歪む時間 <5>




(十二)

 普段ならば、部屋を空ける時は二重に鍵を掛けて行く。だが、部屋から逃れる様に外へ出てしまった今回は、閉めた途端に動作したオートロックの感触だけで済ませてしまって、もう一つの鍵を掛けるところまで頭が回らなかった。

 アパートの前に立ち、そこから見えるドアの開いている自分の部屋。
 デュオが動けた筈はないから、多分誰か、何者かが部屋に入ったのだ。

 もし部屋に誰も残っていないのであれば、別に留守中に何者かが侵入したとしてさしたる問題はない。部屋には何も置いていないし、唯一盗まれて困りそうなパソコンも、別の人間が起動させればデータが消える様に設定してある。
 しかも、今の自分にはそこまでして守る様なデータもない。

 だが今は。

 あの部屋にはデュオがいる。
 自分で動く事が出来ないデュオが。

 不吉な考えに全身が凍り付く。他の者の眼に、何の抵抗も出来ないデュオの姿が映ったならばどうなるか────想像さえしたくない。
 急いで階段を駆け登り、部屋へと急ぐ。
 ドアに手を触れた時には、既に利き手には銃を構えていた。

 真っ直ぐにデュオのいるベッドへと向かい、銃を前に突き出す。眼が、ベッドの上に動く人間の姿を捉えた瞬間に、指は引き金を引いていた。

 醜い悲鳴。醜い呻き声。
 大事な存在の上に被さる、醜い肉塊。

 すぐにそばへよって、蹴り落とす。ほぼ即死状態だった男の体はあっさりと転げ落ち、鈍い音をたてて床に投げ出された。
 ソレには眼もくれず、ヒイロはデュオへと視線を張り付かせじっとその体を凝視する。
 毛布から肌蹴られた体をすみずみまで見て、調べる。
 男がこの体に何をしたのか、それをとにかく確認しなければならない。

 やがて。身体中を見回し終え、男が触れる以上の事をしていない事を知ると、安堵の息を漏らして肩の力を抜いた。
 それからちらりと、伺う様にデュオの顔へ視線を向ける。
 デュオの瞳は開いていた。だが、その瞳はただ正面に向けられているだけで、こちらを見ようとしている様子はない。それが何故か信じられなくて、その瞳と向かい合うようデュオの目の前に自分の顔を出し、改めて顔を覗き込んだ。

 予想通り・・・やはりその瞳には感情のカケラも見えなかった。

 開かれているだけの瞳は、動く事もなく正面だけを映している。自分の顔は確かにその眼の中に映っている。

 だけど。

 見ていない。きっとこの空虚な瞳は何も見てない、感じていない。
 もしかしたら、自分の身に何が起こったのかも分からないのだろうか?

 ・・・動けないデュオ。
 だからこの体は自分の意のまま。
 だけどそれは、自分だけにではなく、誰にでも。
 目の前にいるモノ全てに今のデュオは抗う事が出来ない。

 人形の様に。
 なすがまま、これではただのモノと同じ。

 視線を落とし、一瞬だけ足元の男の死体に眼をくばせる。
 コイツが醜いだって?・・・そんなの、俺も同じではないか。
 自分の欲望を晴らす為だけにデュオを抱く。
 まるでそれだけの道具の様に。
 そうする事を自分で選んだ。

 ────違う。

 俺が手に入れたかったのは、こんなデュオではない。
 こんなデュオを手に入れる事に、一体何の意味がある?
 確かにこの手はデュオを抱き締められるけど、それが自分に何を与えてくれる?
 快楽と、絶望と、後悔と・・・。そんなモノを自分は求めていたのだろうか?
 ・・・・。

 頬に触れる。柔らかいカーブを掌でなぞる。良く見れば、前にくらべ幾分肉が落ちている気がする。
 何も映さない瞳。
 頬だけでなく、その瞳の回りも少しだけ落ち窪んでいる。・・・柔らかな印象を持っていた顔は、何時からか痛々しくやつれて瞳に映る様になっていた。

 誰がコイツをこんなにした?

 コイツが動けないのは誰のセイ?

 ────分かっている、全て自分のセイ。

 これでいいのか?いつまでもこんなデュオを見ているつもりなのか?

 いや。でも・・・。

 コイツは俺を許さない。欲しいモノは手に入る事はない。だから、せめて今この手にある体だけは手放せられない。この体を手放してしまったなら、自分には何も残らないから。

 ────だけど、お前は言った筈だ。これはデュオではないと。デュオでないモノを自分のモノにして、そのセイでデュオを殺してしまうのか?

 殺ス?

 冷静に考える心の一部が、感情に引きずられた自分を見下ろし断言する。

 ────そう、このままではデュオは死んでしまう。

 『死ンデシマウ』

 その言葉は氷の刃となってヒイロの精神を切り裂いていく。ぱっくりと開いた切り口が、真っ赤な血を流しながらさらに深く抉られる。流れた血は何故か冷たく、心の中を凍らせながら今にも溢れそうに血溜りを作って行く。

 ────分かっているだろ?これがデュオでないなら、デュオは何処にもいない。いない存在ならば死んでいると同じじゃないか?



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 (十三)

 体から、緊張が抜ける。
 ドサリという音がして、体の上の嫌悪の対象が取り除かれる。
 それから、瞳に入るヒイロの顔。
 怒って・・・いる?
 何故だか分からないけれど、ヒイロの顔は怒っている。
 だが、そう見えたと思ってすぐに、ヒイロの表情は別の感情を現して変化を見せた。
 怒りから哀しみへ。
 急激に色を失くした瞳が、哀しそうに自分を見ている。
 じっと、ただ見つめて。
 伸ばされた掌が頬に触れ、静かに、優しく撫ぜている。
 長いまつげに縁取られた群青色の瞳は、これ以上ない程に大きく開かれ・・・自分の顔を映し揺れていた。やがて、その瞳から力が抜ける様に、次第に瞼が閉じられて行く。
 震える瞼、震えるまつげ。頬に触れる手までもが細かな震えを伝えて来る。まるで、耐えられないという様に。
 閉じられる瞳と同時に、ヒイロの顔までもが俯いて視界から見えなくなってしまう。暗い色の髪の毛が、見えない顔の代わりに視界の中で揺れる。

 「・・・・・クッ。」

 引きつった声が聞こえた気がした。

 「ウッ・・・グ・・・クッ・・ア・・。」

 喉の奥から絞り出される様に紡がれるそれは、ヒイロのモノだと判るのに半瞬程の間が必要だった。

 何?

 ヒイロが顔を上げ、再び自分の顔を見つめている。これ以上ない程に眉を寄せて、歯を食いしばって・・・苦しげな嗚咽を漏らしながら見つめてくるヒイロの顔は、眼を逸らしたくなる程に辛そうだった。

 「デュオ・・・。」

 嗚咽の声と混じりながら、呼び掛ける言葉は掠れている。

 「デュオ・・・ッ。」

 前の声よりも更に掠れ、切れ切れとも言える程小さな声で。まるで、喉の奥だけで言葉が霧散してしまったかの様に。
 そんな声で・・・再度、ヒイロは自分の名前を呼んだ。

 何故?ヒイロ。
 何故、お前がそんな顔をして、そんな声を出して・・・違う、そんなのお前じゃない。
 見ているだけで、こちらまで辛くなる。
 ────お願いだ、そんな顔をしないでくれ。
 
 吐き出された声と共にヒイロは頭を落とし、ガックリと項垂れて又その表情が見えなくなる。
 ただ、視界の隅に映るダークブラウンの頭と肩が、嗚咽の声に合わせて震えているのは分かった。

 ────もし今、この体が動くのならば、きっと自分は目の前のヒイロを抱き締めてしまう。・・・憎い筈のコイツを。理由なんて分からない。ただ、そう思う。

 ひくり、ひくりと、声と共に上がる肩。
 泣いているのだろうか?・・・まさか。ヒイロの泣いている顔なんて思いつかない。
 確認したくはあったが確認したく無い。本当にヒイロが泣いていたらと考えたら恐いのだ。
 聞きたくなどないのに、苦しげなヒイロの声はハッキリと耳へと聞こえて来る。声と共に感情を伝えて動く肩・・・。

 やがて、見ている内に段々とその動きは収まっていく。
 それがある瞬間急に止まり・・・ヒイロの顔が視界へ戻る。
 先程より、幾分落ち着いた瞳で。だけどやはり辛そうにして。少なくともその頬に涙の跡がない事に少しだけ安心感が湧き上がる。
 ヒイロは細めた眼で自分を見つめ、静かに言葉を吐き出した。

 「分かっている。動けないお前はお前じゃない。・・・だが、それでも、俺はお前が欲しかった。理由も、方法も分からなくても・・ただ、欲しかった。」

 自嘲するかの様な苦い笑みを顔に浮かべ、ヒイロは瞳を閉じた。
 ああ・・そうだ。俺を最初に抱いた時も、確かにお前はそう言った。『欲しかった』────と。そう、お前はただ俺を求めていただけだった。

 自分の頭のすぐ横に下ろされているヒイロの手が、震えて枕に振動を伝えてくる。閉じた瞼もまた震えている。無理な笑みを浮かべていた唇もいつの間にかきつく引き締められ、僅かに見えるスキマからは力いっぱい噛み締められた歯が見える。

 「手に入れたかった・・・お前をッ・・・だが・・・違うッ、俺は・・・。」

 それ以上の言葉はもう言うことが出来ないのか、全てを言い切る前に口は固く閉ざされた。

 全てが間違い────だった。

 お前は俺を求めてくれただけ。だけど、その方法が分からなくて、こんな事になってしまった。
 そして多分・・・俺がずっと逃げていたのも、お前を追い詰める事にしかならなかった。お前の為に良かれと思ってやった事が、実はただお前を追い詰めるだけだったなんてな・・・。

 ────俺モ、オ前モ、間違ッテシマッタ────。

 キーワードが心の氷塊を溶かして行く。今程、微笑みたいと切に願った事はなかった。
 微笑んで、ヒイロのあの哀し気な瞳を安心させてやりたい、と強く心に願う。
 だが、それでも・・・顔の筋肉はおろか、本来動く筈の瞳にも・・・今の自分の意志を映す事は不可能だった。
 ヒイロには何も伝えられない・・・。




 静かに顔を近づけ、ヒイロが触れるだけのキスをしてくる。
 唇はすぐに離して、耳たぶを軽く舐める。

 「俺を殺してもいい。逃げてもいい。これが・・・最後だ。」

 そういって、少しずつ体を重ねて来る。少しずつ触れて来る。
 今まで以上に優しく、壊れ物を扱う様にそっと、体に熱を与える作業を施して行く。
 だけど、時折見えるその表情は見ていられない程哀しそうで、心を掴む様に締め付けて来る。

 ヒイロ、ヒイロ。

 名を呼べない今の自分がもどかしい。
 すべてを閉ざし、瞳の感情さえ既に放棄してしまった自分が悔しかった。今の自分には、ヒイロに何も伝えてやる事が出来ない。

 全身が熱に包まれ、意識にまで侵食を始める。
 身体が快楽を求めて昂ぶりを顕にする。
 体の奥にヒイロの熱を感じて。今ならその快楽を、心までもが受け止められる。
 既に痛みを押しのけ脳に選り分けられた、切ない快感だけを感じて。

 「許されようとは思わない・・・けれど・・・すまなかった。」

 体の感覚に押し流されて、虚ろになりながら耳にヒイロの声が聞こえる
 霞がかった意識の中、頬に落ちた冷たい感覚は、ヒイロの涙だったのかもしれない。

 「だけどもし・・・いや。分かっている、俺には望む資格がない。」

 言葉は途中で打ち切られ、それきりヒイロは口を閉ざした。

 もし?
 もし・・・なら、どうするんだ?

 最後にもう一度キスをして、切なそうに微笑んでから、ヒイロは離れていってしまった。



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  (十四)

 既に完全に日は落ちて、辺りが暗闇に包まれる中、男の死体を処理して帰ってきたヒイロは今、アパートの前に立っていた。
 ここから見える自分の部屋・・その窓に、明かりはついていなかった。

 行ったか・・・。

 心の中にぽっかりと穴を空ける喪失感。それは余りにも大きく心の中を占めていたけれど、あれほど自身を苦しめていた凍える様な冷さは、今はもうない。

 デュオは行ってしまった。もう、この手に触れる事は一生適わないかもしれない。
 いい聞かせる様に、頭の中で何度もその言葉を反芻する。心を包む哀しみは、確認する毎に辛さを引き連れ、薄れる事など有り得なかった。でも、それは全て分かっていた事。
 それでも、やはりデュオはデュオであって欲しい、そう思ったから決心がついた。
 そう。
 もう、会えないかもしれない、けれど、会えるかもしれない。
 もう、自分を呼んでくれないかもしれない、けれど、呼んでくれるかもしれない。
 自分がヤツにした事を考えれば、可能性はゼロに等しい。────でも決してゼロではない。
 そんな僅かな可能性にかけるつもりはなかったが、それでもゼロでなければ決心が付く。

 最後と決めてデュオを抱き、男の死体を片付ける為に部屋を去った。もうすぐ薬が切れる時間と知っていながら、薬を打ち直す事をせずに。

 暗い空、既に薬は切れている。それでも部屋が暗いままなのは、あの部屋に誰もいないという何よりの印。

 分かっている。予想通りの答えが返って来ただけ。
 デュオはいない。あの部屋にはいない。────俺の前にはいない。

 突きつけられた結果を受けて、筋肉からは緊張が抜け落ちる。
 彼らしくない力ない足取りで、ゆっくりと階段をあがって行く。

 部屋の前。
 鍵を解除し、ドアノブを掴み、気怠げにドアを開く。顔は下を向いたまま。

 「よォ、おかえり。」

 気配を掴むより前に掛けられた声に、ビクリと肩が跳ね上がった。
 信じられないモノを見る様に、ヒイロが眼を見開いて前を見つめる。
 部屋の中。暗闇に浮かぶ銀色の鈍い輝き。真っ直ぐ自分に向けられた・・・相手の突き出した手の中の銃口。
 暗闇と同じ服と帽子を纏って、いない筈の人物が自分に銃を向けている。全てを闇に包まれて、肌色の顔と腕だけが影の中に浮かび上がっている。

 アア、俺ヲ殺ス為ニ待ッテテクレタノカ。

 その時心に浮かんだ感情は、喜び、だったのだろう。気がつけば口許が笑みを象って暗闇の中の影を見つめていた。

 影の中に浮かぶコバルトブルーの澄んだ瞳が、真剣なきらめきを湛えて自分を見ている。
 自分の姿をその中に映して、強い意志を宿した『生きている』瞳。
 その瞳を一秒でも長く見ていたかったから、眼を閉ざさずに、じっと視線を合わせたまま銀色の銃口が火を吹く瞬間を待つ。
 不思議と、感じるのは喜びだけ。
 あの瞳を見ながら死ぬなら後悔はない。

 だが。

 ・・・銃口は向けられているだけで、何の変化もない。
 いくら待っても、何も起こらない。

 「・・・なァんてな。」

 突然、影を背負う帽子の下の瞳がその中から殺気を消す。細められた瞳は、明るい輝きを放って和む。
 恐ろしく久しぶりに見た気がするデュオの笑顔。
 あの時はあんなに怒りを覚えたデュオの笑顔が、今はデュオらしさを強調している様で嬉しかった。思わず眼を細めて見とれてしまう。

 デュオは、そのヒイロの瞳からちょっとだけ眼を逸らして、しかしすぐに視線を戻すと、手に構えていた銃を指先でくるりと一回転させて腕を下ろした。

 「何故、撃たない?」

 デュオの、デュオらしさを纏う動きを眼で追ったまま、ヒイロの口からは意識せず言葉が漏れた。
 言われたデュオは、一瞬困った様な笑みを浮かべてから、真剣な面持ちをヒイロに向けて口を開く。

 「なぁ、ヒイロ。お前さ、俺に言いたい事があるんじゃないのか?」
 「何?」

 驚いて問い返すヒイロを見て、デュオは大袈裟に溜め息を付くと、また真剣さの剥がれた瞳で笑みを浮かべる。今度は優しげな微笑みで。

 「ヒイロ。確かにお前が俺にやった事は許せないさ。でも、お前には理由があったんだろ?その理由を俺に教えてくれ。言葉に出していわなけりゃ、俺は何も分からないんだぜ?」

 な、と茶化す様にウインクをする、デュオの瞳に憎しみはなかった。


***************************


 ちゃんと、笑えただろうか?いつもの様に、顔はちゃんと笑顔を作れただろうか?
 体が動く様になって最初は、体の各所を動かす度に違和感が沸き、感覚を取り戻すのに苦労をした。頭に残るかつて動いていた時の感覚に、全く運動をさせずにいたセイで低下した筋肉がついてゆけず、どうしても自然に体を動かす事が出来なかった。だから今でも動きがギクシャクしてしまうのは仕方がない。

 だが、それでも体の方はまだ良かったのだ。

 薬による強制的な行動の停止は、解かれてしまえばそれで済む。だが、自ら放棄してしまった感情の表現方法は、顔の筋肉が動く様になっても簡単には取り返す事が出来なかった。

 部屋を出る前のヒイロの顔。哀しそうで、辛そうで・・・全てを諦めた笑みを浮かべて去っていった。
 そんな表情のヒイロなんて見たくない。だから、絶対に帰って来たヒイロには笑顔で話し掛けたかった。

 大丈夫だから。ヒイロ。
 大丈夫、俺はお前を憎んでなんかいない。
 分かっているから。お前が俺を求めてくれた事は嬉しかったから・・・俺が、お前をそこまで追い詰めたのは分かったから・・・だからもう、ただ去ってなんて行かないから。そんな顔、しないでくれ。

 頭の中の記憶を探り、かつては無意識に出来た事を意識してやってみる。
 口を開き、声を出して言葉を出す、体を上げて手と足を動かす。
 普段《こうやれば動く》なんて考えずに出来た事な分、意識してやってみるとどうやるのが正しいのか自信がなくなる。
 だが、体を動かす事に関しては、違和感は拭えなくとも確認しながら出来る分、まだ慣れやすいのだ。・・・それが表情となると、一々自分でそれが出来ているかを確認する方法がない。しかも、実際は眼だけとはいえある程度表現出来たモノを自分で放棄してしまっていたから、笑おうと思って顔の筋肉を動かしても、どうしても眼までもがちゃんと前と同じに笑っているか不安になってしまう。

 笑えているだろうか?
 ヒイロには、自分が笑っている様に見えるだろうか?
 もし、笑えていなかったなら、ヒイロはまたあの辛そうな顔をしてしまうかもしれない。

 笑い掛けてヒイロを見ると、ヒイロは驚きと困惑と、そして何処か喜びを感じさせる表情で自分を見ていた。あの追い詰められた哀しさは、少なくとも顔からは消えていて、安心の為自分の頬の筋肉から力が抜けるのが分かった。

 じゃぁヒイロ、今までのは全てチャラにしよう。
 俺はもう逃げない。少なくとも、自分で勝手に決めていなくなったりなんかしない。
 だから今度こそ、お前は間違えないでくれよ。
 そうすれば、やり直せる筈だから。

 ヒイロの眼をじっと見つめて微笑む。今度の笑みは、意識しなくても出来たと思った。




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 (十五)

 「俺は、お前が欲しかった。」

 じっと、真っ直ぐにデュオの瞳を見つめてそう一言だけ言う。それを受けて、デュオが抑揚のない声で尋ねかえす。

 「俺の・・・体が?」
 「違う!!」

 ヒイロはらしくない大声を張り上げて否定した。
 それだけじゃない。
 確かに自分の行動はそう取られても仕方のないものだと自覚はしている。けれど、違う。
 予想以上のヒイロの激しい反応に、デュオは瞳を大きく開けて首を竦める。

 「ああ、分かってる。」

 軽く瞳を閉じて、口許に笑みを浮かべて穏やかな声で、そう、一言だけ返す。

 「じゃぁ、何が欲しかったんだ?」

 すぐに眼を開いて、視線で伺いながら再び問いかけて来る。

 「全て。」
 「全て?」

 顔を近づけてデュオが自分の言葉を繰り返す。その声は優しくて心地好く耳に響いたけれど、なんだか保護者が子供に話し掛ける様な響きが少しだけ神経を逆撫でた。だから、近づいて来た顔を両手で掴み、さらに引き寄せて今にも触れ合ってしまう程の目の前でじっと瞳を凝視して答えを返した。

 「お前が全て欲しい。体も、心も、その仕草も、視線も・・・全部。」

 デュオの顔が、途端に朱く染まる。視線をずらそうとして動く顔は、固定してさらに引き寄せた。ゆっくり、ゆっくり、互いの吐息が唇に触れ、ついには唇同志が触れ合うまで。
 柔らかな唇の感触を自分の唇で感じ、それから少しだけ口を開いてその唇を軽く舐める。開く事を催促されたデュオの唇は、拒絶を返さず素直に薄く開かれる。滑り込んでいくヒイロの舌を受け入れて、デュオの口内で互いの舌が触れ合い、その存在を確認し合う。一方的なキスでなく、相手からも返される本当のキスに、ヒイロは飽きる事なく何度も求めた。

 「ったく、お前って本っ当に言葉よりも行動が先に出るのな。」

 やっと離された唇をぺろりと舐めて、デュオが呆れ顔で悪態を付く。口許から流れる唾液の跡を手で軽く拭いて、視線を落とし溜め息を付く。

 「それにしてもな・・・。」

 再び顔を上げて自分を見る瞳には、又、諭す様な真剣な光があった。

 「なんで、俺なんかを欲しがるんだ?・・・お前にはもっと別に手に入れるべき人がいるだろう?」

 それが暗にリリーナの事を言っている事は、ヒイロにもたやすく想像出来る。だが、それに答えるよりも先に心の中には理由のない怒りが込み上がり、それに促されるまま、一度離した手を伸ばし、又デュオの顔を掴んで引き寄せた。

 「”べき”なんて言葉をお前に言われる筋合いはない。自分の事は自分で決める。俺はお前が欲しいと思ったからそれに従う。それだけだ。」

 気迫で睨み付けるヒイロの瞳を受けて、デュオは視線だけを逸らすと、ヒイロにかろうじて聞こえる程度の小さな声で文句を言い出した。

 「・・・だからお前は行動が突拍子もないんだ・・・まったくさぁ・・・」

 煩げに眉を寄せるヒイロを無視して、ぶつぶつと尚も独り言で悪態をつくデュオ。暫く放っておいてはみたものの、終わりがある事を感じさせないデュオの文句にヒイロも業を煮やし、手で口許を覆って無理矢理言葉を止めさせた。
 手を掴んでもがくデュオを見下ろしながら、今度はヒイロの方が問う。

 「答えは?」

 驚いて、動きをぴたりと止めたデュオの口から手を離す。

 「お前の・・・答えは?」

 だがデュオは何も言わない。言葉を出さずに表情だけが苦そうに歪められる。

 「俺はお前に言うべき事を言った。だから今度はお前が答えろ。」

 それでも答えず、デュオはただ困った様な顔をしている。口を開いては思い直して閉じ、また開いては閉じるというのを何回か繰り返し、それからやっとの事で言葉を出した。

 「ヒイロ、あのさ。俺が欲しいっていっても俺なんかより・・・。」

 まだそんな事を言ってるのか?

 「答えだ。」

 ぴしゃりと、デュオの言葉を打ち切る。

 「お前が欲しいと言った、それに対する答えを言え。」

 瞳には険悪な雰囲気さえ漂わせて。
 声には底の深い怒りが見え隠れしていた。
 流石にデュオも覚悟を決めて、眼を閉じ、眉を顰めて大きく息を吐き出すと、閉じる前とは打って変った強い眼差しでこちらを見つめ口を開いた。

 「お前の事は嫌いじゃない。これだけ言ってもお前が俺の事を欲しいっていってくれるのに悪い気はしちゃいない。だがな、俺はちゃんとした自分の意志を持った一個人で、『欲しい』っていわれてもモノみたいにやるワケにはいかないんだぜ。」

 言い聞かせる様に大人びた表情でデュオが言う。聞き分けのない子供に言う口調が気に入らなかったが、それでもこの言葉が本音だと判るから苛立ちだけは収まる。

 「嫌い、じゃないんだな?」
 「ああ・・・まぁそりゃ・・・お前があんな事しなけりゃって前提で・・。」

 その言葉でヒイロの瞳に翳りが落ちる。

 「分かっている。・・・あれは俺が悪かった。」

 急に瞳の色をなくしたヒイロの表情に、デュオはその大人の仮面を被った顔のままでいられなくなってしまった。
 途端、作った表情が崩れ落ち、困り切った苦笑いを顔中に張り付かせる。

 「えぇっと、だから要はあれはまぁ、間違いって事でもうやらなけりゃそれでいいけど、それがなければお前と居るのも嫌いじゃないんだから・・・。」
 「なら、俺と居てもいいんだな?」
 「え?」

 デュオが、眼を見開いて頬を引きつらせる。
 デュオは自分を嫌っていない。少なくとも、それが分かっていれば心に枷はない。

 「お前が居れば俺はいい。無理にでなく、逃げないで、お前が自分からいてくれるなら、それで俺の望みは果たされる。」
 「・・って、あのなぁ・・。」

 呆れた表情で口を開けたまま肩を落すデュオ。
 だけれどすぐに苦笑まじりの微笑みを返すと、しょうがないなぁという様に頭を掻いて帽子のつばを引き顔を隠した。それから、口だけにやりと笑みを浮かべ、静かな声で言葉を続けた。

 「分かったよ。お前と一緒にいてやる。だけど、別にお前のモノになったワケじゃないからな。モノ扱いじゃなくて、ちゃんとこっちの意志も尊重してくれよ。」

 言い切って帽子を脱ぎ、不貞腐れた顔で手に持ったままの帽子をくしゃりと握り潰す。それを見るヒイロの口許に笑みが浮かんだ。

 「ああ。」

 とにかく、手の中に居る、今はそれでいい。
 自分の顔を見て眼を丸くするデュオの顔を引き寄せて、再び唇を重ねる。受け入れられる唇の感触と、背中に回されたデュオの腕が、心に、かつて感じた事のないの陶酔感を与えてくれた。


 
***************************


 「ヒイロ・・・。」

 ヒイロの耳にデュオの声が届く。荒い息に掠れた、聞いた事もないデュオの艶を含んだ声。その声だけで身体中の肌がざわめき、快感が背筋へ上る。何度も抱いた筈なのに、反応を返してくれる今は、それまでとは格段に感覚が違う。
 体のラインを唇で滑ると、肌の痙攣とデュオの漏らす微かな声が、触覚と聴覚の両方から自分の体を煽って来る。
 吹き出す汗を拭く事もなく、上がる息を整える事もなく、ただ肌の感触を夢中になって追い掛ける。時々、本人の意志で動かせるデュオの手が、行為を拒んで止めようと触れて来るけれど、その度にさらに強く体に刺激を与えてその手が来るのを阻止してしまう。
 途中まで伸ばされた手が、それ以上伸ばす余裕もなく力一杯拳を握り締めて耐えようと小刻みに震えている。それは止めようと手を伸ばす度に繰り返されて、回を重ねる毎に手の震えは大きくなっていく。・・・そんなやり取りさえも心を沸かせた。

 「おいっヒイロ、お前いつまで・・。」

 身体中に力を入れて、触れる箇所は何処も筋肉が強ばって固くなっていた。じっとりと汗を滲ませて、上気した肌はピクピクと痙攣を繰り返している。感覚を煽られ、敏感さを増したデュオの体は、今ならば何処を触っても過剰な反応を返してくれるだろう。

 「ウッ・・・。」

 自身に触れた途端、デュオは上半身を跳ね上げて、苦しそうにさえ聞こえる声を上げる。

 「ッツ・・・ア・・。」

 懸命に堪えているらしく、聞こえて来る声は殆ど音にならない。なんだか悔しいので、半ばムキになって刺激を与える手の力を増やしてみる。

 「──────。」

 耳に聞こえない、喉のずっと奥から空気だけが吐き出される様な声が上がり、デュオの体から一気に力が抜けた。
 ぐったりとベッドに倒れ伏し、肩で浅い息を繰り返すデュオを見ていると、益々こちらの情欲が掻き立てられるのが実感出来た。
 力の抜けた体を引き寄せ、腰を持ち上げる。

 「ちょっ・・・待・・おい・・。」

 荒い息に邪魔されながら、デュオが制止の言葉を掛けようとする。だが、わざとそれには聞こえないふりをして、そのまま体ごと自分を押し込め引き寄せた。
 
 
 
***************************


 
 一瞬、本気で息が止まるかと思った。
 動けない時にこの行為がもたらす苦痛を何度も経験していたから、手を握ったり声を出したり出来る今は多分前よりもマシな筈・・・などと思い込んだのは少し浅はかだったらしい。
 心の準備もそこそこで与えられた衝撃は、冗談ではなく余りの圧迫感と鋭い痛みで声を出す余裕もない。・・・ただ息が詰まって呼吸困難に陥ってしまった。

 「ヒ・・ロ。待てって・・。」

 尚も性急に行為を押し進めるヒイロに、懸命に制止の言葉を投げかける。
 痛みと、衝撃と、最初に呼吸を乱した時点でその後息継ぎがうまく出来ない。
 痛みだけでなく、肺があげる苦しさの悲鳴もどうにかしない事には最後まで自分がもつ自信がなかった。
 ヒイロはそれでも体の動きを止めはしなかった。
 が、しかし。デュオの眼が涙を流し、喉が苦しさの余り咳を引き起こすに至って、初めて行為を中断し、こちらの顔を見つめ直して来た。

 「悪い・・・ヒイロ、ちょっ・・・息が出来ない。少しゆっくり・・」

 痛みに霞む視界の中で、ヒイロの顔が驚いた様に自分を見下ろしているのが分かる。

 「・・・分かった。」

 短く返事をすると、言葉通り、今度は静かに体の動きを再開する。先程までただ痛みばかりが神経を切り付けるだけだった行為が、今度はじんわりとした疼きを伴って与えられる。
 疼きはやがて何か耐えられない様な甘い感覚に変わり、それが強くなるにしたがって痛みの方はまるで気にならなくなって来る。
 今度は慎重に、少しずつ、次第に大胆に移り変わっていくヒイロの動き。デュオも合わせてうまくその波に共に乗る事が出来た。

 「ウッ・・・ックッ・・。」

 我知らず、口からは声が漏れる。顔を思い切りのけぞらせて、晒された喉が声に合わせてひくりと強ばる。体の伝える感覚に任せ、頭の中までもが悦楽に支配される。

 もっと強く。もっと深く。
 互いの存在を快楽の中で確認し合う瞬間。
 互いが互いを求めて、嘘偽りなく、心も体も素のままで自身の存在を重ねる時。
 相手の呼吸を感じ、相手の心臓の音を感じ、相手の声を感じる。
 強すぎる快楽に目眩がする。
 もしかしたら、さっきのセイで頭がまだ酸欠状態なのかもしれない。
 ふと瞳を開けば、快楽に身を任せているヒイロの苦しげな顔が眼に入る。
 その顔が愛しくて首に手を伸ばして引き寄せた。

 「ヒイロ・・・お前、俺の事好きか?」

 切れ切れになる息の中、それでもやっとの事でそれだけを言葉にする。
 ヒイロは一瞬顔を見ただけで、返事を返しては来なかった。

 だけど、別にいい。返事が本当に欲しかったワケじゃない。

 快楽はさらに高い波を立てて感覚を昂ぶらせる。
 頭なんかとてもじゃないが何かを考えるどころじゃなかった。
 押し寄せる快楽の甘い感触を神経の全てを砥ぎ済ませて感じようとする。
 もっと、もっと、もっと・・。
 貪欲に求める体が、最後に歓喜の開放をして感覚の上昇に終止符が打たれる。
 心地良い虚脱感に、体が気だるさを訴える。

 体の軸に残る快楽の余韻に、静かに身を委ねて瞳を閉じた。


 
***************************


 「デュオ・・・。」

 唐突に掛けられた声。返事はしなかったが、耳を澄まして後の言葉を待つ。

 「お前が好きかどうかは分からない。だけど・・・。」

 そこで考え込む様に、言葉が途切れる。

 「お前がいないと考えるだけで辛くなる、お前がいるだけで安心出来る。こうしている今・・・俺は充足感を感じている。これが『好き』という事なら・・・そうかもしれない。」

 ああ、そうだな。
 背を向けたヒイロに向かって、心の中だけで返事をした。
 ・・・口許には薄く笑みを浮かべて。
 好きかどうかなんて大した問題じゃない。ただ、こうしている今、俺も何故か満ち足りた気分なんだ。
 
 ────だから・・・幸せ。
 多分、きっと、そう言えると思う、今を─────。


END




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