ロシア海軍 ボロジノ級戦艦
及び日本海軍 戦艦石見




  ボロジノ級戦艦は、ロシア海軍で最多の同級艦数を誇りますが、全て日露戦争と第一次世界大戦でロシア海軍の手から失われるという不幸なクラスでもあります。設計は先にフランスで建造されたツェザレヴィチに範を取っていますが、完全な同型艦に出来ない事情があり、ロシア独自の設計となりました。
  本稿では、開発経緯、艦歴などを簡単に追ってみようと思います。


◎艦名の由来
・ボロジノ Borodino Бородино
  1812年にナポレオンのフランス軍とロシア軍が決戦を行った戦場。

・インペラトール・アレクサンドル3世 Imperator Aleksandr III Император Александр III
  日露戦争当時の皇帝ニコライ2世の前の代の皇帝。在位1881年〜1894年。

・オリョール Oryol Орёл
  鷲の意味。東ローマ帝国から受け継いだロシア皇帝の紋章。

・クニャーシ・スヴォーロフ Kniaz' Suvorov Князь Суворов
  スヴォーロフ公、エカテリーナ2世時代からナポレオン戦争初期にかけての将軍。七年戦争からの古い戦歴を誇りました。エカテリーナ2世の第2次トルコ戦役ではキンブルンの防衛戦で奮戦し、フォクサーニとリムニク川の会戦でオスマン軍を破り、イスマイルの要塞を攻略するなど数々の大功を挙げました。

・スラヴァ Slava Слава
  栄光の意味。


◎性能
建造:ボロジノ ニュー・アドミラルティ工廠(サンクト・ペテルブルグ)
    インペラトール・アレクサンドル3世 バルチック造船所(サンクト・ペテルブルグ)
    オリョール ガレルニィ島工廠(サンクト・ペテルブルグ)
    クニャーシ・スヴォーロフ バルチック造船所(サンクト・ペテルブルグ)
    スラヴァ バルチック造船所(サンクト・ペテルブルグ)
設計排水量:13,516t
実際の排水量:ボロジノ14,091t、インペラトール・アレクサンドル3世14,181t、オリョール14,151t
        クニャーシ・スヴォーロフ公試省略によりデータなし、スラヴァ14,415t
垂線間長:114.4m 水線長:118.7m 全長:121.00m
全幅:23.2m 吃水:設計7.9m 実際8.24m〜8.90m
主缶:ベルヴィール缶20基
主機/軸数:四気筒直立三段膨張機械2基、2軸推進
設計機関出力:ボロジノ16,300hp、その他の艦15,800hp
実際の機関出力:ボロジノ15,012hp、インペラトール・アレクサンドル3世16,225hp、オリョール14,176hp
          クニャーシ・スヴォーロフ15,574hp、スラヴァ16,378hp
速力 計画:18ノット
実際の速力:ボロジノ16.20ノット、インペラトール・アレクサンドル3世17.34ノット、オリョール17.50ノット
        クニャーシ・スヴォーロフ17.2ノット、スラヴァ17.64ノット
燃料搭載量 ボロジノ:石炭 常備787t 満載1,235t
        その他の艦:石炭 常備787t 満載1,350t
航続距離 ボロジノ 常備2,370浬/10ノット その他の艦 常備2,590浬/10ノット 満載約5,000浬/10ノット
兵装:30.5cm40口径連装砲塔2基
    15.2cm45口径連装砲塔6基
    75mm50口径単装砲20門
    47mm43口径単装砲20門
    37mm23口径単装砲2門
    マキシム7.62mm機関銃4挺
    63.5mm19口径バラノフスキー陸戦砲2門
    38.1cm水上魚雷発射管2門 38.1cm水中魚雷発射管2基
    機雷50発装備可能
防御:垂直防御はクルップ浸炭甲鈑、甲板防御はニッケル・クローム甲鈑
    主舷側装甲/機関区画 194mm(下部に向けて152mmにテーパー)
    主舷側装甲/弾火薬庫脇 165mm
    主舷側装甲/船体前後部 145mm
    上部舷側装甲/機関区画、弾火薬庫脇 152mm
    上部舷側装甲/船体前後部 102mm
    75mm単装砲ケースメイト装甲/艦首部、船体中央部、艦尾部 76mm
    主砲塔/側面 254mm
    主砲塔/天蓋63mm
    主砲塔バーベット 前部砲塔/メインデッキ上 前半178mm 後半229mm
    主砲塔バーベット 前部砲塔/メインデッキ下 102mm
    主砲塔バーベット 後部砲塔/メインデッキ上 203mm
    主砲塔バーベット 後部砲塔/メインデッキ下 102mm
    副砲塔/側面 152mm
    副砲塔/天蓋 30mm
    副砲塔/バーベット 127mm
    煙突基部 装甲コーミング/なし(船体中央部75mm単装砲ケースメイト装甲で代用)
    メインデッキ/船体中央部75mmケースメイト上面 25mm
    防御甲板/上部 船体中央部75mm単装砲ケースメイトの外51mm
               船体中央部75mmケースメイトの内側32mm
    防御甲板/下部 38mm
    水雷防御縦壁 38mm
    47mm砲、37mm砲 非装甲
    司令塔 側面 203mm、天蓋 37mm、交通筒 127mm
乗員:設計時 士官28名 兵754名 実際826名〜846名


◎建造経緯
  極東配備用に建造された、ペレスヴィエト級戦艦の戦力が日本海軍のイギリス製一等戦艦に劣る事実から、1897年から1898年にかけて、ロシア海軍の海軍科学技術委員会で新しい戦艦の検討が開始されました。検討の結果は、排水量12,000t、30.5cm40口径連装砲塔2基、15.2cm45口径単装砲12門、速力18ノット、航続距離5,000浬/10ノット、艦底の銅板被覆は不要、極東のドックに入渠可能、スエズ運河を常備状態で通過可能という内容で、この仕様でアメリカのクランプ造船所で建造されたのが戦艦レトヴィザン、フランスのラ・セーヌ造船所で建造されたのが戦艦ツェザレヴィチでした。
  この2隻の内、ロシア海軍は次期戦艦として、戦艦ツェザレヴィチのライセンス生産を行う契約を結んでいました。フランス語で作成された契約書には、戦艦ツェザレヴィチそのままの建造を行って良いとされていましたが、ロシア国内の重工業の発達の問題により、そのままの形での建造は技術的に出来ないと判断されました。
 ニコライ・エヴラムピエヴィチ・クテイニコフ造船総監(N. E. Kuteinikov Николай Евлампиевич Кутейников)によると、次の2点が原因でした。

・ロシア製の機関はフランス製のそれより重量がかさむと予想されること。
・ロシア製の主砲塔は、フランス製の主砲塔より大型で、重量がかさむと予想されること。

  そこで、海軍科学技術委員会は、1898年7月19日、造船官スクヴォルツォフ(D. V. Skvortsov Д.В. Скворцов )に、ラガーヌの設計した戦艦ツェザレヴィチと同じ速度、吃水、砲熕兵装、装甲、及び5,500浬の航続距離に必要な燃料搭載量を持った戦艦の設計を命令しました。そのためには、戦艦ツェザレヴィチより、排水量が増加してもかまわないとされました。
  スクヴォルツォフは手早くデザインスケッチをまとめ、8月9日には海軍科学技術委員会に送りました。
  それは、排水量13,225t、戦艦ツェザレヴィチより船体が長く、幅が狭い設計でした。また、機関馬力も16,600hpに増えていました。一番の特徴は、戦艦ツェザレヴィチの片舷3基の連装副砲塔の内、中央のものを廃し、この部分に15.2cm単装砲を2門ケースメイト装備にした点でした。
  これには、上級造船官エラスト・エヴゲーニエヴィチ・グリャーエフ(E. E. Guliaev Эраст Евгеньевич Гуляев)が、ケースメイトの水線上高さが11フィート(3.355m)しかない点から、反対しました。そのため、副砲は戦艦ツェザレヴィチと同じ片舷3基の連装副砲塔に戻されました。そして、この設計は設計継続の価値があると、グリャーエフを含む造船官達に認められました。
  その後、その他の業務などが重なり、海軍科学技術委員会は、スクヴォルツォフの設計を、ロシア海軍省長官、トゥイルトフ中将(Vice Admiral P. P. Tyrtov Павел Петрович Тыртов)が督促するまでそのままの状態で放置していました。12月に入り、戦艦オスリャービャの進水が間近になり、ニュー・アドミラルティ工廠の造船台が空く状況となり、海軍技術委員会は、スクヴォルツォフの設計の戦艦2隻の起工を勧告しました。
  この時点までに、スクヴォルツォフの設計には、対抗案が現れていました。リバウのバルチック造船所が、独自に3つの設計案をまとめていました。その内の一つは、設計жと呼ばれ、造船官オッフェンベルク(V. Kh.Offenberg В. X. Оффенберг)による設計で、より詳細に開発する価値があると認められました。設計жは、スクヴォルツォフの設計と同じように、ツェザレヴィチより船体が長く、幅が狭い設計でした。

  1899年2月21日に海軍科学技術委員会はスクヴォルツォフの設計とオッフェンベルクの設計を比較検討しました。しかし、この会議では、 どちらの設計を選ぶか結論を出さず、両者にツェザレヴィチでは無防御だった船体の75mm50口径単装砲の砲口を装甲ケースメイト化するよう指示しました。そのための代償重量として、舷側装甲の減厚を許可しました。これにより、主舷側装甲は最大厚203mmに減らされることとなりました。
  スクヴォルツォフとオッフェンブルクは、指示に従い、改設計を行いました。スクヴォルツォフの設計ではツェザレヴィチの船体両舷計14門、上部構造物に6門の配置だった75mm単装砲を全て船体に装備するとしました。艦首主砲塔前の片舷2門、船体中央部の片舷6門、艦尾の片舷2門、両舷計20門の75mm単装砲が76mmの装甲で覆われたケースメイトに納められました。また、75mm単装砲ケースメイトの装甲形状を工作が容易な平面にするため、舷側中央のタンブルホームを75mm単装砲ケースメイトの甲板の上部の船体から始まるように変更しました。艦首、艦尾のタンブルホームはそのまま上部舷側装甲の上から始まるようにされました。

  最終的に、1899年4月4日、海軍科学技術委員会により、スクヴォルツォフの設計案が採用されました。設計案は数日の内に海軍の最高責任者であるアレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公に裁可され、3隻がバルチック造船所、ニュー・アドミラルティ工廠ガレルニィ島工廠に発注されました。
  更に2隻の追加建造が構想されましたが、造船台が空くまで、それは保留と決定されました。実際、追加2隻の発注は、造船台が空いた1900年4月になってからになりました。これらの艦は両方ともバルチック造船所に発注され、造船所側は設計жの艦の建造を希望しましたが、結局スクヴォルツォフの設計案に小改良を加えた艦を建造されることとなりました。
  この一大建造工事に当たって、国内の工業力だけでは足りないことから、外国への資材発注が行われました。
  ボロジノとインペラトール・アレクサンドル3世のための鋼鉄鋳物のいくつかがオーストリア・ハンガリー二重帝国のスコダ社に注文されました。後の3隻用のクルップ浸炭装甲は、アメリカの製鉄会社に注文されました。

  戦艦ボロジノ、オリョールでは戦艦ツェザレヴィチのように下部防御甲板が90度下に曲がって水雷防御縦壁となっていました(別稿 ロシア海軍 戦艦ツェザレヴィチの防御図参照)が、バルチック造船所建造の3艦では、下部防御甲板に緩やかな舷側傾斜部が設けられ、水雷防御縦壁は下部防御甲板傾斜部に接続される形に変更されました。この変更は、工期の延長をもたらしました。
  その他、建造が始まってからの変更に、舷側の水上魚雷発射管の撤去、艦尾形状の変更、スチーム暖房の設置がありました。水雷防御網は、設計時には搭載されませんでしたが、1903年には装備が復活しました。
  また、建造中に排水量の予定超過が明らかになったため、主舷側装甲は203mmから更に194mmに減らされました。
  水雷防御縦壁についても、最近のフランス海軍の実験結果を見ると、効果があるかどうか疑わしいので、マカロフ中将(Vice Admiral S.O.Makarov)は水雷防御縦壁の廃止を主張しました。これは200tの重量を節約すると見られましたが、結局見送られました。

  インペラトール・アレクサンドル3世とオリョールでは、発電機は機械室に移設されました。これは、防御の強化に繋がりました。
  また、全艦にドイツのテレフンケン製の無線装置と、洋上で使用するスペンサー・ミラー式石炭補給装置(別稿のロシア戦艦 レトヴィザンを参照)が搭載されました。

  竣工までの間、オリョールでは大きな事故が発生しました。オリョールは装甲と砲の艤装のため、進水後1904年5月16日にクロンシュタットに送られましたが、装甲の取り付け準備のために左舷に取り付けられていた一時的な防水覆いをうっかり外してしまったため、左舷に浸水が始まりました。
  5月21日までに左舷への傾斜は24度に達しました。反対舷注水により、傾斜は15度に戻りましたが、艦は港の底に着底してしまいました。艤装の再開のためには、サルベージ作業が必要となりました。

  また、日露戦争の勃発は、艤装作業の加速をもたらしました。 実際ボロジノとクニャーシ・スヴォーロフは公式な公試を実施せず、オリョールは砲術公試を行えませんでした。このため、艦が実際に設計された性能を発揮できたか、公試の段階で是正されるべき欠陥が是正されていたかは不明です。

 5番艦のスラヴァに関しては、更なる極東への補強戦力と共に、1905年の夏に極東へ出発するよう予定されていました。しかし、日本海海戦におけるロシアの大敗北により、これは行われず、そのままバルト海艦隊の所属となりました。

  費用は、先行建造されたネームシップのボロジノのみ費用は14573,000ルーブルで、原型のツェザレヴィチの価格を超えていました。他の艦は全てツェザレヴィチより安く済みました。インペラトール・アレクサンドル3世は13979,000ルーブル、オリョールは13404,000ルーブル、クニャーシ・スヴォーロフとスラヴァは各13841,000ルーブルでした。

戦艦スラヴァ 竣工時
戦艦スラヴァ 竣工時
「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Pressより引用。


◎特徴
・艦型
  ボロジノ級戦艦は、それまでのロシア戦艦同様、完成後、4〜5%設計排水量排水量を超過していました。
  この状態では、通常搭載量なら大丈夫ですが、過搭載の場合、水面からの高さの低い中央部舷側の75mm単装砲口から浸水の危険があるとされました。
  実際、1903年10月6日のインペラトール・アレクサンドル3世の公試の際、取り舵15度を取ると、艦は急激に旋回し、傾斜は15度に達し、舷側の75mm単装砲ケースメイトから浸水しました。旋回半径は200ヤード(182.8m)で、360度旋回に掛かる時間は3分20秒(旋回開始時の速度は記録されていません)という結果が出ました。
 この過敏な旋回性の改善のため、海軍科学技術委員会は、艦尾のデッドウェイトのカッタウェィを埋めることと、ビルジキールの前方の太さを細くすることを勧告しました。

  一般に、欧米の文献や日本の文献では、ボロジノ級戦艦はトップヘビーで復原性が不足していると書かれている場合が多いですが、艦が通常搭載量の状態の場合、それ程トップヘビーの問題は発生しませんでした。13,516トンの設計排水量の通常搭載量のメタセンター高さ1.26mに対し、14,091tのボロジノでは1.14 m、14,181tのインペラトール・アレクサンドル3世では1.22 m でした。
  これを悪化させたのが、極東回航用の追加機材の搭載と、追加消耗品の搭載でした。
  極東への航海に出撃した際のボロジノの排水量は、追加の弾薬と石炭により約15,275tとなっており、メタセンター高さは0.76mに減り、吃水は8.9mに達していました。この状態では、艦の主舷側装甲帯は完全に水没していたと思われます。
  ここに、戦艦オリョールに同乗していた造船官ヴラジーミル・ポリイェフクトーヴィチ・コスチェンコ(V. P. Kostenko Владимир Полиевктович Костенко)は、オリョールの超過搭載の物品に関して、詳細な記録を残しています。
  追加機材は、船体164t、乗員増加による宿泊設備185t、熱帯用装備(絶縁材など) 135t、艦載艇とそれにまつわる道具一式50.5t、 マスト補強材29.3t、水雷防御網と追加の兵装33t、測距儀と光学式照準器14t、 無線装置6t、防舷材2.5t 機雷掃海装置一式、ブイなど、4.5t、合わせると635tでした。
  追加消耗品は、石炭370t(標準搭載量780tに対し1,150t)、缶水240t、艦の作業用の水40t、飲用水35t、 潤滑油 55t(標準搭載量10tに対し65t)、糧食110t(標準搭載量95tに対し205t)、 追加弾薬91t、 種々の消耗品184t、缶の火格子25t、合わせると1,150tでした。
  総計すると、追加の搭載量は 1,785tで、これは船の重心を上げ、吃水を増やし、メタセンター高さを減らし、復原性能を減らしました。
  インド洋にまたがる長い航海のためのマダガスカルを出発した時、艦の排水量は約16,800tに達していたと思われます。
 そして、日本海海戦の時には、約17,00tの追加搭載量があったと思われます。これは、艦の防御力と損傷時の予備浮力、復原性能に致命的な悪影響を与えました。
  それでも、極東への航海中、過積載状態でも、ボロジノ級戦艦は、他の艦に比べて、荒れた海でも良い航洋性を示したと言います。荒天でも、あまり横揺れせず、高い安定性を示したそうです。ただ、これはメタセンター高さが不足していたから、という可能性もあります。

  その他、各艦の個別の特徴は次の通りです。
  ボロジノとオリョールは、他のバルチック造造船の艦より、艦尾の傾斜が少ない形状になっていました。
  ボロジノにはファンネルキャップが装備されましたが、他の艦にはありませんでした。
  クニャーシ・スヴォーロフインペラトール・アレクサンドル3世は、煙突の間に背が高い羅針盤プラットフォームを持っていましたが、他の艦にはありませんでした。
  インペラトール・アレクサンドル3世を除く全艦は、舷側中央の75mm単装砲ケースメイト上の甲板が、後部甲板に繋がっていました。
  司令塔の周りのプラットフォームは、ボロジノのみ固定の囲いを持っていました。他の艦は、手摺が着いているだけでした。

・武装
  主砲塔は、ロシア戦艦標準のオブコフ式の30.5cm40口径連装砲塔2基で、レトヴィザンに積まれたものと同じ形式の砲塔で、ロシア国内で製造されました。
  主砲塔は全周装填が可能で、電力で操作され、最大仰角は15度、最大俯角は5度、発砲速度は設計では50秒/発でしたが、実際はもっと遅くなりました。
  インペラトール・アレクサンドル3世の砲術公試では発砲速度は105秒/発で、他の艦の平均は90秒/発でした。
  クニャーシ・スヴォーロフの主砲塔はプティロフスキー重工(Putilovskii Works Путиловский завод)で改良され、発砲速度は60秒/発に短縮されました。
  弾薬は砲毎に60発でした。

  15.2cm45口径連装砲塔は、タンブルホームの側部に片舷3基6門、計6基12門配置されました。
  最大仰角は20度、最大俯角は5度でした。発砲速度は10秒/発でしたが、実際はその半分程度の発砲速度でした。
  副砲の弾薬は、砲毎に180発でした。

  75mm50口径単装砲は、全てが船体の装甲化されたケースメイトに装備されました。前部メインデッキの砲門に片舷艦首2門、船体中央部の砲門に片舷6門、艦尾の砲門に片舷2門の両舷計20門が装備されました。これら船体の砲門は、艦首のものを除いて、非常に低い位置に装備されました。これは、装備位置が低い方が艦型の低い水雷艇の撃攘に有利であるという判断に基付いていましたが、傾斜時浸水の危険があり、海が少しでも荒れると使用不能になる欠点がありました。また、損傷して傾斜が発生した場合など、浸水の危険があったと思われます。
  船体装備の75mm50口径単装砲の副装備として、艦首に隠顕式探照燈が装備されていました。
  弾薬は砲毎に300発でした。

  47mm43口径単装砲は、20門が装備されました。この内4門は、艦載水雷艇に装備されました。しかし、写真から見ると、オリョールは船体に18門取り付けたようです。砲は、上部構造物に配置されました。
  全ての艦で、艦橋前のプラットフォームに2門、前部15.2cm連装副砲塔の前の上部構造物に片舷1門づつ計2門配置されました。
  ボロジノとオリョールでは、前檣の後ろの操舵室のウィングに片舷1門ずつ計2門が装備されていました。
  オリョールでは、更に操舵室のウィングの前に、片舷1門ずつ計2門装備されていました。
  クニャーシ・スヴォーロフ、インペラトール・アレクサンドル3世では更に片舷1門ずつ計2門の砲が司令塔の前のプラットフォームの前部に装備されていました。
  後檣の基部付近の上部構造物にに片舷3門ずつ計6門、その上のプラットフォームに片舷2門ずつ計4門装備されていました。
  弾薬は、砲毎に810発でした。

  37mm23口径単装砲は、2門が艦載カッター用に装備されました。4挺のマキシム7.62mm機関銃は、前後檣のファイティングトップに2挺ずつ装備されました。

  その他、63.5mm19口径バラノフスキー陸戦砲が陸戦用に装備されていました。

  魚雷兵装は38.1cm魚雷発射管4門でした。水上発射管が艦首と艦尾の2門、水中発射管が前部主砲弾火薬庫後ろの舷側に片舷1門両舷計2門、総計4門がが装備されていました。
  魚雷は水上発射艦用に4発、水中発射管用に6発が装備されていました。
  その他に、機雷50発を装備できました。機雷庫は、他の艦の例を考えると、前部主砲弾火薬庫の前にあったと思われます。

  探照燈は、前檣基部のウィングに片舷1基づつ計2基、後檣基部のプラットフォームに片舷1ずつ計2基、総計4基装備されました。

  射撃観測機材として、当初はリュージョリ・ミャキーシェフ測距装置(物体の高さを測り、測距する機材)が装備されていましたが、後にバー・アンド・ストラウド測距儀2基がとペレペルキン光学照準装置が装備されました。また、射撃指揮装置に1893/1894年型のガイスラー式射撃指揮装置が装備されました。
  しかし、マダガスカル出発後のバー・アンド・ストラウド測距儀の試験では、7300mから11,000mにかけて測距が変動する故障が発見されました。これが日本海海戦までに修理されたかどうかは不明です。

ボロジノ級戦艦戦艦 防御配置図
ボロジノ級戦艦 防御配置図。
装甲厚の表示がインチ表示で不正確であるが、装甲範囲は正確なので掲載した。
別稿、ロシア戦艦 ツェザレヴィチの防御配置図と比較すると、違いが良く分かる。
上部舷側装甲上の75mm単装砲ケースメイトの装甲に注目。
「Броненосецы Бородино」 出版社 Корабли и сраженияより引用。


ボロジノ級戦艦戦艦 オリョール 断面図
ボロジノ級戦艦戦艦 オリョール 断面図。
缶室の断面図。平面に変更された75mm単装砲ケースメイトの装甲形状、その上の甲板から始まるタンブルホームがよく見える。
下部防御甲板の傾斜と、それに接続された水雷防御縦壁が見える。
「Броненосецы Бородино」 出版社 Корабли и сраженияより引用。


・防御
  装甲防御には、垂直防御はクルップ浸炭甲鈑、甲板防御は旧式のニッケル・クローム甲鈑が使用されました。この点、装甲全てにクルップ甲鈑が用いられた戦艦ツェザレヴィチからの後退が見受けられます。これは、クルップ甲鈑の国内生産能力の不足(1898年より国内生産開始)によると思われます。
  主舷側装甲の高さは1.8mで、戦艦ツェザレヴィチより減高されており、設計排水量では、1.5mが水線下になる予定でした。
  機関区画脇の主舷側装甲は装甲厚194mmで、下部に向けて152mmにテーパーしていました
  弾火薬庫脇の主舷側装甲は装甲厚165mmでした。
  船体前後部の主舷側装甲は装甲厚145mmでした。
  機関区画、弾火薬庫脇の上部舷側装甲は、高さ1.65mで、やはりツェザレヴィチより減高されており、装甲厚は152mmでした。
  船体前後部の上部舷側装甲の装甲厚は102mmでした。
  総じて見ると、戦艦ツェザレヴィチで実現されていた重厚な舷側防御が装甲厚、装甲帯の高さ共にスポイルされてしまっていることが分かります。
  また、装甲の支持架の強度に問題があり、日本海海戦では、被弾によって装甲が貫通されなくても、装甲が内部に陥入し、浸水が発生しました。

  75mm単装砲ケースメイト装甲は艦首部、船体中央部、艦尾部共に装甲厚76mmで、12.7mmの前面シールドとと25.4mmの横隔壁で区切られていました。船体中央部のケースメイトは、中央縦隔壁を持ちませんが、戦艦スラヴァのみは取り付けられました。
  船体中央部75mmケースメイト上面(メインデッキ)の装甲厚は、25mmでした。

  主砲塔の装甲厚は、側面254mm、天蓋63mmでした。
  前部の主砲塔バーベットのメインデッキ上の部分の装甲厚は前半178mm、後半229mmでした。前半が薄いのは、同じ甲板の前方に、前部75mm単装砲ケースメイトの装甲があるので、それによる防御を当てにしているためと思われます。
  前部の主砲塔バーベットのメインデッキ下の部分の装甲厚は102mmでした
  後部の主砲塔バーベットのメインデッキ上の部分の装甲厚は、203mmでした。
  後部の主砲塔バーベットのメインデッキ下の部分の装甲厚は、102mmでした。

  副砲塔の装甲厚は、側面152mm、天蓋30mm、バーベット127mmでした。
  煙突基部に装甲コーミングはありませんでした。恐らく、船体中央部75mm単装砲ケースメイト装甲で代用したものと思われます。

  上部の防御甲板の装甲厚は、船体中央部75mm単装砲ケースメイトの外は51mm、船体中央部75mmケースメイトの内側は32mmでした。
  水雷防御縦壁は、ボロジノ、オリョールではツェザレヴィチのように装甲厚38mmの下部防御甲板が90度下に曲がって縦壁となっていましたが、バルチック造船所建造の3艦では、装甲厚38mmの下部防御甲板に同厚の舷側傾斜部が設けられ、水雷防御縦壁は下部防御甲板に接続される形に変更されました。どちらの形式の艦でも、水雷防御縦壁は装甲厚38mmでした。

  47mm43口径単装砲は非装甲でした。

  司令塔の装甲厚は、側面203mm、天蓋37mm、交通筒127mmで、外部視察用のスリットの外には唇状の防御版が取り付けられました。ただ、黄海海戦の戦艦ツェザレヴィチの司令塔の被弾、日本海海戦の戦艦クニャーシ・スヴォーロフと戦艦オリョールの司令塔の被弾による、内部要員の死傷を考えると、これはあまり効果がなかったものと思われます。
  イギリス海軍は、この戦訓により、装甲された司令塔の効果に疑問を持ちました。そのため、イギリス海軍では、後に、第一次世界大戦時、艦隊司令部が司令塔をあまり使用しなくなり、戦間期の改装戦艦、新造戦艦の司令塔廃止に繋がりました。

ボロジノ級戦艦 艦内配置図
ボロジノ戦艦 艦内配置図。
基本的な配置は戦艦ツェザレヴィチと同じ。
中央隔壁を持たない缶室、中央隔壁を持ち、並列配置された2室の機械室に注目。
「Броненосецы Бородино」 出版社 Корабли и сраженияより引用。


・機関
  缶は、前部缶室、後部缶室の2缶室に、1缶室横5基縦2列、ベルヴィール缶計20基が装備されました。缶室に中央縦隔壁は、設けられませんでした。
  ベルヴィール缶はボロジノが蒸気性状18.44atu(19kg/cu 1atu = 1.03kg/cu)その他の艦が20.38atu(21kg/cu)、飽和蒸気で強制通風を前提としていました。また、缶にはボロジノのみ給水加熱器が設置され、缶への給水が加熱されるようになっていました。
  推進軸の構成は、2軸推進でした。
  主機械は四気筒直立三段膨張機械で、ボロジノのものは、ツェザレヴィチに積まれたもののコピーをフランコ・ロシア製作所で作成しました。他の艦の機関は、バルチック造船所が独自の設計のものを製作しました。2つの機械室は缶室の後ろにあり、中央に縦隔壁を持ちました。
  戦艦ツェザレヴィチからの船体形状の変更は、機械室の床の上昇をもたらしました。重心の変化を可能な限り避けるため、機械は可能な限り中心に寄せて取り付けられました。
  一方、推進器(スクリュー)は離れて装備された方が効率が良く、そのため推進軸は艦のセンターラインと並行にされず、多少斜め外向きに装備されました。これは、少しながら、推進効率の浪費をもたらしました。
  推進器(スクリュー)は、ボロジノのみ3翼で、他の艦は4翼でした。
  計画された機関出力はボロジノ16,300hp、他の艦は15,800hpでしたが、実績は違った値になりました。

  日露戦争開戦のため、ボロジノ級戦艦の公試期間は短縮されました。ボロジノとクニャーシ・スヴォーロフは、公試すら行われず、造船所側で行われた試験による速力のみが記録に残りました。

・水中防御
  船体構造は、戦艦ツェザレヴィチのそれを踏襲しており、設計にはロシアの造船所で初めてメートル法が用いられました。
  フレーム間隔は1.2mで、二重底は船体全体に広がっており、二重底部分のフレーム幅1.0mでした。

  艦の舷側部分の区画は、戦艦ツェザレヴィチで採用されたTranch Cllulaire Cuirasée(Armoured cellular layer)という、装甲化された舷側区画の細分化が採用されました。これにより、上部舷側装甲の背面から艦底部まで、浸水極限のため、極めて小さな区画に細分化されていました。この装甲の背面の内舷側は石炭庫を兼ねており、追加の防御層として働くことを期待されていました。
  これは、船の舷側装甲帯が破られても、船の浮力を可能な限り保持する意図で設計されました。この細分区画は浸水時の致命的な損害を避け、浮力保持に効力があるとされていました。
  細分化された区画は、戦艦ツェザレヴィチ同様、上部舷側装甲の高さまで設置されていました。

 舷側区画の内側の区画は、10枚の水密横隔壁で区切られていました。横隔壁は二重底から防御甲板まで伸びており、その区画はフレーム13から91まで伸びていました。

  水雷防御縦壁は、ボロジノ、オリョールではツェザレヴィチのように装甲厚38mmの下部防御甲板が90度下に曲がって縦壁となっていましたが、バルチック造船所建造の3艦では、装甲厚38mmの下部防御甲板に同厚の舷側傾斜部が設けられ、水雷防御縦壁は下部防御甲板に接続される形に変更されました。どちらの形式の艦でも、水雷防御縦壁は装甲厚38mmでした。

  排水ポンプ系統は、ペレスヴィエト級戦艦から採用された、水防区画毎に独立した排水ポンプを設けたシステムが採用されました。排水量800t/hのポンプが7基、300t/hのポンプが3基設置されました。
  加えて、ボロジノ級では、艦の両舷の区画を結ぶパイプラインが設けられ、片側の区画に浸水があった場合、水をもう片側の区画に移して傾斜を復旧できるように設計されました。

・その他
  発電装置として、4基のターボ発電機が搭載されました。出力は150kW (105V, 5,500A)でした。
  その他、2基の予備の発電機(64kW)が搭載されました。

◎改装
  戦艦ボロジノ、インペラトール・アレクサンドル3世、クニャーシ・スヴォーロフは日本海海戦で戦没、戦艦オリョールは日本海軍に捕獲され、ロシア海軍の手から失われましたので、改装は成されていません。
  唯一ロシア海軍に残った戦艦スラヴァが改装を重ね、第一次世界大戦まで在籍しました。
  改装の内容は次の通りです。

・1905年
  ファイティングトップと、47mm43口径単装砲の大半が竣工前に撤去されました。47mm43口径単装砲は4門が残置されました。
  また、船体中央部の75mm50口径単装砲ケースメイトの中央部に縦隔壁が設けられました。

・1914年以前
  38.1cm水上魚雷発射管2基が撤去されました。38.1cm水中魚雷発射管は残置されました。
  30.5cm連装主砲塔は近代化され、発射速度が40秒/発に向上しました。

・1916年
  30.5cm連装主砲塔の仰角が25度に上げられました。これにより、射程が23,000ヤード(21,022m)に増大しました。
  これは、当時のドイツド級戦艦より長大な射程でした。

・1917年初頭
  船体の75mm50口径単装砲が8門撤去されました。
  76.2mm高角砲が4門装備されました。この時点でのスラヴァの排水量は、14,415tでした。

日本戦艦 石見(元オリョール)
日本戦艦 石見(元オリョール)。1908年、前檣トップに観測所が設けられた状態。
「Battle Ships of World War 1」 出版社 Arms and Armour Pressより引用。


◎日本戦艦としての改装
  戦艦オリョールは1905年5月28日、残存艦艇と共に日本海軍に降伏し、戦艦石見と命名され、修理・改装して使用されました。日本海軍の所見では、艦内の諸装置に戦時急造による不備や整備不良が多かったとのことです。
  ロシア艦時代からの改装の内容は次の通りです。

・船体
  船体は損傷復旧を行うと共に、上部構造物を1甲板削り取るという荒療治を行い、排水量を計画排水量の13516t近くまで削減し、重心降下と重量軽減を計り、吃水と水没した舷側装甲の回復を行いました。ここで初めて、艦は設計時に意図された防御性能を取り戻したと言えるでしょう。また、副砲の15.2cm連装副砲塔は撤去して、船首楼甲板に砲口を空け、安式のシールド付き20cm45口径単装砲を装備する形式に変更しています。また、船体の75mm単装砲ケースメイトは、艦首片舷1門両舷計2門(76mm40口径単装砲に変更)、艦尾片舷1門両舷計2門(47mm単装砲用に変更)を残して閉塞してしまっています。艦尾の形状も、段の無い形状に変更されました。
  上部構造物、マストトップ、煙突は完全に新造になり、日露戦争の戦訓を反映した極めて簡素な形状となりました。
  元がロシア戦艦であるからか、日本沿岸では艦内酷暑で定評があり、特に夏期は猛暑に悩まされたそうです。ただ、北方海域ではかえって好適な居住性を示しました。

・武装
  武装は、「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ、「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズによると、30.5cm40口径主砲は露式砲のままだったとされています。
  15.2cm連装副砲塔は発射速度が遅く、故障も多かったため、撤去して、安式のシールド着き20.3cm45口径単装砲片舷3門、両舷計6門に変更されました。この砲は4門が安式、2門が国産の呉式で、防護巡洋艦高砂、笠置、千歳に積まれたものと同形式の砲でした。
 小口径砲は大幅に削減されました。
  75mm50口径単装砲は76mm40口径単装砲に変更され、艦首のケースメイトに片舷1門両舷2門、上部構造物後部に片舷2門両舷計4門、総計6門が装備されました。これは、4門が安式、2門が国産の四一式一号でした。
  その他、山内式47mm単装砲片舷1門両舷2門が艦尾船体に砲眼を設けてに装備とされました。
  37mm単装砲は装備されませんでした。
  魚雷発射管は、前部主砲弾火薬庫前に日本海軍規格の安式45.7cm水中発射管水中発射管が前部主砲弾火薬庫後ろの舷側に片舷1門両舷計2門装備し、艦首と艦尾の水上発射管は廃止しました。

  機雷の搭載はされなかったと思われます。

  この改装の結果、戦艦石見は準ド級戦艦となりました。当時ロシア海軍バルト海艦隊にあった同型艦戦艦スラヴァとは全く別艦のような形状となりました。

・防御
  装甲防御、水中防御に特に手は加えられませんでした。
  ただ、吃水の回復と重心の降下により、舷側装甲の有効面積と艦の復原性能はロシア艦時代より増したと思われます。

・機関
  缶については、「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ、「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズによるとベルヴィール缶20基のまま、「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press及び歴史群像シリーズ「日本の戦艦 パーフェクトガイド」 出版社 学習研究社によると、宮原缶20基に換装されたとあります。馬力は16,500hpとロシア艦時代の計画馬力を上回っています。
  機械については、ロシア艦時代そのままとされました。速力は18.0ノットとあり、ロシア艦時代より向上しています。
  燃料搭載量は石炭2000tとされ、航続力は8,000浬/10ノットとなり、ロシア艦時代の満載時より長くなりました。
  機関の好調は、戦時急造で完成を急がざるをを得なかったロシア時代に比べ、平時で整備状態が良かったという差もあると思われます

・乗員
  乗員数は806名となりました。

・修理費用
  修理費用は1905年から1908年までの4年間の「海軍省統計年報」から集計すると、216万6,327円でした。この金額には、武装の変更は含まれていない模様です。

  参考までに挙げると、日本海海戦後佐世保軍港で爆沈した三笠の1906年から1907年の修理費用が153万1,064円でした。
  新艦の外国からの購入の場合、装甲巡洋艦日進、春日の購入代金が1,598万4,593円でした。
  新艦を購入・建造するとなると、かかる費用は修理費の比ではありません。また外国からの購入の場合はもちろん、新艦の建造を行っても、当時は建艦資材の多くを輸入に頼っている関係から、莫大な外貨の流出が発生します。
  国内での修理ならば、修理費用は国内に落ちるし、公共事業として戦後の雇用対策にも役立ちます。加えて、海軍は捕獲艦の分も人員と維持費を獲得出来ます。
  これらの観点からすると、捕獲艦の修理と海軍への編入は、ド級艦の時代の到来による旧式化・戦力劣化という点を考えても、妥当な政策だったといえるのではないでしょうか。

◎戦歴
・ボロジノ
  1899年5月26日に建造開始、1900年5月23日起工、1901年9月8日進水、1904年4月艤装のためにクロンシュタットに移動、1904年夏に造船所の試験が行われましたが、正式な公試は行われませんでした。
  1904年10月15日、第二太平洋艦隊に所属、リバウを出港しました。
  1905年5月27日、日本海海戦において、日本海軍の砲撃により、大火災を発生、弾火薬庫の誘爆により爆沈しました。生存者1名、戦死者865名でした。
  1905年9月15日に公式に除籍されました。

・インペラトール・アレクサンドル3世
  1899年9月5日に建造開始、1900年5月23日起工、1901年8月3日進水、1902年10月、艤装のためにクロンシュタットに移動しました。1904年10月に公試が実施され、1905年2月23日竣工しました。
  1904年10月15日、第二太平洋艦隊に所属、リバウを出港しました。
  1905年5月27日、日本海海戦において、日本海軍の砲撃により大火災と浸水を発生、復原性能の不足により転覆し、沈没しました。乗員は総員戦死を遂げました。
  1905年9月15日に公式に除籍されました。

・オリョール 後に日本戦艦石見
  1899年11月7日に建造開始、1900年6月1日起工、1902年7月19日進水、1904年5月に艤装のためにクロンシュタットに移動しました。1904年8月から9月にかけて公試が行われました。1905年4月19日竣工しました。
  1904年10月15日、第二太平洋艦隊に所属、リバウを出港しました。
  1905年5月27日、日本海海戦において、日本海軍の砲撃により、30.5cm砲弾5発、25.4cm砲弾2発、20.3cm砲弾9発、15.2cm砲弾39発を受け、43名戦死、80名負傷の損害を受けました。この中には司令塔への被弾による艦幹部も含まれており、艦は戦闘力を失いました。
  翌1905年5月28日、残存艦隊と共に竹島沖で日本海軍に降伏しました。日本海軍による捕獲後、浸水が激しいため、他艦と別れ、単独舞鶴に直行し、そこで応急修理を行いました。6月6日、帝国軍艦籍に編入、一等戦艦石見、12月12日、等級を廃して戦艦石見となりました。
  その後、呉工廠で復旧改装工事を行い、1907年11月復旧完了しました。
  1908年には、前檣トップに観測所が設けられています。
  1912年8月28日、一等海防艦に艦種変更されました。

  第一次世界大戦では、1914年8月23日から12月2日まで、加藤定吉中将指揮の第二艦隊に所属して青島攻略戦に参加、青島の砲台への砲撃と封鎖に従事しました。9月28日から11月6日までの発射弾数として、30.5cm砲弾152発、20.3cm砲弾125発という記録が残っています。

  シベリア出兵では、北方活動に好適な居住性を生かし、ウラジオストクを根拠地に、良く活動していたようです。次の行動が残っています。

・大正7年1月9日〜9月9日
  シベリア出兵に伴い、沿海州警備。根拠地、ウラジオストク。

・大正9年9月24日〜大正10年6月30日。
  尼港事件に伴い、カムチャッカ警備。
  根拠地、ペトロパブロフスク。北洋漁場の漁業保護に当たりました。

・大正10年11月〜大正11年2月
 沿海州警備。根拠地、ウラジオストク。

  これは極一部の活動で、この時期、他にも様々な北方活動を行っていたと思われます。

  1922年9月1日、ワシントン条約によって除籍、1923年5月9日、雑役船に分類され、呉港務部が管理ました。
  1924年3月下旬、特務艦富士(元戦艦、一等海防艦)に曳航されて横須賀に回航、7月5日から7月9日にかけて、横須賀及び三浦半島城ケ島西方で実艦的として爆撃標的に供され、翌7月10日、撃沈処分されました。

  1927年、京都府与謝郡岩滝町の岩滝尋常高等小学校の校庭に、西南戦争、日清戦争、日露戦争までの、同町出身の戦死者を祀るための忠魂碑が建立されました。碑の主柱は、舞鶴に保管されていた戦艦石見の主砲砲身を海軍から譲渡を受けて作成され、碑の四方には30.5cm砲弾が囲いとして設置されました。
  忠魂碑は後に太平洋戦争の戦死者も祀られ、太平洋戦争中の金属供出命令も、戦後のGHQの撤去指令も地元の努力で免れ、今も現存しています。

・クニャーシ・スヴォーロフ
  1901年8月10日に建造開始、1901年9月8日起工、1902年9月25日進水、1904年5月10日に艤装のためにクロンシュタットに移動しました。1904年8月9日、造船所による試験が行われましたが、正式な公試は遂に行われませんでした。 1904年7日竣工しました。
  1904年10月15日、第二太平洋艦隊に所属、第二太平洋艦隊司令長官ロジェストヴェンスキー中将(Vice Admiral Z. P. Rozhestvenskii Зиновий Петрович Рожественский)の旗艦として、リバウを出港しました。
  1905年5月27日、日本海海戦において、日本海軍の砲撃により大火災を発生、マスト1本と煙突2本を失い、戦闘力を失いました。また、司令塔への被弾により、ロジェストヴェンスキー中将は負傷しました。その後、ロジェストヴェンスキー中将と19人の司令部要員は駆逐艦ブイヌイに移乗し艦を離れました。
  その後、日本海軍第五戦隊に随伴していた第十一水雷艇隊の襲撃を受け、艦尾の75mm砲で反撃するも魚雷2発を受け、沈没しました。925名が戦死しました。
  1905年9月15日に公式に除籍されました。

・スラヴァ
  1902年10月に建造開始、1902年11月1日起工、1903年8月29日進水、1904年11月12日に艤装のためにクロンシュタットに移されました。1905年6月13日に公試が始められ、1905年10月竣工、バルト海艦隊に所属しました。
  1906年8月1日、戦艦ツェザレヴィチと共に、スヴェアボルク要塞の反乱の鎮圧に参加しています。
  その後、第一次世界大戦開戦まで、バルト海を中心に、地中海を訓練のために頻繁に行動するのを常としました。
  1908年12月には、戦艦ツェザレヴィチと共にメッシナ、シチリアの地震に際し援助に出動、犠牲者に援助物資を与えています。
  1910年8月に、缶故障を起こしました。仮修理のために、戦艦ツェザレヴィチにジブラルタルまで曳航され、本修理はツーロンで行われました。

  第一次世界大戦勃発後は、バルト海艦隊の一員として、対ドイツ戦に行動しています。
  1915年春にリガ湾を根拠地とし、しばしばドイツ陸軍の陣地を砲撃しました。
  1915年8月8日、8月16日、8月17日にはドイツド級戦艦ポーゼンとナッソーと戦闘を行い、3発の28.3cm砲弾を受けています。
  1917年10月17日、リガ湾のムーン水道において、戦艦グラジュダニーン(元ツェザレヴィチ)と共に、ドイツド級戦艦ケーニヒ、クロンプリンツと戦闘を行いました。戦艦スラヴァは長射程を生かしてドイツ艦隊をアウトレンジしますが、前部主砲塔が故障により戦闘から脱落し、後部主砲塔のみで戦闘を継続しました。そして、戦艦ケーニヒからの30.5cm砲弾を多数受け、後部主砲塔も被弾し戦闘不能となり、吃水線部の被弾により大浸水が発生、遂に後部主砲塔の弾火薬庫の誘爆によりムーン水道の入り口に着底しました。その後、駆逐艦トゥルクメーネツ=スタヴロポリスキー(Turkmenets Stavropolskii Туркменец-Ставропольский)による雷撃による破壊が行われています。戦艦グラジュダニーンはクロンプリンツの30.5cm砲弾を受け小破しつつも、何とか撤退に成功しました。
  戦艦スラヴァは、1918年5月29日に公式に除籍されました。その残骸は、エストニアの業者により、1935年解体されました。


◎総論
  ボロジノ級戦艦は、戦艦ツェザレヴィチのロシア版として設計、建造された戦艦でした。ただ、ロシア側の建造能力の限界により、全く同じ艦は建造できず、結局色々と改設計をした結果、完全に別の艦となりました。
  主な変更点はツェザレヴィチでは無防御だった、船体の75mm50口径単装砲を装甲ケースメイト化した点でしたが、その代償重量の捻出と、建造中の排水量の増加の対策として、舷側防御が厚さ、高さ共に大幅に減らされ、垂直防御がスポイルされました。また、水平防御にはクルップ甲鈑ではなく、旧式のニッケル・クローム甲鈑を採用するなど、防御力の後退が目立ちました。
  これは、ロシアの工業力の限界を示すもので、結果的にツェザレヴィチ改悪型と呼ばれても仕方のない状態だと思います。
  その一方で、改良された水中注排水システムの搭載など、ロシア独自の改良も加えられていました。

  また、完成時期が日露戦争勃発後と重なったため、満足な公試も出来ず、多くの不具合を残したままでした。
  しかし、まだ、このままの状態ならば、設計排水量より実際の排水量が4〜5%増えていたものの、まだそれ程トップヘビーでも、排水量過多でもありませんでした。

  ボロジノ級戦艦5隻の内、戦艦スラヴァを除く4隻は第二太平洋艦隊の一員として極東への遠征に参加しましたが、ここで発生した追加装備の搭載と追加消耗品の搭載による排水量の大幅な増加が、艦の重心を上げ、排水量と吃水を大幅に増やしました。
  これが、主舷側装甲の完全な水没、トップヘビー、可燃物の過搭載と、防御力に致命的な影響を与えました。
  日本海海戦におけるボロジノ初め3隻のもろい沈没は、これの影響による部分が多かったと思われます。

  これは筆者の想像ですが、第二太平洋艦隊の遠征準備自体がこの船の欠陥に繋がっていたのであって、設計自体の欠陥は、タンブルホームから来る傾斜時の予備復原力の不足と、舷側装甲を薄くした結果の垂直防御力の不足位なのかもしれない、ということです。バルト海艦隊に所属していた戦艦スラヴァが、特に不具合もなく使用されているのがそれを示していると思います。

 そうすると、巷間言われている、ロシア戦艦の「フランス式設計の欠陥」なるものは、結構虚像が入っているのかもしれないと思いました。

  戦艦オリョールは日本に捕獲され、日本戦艦石見となりましたが、上部構造物を一甲板撤去するという荒療治により、設計排水量程度にまで排水量が減りました。これによる吃水の回復により、初めて設計時に想定された防御力を発揮できるようになったと思われます。
  戦艦石見は第一次世界大戦以前に一等海防艦に艦種変更されていましたが、第一次世界大戦での青島攻略戦への参加など、地味ながら第二線の戦力として活躍します。第一次世界大戦後のシベリア出兵における北方活動は、寒冷地に適した居住性を持つ石見の、特長を生かした活躍だったと思います。

  ボロジノ級戦艦は、最終的に、全ての艦がロシア海軍の手から失われるという、戦艦史上まれに見る不幸なクラスですが、日露戦争での活動、第一次世界大戦での戦艦スラヴァの活躍、日本海軍の手に渡った戦艦オリョール、後の石見の活動など、色々と興味深い点がある艦だと思います。

  また、日本の戦艦敷島以降の一等戦艦と性能を比較する場合には、ボロジノ級戦艦の方が設計排水量が約1,500t少ない艦である点は考慮した方が良いと思われます。


※1 文中の日付は西暦に統一してあります。ロシア歴は西暦に変換しました。
※2 日本海軍による戦艦石見の缶の改装について。
   究極的には、防衛研究所などに行き、原資料を当たるしか確認方法はないと思われますが、現状管理人にはそれが出来ません。
   文献に諸説有り、判別が付かないので、説と出典を明記するに留めました。
※3 戦艦石見のシベリア出兵時の行動記録について。
   究極的には、防衛研究所などに行き、原資料を当たるしか確認方法はないと思われますが、現状管理人にはそれが出来ません。
   とりあえず、手元にある文献で分かる範囲で記載しました。


◎参考資料
・「RUSSIAN & SOVIET BATTLESHIPS」 出版社 Naval Institute Press
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1860-1905」 出版社 CONWAY
・「Battle Ships of World War 1」 出版社 Arms and Armour Press
・「JANE'S FIGHTING SHIPS OF WORLD WAR T」 出版社 STUDIO
・「THE WORLD'S WORST WARSHIPS」 出版社 CONWAY
・「Броненосецы Бородино」 出版社 Корабли и сражения
・「日本戦艦戦史」 出版社 図書出版社
・「海軍艦艇史1 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍全艦艇史」 出版社 K.K.ベストセラーズ
・「日本海軍艦艇写真集 戦艦・巡洋戦艦」 出版社 ダイヤモンド社
・「海軍造船技術概要別冊 海軍艦艇公式図面集」 出版社 今日の話題社
・「日露海戦記 全」 出版社 佐世保海軍勲功表彰會
・世界の艦船別冊NO.391「日本戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.459「ロシア/ソビエト戦艦史」 出版社 海人社
・世界の艦船別冊NO.500「日本軍艦史」 出版社 海人社
・「海と空」 1959年9月号 海と空社
・「日露戦争」1〜8 児島襄著 出版社 文藝春秋 文春文庫
・歴史群像シリーズ「日本の戦艦 パーフェクトガイド」 出版社 学習研究社
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 上」出版社 グランプリ出版
・軍艦メカニズム図鑑「日本の戦艦 下」出版社 グランプリ出版



  艦名のロシア語発音及び艦名の由来につきましては、本ホームページからもリンクさせていただいている、大名死亡様のホームページ、「Die Webpage von Fürsten Tod 〜討死館〜」を参考にさせていただいております。
  また、ロシア語の人名、企業名、艦名についても、多数の御指導を戴きました。
  詳しくは、次のリンクをご参照下さい。

日本海海戦に参加したロシヤ艦名一覧

  また、資料の内、「Броненосецы Бородино」 出版社 Корабли и сраженияは、ホームページ、三脚檣の管理人、新見志郎樣よりお貸しいただきました。厚く御礼申し上げます。



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