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さあ11.8 国立で“France”への扉をみんなで開こう。
雪のお話は「RISING SUN」
1997年11月1日。ソウル、蚕室オリンピックスタジアム。午後5時をまわった頃、試合終了を告げるホイッスルが響いた。その瞬間、思わず私はその場にうずくまってしまった。涙が止まらない。とにかく泣けて仕方がない。夕陽が辺りを照らしている。照り返した芝の上には、誇らしげなサッカー日本代表の姿が在った。0−2。韓国に得点を許す事なく、日本は完勝した。
10月31日。早朝7時に新宿を発つ成田エクスプレスに乗るため、超野人の女の子2人が自宅に泊まっていた。朝、出発の時、「雪さん、本当にその格好で行くの」と言われた。代表ユニに、代表のウィンドブレーカー、そしてアディダスの青いロングコート。私はそんないでたちで、成田を出発した。総勢12名の超野人倶楽部ツアー。ひと目で代表サポとわかる私を見て、ついには、ソウルの空港の税関の人まで、『ウルトラ・ニッポン?』と聞いてくる有り様だ。それに対して、親指を立てて『ウルトラ・ニッポン!』と答えると、『トゥモロー、ナイス・ゲーム!』とにっこり笑い返してくれる。ソウルの市内も、私は青い格好で歩きまわった。確かに視線は多少痛かったものの、呆気に取られるぐらい、韓国の人たちは友好的だった。
11月1日。快晴。しかし吐く息が白くなるほどの寒さだ。午前10時すぎに、蚕室オリンピックスタジアムに着いた。辺りは赤い韓国サポーターで埋め尽くされている。西側のゲートに日本人サポーターが集まると聞いていたのだが、場所がよくわからない。スタジアム周辺を歩き回ったのだが、まずその広さに驚いた。確かに国立も広いが、蚕室も凄い。タクシーを拾って、反対側まで回ろうかと一瞬本気で考えたぐらいである。日本サポの集団にたどり着くと、知った顔があちこちに見えた。立ち話をしていると、次々と声を掛けられる。みんな、蚕室までやって来たのだ。今日のゲームはただの試合ではない。対韓国戦というのは、お互いに負けたくないという思いもある。そのうえ、万が一、今日、日本が負けるような事があれば、本当にそれでフランスは夢のまま消えてしまう。どうしても負けられない。何が何でも、勝つんだ。そんな気迫を、海を越えてやってきたサポーターたちから、強く、感じた。
12時、開門。1階席のブロック指定だった私たちは、7番入り口から入り、ゴール真裏、最前列に陣取った。フィールドに一番近い場所。ここからなら、声の限りに叫べば、選手たちに届くような気がした。続々と集まってくる、ツアーで来韓した日本人サポ。反対側ゴール裏、韓国サポーターたちは、早くもコールを始める。席の前に、「魂の日の丸」の断幕を貼った。2階席からは、同じ「魂の日の丸」のデカ旗を貼ってもらった。刻々とキックオフが迫る。ゴール裏の最前列で太鼓を抱える知り合いのレッズサポーターと目が合った。お互いに親指を立てて誓った。『今日はやってやろう』。拡声器で応援の指揮を執ってくれた植田朝日君が、闘いの歌、『ウォーリアー』を叫ぶ。それに合わせる1万を越える日本人サポ。今日はとてつもない日のような気がしてきた。国歌の斉唱、そしてイレブンがピッチに散る。鳥肌が立ってきた。いよいよ、運命のキックオフだ。
午後3時。開始早々から、日本は攻めた。攻めて攻めて攻めまくった。日本が完全に中盤を支配している。名波、相馬が左サイドを切り崩す。井原がヘッドで飛び込む。おとりになるカズ。執拗にボールを追う北澤。誰も足が止まってなんかいない。そして相馬の美しいセンタリングからの名波のゴール。早い時間の先取点、というのは、9月7日のウズベ戦と同じだ。立て続けに得点をしたい。だが相手が韓国だ。そう一筋縄ではいくまい。だが、日本はその攻撃を緩める事がなかった。前半終了少し前。解説者風に言うならば、同点に追いつかれるかも知れない時間帯だ。その時、相馬のトリッキーなパスから、ロペスの追加点が生まれた。2得点を先行しての前半終了。これ以上のものはなかったと思うほどのデキだった。
ハーフタイム。6万人ぐらいはいたであろう、韓国サポーターは沈黙していた。山口は、『アウェーで勝つ事がこんなに気持ちのいい事だとは』と試合後話していた。多彩な波状攻撃から、2得点先取した日本。対する韓国は確かに、後半、怒涛の攻めを展開してきた。『本気だな』と思った。だが、日本だって本気だ。負ける訳にはいかないんだよ。ここでフランス行きを諦める訳にはいかないんだ。日本のために。自分のために。サポーターのために。サッカーのために。誇りのために。この日の選手たちからは、言葉にできない気迫を感じた。どこまでもゴールを目指し、何が何でも自陣ゴールを守る。そんな当たり前に聞こえても、難しいプレーが、90分にわたって、途切れる事なく、展開された。『絶対に負けない』。ピッチに一番近い位置で見ていて、私はそれを確信した。そして声の限りに叫びつづけていた。
蚕室スタジアムの電光掲示板の時計は、カウントダウン式だ。45分00秒から始まって、カウントダウンしていくのだ。あと10分。あと5分。何度も韓国のシュートが能活を襲う。『頼む、我慢してくれ』悲鳴のような声が飛び交っていた。あと3分、あと2分、あと1分…。最後の10秒のカウントダウンは、1秒ごとに、時計に目をやってしまった。その時だ。バックスタンドの1階席と2階席の間の隙間から、急に傾きかけた夕陽が差し込んで来たのだ。真っ赤な、燃えるような夕陽が、さっとスタンドを照らした。一瞬、その眩しさに目を覆いそうになった。なんて美しい夕陽なんだろう。日の丸の太陽のようだと思った。まるでRISING SUNのようだ。…不謹慎にも、そんな事が頭をよぎった瞬間、ホイッスルが鳴った。日本の完勝を告げる、ホイッスルだった。
どうしてだろう。涙が止まらない。その場に崩れおちた私の腕を、仲間がつかむ。やったよ、やったよ、と叫びながら、抱き合った。もう何が何だかよく判らないまま、『フランスへ行こう』をみんなで歌った。声がかすれてもう出ない。涙で喉がつまってうまく歌えない。『勝ったんだから、泣くなよ』という仲間の顔を見ると、なんだ、同じように泣いているではないか。違うんだ。勝って嬉しくて涙が出るだけではないんだ。強いサッカー日本代表をこの目で見る事ができて、こんなに素晴らしいゲームを目の当たりにできて、感動で涙が止まらないのだ。本当に幸せだと思った。周りの誰もが、涙でぐちゃぐちゃになったまま、笑っていた。泣き笑いの妙な顔で、歌い、叫びつづけた。フランス行きの切符を手にした訳ではない事なんかわかってる。だけどいいじゃないか。心が震えた。とにかく泣けて仕方がなかったのだ。夕陽が紅く照らすスタンドに、いつまでも『ニッポン・コール』がこだましていた。
サッカーを好きでよかった。日本代表を観てきて、信じてきてよかった。彼らは私たちの誇りだと思った。同じ血の流れる日本人の彼らのこの日のプレーは、感動の涙を誘うほどの素晴らしいものだったと思う。UAE戦を分けて、もうギリギリのところまで追いつめられたから、ここまでできた。もしかしてUAE戦を勝っていたらどうなっていたか判らない。…そんな話は結果論であり、愚論だ。韓国が1位勝ち抜けを決めていたからモチベーションが低かった?それもまた然り。そんな事は関係ないんだ。勝った。勝った。勝った。とにかく勝ったんだ。いいじゃないか。実に2ヶ月振りに近い、勝利なんだ。1位の韓国のホームゲームで、最後まで相手に得点を許さなかった。0−2で日本が完封勝利した。それだけが事実だ。
夢のようだと思うか?奇跡のドラマだと思うか?これは夢でも奇跡でもない。現実なんだ。苦しみ、闘い、勝利を求めてフィールドを駆ける日本代表がいて、そして彼らに勇気を与える私たちがいる。6万余名の韓国サポの声を掻き消すだけの声援を、蚕室の日本サポは送っていた。それは確かに代表の勇気となった事だろう。後半、日本側サポーター席の目の前で、能活がゴールを守っていた。ロスタイムに入った時、誰かが叫んでいた。『怖くないよ』『お前たちの後ろには俺たちがついてるから』。そう。私たちも、彼らと一緒に闘う事ができる。いや、闘っているんだ。そして日本国内をはじめ、世界中の日本代表サポーターの想いが、スタジアムのサポーターの胸に、一緒に在るのだ。
サッカーへのすべての想いが駆け巡る。はじめてスタジアムに行った幼いあの日。オリンピック予選。木村のフリーキック。マラドーナのドリブル。プラティニに惚れた日。そして4年前の「あの日」。11月1日。私たちは確かな新しい一歩を踏み出した。あの日、蚕室で見た眩いばかりの夕陽は、まるで新たな勢いを得たRISING SUNのように見えた。絶対にいける。絶対に大丈夫だ。馬鹿だと思うかも知れないが、そんな確信のようなものを、感じた。今日、UAEがウズベキスタンと分けた事によって、最終戦を勝てば、UAEの結果を待たずに自力で2位が決定する。8日、国立で、私たちの目の前で、フランス行きの「半券」を手にできるのだ。さあ。国立へ行こう!
眼を閉じると、確かにフランスの青空が見える!

〜 雪 〜


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