あかなこらむにようこそ

久々の「雪」のお話は、「プレッシャーの彼方に、ゴールはある」です。

間もなく、ワールドカップのアジア地区最終予選が始まる。あのハラハラドキドキの日々が、4年振りにやってくるのだ。吉と出るか凶と出るか判らないが、今予選は、ホーム&アウェー制になった。観る側にとっては、どの試合も観やすい時間帯であるのは助かるし、半分の試合が日本で行われるのは、嬉しい事だ。実際に試合を目の当たりにできる。白熱した好ゲームを期待したい。

サッカーは戦いである。これは言うまでもない。勝負事には勝つ事と負ける事の2つのどちらかしかない。チャンピオンの栄光をつかむ事ができるのは、たった一つのチーム、あるいはたった一人の人間しかいない。価値ある栄光の座。だからこそ尊いものであり、輝きがある。その頂点を目指して人は戦う。そして私たちは、栄光目指して戦うその姿に魅せられるのだ。
8月16日。駒場で福岡戦を観た。あの、こてんぱんにやられたゲームである。試合開始早々から、どうもレッズの動きは芳しくなかった。対する福岡。何がどう凄かった、という訳でもなかった気がする。あっさりとサイドを突破されたのは、決して福岡の上がりが素晴らしかっただけではなく、明らかにレッズの守りのミスだった。覇気が感じられない。福岡は全員で、チーム全体で勝ち取った勝利だった。レッズは、それぞれのマーキングを気にしているのだろうか。どうも選手の動きが固く、誰もプレスをかけに行かない。ボールを取っても、キョロキョロと辺りを見回し、おそるおそるパスを出しているように見えるのだ。どうした、レッズ。あっさりと先取点を許し、完全に中盤を支配されたまま、前半が終了した。
日本代表の話に戻そう。最近の心配事の一つなのだ。代表を見ていても、覇気のなさが気になってしまうのは、私だけではないはずだ。マスコミ等で言われ過ぎた決まり文句の様で嫌なのだが、「気持ちが足りない」ように見えるのだ。丁寧なパス回し、中盤からの押し上げ。狙いは解る。戦術的なものは理解できるのだが、何かが足りない。その何かを、先日の福岡戦で、確かに見たような気がする。
ハーフタイムの終わる頃。ベンチの前でアップしている選手が二人いた。堀と岡野だ。岡野は、例の「目覚し時計遅刻事件」の後スタメンを外され、この日もベンチでキックオフを迎えた。代表落ちも囁かれ、心中穏やかではなかったのかも知れない。この日の岡野には、目を見張るような躍動感があった。中盤から前線のスペースを縦横に動き廻り、執拗にボールを追った。キープすれば、相手DFを振り切るには十分すぎるスピードでゴールライン際まで駆け上がり、矢のような鋭いセンタリングを上げた。正直に言うと、いつもの岡野よりもはるかにデキが良かったと思う。『俺はこれだけできるんだ。』『俺はこんなもんじゃない』そんな思いが伝わってくるようなプレー。彼の動きに触発されたのかどうかは判らないが、岡野の投入後、明らかに全体の動きが良くなったのも、事実である。
翌週、8月23日。神戸戦を観に行った。前半、私はじっとフィールドを見つめたまま動けなかった。ボールの支配率は、圧倒的にレッズだ。中盤も完全に押し上げている。ギドが攻め上がっても、きっちりと土橋、堀、そして西野がフォローしきっていた。惜しいチャンスが度々訪れる。しかし決定打にはならない。一体、何なのだろう。何だか消化不良のまま、前半が終わろうとしていた。そんな時、最前線で、大声を出している男がいた。福田である。「もって来い!」「上がれ!」何を言っているのかは、歓声にかき消されて判らない。しかし、厳しい顔をして、福田は度々叫んでいた。
サッカーは戦いである。場合によっては、「戦争である」と言ってもいい。国によっては、サッカーは宗教でもあり、信仰であり、選手が神である事だってある。南米やヨーロッパでは、スタジアムで激しく美しいプレーを繰り広げる選手たちを観るために、観衆が押し寄せ、そして熱狂し、酔いしれる。逆に不甲斐ないプレー、ゲームに対しては、容赦ないブーイングが起きる。そしてもちろん、彼らにとって、最高の舞台というのは、他でもないワールドカップを指す。国力を挙げての戦い。世界最高峰の戦い。時に、その戦いの場は、戦場と化す。ボールを相手ゴールに蹴り込む事、そして相手に得点を決して許さない事に集中し続ける90分間の戦争である。
23日の神戸戦。結局、福田は2ゴールを決めた。特に2得点目でのプレーは素晴らしかった。福田のゴール前での感覚、センスは特筆すべきものであると思う。昔、日本リーグで鮮烈なデビューを飾り、新人王を獲得した福田を見た時、目が醒めるような衝撃を受けた。彼は、スター性を持った素晴らしいストライカーである。外国人選手が引っ張ってきたJリーグで、初めて、日本人としての得点王の栄冠に輝いた。しかし、である。彼は期待と才能の狭間で、怪我を繰り返した。致命的だったのは、昨シーズンだ。一年を通じてのリーグ戦のなかで、レッズは最後まで優勝の可能性を残し、チーム発足はじめての単独首位にもたった。それが肝心な時に攻撃力が足りず、得点出来なかった時、オジェック前監督が繰り返し口にしたのは、「福田というストライカー」の存在であった。それほどまでに福田に対する期待は大きく、福田は確実にそれに応えるべくして活躍をしてくれた。彼が昨シーズンの殆どを参加できずに過ごした事。その事に対する彼の心のうちは、計り知れないものがある。
怪我で選手生命を断たれてしまうサッカープレーヤーは、少なくない。福田が昨シーズンを苦しみ、だからそれをバネとした今期のゴール量産がある。私が言いたいのは、そう言う事ではない。期待と挫折。栄光と絶望。どんな小さな事でもいい。そうした対比の中で、常に己に強い信念を持ち続け、戦いを続ける事は、簡単ではない。妬む事や羨む事、憎む事は簡単だ。言い訳もたやすくできる。福田を見ていて、岡野を見ていて、そんな事が頭に浮かんだのだ。諦めずに戦う。前に進む。口で言うよりも、それを実行するのは、とても難しい事なのだ。
ゲームには勝ちか負けしかない。繰り返しになるが、栄光の座はひとつしかない訳だから、その「たったひとつ」を目指して戦う姿に、私たちは魅せられるのだ。その戦い方が本気である事は、必然である。必死である時、そのときには勝利の女神は微笑むかも知れないし、人間の限界を超える事ができるかも知れないし、記録と歴史は生まれる。苦しさの中でも何かを求め続ける事をやめない。「勝ちたい」「勝つんだ」という気迫が勝利を呼び込む事もあるし、スタンドで勝利を願う観衆の心が選手たちの勇気となる事だって、決して少なくはないのだ。私たちが、あれだけの苦汁を舐めつづけたレッズに心からの声援を寄せるのは、彼らのひたむきなプレーに惹かれるからではないのか。だから彼らには決して何があっても諦める事をしないで欲しい。日本代表チームも同じだ。ありふれた言葉だが、この世に不可能は存在しない。どんな苦境に在っても栄光を求め続けて欲しい。埼玉信用金庫の福田がモデルになっているポスターには、小さく、こんな言葉が書かれている。『プレッシャーの彼方に、ゴールはある』。

〜雪〜


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