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みんなで行きましょう“フランス”へ
雪のお話は「永遠」
1997年11月16日深夜。マレーシア、ジョホールバルのラーキンスタジアム。その瞬間、何が何だかわからないまま、私は天を仰いだ。万感の想い。積年の願い。これまでのサッカーとともに生きてきた20数年が、走馬灯のように胸を駆け巡る。日本代表が、サッカー日本代表が、世界最高峰の舞台に、歴史上初めて立つ事ができた瞬間なのだ。そして私は手に握り締めていたユニフォームを、空高く掲げた。悲しいのか、嬉しいのか、よくわからない。だが涙が止まらなかった。止めど無い涙で視界の利かない中、私はユニフォームを空に掲げ、そして祈り、祝福をした。
ひとつ、サッカー馬鹿の話をしよう。13日、木曜日の事だ。私は、職場で、マレーシアへ行くための、月曜日の休暇申請をした。今回最終予選初めてのアウェー戦、UAE戦の時、職場に代表ユニを着て行った私だ。サッカー馬鹿であることは、周知の事だ。韓国へ行った事も、皆知っている。マレーシアへ行くだろう事も、皆知っていた。だが、直属の上司は、それを許さないと言う。当然の事だろう。組織の一員として、いち社会人として、己の満足のために、休暇を取り、好き勝手にするのは、確かに許される事ではない。私は、『マレーシアへ行く事は会社としては許可できない』『これ以上は黙認できない』『どうしてもマレーシアへ行くのならば、辞表を書いて行ってくれ』と言われた。そして、私は迷わず辞表を書いた。迷いは、なかった。そして、翌日に、受理された。
いつも一緒にスタジアムで応援をしている仲間10数名で、マレーシアへ行く計画だった。何人か、成田発便が取れず、名古屋発便で15日早朝に、発つ事になっていた。14日、金曜日、新宿の自宅に、6人の仲間が集まった。前祝い、と称して酒を飲み、サッカー談義を繰り広げ、そして明け方4時前。先発隊の4人が、代表ユニを着て装備を固め、そして名古屋へと向かった。
私は、15日土曜日夕方5時過ぎの成田発の便で、仲間3人で、シンガポール入りをした。観光付きのツアーだったにもかかわらず、添乗員の方にわがままを聞いてもらい、試合のチケットを事前に入手し、翌朝早朝に、ジョホールバルへと向かった。スタジアムに着くと、すでに、数十人のサポーターたちが集まっていた。照り返す強い陽射し。湿度も高く、日本の真夏のような暑さだ。そんな中、続々と日本サポーターが集まってくる。午後になると、もう数え切れない程のサポーターで、スタジアムが包まれてしまった。午後3時過ぎ。5〜6千人と言われていたサポーター。そんなものでは済まないだろう。もうすでにそれぐらいの人が集まっているだろう。自発的に、列を整理するサポーターが現れた。自然発生的に、「混乱と事故を避けるため」、列の整理がされ、そして皆が一点の曇りのない信念のもとに、試合開始の瞬間を待ち続けた。
午後6時半。開門。スタジアムは、あっという間に青一色に染まった。5〜6千人と言われていた日本サポーターだが、実際には、2万人近くが集まったという。私は、ゴール裏、中段の最前列にいた。まだ試合開始まで2時間もあるというのに、『ニッポン・コール』が巻き起こる。応援歌がこだまする。夕闇の中、青いビニール袋のウェーブが鮮やかに広がってゆく。まるで日本のホームゲームだ。まさに国立と同じだ。朝日君を中心とした仲間たちとともに、大量の紙ふぶき、そしておよそ5000本の紙テープが運び込まれた。刻々とキックオフが近づく。さあ、最後の闘いだ。このゲームで、絶対に決める。私には、揺るぎ無い確信があった。
21時前。選手入場。いつもの「あの音楽」とともに、選手がピッチに姿を現す。前が見えなくなる程の紙ふぶき。国立と同じだ。国歌斉唱のとき、私は着ていたユニフォームを脱ぎ、天高く掲げた。背筋がぞくぞくした。最終予選、これが最後の国歌斉唱なのだ。遥かマレーシアの地は、その時、2万人の日本人の歌声で包まれていた。世界中で、何万、何百万という日本人が、左胸に手をあて、同じように歌った事だろう。スタジアムで、天を仰ぎながら、眼を閉じると、とてつもない数の仲間たちの願い、祈り、そして魂を、一瞬、感じたような気がした。
キックオフ。私は、ある仲間から借りたユニフォームを着ていた。そして、『超野人倶楽部』の『魂の日の丸』を羽織り、ゴール裏ど真ん中の最前列、手すりから身を乗り出して応援をした。最終予選、これが最後だと思うと、どんなに声の限りに叫んでも足りないよな気がした。何も不安なんかない。祈りは届くはずだ。選手だって判っているはずだ。だからこそ、前半、中山の見事な先制ゴールが決まった。歓喜するサポーターたち。だが、ハーフタイム、『これで終わる訳はないんだ』『まだまだ点を取らなければ』『最後の最後まで、最高の応援をしよう』『最高の応援に、選手たちは最高のプレーで応えてくれるはずだ』と、互いに肩を抱き合った。ラーキンスタジアムにいたおよそ2万人のサポーターは、『サポーターの日本代表』だと思った。絶対に妥協してはいけない。諦めてはいけない。最後の最後まで、全力で闘おう。その事だけに集中しようと思った。後半開始直後から、イランの猛烈なカウンターが能活を襲う。同点に追いつかれ、そして逆転を許した。しかし、そのたびに、ものすごい『ニッポン・コール』が巻き起こった。ゴール裏だけではない。バックスタンドからも、メインスタンドからも。地鳴りのような『ニッポン・コール』は、選手たちの耳にも、胸にも届いていたと信じたい。
膠着状態かと思われた頃、FW2人が一気に交代になった。ロペスと城。そしてロペスが相手DF3人を引き連れて走り込み、一瞬フリーになった城が、絶妙のヘディング。またしても日本は同点に追いついた。あと一点。イランの疲労は、目に見えるようだ。このままの勢いであと一点を取るだけだ。そうすれば、フランスだ。私は胸元でユニフォームを固く握り締めながら、身を乗り出して声を枯らした。もう何もいらない。正常な思考能力も、判断力も、なくなっていた。サッカー日本代表、あと一点でいいんだ。ゴールネットを揺らすんだ。私にできる事は、何でもしよう。世界中の日本サポーターの想いは同じだったはずだ。後半終了の時間が近づく。ロスタイムに入る。そして、ホイッスル。延長戦へと突入した。
延長Vゴール方式。どちらかが得点した瞬間に、ゲームは終了する。私は延長に入ると、ユニフォームを脱ぎ、手に握り締めた。ピッチには、最終予選初めて、岡野が投入された。元気よく駆け回る岡野。これまでクサらずによく我慢していてくれた。君の舞台は整ったんだから、存分に掻き回して、そして決めてくれ。いや岡野じゃなくてもいいんだ。とにかく、得点してくれ。叫びと、祈りと、願いと、様々な想いとともに、ただひたすらに声を枯らしつづけた。
前線で中田がボールをキープした瞬間までは、憶えている。だがそのあと実はどうなったのかよく判らなかった。気づくと、フィールドで選手が抱き合っている。スタンド、そしてゴール裏はものすごい騒ぎだ。頭が真っ白になり、まるでスローモーションのように、微かにゴールネットが揺らされた光景が、見えたような気がしただけだった。幅のほとんどない手すりに立ち上がり、私は握りしめていたユニフォームを天高く掲げた。周りの仲間たちが抱きついてくる。『やったよ』『やった』声にならない歓喜の叫び声で、耳がおかしくなりそうなほどだった。『雪さん、危ない』。そんな声も聞こえた。私は、手すりに立ち上がり、ユニフォームを掲げながら叫びつづけた。『やったよ』『これが日本代表だよ、よく見ろ』『フランスへ行けるんだよ』『ワールドカップ出場が決まったんだぞ』『やったな、前田、見えるか、やったよ』。仲間たちに後ろから支えられながら、叫びつづけた。涙が止まらなかった。喉がつまって声も出ない。泣きながら、ただ叫びつづけた。フラッシュがあちこちで焚かれる。紙ふぶきや紙テープが投げ込まれる。『みんなで行こうフランス』の歌が始まる。そうだ、みんなで、フランスへ行こう。みんなで、フランスへ行けるんだ。嬉しさと、感動と、とにかくいろんな感情が頂点に達し、何がなんだかよく判らなくなってしまった。どうしたらいいんだろう。涙が止まらない。とにかく、幸せだった。
長かった。9月7日に始まった最終予選。9試合を終えて、日本代表が負けたのは、たったの一つだ。なんだ。やっぱり強かったんじゃないか。いや、違う。強くなったんだ。様々なシーンが蘇る。国立のウズベ戦での圧勝した緒戦。怒涛の6ゴール。世界に誇る日本サポーターの大応援。日韓戦での信じられない逆転負け。どうしても勝ちきれなかった中央アジアでのアウェー。ロスタイムに同点に追いつかれた悪夢。加茂前監督の更迭。そして岡田監督への交代。2度に渡る、自力2位可能性の消滅。国立でのUAE戦の後のサポーターの暴動。誰もの胸に一瞬、よぎった不安。焦燥。しかし絶望の中でも、決して諦めない勇気。ソウルでのあの夕陽。最終予選で始めて大泣きに泣いてしまったゲーム。国立最後のゲーム。青い滝が美しかった。様々な報道がされ、様々な想いがそれぞれの胸を交錯したことだろう。喜びも、悲しみも、悔しさも、辛さも、腹立ちも、何もかもが遠い昔の出来事のように思える。多くの仲間たちと、サッカー日本代表のサポーターたちとともに信じつづけてきたフランスが、現実となった。言葉が見つからない。何か言葉にすると、安っぽくなってしまいそうだ。こんなに幸せな事はない。おめでとう。サッカー日本代表の全選手たち。全関係者たち。ご家族の皆さん。そして、世界中のサッカー日本代表サポーターのみんな。おめでとう。みんなで、フランスへ行けるんだ。みんなで、フランスへ行こう。
これから先、どんな事があっても、『サッカー日本代表がワールドカップ初出場を決めた瞬間』というものは、永遠に歴史に刻まれるのだ。私たちは、その瞬間を、見届けた。これだけの色んな想いのあったなか、ひたすらに信じ、愛し、その祈りは届いたのだ。11月15日。私が夕方成田から発つ前に、午前便で名古屋から出発するはずだった仲間たちがいた。東名高速で事故が起き、仲間のうち一人が、亡くなった。彼は、私たちみんなと同じぐらいサッカーを愛し、日本代表を愛し、応援をしてきた。彼は、代表のユニフォームを身に付けていた。だから、私は彼のユニフォームを着て、ラーキンスタジアムで一緒に応援を続けた。彼も一緒に、『永遠の瞬間』を見届けることができた。試合の後、井原さんと中山さんに会った。仲間の話をすると、井原さんは『ありがとう』と、そして中山さんは、『前進あるのみ』と、彼にメッセージを書いてくれた。ありがとう。サッカーの在る国に生まれた事を、私は幸せに想う。ありがとう。私たちは、こんなに美しい『永遠』を手に入れた。ありがとう。サッカー日本代表。ありがとう。全てのサポーター、全ての仲間たち。今回の最終予選で、一番に嬉しかったのは、世界中の数え切れないサポーターたちと一つになれた事だ。みんなで、フランスへ行こう。前進あるのみ、だ。これからも、ずっと、サッカーを愛しつづけよう。前へ、前へ。永遠に。
眼を閉じると、フランスの青空が見える。

〜 雪 〜


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