フランス海軍 戦間期初期巡洋艦の防御力




  平賀譲遺稿集(出版協同社 1985年)をぼつぼつと読んでみていますが、その中に「欧米視察所見」という、ワシントン条約締結後の各国建艦状況をはじめとする大正13年(1924年)12月23日付の視察報告があります。
  その中の巡洋艦の部の防御力の項に、フランス軽巡洋艦 デュゲイ・トルーアン級(フランス自称は8,000t級巡洋艦で、文中でもそのように称されています)の防御力について、平賀の驚愕を表している文章がありました。

軽巡洋艦デュゲイ・トルーアン級 プリモゲ
軽巡洋艦デュゲイ・トルーアン級 プリモゲ
世界の艦船別冊NO.546「フランス巡洋艦史」 出版社 海人社 1998年より引用。


  「初め仏国の八千噸級巡洋艦を視察せる時、其全然無防禦なるには吃驚せり」
  「此の如きはむろん他の要素を重しとして防禦力を犠牲に為したること明瞭なるも、仏国八千噸の如きは之を我が加古級に比するも犠牲余りに大なりと言うべし。設計上の批判は別として、八千噸の大を以てして猶無防禦にて甘んじたる事実其ものは大に研究を要するものありと言う可し。」

デュゲイ・トルーアン級 中央断面
平賀の報告書に添付されたデュゲイ・トルーアン級の舷側断面。
防御甲板の傾斜部もなく、ある意味防護巡洋艦以下に見える。
「平賀譲遺稿集」 出版社出版協同社 1985年より引用。


  ほぼ同大の偵察巡洋艦、加古級軽巡洋艦(計画時)に舷側傾斜76mm、甲板36mmとは言え、苦労して防御を盛り込んだ設計者としての、驚愕が現れていると言えるでしょう。

  デュゲイ・トルーアン級を建造した当時のフランス海軍は、近代的な軽巡洋艦はドイツとオーストリア・ハンガリーからの一次大戦後の賠償艦のみを保有するという悲惨な状態でした。一次大戦中の計画艦、1914年計画のラモット・ピケ級軽巡洋艦は1915年建造中止(1隻は起工したものの解体、2隻は未起工でキャンセル)、その後も計画は潰れ続け、1922年計画でデュゲイ・トルーアン級の建造が認められるまで、そもそも近代的な軽巡洋艦の建造経験が全くないという状況でした。
  デュゲイ・トルーアン級の防御は、弾火薬庫と舵機室にボックス・シタデル20mm、バーベットに20mm+10mm2枚重ね、機関区画舷側防御はなし(外板のみ)、防御甲板20mm、砲塔15mm+15mm、司令塔30mmです。
  ボックス・シタデルというのは、舷側に装甲を持たず、舷側外板の内側に垂直・水平装甲を持つ構造で、駆逐艦の弾丸程度には外板での信管作動、内側の装甲での弾片防御を期待してるものです。
  (各国の条約型巡洋艦でも、弾火薬庫部分の垂直防御装甲が、舷側外板の内側にある例は多くあります。イギリスの10000t級重巡クラスや、アメリカの重巡各級もそういう構造です。装甲厚は全然厚いですが。)
  防御重量は、全排水量のわずか2パーセント。これも驚愕ものの少なさです。後のラ・ガリソニエール級軽巡洋艦では防御重量は24パーセントに及ぶのを考えると、ほぼ無防御に等しいと言っても過言ではありません。
  機関区画にはシフト配置も採用されていません。
  一応、機関区画脇には縦隔壁を持ち、区画細分化などを行い、間接防御力は強化しています。
  ただ、総合的に見ると、高速を重視したとはいえ、これはあんまりな防御力です。

  これらの防御上の特徴は、デュゲイ・トルーアン級の拡大型とも言うべき1922年計画の、基準排水量10,000tの重巡洋艦デュケーヌ級にもほぼ引き継がれます。

重巡洋艦デュケーヌ級 デュケーヌ
重巡洋艦デュケーヌ級 デュケーヌ
世界の艦船別冊NO.546「フランス巡洋艦史」 出版社 海人社 1998年より引用。


  防御は弾火薬庫と舵機室にボックス・シタデル30mm、バーベットに15mm+15mm、機関区画舷側防御はなし(外板のみ)、防御甲板30mm、砲塔30mm、司令塔30mmです。
  防御重量は全排水量の4.5%。後のアルジェリーの26.5%に比べれば、これもかなり泣ける少なさです。
  流石に機関区画にはシフト配置が採用されますが、防御の薄弱は否めません。高速第一とは言え、これも重巡として問題と言えるでしょう。
  デュケーヌ級の事実上の対抗艦で、似たように高速軽防御と評されるイタリアのトレント級ですら、舷側装甲70mm、甲板最大50mm、砲塔110mm、司令塔100mmの装甲を持ち、機関のシフト配置を行っているのですから・・・。(注1)
    これらの艦の装甲厚は、駆逐艦の砲に全ての部分の装甲防御を抜かれても不思議はありません。
  実際、フランス海軍部内では、一次大戦中の駆逐艦の8.8cm砲や10.5cm砲(独)、10.2cm砲(英)に対してすら防御力が不安視されていました。そして一次大戦後の列強の駆逐艦の砲熕兵装の強化(12cm砲や12.7cm砲の採用)により、防御上の不安はより増大しました。

  で、フランス人自身はこれらの艦をどう評価していたでしょうか。

・軽巡デュゲイ・トルーアン級
  「艦首乾舷が高く、航洋性があり、燃費が良く、船としては性能が良かった」(戦闘艦艇としては褒めていない)
  「艦首乾舷が高いので、風圧面積が大きく、風の影響を受けやすかった」
  「ハンマーに対する卵の殻」(防御力を評して)
・重巡デュケーヌ級
  「燃費と航洋性は良かった。半分の機関出力で30ノットで巡航出来た。」
    「ブリキ艦」(防御力を評して)
  「戦闘艦艇として不適格」

  いやはや何とも、ダメ感が漂う感じがします。船としての性能は良好でも、軍艦としては不適格という感じがします。
  要するに、駆逐艦にすら撃破されかねない偵察巡洋艦、重巡洋艦に、存在価値があるか、という話です。
  これらの船が仮に本格的な砲戦に投入され、被弾した場合を想像してみようとしてみましたが、何が起きるか恐ろしくて考えたくもなくなりました。

  このように、防御の不足が問題とされていた両級ですが、とりわけ重巡デュケーヌ級は実戦での実用性が問題視され、1935年には航空機20機〜14機程度搭載の空母または艦前半or後半の砲装を残した半空母への改造が検討されます。結局この話は空母ジョッフルの建造が決定したため沙汰止みになりますが、この級の存在価値がどれだけ疑われていたか分かろうというものです。

  フランス巡洋艦の防御力は、その後の建造艦では逐次改善され、後に軽巡ラ・ガリソニエール級、重巡アルジェリーでほぼ列強水準の防御力を持つに至ります。
  ただ、それに至る前段階には苦難と試行錯誤と問題があったと言うべきでしょうか。


  デュゲイ・トルーアン級及びデュケーヌ級は、次のような活動を見せました。

・デュゲイ・トルーアン
  フランス敗戦時、アレキサンドリアに在泊、拘留。
  1943年5月、自由フランス軍に参加、第二次大戦を生き残る。1952年3月解体。
・ラモット・ピケ
  1935年より極東艦隊の旗艦。
  1941年1月17日、タイ艦隊相手のコーチャン沖海戦でタイ海防艦ドンブリを大破着底させる。
  ヴィシー政府に所属、1942年初頭に解役。1945年1月12日、アメリカ機動部隊艦載機の空襲により沈没。
・プリモゲ
  ヴィシー政府に所属。1942年11月8日、カサブランカで米艦隊と交戦、大破擱坐。後放棄。

・デュケーヌ、トゥールビル
  フランス敗戦時、アレキサンドリアに在泊、拘留。1943年5月、自由フランス軍参加。
  幸いなことに、本格的な戦闘を経験せずに第二次大戦を生き残る。
  デュケーヌは1955年7月、トゥールビルは1962年5月解体。


注1:
  フランスのデュケーヌ級は基準排水量10,000tちょうどですが、イタリアのトレント級は500t程ワシントン条約の排水量上限を超過しているので、その点は割り引いて考える必要があります。


◎参考資料
・「平賀譲遺稿集」 出版社出版協同社 1985年
・世界の艦船別冊NO.546「フランス巡洋艦史」 出版社 海人社 1998年
・世界の艦船別冊NO.563「イタリア巡洋艦史」 出版社 海人社 2000年
・「THE WORLD'S WORST WARSHIPS」 出版社 CONWAY
・「CONWAY'S ALL THE WORLD'S FIGHITING SHIPS 1922-1946」 出版社 CONWAY
・「WARSHIP 1995」 THE 7600-TONNE CRUISERS 出版社 CONWAY
・「WARSHIP 1997-1998」THE ORIGINS OF THE FRENCH 8,000-TONNE CRUISERS OF 1922 出版社 CONWAY
・「WARSHIP 2005」DUQUESNE AND TOURVILLE:THE FIRST FRENCH TREATY CRUISERS 出版社 CONWAY
・「WARSHIP 2001-2002」THE FRENCH CRUISER ALGÉRIE 出版社 CONWAY



軍事関係に戻る
ホームに戻る