200浬の距離を無給炭で汽走で帰投出来る能力が求められました。
  航洋性は、基本的にはバルト海内での使用に限り、必要な場合に地中海や太平洋に派遣出来る程度で良いとされました。

  1888年1月、海軍科学技術委員会はこれらの仕様に応募して来た3つの設計を検討しました。造船官グリャーエフ(E. E. Guliaev)、サンクト・ペテルブルグの上級の造船官スボーティン(N. A. Subbotin)、フランコ・ロシア重工のデュ・ビュイ(P. K. Diu-Biui)の設計でした。
  3つの設計案の排水量は6,400t〜6,570tでした。
  グリャーエフの設計は、6門の22.8cm35口径砲を、2門を艦首バーベットに、4門を装甲ケースメイトの4隅に設置していました。これは、インペラトール・アレクサンドル2世級戦艦に類似した設計でした。
  スボーティンの設計は、30.5cm30口径砲を2門、艦の前後のバーベットに1門づつ配置した設計でした。
  デュ・ビュイの設計は、30.5cm30口径砲を2門、艦の前部のバーベットに装備した設計でした。
  副砲の15.2cm35口径砲は、グリャーエフとスボーティンの設計では4門、デュ・ビュイの設計では8門でした。
  舷側装甲の最大厚さは、グリャーエフの設計が406mm、スボーティンの設計が305mm、デュ・ビュイの設計が356mmでした。
  速力は、全ての設計が14ノットでした。石炭搭載量は、グリャーエフの設計が552t、スボーティンの設計が336t、デュ・ビュイの設計が250tでした。
  海軍科学技術委員会は、グリャーエフの設計が一番仕様に合っているとし、小さな修正を加え、1888年7月18日にこれを選定しました。排水量は6,592tとなり、要求より多少大きくなっていました。

  艦の建造は、サンクト・ペテルブルグのニュー・アドミラルティ工廠で開始されました。そして、いつものように、建造中の夥しい設計変更がありました。
  最も重要な変更は、艦前部のバーベット装備の22.8cm35口径砲2門が、装甲フード付きの30.5cm30口径単装砲1門に変更されました。305cm30口径砲の砲架の設計は1891年5月まで完成せず、艦は進水後1年建造が停止していました。その他、排水装置の発注の遅れがありました。
  当初の設計では、2本のマストと2本の煙突を持つ予定でしたが、前檣1本と煙突1本に変更されました。また、船体は3フィート(0.915m)延長されました。
  これらの変更のため、建造作業は遅れ、1893年10月12日まで、艦の受領公試が実施できませんでした。

  公試の結果、様々な問題が判明しました。航洋性は不足しており、長距離の航海に向かないと報告されました。荒天時に艦首を波に突っ込みやすく、高い乾舷と浅い吃水により、強風時に艦位を維持するのが難しいとされました。
  しかし、最も不吉な問題とされたのは、 水防隔壁の弱さ、ハッチとドアの周囲の防水ゴムのガスケットの欠落、多くの隔壁に見られた抜かれて塞がれていないリベットの跡で、防水性が不足している点でした。
  艦は約600t重量超過で、吃水は2フィート3インチ(0.7m)増加していました。これは、主舷側装甲の水没を招きました。

  これらの問題を抱えながら、戦艦ガングートは、1894年4月に竣工しました。

ロシア海軍 戦艦ガングート(1894年)
ロシア海軍 戦艦ガングート(1894年)
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎特徴
・艦型
  船体の特徴は、明らかに戦艦インペラトール・アレクサンドル2世級の縮小版でした。艦首には甲板で保持された衝角を持っていました。
  計画排水量でのメタセンター高さは0.90mでしたが、排水量の増加により、0.8845mに悪化していました。
  煙突から後部の上部構造物には背の高いボートダビットと多くの艦載艇が並んでおり、艦の偉容を増していました。
  また、戦艦インペラトール・ニコライ1世のように、艦尾まで伸びた上部構造物と、広い提督用居室を持っていました。艦尾には、埋め込み式のスターンウォークが設置されていました。

ロシア海軍 戦艦ガングート 上甲板武装配置図。
ロシア海軍 戦艦ガングート 上甲板武装配置図。
艦首と艦尾の15.2cm35口径砲、艦中央ケースメイトの22.8cm35口径単装砲の配置が分かる。
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


・武装
  オブコフ式30.5cm30口径主砲は、側面が傾斜して、上面が平らな装甲フード付きの前部バーベットに1門装備されており、最大仰角15度、最大俯角2度でした。主砲は全周旋回範囲で装填が可能であり、発砲速度は4〜5分/発でした。この砲は、衝角突撃の際などに、敵艦の最も重装甲の部分に発射するとされました。

  4門の22.8cm35口径単装砲は、速射砲でありませんでした。砲はケースメイトの4隅に装備されており、片舷2門両舷計4門でした。
  前後部の砲は直前方、直後方に発砲可能でした。射界は110度でした。
  発砲速度は1〜2分/発でした。

  4門の15.2cm35口径単装砲は、艦首主砲前の船体両脇に片舷1門両舷計2門、艦尾スターンウォーク前に片舷1門両舷計2門が砲口を設けて装備されており、速射砲でありませんでした。
  前後部の砲はそれぞれ直前方、直後方に発砲可能でした。射界は108度でした。
  発砲速度は30秒/発でした。

  6門の47mm43口径単装砲は、ケースメイト上の上部構造物に片舷2門両舷計4門、後部15.2cm35口径砲の上の上部構造物に片舷1門両舷計2門装備されました。。
  4門の37mm5銃身ガトリング砲と2門の37mm23口径単装砲は、前檣の周辺の上部構造物に配置されました。前檣のファイティングトップ上には37mm23口径単装砲8門が取り付けられました。
  また、陸戦用63.5mm19口径砲2門も必要な場合、上部構造物に取り付けられるようになっていました。

  38.1cm水上魚雷発射管は、艦首に1門装備、舷側に片舷2門両舷計4門、旋回式のものが22.8cm35口径砲の直下に装備、艦尾に1門装備、総計6門が装備されました。

  また、主砲弾火薬庫の前に、20発の機雷を装備出来ました。

・防御
  戦艦ガングートの装甲材質は、垂直防御は複合装甲、甲板装甲は軟鋼でした。
  舷側装甲は193フィート(58.865m)の長さがあり、7フィート(213.5cm)の木製の背材を持ち、7フィートの高さがありました。設計排水量では3フィート(91.5cm)が水上に出ている予定でしたが、排水量の増加により、実際はほぼ水没、満載状態だと完全に水没してしまいました。
  機関区画脇の主舷側装甲の装甲厚は406mmで、下部に向け203mmにテーパーしていました。
  機関区画から前方の主舷側装甲は、356mm〜305mmに減厚されており、下部に向け178mm〜152mmにテーパーしていました。
  機関区画から後方の主舷側装甲は、356mm〜305mmに減厚されており、下部に向け178mm〜152mmにテーパーしていました。
  シタデル前方の装甲横隔壁の装甲厚は241mm、シタデル後方の装甲隔壁は216mmでした。
  上部舷側装甲は22.8cm35口径砲ケースメイトと舷側装甲の間にあり、63フィート(19.215m)の長さがありました。装甲厚は127mmでした。
  主砲バーベットの装甲厚は、229mm〜179mmでした。
  主砲バーベットの装甲フードの装甲厚は、102mmで、戦艦ドヴィエナザット・アポストロフや戦艦インペラトール・アレクサンドル2世の半球形のフードと違って、上面が平らで、側面が斜めの形になっていました。
  22.8cm35口径単装砲ケースメイトは上部舷側装甲の上に位置し、8角形全体が203mmの装甲で覆われていました。ケースメイトに砲の前の部分的にしか装甲を持たなかった戦艦インペラトール・アレクサンドル2世級より、この点では改良されていました。
  艦首と艦尾の15.2cm35口径単装砲の砲口は無防御でした。
  司令塔は前部のみに設置され、側面の装甲厚は254mmでした。天蓋の装甲厚は不明です。交通筒に装甲はありませんでした。
  防御甲板は装甲厚63mmで、甲鈑2枚で構成されていました。装甲2枚重ねの方が柔軟性があり、浅い角度の命中弾に対する靱性が高いと判断されたからでした。

  総合的に見て、上部舷側装甲の設置とケースメイトの完全装甲化により、戦艦インペラトール・アレクサンドル2世級より防御構造は改善されていますが、排水量の増加による主舷側装甲帯の水没は、防御上の重大な弱点となりました。

・機関
  缶は、8基の円缶が装備されました。缶室は横隔壁と中央の縦隔壁で4分割されており、1缶室に2基づつ缶が配置されていました。蒸気性状は9.1atu(1atu=1.03kg/cu)でした。
  機械は、バルチック造船所で製作されました。機械室は缶室の後ろにあり、中央横隔壁で区切られた2室に、機械が1基ずつ配置されました。設計馬力は、自然通風状態で6,000hp、強制通風状態で9,500hpの計画でした。
  推進軸は2軸でした。
  ガングートは1893年10月12日に公試を実施しました。結果は期待はずれで、機関出力は5,282.5hp、速度は13.78ノットしか出ませんでした。
   公試は1894年9月24日にもう一度実施されました。排水量は7,142t、吃水23フィート(7.015m)で、缶は蒸気性状8.6atuを発揮しました。機関出力は5,969.6hpで、平均5,551.6hpでした。速力はまたしても要求に達さず、最大13.89ノット、平均13.46ノットでした。
  ただ、機械は信頼性が高く、振動も無く、良く作動しました。

・水中防御
  戦艦ガングートの船体は、14枚の横隔壁によって細分化されていました。二重底はフレーム20からフレーム69の間に設置されていました。排水システムは、メインの排水管が艦を縦通しており、そこからサブの排水管が派生するシステムとなっていました。
  ただ、艦は砲の発砲の衝撃で、隔壁の接手が外れたり、水密隔壁や水密ドア、水密ハッチの水密が不完全だったりと、水防上かなり問題のある状態でした。
  1897年、全てのバルト海艦隊の艦で排水システムのテストが行われ、戦艦ガングートでは6月に実行されましたが、非常に憂慮すべき結果が出ました。 排水能力が計画では65.9t/分の筈が、24.5t/分の能力しかない事実が判明したのです。原因は排水管の直径が小さいことでした。
  この問題は、艦が次にクロンシュタットでドック入りした際に修正される予定となりましたが、戦艦ガングートはその前に座礁事故で沈没し、結局その機会は訪れませんでした。


◎提案された改装
  戦艦ガングートは、排水量の増加による吃水の増大、主舷側装甲帯の水没、水密の不完全など、竣工時から多数の問題を抱えていました。これらの修正が試みられましたが、実施されずに終わった改装もありました。

  主舷側装甲帯の水没については、石炭搭載量と装備品を規定より減らすよう命令を出し、排水量を減少させることで暫定的に対応しました。しかし、それは一時的な処置で、海軍科学技術委員会は、根本的な解決を検討しました。
  1894年4月28日、委員会は艦の水密区画を改善するための様々な方法について議論しました。マカロフ少将(Rear Admiral S.O.Makarov)は、艦の前部と後部の中央に縦隔壁を加え、水密区画を増やすことと、22.8cm35口径砲と15.2cm35口径砲の砲口のカバーを補強することを提案しました。この改善工事は、1894年〜1895年の冬に艦がレヴァル(現タリン)に有った際に、幾つかがどうにか実行されました。

  その1年後、海軍科学技術委員会は、艦の排水量の減少の検討を行いました。そこでは、装甲を機械で削って厚さを減らすか、またはより薄い厚さで強度を出せるハーヴェイ甲鈑に交換することが提案されました。主舷側装甲の406mmの部分を228.6mmに、ケースメイトの203mmの部分を152mmに交換することが考えられました。これは、374tの重量の節約になるとされました。
  また、武装の変更も検討されました。艦首バーベットの30.5cm30口径砲を新型の25.4cm砲に、22.8cm35口径砲を新型の15.2cm45口径速射砲に換装し、機雷を搭載しないよう改造することが検討されました。また、必要のない艦載艇の陸揚げも考えられました。
  しかし、ロシアの工業力は現在進行中の建艦だけで手一杯になっており、これらの改装を行う余裕はなく、結局実施されませんでした。

◎経歴
  1888年11月10日建造開始、1889年6月1日起工、1890年10月18日進水。1892年10月26日、艤装の為にクロンシュタットに自力で移動しました。1893年7月15日に公試を開始しましたが、機関の欠陥のために中止されました。再公試が1893年10月に行われ、1894年6月に艦隊に加わりました。

  1896年9月、ビョルコ水道(Bjorko Sound)で岩礁に船底をこすり、排水システムが故障したため、浸水のため一次沈没の危険にさらされましたが、帆布により破孔を塞ぎ、何とか沈没を免れました。その後、ピョートル・ヴェリキィに護衛されて、自力でクロンシュタットに帰還しました。

  1897年6月24日、ブイボルグの近くで艦隊で射撃演習中、15:40に海図にない岩礁に艦底をこすり、浸水が始まりました。ポンプによる排水、防水マットの外舷への巻き付け、破孔への木材や布切れの詰め込みによる閉塞が行われましたが、浸水は全艦に広がり、缶は左舷に傾斜していきました。二等巡洋艦アフリカにより、転覆しないで着底出来る浅瀬への曳航も考えられましたが、艦が急激に転覆する可能性が高かったため、中止されました。20:20までに艦を救う見込は無くなり、艦隊司令長官トゥィルトフ大将(Admiral Tyrtov)は、艦の放棄を命令しました。
  20:30に船の文書、チャート類、及び貴重品がアフリカに移されました。乗組員は他の艦艇から派遣された艦載艇に乗り移り、21:00、艦旗が降ろされました。21:05には補助缶が停止し、排水が不能になりました。艦長は21:40に、他の乗組員全員の退艦を見届けた後、艦を離れました。
  戦艦ガングートは、その直ぐ後に、左舷に転覆して着底しました。転覆までの時間が長かったため、死者は一人も出ませんでした。

  その後、事故の原因調査が行われ、海難審判が開かれましたが、艦の重量過剰、水密性の不足、排水能力の不足が主たる原因とされました。要するに、以前より改善されるべきと分かっていた問題によるもので、艦の損失は止めようがなかったとされました。海難審判で有罪にされたものは艦長に無断で右舷主砲弾火薬庫に注水を実施した機関長のみで、その他の艦の幹部は全員無罪になりました。その機関長も、懲罰は労働大隊に5日間派遣されただけでした。

  その後、1897年10月12日、スウェーデンのネプチューン社が戦艦ガングートのサルベージを950,000ルーブルで請け負いました。ネプチューン社の計画では、ガングートを直立位置に引き戻し、ケーソンを艦の破孔の周辺に構築してから排水して浮揚する予定でした。作業は1898年には実施され、1898年8月3日までに戦艦ガングートは45度まで傾斜を引き起こされていました。しかし、船体の下部に付着した泥と、冬期の間の凍結により作業は遅れ、 1899年6月17日までには船体は泥に堅められた状態になってしまいました。
  ここで、ネプチューン社は計画を変更し、ケーソンを構築せず、船体が水中にある間に破孔を閉塞し、空気を注入して船体を浮揚することを計画しました。しかし、この時点で既に契約金額を576,000ルーブルオーバーしており、艦の状態を絶望視していたロシア海軍はサルベージ計画をキャンセルしました。

  戦艦ガングートは、1899年8月30日に除籍されました。
  最終的に、1901年に爆薬で、ガングートの残骸の水上に出ている3つの部分が爆破されました。以後、それ以上の処理はされませんでした。


◎総論
  戦艦ガングートは、バルト海艦隊用に、ドイツやデンマークの装甲艦に対抗するために建造された小型装甲艦でした。
  当時、まだ仮想敵であるドイツ海軍は海防海軍の域を出ず、大規模な建艦を実施する前でした。ロシア海軍はバルト海防衛用には小型装甲艦で事足りると考えており、予算の節約のため、戦艦ガングートはインペラトール・アレクサンドル2世級戦艦の縮小版として建造されました。そのため、インペラトール・アレクサンドル2世級戦艦より航洋性に劣る海防戦艦的存在となり、バルト海外での行動はあまり行いませんでした。
  装甲様式はインペラトール・アレクサンドル2世級戦艦より改良され、上部舷側装甲と完全なケースメイト装甲が設けられましたが、排水量の大幅なオーバーにより主舷側装甲帯が水没し、防御上の大きな問題となりました。また、艦の水密性にも問題がありました。排水能力も設計値以下でした。ロシア海軍もこの問題を認識しており、改善の計画が立てられましたが、造船能力が既存の建艦計画で限界に達していたため、部分的にしか改善が行われず、結果的に座礁時に艦を救うことは出来ませんでした。結局の所、この艦の欠点は、当時のロシアの工業力の未熟と限界を表していると言えるでしょう。
  その後もロシア海軍は戦艦ナヴァリンの計画時、インペラトール・アレクサンドル2世級戦艦の縮小版を再度計画しますが、ドイツ海軍の強大化の始まり−ブランデンブルク級戦艦の建造−を受けて、中型の戦艦に計画が変更されました。この次の戦艦シソイ・ヴェリキィ以後バルト海艦隊用に小型戦艦が計画検討される事はありませんでした。

  戦艦ガングートは、実際に建造された、最後のロシア海軍バルト海艦隊用小型戦艦でした。
  また、戦艦ガングートの座礁沈没により、水密隔壁の試験規則がより厳重になりました。それはペトロパヴロフスク級戦艦から採用されました。その点では、ロシア戦艦の発展に寄与したと言えます。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。


   ◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社




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