あおなこらむにようこそ

10月31日、私達“超・野人倶楽部”は韓国に向かいます。
このホームページを見てくれている全ての人の思いを胸一杯に積めて....
今回の雪のコラムは、「もう夢を見ない」
1997年10月26日、午後9時少し前。いつの間にか、スタジアムの時計の針は45分を指して止まっていた。ロスタイムはどれぐらいあるのだろうか。ロスタイムの奇跡は起こせるのだろうか。時間はまだかなりあるはずだ。全員で上がれ、日本代表。しかし、非情にもホイッスルが吹かれた。主審に駆け寄るカズ、名波。スタンドからは一斉にブーイングが起きる。アジア地区最終予選Bグループ、日本の第6戦は、終わった。
ゴール裏で呆然と立ち尽くしたまま、私はフィールドを見つめていた。監督やらコーチやらまでもが審判の方へ詰め寄っている。止まないブーイングの嵐。ペットボトルや発煙筒までが投げ込まれている。騒然とした雰囲気の中、フィールドに飛び降りた人までいた。泣いている人もいる。私は訳のわからない感情に苦しんだ。悲しい?悔しい?腹立たしい?どれも違うような気がする。一体これは何なんだろう。答えを探そうとした。
試合終了後、一部サポーターが暴走を始めた。生卵、十円玉、そして椅子。様々な人から話は聞いたが、私はその時の状況を詳しくは知らない。マスコミの報道によって、知りたいとも思わない。ただただ、怒りと情けなさで一杯になった。しかし、それは行き場のない感情である。選手たちを取り囲んだ人たちを、単純に否定するつもりはない。一言でいうならば、「その気持ちもわかる」といったところだ。そうなってしまったのは何故か。その原因は一つ。「弱い日本代表」のせいだ。これが現実なのだ。
いつからこうなってしまったのだろう。空回りを続ける日本代表。まるで戦後の、日本社会を鏡に映したような構図が、そこにはある。経済的には満たされた。頭脳も知恵もある。独自の文化もある。しかし、どこか楽しそうには見えない。必死に何かにすがっているようで、ゆとりが、ない。サッカーという、世界中で愛されているこのスポーツを、日本代表は今、楽しんでいるだろうか。ビデオで観るとよく判る。顔はひきつり、頭を抱え、そして私たちサポーターも同じだ。目を吊り上げ、挙げ句の果てには、いらだちから、短絡的な行動に出る。あの、最終予選緒戦に見えた「日本サッカーの新しい夜明け」は、どこへ行ってしまったのか。「強い日本代表」はどこへ行ってしまったんだ。私たちは、どこへ行こうとしているのか。日本は、どこへ行こうとしているのか。
敢えて言おう。私は、「夢を叶えよう」という言葉は、今は相応しくないと思う。今行われているのは、「W杯最終予選」という闘いであり、すでに「W杯」は始まっているのだから。日本代表がフランスへ行くのは、具体的な「目標」、あるいは「目的」である。私たちの想いも、「願い」でこそあれ、「夢」なんかじゃない。これは現実に進行中の闘いなのだ。諦める?悔しい?情けない?もう個人的な感情を論じている場合ではない。選手も、サポーターも、サッカーに携わる、そして日本サッカーを愛する全ての人たちよ、このままでは、日本サッカー界の危機となってしまうかも知れない。今こそ、今こそ一つになる事ができないで、他にどうしろと言うのだ。
カズを責めるのは、たやすい。ついでに長沼会長のリコール署名運動でも起こすか?それとも、韓国戦で、もしも負けたら、最終戦、カザフ戦をみんなでボイコットするか?いや、暴動を起こしにスタジアムに集まろうか。そんな事をしても、今は意味がない事ぐらい、子供でも判るはずだ。スタジアムに足を運ぶサポーターがすべき事では、ない。ここ一番、というゲームを分けてしまったショックは大きい。納得の行かないプレーや、目に余る選手も、いる。だが、その苛立ちや怒りを、自己満足に近い形でぶつけるのは、サポーターのすべき事ではない。悔しいのも、情けないのも、腹立たしい気持ちも、判る。私だって、3日も4日も、何も手につかず、いてもたってもいられず、バカみたいに国立を拠点に生活をしていた人間だ。しかし、だからと言って、私の労力のために何とかしてくれ、なんて気持ちは微塵もない。好きで勝手にやっているのだから。だからこそ、繰り返し言う。サポーターは、怒りや苛立ちから、短絡的な行動に走るべきではない。今、「サポーター」は、どんな事があっても、ポジティブな「応援」を止めてはいけないのだ。スタジアムのサポーターには、責任がある。
この期に及んで、なんで「ニッポン・コール」なんかするんだ。甘やかしてどうする。そんな生ぬるい感情が、代表を弱くしているんだ。そんな声も耳にした。今こそブーイングを。今こそボイコットを。そんな声を耳にする。それももっともな考えだ。
スタジアムに来る人みんなが、サポーターだと私は思う。ゴール裏自由席の人たちだけでなく、指定席の人たちもそうだ。大体、チケットは簡単には手に入らなかったのだから。徹夜をして並んでやっとの思いで買った人が殆どだろう。そうやってスタジアムに集まる人というのは、たったの5万数千人だ。その5万数千人のサポーターには、責任と義務があると思う。最後まで見届ける責任。最後まで応援を諦めない義務。行きたくても行けない人がどんなにいる事か。スタジアムで、この眼でゲームを見届ける事ができるのは、どんなに幸せな事か、改めて理解すべきだ。この際、星勘定は二の次だ。私は、自分はスタジアムへ行くからには、応援をする義務があると思う。だから、私はソウルでも、そして11月8日の国立でも、「ニッポン・コール」を止めない。
この夢から醒めるにはどうしたらいいのか?何かにがんじがらめにされたような、まるで悪夢のようなこの状態は何なのか。…もう夢を見ない事だ。これは夢なんかじゃない。現実で、私たちの記憶に焼き付き、歴史となってゆく事実なのだから。だから、勇気を持って。その一歩を恐れるな。もう失うものは何もないのだから、その一歩を恐れるんじゃない。簡単だ。声を出して、選手と同じように体を動かして、応援をしてごらん。何かが起こるから。簡単な事だ。「頑張れ」と声を掛けられて腹を立てる人がいるか?黙っていても、考えていても何も始まらない。スタジアムで、テレビの前で、声を出してみるんだ。もどかしい気持ちも、苛立ちも吹き飛ばすほどの声で、「ニッポン」と叫んでみるんだ。夢なんか見てる場合じゃない。あと2つだ。積年の想いを胸に、世界中のサポーターの想いを胸に、私はソウルへ行く。何千という日本サポーターが駆けつける事だろう。きっと何かが起きる。みんな、眼を醒ませ。夢なんか見てる場合じゃない。

〜 雪 〜


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