Silence <3>







 俺といると弱くなってしまうから────奴はそう言って俺といる事を拒絶した。

 それは確かに理解出来る。
 自分もかつて、奴の存在があるだけで心の平静を保っていられなくなった事があるから。その時の戦えない自分が許せなくてどうしようもなくなった事があるから────多分、弱くなりたくないという奴の考えは理解出来る。だが────。

 ヒイロは、普段ならばほとんど表情を映さないその顔を辛そうに歪めて下を向いていた。
 悲しげな瞳で別れを告げたデュオの顔が頭について離れない。

 「さよなら…ヒイロ。」

 その言葉も、今日だけでもう何回頭の中で繰り返されたのだろう。

 「くそっ」

 低く絞り出した声と共に、握り締めた拳を強く壁に押し当てる。強過ぎる力のせいで、手の骨が軋む感触が頭へと伝えられてくる。

 痛みでもいい。

 何か、強い感覚を感じていないと、自分の意識が現実を忘れて考えの中に落ちて行ってしまいそうなのだ。
 デュオと別れてから今まで、時間にすればつい昨日の事なのに、やけに長い間こんな事を繰り返している気がする。
 自分自身の感情が制御し切れない。
 あの時の事を思い出す度に、押し上げてくる行き場のない苛立ちに心を掻き乱されている。

 腹立たしい。
 ────自分に。
 何故────奴をそのまま行かせてしまったから。
 ならば何故、自分は奴を引き止めなかった?何故奴を引き止められなかった?

 ────分からない。だから止められなかった。

 奴が離れていった理由は分かる。
 だから肯定したのだ、別れる事を。だが…。

 …自分は…別れたくなかった。
 一緒にいて、いつでも傍でその存在を感じていたかったのだ。

 散々悩み、それだけはやっと自覚する事が出来たばかりのところだった。自分の感情に気付いたからこそ、奴に共にゆく事を告げたのだ。奴もそれを承知した────筈なのだ。少なくとも、あの時の奴の顔は微笑んでいた…。

 なのに突然、奴は自分から離れて行ってしまった。
 その理由の一つは良く分からなかったが、もう一つの理由は確かに理解出来る事だった。

 ────自分はそれに肯いた。
 奴が離れたいと言った理由を上回る様な、自分が奴と共にいる為の理由を言う事が出来なかったから。

 俺は…去って行く奴を引き止める事が出来なかった。

 胸に渦巻く苦しみは、かつてデュオを殺そうとまで思い詰めた時と同質のモノ。
 あの時はそれが何故か分からなかった。
 しかし今は分かっている。
 デュオという存在を求める想い。それを自覚していながら、離れる事を否定出来なかった自分への憤り。それらが大きく膨らんで、ヒイロの心に重い重圧を掛けていた。

 どうすれはいいか────分からない。

 どうする事も、出来ない。少なくとも今の自分に、奴を追い掛ける事は出来ない。


 「ヒイロ?」

 背後から掛けられる声がある。
 突然知覚された他人の気配に、ビクリと反応して慌てて後ろを振り向いた。
 普段の自分なら、こんなに近くに来られるまで気付かないという事はない。…今の自分はそれだけまともな状態ではないと言う事か。

 「どうしたんだいヒイロ…?今日はずっと一人で考え込んでいる様だけど…。そういえばデュオは?確か今日、2人で出発するって言ってたと思うけど…」

 デュオ。あいつは…。

 人の言葉で発せられる名前の響きは、ヒイロがいつも浮かべるものとは別のデュオの顔を思い起こさせる。
 それが悲しくもあり、腹立たしくもある。
 だがそれでも、そのビジョンに重なる言葉は、昨日からずっと繰り返されているデュオの最後の言葉、その一言だけしか聞こえてこない。

 ────さよなら…ヒイロ。

 ヒイロが、見る、というよりも睨む様な視線を声の主であるカトルに投げ掛ける。ただならぬ雰囲気を感じて、カトルの顔が不審そうな表情へと変わり、ヒイロを見る瞳に問う様な色がさらに増された。

 「ヒイロ?」
 「奴なら…出ていった」
 「え?」

 驚きを映して、カトルの目が大きく見開かれる。
 それを見て、ヒイロの瞳は益々険悪な光を放ち、カトルへ無言の怒りを向ける。
 だが、それでもカトルは問う事を止めようとはせず、瞳に責める様な色さえ含んで言葉を繋いだ。

 「出ていったって?…デュオ一人で?…だって、君達は二人で一緒に行くって…デュオは嬉しそうにそう言ってたよ。一体何故…」

 ダン。

 ヒイロがカトルの立つ横の壁を殴り付ける。
 言葉を切られたカトルが、表情を無理に消したヒイロの顔と正面から向き合う。
 感情を隠されたヒイロの顔、その中で唯一、心の内そのままを伝える瞳が、危険なほど激しい怒りの感情を映して無言の圧力を掛けていた。

 「奴が…俺といたくないと言ったんだ。俺といると弱くなるから…と。」

 怒りのままに吐き出された言葉は、最後まで言い切られる前に次第に小さくなってヒイロの口の中へと籠ってしまった。その声と合わせる様に、押し留めようとした感情が表面へと流れ出し、無表情の壁を作る事が出来なくなる。

 カトルの目の前で、ヒイロの表情が見た事もないものに変わってゆく。

 虚ろにさえ見える様に虚空だけを見つめ、大きく見開かれた瞳。
 苦し気に寄せられた眉。
 唇は震えて音をなさず、何かを呟こうとしている。
 半ば呆然として、カトルはそのヒイロの顔を見つめた。気付いたヒイロが隠す様に顔を背け、それでも震えているその肩を見て、カトルは初めて何かに気付いた様に、自身の表情を崩した。

 「ヒイロ…君は…」

 カトルの声が優しい響きを纏ってヒイロへと掛けられる。
 ヒイロを見つめる瞳にも、柔らかい笑みを浮かばせながら。

 「君は…デュオが好きなんだね?」

 好き────。背けて固く閉じていた瞳を開いて、ヒイロは驚愕で強ばった表情のままにカトルへと向き直った。押さえこむ限界を越えるギリギリだった感情のうねりが、潮が引く様に収まっていくのが感じられる。

 俺がデュオを好き?

 頭の中で何度も確認される様に反芻される言葉。好き────。好意とか好むとか、そんな意味じゃない、特別な存在としての好き────。
 知識としては知っていた。人を好きになるという意味。でも、今までの人生の中で、一度も感じた事のない感情。この想いこそが《好き》というモノ。
 感情を押さえていた枷が、やっと全て外された。そんな気がする。分からなくて、どうしようも出来なくて苦しかったこの感情────これが目的の言葉を得て一つにまとまる。

 俺は────。

 「多分…いやきっと、デュオも君の事が好きだよ。ヒイロといると弱くなるからっていうのは、ヒイロの事が好きだから、一緒にいると離れられなくなるから…それが恐いから…デュオはそう思ったんだ…」

 そこで、今までヒイロへ訴え掛ける様に向けられた視線が下へ落とされる。

 「…だから…離れた。」

 言葉を切って、再び顔を上げる。それから心配そうにヒイロの顔を覗きこむと、カトルは視線を正面からヒイロの瞳と合わせた。

 「だからヒイロ、君はデュオを追い掛けなくちゃだめなんだ。」
 「だが────。」

 カトルの声と重なる様に、言葉を聞いててすぐ、殆ど反射的にヒイロの喉から否定の声が絞り出される。困惑と苦痛に満ちた辛そうな表情がヒイロの顔へと戻ってくる。その顔は、ヒイロがデュオを好きだという何よりの証拠に思えた。

 「だが…俺には奴を追い掛ける理由がない。《弱くなりたくない》という奴の理由を否定するだけのハッキリとした理由がない。」

 そうだ、理由がない。
 自分にあるのは奴と共にいたいというこの感情────おそらく好きというこの感情があるだけ。理由などない。ただ奴をこの手に抱いて、奴の存在をいつでも感じていたい。それだけだった。

 「違う────違うんだヒイロ。」

 カトルが目蓋を閉じてゆっくりと首を振る。

 「理由なんていらない。好きならば────ただ、そう伝えるだけでいいんだ。それだけで全てが通じるから。”好き”だって…そう、一言いうだけでデュオは分かるから。分かる筈だから。君は、デュオを追い掛けて、その言葉をいわなくちゃならない。」

 ヒイロは瞳を動かそうともせずに、話すカトルの顔をじっと見ていた。
 だが、大きく見開らかれた目が本当に見ているのはカトルの顔ではなかった。
 瞳を通して心に映るデュオの後ろ姿。目の前に見えるそれは先程までは自分の中に辛さしか生まなかった。では今は────?

 ゆるやかな動作で、カトルはヒイロを見つめ直した。それから一息の間を置いて、真っ直ぐにヒイロの目を見て聞く。

 「だって…ヒイロ。君はデュオを好きなんだろう?」

 ヒイロが改めてカトルの顔へ……現実へと視点を戻す。
 じっと、真剣な目が互いの心を確認し合って合わされる。…長い、長い間。…やがてヒイロはゆっくりとその瞳を閉じた。軽く、ただ一時だけ、自分の中の決心を確認して。
 ────次にその瞳が開かれた時、その中に迷いはなく、力強い決意の光だけが輝いていた。

 「────ああ。」

 ヒイロの中のすべての答えはその声だけに表されていた。真っ直ぐにカトルを見つめる瞳からは、不安と困惑の翳は消えている。
 もう、迷う事は一つもない。────すべて感情のままに…この、”好き”という感情のままに────。
 カトルはそのヒイロの顔を見て、心底嬉しそうに微笑んだ。



************************


 街はざわめいている。そこで生活を営む人々の活気によって。
 街といってもさほど大きいと言える程のところじゃない。
 …いや現在はともかく、以前は結構大きい都市と言えるモノだったのかもしれないが。
 それを理由付ける様に、そこそこの高さのビルが街のあちこちにあるのが目に入った。正確には、かつてビルと呼ばれた建物ばかりが。

 この辺り一帯は、オズの内戦時にその戦火に巻き込まれた場所だという。
 ただ、実際にこの街自体が戦場になったというわけではなく、この街のすぐそばでモビルスーツ戦が行われただけだという事らしい。…それでも、流れ弾や待避してきたモビルスーツ等によって、街にも少なからぬ被害が出たようで、目に付く高さの建物で、完全に無事なものは滅多にお目にかかれないし、道路のあちこちには壊れた建物の残骸が、まだ片付けられずに残っていたりもする。

 廃墟の様な風景が、時々街の中にぽっかりと穴のあいたみたいに現れて、道行く人々に戦いの爪痕を思い出させている街────。
 だが、この街には活気があった。道を行き交う人々の顔には笑顔があった。

 ────戦争は終わったのだ。

 戦いの残骸が目に入っても尚、明るい表情を崩さずにいられる人々の顔は、その事を強く実感させてくれる。
 いつ、明日にでも、又誰かが、あるいは自分が、自分の大切な人が死ぬかもしれないという不安に、脅えて暮らすのは、社会として正しい姿じゃない。

  ────まァ、俺達の場合は最初っから特殊過ぎる環境で育ってきたから、それが当たり前になっちまってるけどね。
 通りを見つめる瞳の下、苦笑が口元にのぼる。

 目の前を通り過ぎて行く人々の顔には翳はなく、皆、それぞれ自分の世界の中で生き生きと動いている。母親と手を繋いでしきりに話し掛けながら歩いて行く子供。恋人同士だろうか、ぴったりと寄り添って歩いて行く若い男女。泣きながら走って行く子供は、大声を上げて誰かを探しているようだ。もしかしたら母親とはぐれてしまったのかもしれない。

 「これが平和…なんだよな。」

 目深に被った帽子の下から、覗く様に目を上にやる。青紫の瞳に、青い空とそこに浮かぶ白い雲が映り、しばらくの間、その瞳は動く事なく空に向けられていた。
 だが、ふと、その中に寂しげな翳が降りたと思うと、軽く視点が揺れた後閉ざされてしまった。
 大きく、身体中の力を抜く為の深呼吸が一つ。

 だめだなぁ…このままだと俺、当分空も見れそうにない。
 空の青さは誰かさんの瞳の輝きを思い出させるから…・。



 デュオがこの街に来てから丁度4日目になっていた。
 サンクキングダムを出てからは、だいたい3週間といったところか。
 別に一つのところに長居なんかする気はないのだが、何となくこの人の賑わいから離れ難くて、もう4日もこの街にいるのだ。
 最初の内は、せっかくの地球という事で、人工の世界で見る事の叶わない、自然の織り成す風景を見てまわろうと思っていた。
 ところが、いざ、人気のない山や海などへ行ってみると、周りに気を遣う必要がないせいだろうか、どうしても考える事ばかりに頭が行ってしまうのだ。それも、いつも頭に浮かぶ事といえば、自分から拒絶してきた筈のヒイロの顔。そういう時に限って、空は美しい青色を湛えているから始末に終えない。頭の中がヒイロへの感情で埋め尽くされてしまう。どこまでも透明で、見ていると吸い込まれそうな青い空はそのままヒイロの瞳の色。
 そうしていると、涙腺が緩んで来てしまいそうで、慌てて気を散らさなくてはならなくなる。

 ヒイロに…会いたい。あの青い瞳を見れない事が無性に耐えられない。
 …だが、いけない。
 望んではいけない。
 自分にはきっとそんな資格はありはしない。────そうしていつも、気分は沈んで行ってしまう。

 それに気付いてからは、ずっと人の多いところを選んで行く様にしていた。
 周りに人の気配があれば、完全に精神の手綱を緩めてしまう事はない。…そう、訓練されている。どうやったって一般人にはなり得ない、幼い頃から身に付けさせられた兵士としての習性。適度な緊張感があれば、気弱な自分を胡麻化しておく事が出来る。こんな事に役立つなんて、皮肉以外のなにものでもないが。

 デュオは立ち上がった。
 小さい背伸びを一つして、帽子を被り直し、肩に小さめのナップサックを担ぎ直して。
 さぁて、そろそろこの街ともお別れかな。────かといって、次に行きたいところがあるわけじゃないが。

 辺りを見ながら歩きだす。
 昼下がりの街は人通りが多く、それぞれの生活で忙しい彼らは、見ず知らずの他人であるデュオに気を留める事もない。その辺も人の多いところの方が気楽でいい理由の一つであった。
 たまに、異様に長いそのおさげ髪に目を止めて振り返る人がいたりもするが、別段彼らの記憶に深く残る程の事ではない。彼らにとってデュオは単なる通りすぎの一般人────彼らと同じく、平和な日常にたたずむ民衆の一人────なのだから。

 本当にそうなれたら良かったんだけどね。

 唇の端をちょっとだけ釣り上げて、誰にも聞こえない独り言を言う。
 今更、自分の生い立ちを怨んだりなんて事はしないが、心の奥でいつでもくすぶっている寂しさは、時折、その姿を表面ギリギリまで表して、押さえ付ける心を苛もうとする。
 そう、一度満たされる事を知ってしまった今は…特に…耐える事が辛い。

 らしくない。本当に俺は弱くなってしまった。

 手を軽く額に当てて大きく息を吐き出し、気を紛らわす為に辺りへ視線を巡らす。
 未練がましくて弱虫で…こんな自分が嫌だった。


 「…あれ?」

 巡らした視線の先で、子供が泣いているのが目に入る。
 良く見れば、その子は先刻泣きながら目の前の通りを走っていった子と同一人物らしい。────まだ見つからないのかな?

 目に付いたからには気になって、無視して通り過ぎる事も出来なかった。
 だから、半瞬考えた後に、やはり声を掛けてやる事にする。

 どうせ今の自分はエージェントじゃない、人から隠れて、目立たない様にしなくちゃならない理由もない。

 ────お前は目立ち過ぎる。

 そういや、一緒に学校行ってた時は、ヒイロに良くそんな事を言われたっけ。…今はもう…そんな事に気を遣う必要なんかないんだ…ヒイロ。

 「おい、ぼーず。」

 下を向いて泣く少年の頭に、優しく手を乗せて声を掛ける。歳の頃は5歳前後だろうか、少年は涙で濡れきった顔を上げると、一時泣きやんでデュオの顔を覗きこんだ。

 「なァに泣いてるんだ?母さんとでも離れたのか?」

 にっこりと笑って頭を撫でてやる。最初はびっくりして丸い目をしていただけの少年の顔が、みるみる内に又泣き顔へと崩れて行く。

 「キキがね。キキがね。この中へいっちゃってね…帰ってこないの。」

 しゃくり上げながら何度も繰り返してデュオにそう訴える、その指先の示す先には、この街には珍しくない、半壊となったビルが立っていた。
 《立ち入り禁止》の札が掛かっているが、特に警備の姿も見当たらないところをみると、どうやらただ単に危険だから人が入らない様にしているらしい。

 「しょうがねぇなぁ…。」

 帽子のつばを人指し指で軽く弾き、さらにそのビルを見上げながら小さな溜め息をついた。上の方は完全に吹き飛ばされちゃいるが、土台は大丈夫だし残った階はほどんど壊れていない。見た目のハデな壊れ方に反して、さほどヤバくはなさそうだ。
 これなら、中へ入って行ってもそう崩れたりする様な事はないだろう。

 「よし。」

 少年の頭を軽く叩く。

 「待ってな。俺が行ってそのキキって奴を探して来てやるよ。」

 な、と安心させる様に笑顔を向けると、意に反して、少年は脅えた瞳でデュオの顔を凝視していた。目が合うと服の裾をぎゅっと握り締めて、さかんに左右へ首を振りだす。

 「何だ?どうしたんだ、ぼーず…」

 喜ぶかと思って言った言葉に、帰って来た反応が余りに予想を外していたので、デュオとしては辟易するしかない。

 「だめっ。」

 掴んでいるデュオの服を引っ張って、少年は必死に止めようとしている。

 「だめだよっ。ここはおばけがでるんだ。入ったらだめなんだよっ。」
 「おばけぇ?」

 間の抜けた声で聞き返す。少年がこれ程まで真剣に自分を止めようとしていた理由が”おばけがでる”からとは…。子供らしいというか…何だか一気に体から力が抜けてしまった気がする。

 「大丈夫大丈夫。おばけなんか恐くないって。まァ、こう見えても兄ちゃんは強いんだ、心配すんなよ。じゃ、いいか。すぐ見付けて来るから泣かずに待っているんだぞ。」
 「だめっ。」

 それでも少年は掴んだ服を離さず、一生懸命首を振りデュオを行かせまいとする。
 やれやれといった顔で、デュオは些か大袈裟に溜め息をついた。
 ズボンの裾を握り締める小さな手は震える程に真剣で、本当に自分の事を心配している事が良く分かる。だからその手を無理に引き剥がして行くなんて事は出来ない。

 「ぼーず…。」

 デュオは自分の帽子を脱ぐと、優しく少年の頭に乗せてやった。驚いた少年が慌ててその帽子を掴もうとし、デュオのズボンから手が離れる。それを確認すると、デュオは少年の頭へ帽子の上からさらに手を乗せ、安心させるように軽く、本当に軽く、ぽんぽんと2回だけ叩いた。それから、少年の視線までしゃがんで目を合わせると、出来る限りの優しい声で、改めて言い聞かせた。

 「それじゃ、行ってるから。…本当に大丈夫だから心配しなくていいんだぜ。な。」



************************


 さてと…まだそんなに奥へ来ちゃいないと思うんだが…。

 必死に止めようとした少年をなだめて、こうやってビルに入って来たのだが…目標はちょっと簡単には行きそうにない相手であった。ヘタすると長期戦になるかもしれない。
 なにせこの広いビルの中、探さねばならない”キキ”というのは、良く聞いてみると少年のペットのハムスターの事だったのだ。

 経緯としては、少年がキキを肩に乗せて歩いてる最中、犬が吠えたのに驚いて逃げ、このビルの中へ入って行ってしまった、というものだが────さすがにあんな小っちゃいのを見付け出すのは、いくらなんでもちょっと手間取るだろうト思う…。少々自信もない。
 とはいえ、あれだけしっかりと約束して来てしまった手前、どうあっても見付けないで帰る事は出来ないだろう。

 …それにもし見付けられなかったら、あんなに必死に自分を心配してくれたあの少年は、きっとまた悲しそうに泣いてしまうのだ。
 それを考えると心が罪悪感に苛まれるし、なによりあの子が喜ぶ顔が見たい。小さな子供とはいえ、自分の事を気遣ってくれた事が嬉しくて、何かしてやりたいという思いがある。

 幸いにもそのキキはかなり人に慣れているという事なので、思ったよりは早く見つかる可能性もあった。こういう人気のない場所で人の気配がした場合、野生の動物はただ単にさらに人気のないところへ逃げるだけだが、ペットというのは人恋しさで、自分から人気のある方へ出て来てしまうものなのだ。

 こうやっていそうな場所を歩き回っていれば、きっと向こうから出てくる筈…だといいんだけどね。その辺、結局最後は運に頼るしかない。

 「しっかし…それにしてもきれいなモンだな…。」

 見付けたいモノがモノだけに、注意深く辺りを見回しながら歩いていくデュオは、辺りを見ながらそう呟いた。
 外見程中は壊れちゃいないと最初から思ってはいたが、予想以上にきちんとしている部屋の中に思わず感嘆の声が漏れる。
 どうやらここは元はオフィスビルというヤツだったらしく、たくさんの机や端末が並び、書類と思しきものがそこここの机の上に置かれていた。
 だが、奇妙な事に、それらは使っていないセイで埃をかぶっているだけで、あちこちが破損していたり、散らかされていたりという事がない。
 こういう誰でも入り込める状態で放置してある廃ビルというのは、普通、中のモノが盗まれていたり、浮浪者の住処となっていたりというのが当たり前である。なのに、ここではそんな事があった気配すらない。

 整然と並ぶ机の列に、いい様のない無気味さを覚え、唾を飲み込み喉が鳴る。

 ────そういえば、あの子は何て言ってたっけ?

 このビルに入って行方不明になった者がいるとか、夜中に中から光が見えたとか…。
 さすがにおばけが…とは思ったりはしないが、首の辺りにちりちりと纏わり付く嫌な予感が沸き上がってきてしょうがない。
 嫌みな事にこういう予感は外れた事がないのだ。

 改めて辺りに視線を投げる。が、やはり何の気配も感じなかった。
 それでも少しも安心する事が出来ず、上着の内ポケットに入れておいた銃を取り出して用意しておく。本来の目的があるので、気配は消さずに、だが探しモノの名前を呼んだりはしないで、ビルの中を気を張り巡らせながら歩く。
 …今になって、ちょっとばかり、安請け合いしてしまった事を後悔して。
 …それから無駄な予感が限りなくするものの、何事もなく小さなハムスターを見付けて帰れます様に、と祈ってもみたりもして。

 実は、情けない事に、自分の運には自信がない。

 そうして4階まで上がった辺りだろうか。
 一歩づつ注意深く歩くデュオの後ろで、何かが通り過ぎる気配がした。反射的に銃を構え後ろを振り返る。…だが、振り返った先からは今確かに感じた”何か”の気配は消えていた。ちょっとだけ思案を巡らせた後、フッと薄い笑みを浮かべると、構えを解いて銃を腰のベルトへと差し込んだ。それからそっと忍ぶ様な足取りで、部屋の端の机へと近づいていく。

 「お、いたな。」

 呟く程の声であったが、それでも弾んだ調子の声がデュオの口をついて出る。机の下の壁との境には、目的の”キキ”と思われる茶色と白の小さな毛玉が小刻みに動く様が見えていた。
 少しばかりほっとして表情が崩れ、ほんの少し肩の力が抜ける。

 「キキ。おいで。」

 手を伸ばして名を呼んで見ると、その生き物は恐る恐るといったように、何度も立ち止まりながら近づいて来た。
 指先までやってくると、その手に触れるか触れないかのところまで首を伸ばして匂いを嗅ぎだす。白いヒゲがひくひくと揺れる様が愛らしさを強調する様で、見ているデュオの顔も自然とほころんでしまう。

 しばらくそうやって匂いを嗅ぐと、満足したのか、今度は一転して掌へと飛び乗り、そのまま一気に肩まで駆け登って来た。
 首の辺りでふわふわとした毛の触れる感覚がちょっとくすぐったくて、デュオはハムスターを捕まえようと手を伸ばす。だがハムスターはその手を逃れ、デュオの肩を滑る様にするすると移動すると、黒い上着の襟口へとその頭を潜らせてもがき始めた。
 どうやら上着の中に入りたいのだというのは理解出来るが、はたから見るとただ単に襟にとりついてバタバタしている様にしか見えない。
 ばっかだよなーなどと思いながらもそれが可愛いのだからなんだか楽しくなってしまう。
 試しに服の第一ボタンを外して襟を緩めてやると、小さな毛玉はあっという間に服の中へと入り込んでしまい、しばらく中でもがいた後、顔だけちょこんと入って来た襟から出して落ち着いた。

 「ヘェ〜お前随分と慣れてんだなぁ。まぁ、おとなしくしてればそこにいてもいいや。それじゃぁ、お前の飼い主さんのとこへ帰りましょうか。」

 言われた通り、おとなしくしているハムスターに感心して、”もう逃げんじゃないぞ”などと話し掛けながら入り口へと向かい出す。もちろん、先程の嫌な予感はまだ続いていたので、何となく警戒しながら。探す目的のモノは見つかった後であったし、今度は出来るだけ気配の方も消す様にして歩いていく。

 それはあくまでも”念の為”というものだったのだが…・。

 それが幸いした。

 《彼ら》に最初に気付いた時、デュオの方はまるきり《彼ら》に気取られずにすむ事が出来た。
 彼らが何者かはまだ分からなかった。
 が、デュオが今いる隣の部屋から聞こえてくるのはまぎれもなく人の肉声だった。
 しかも妙に張り詰めた雰囲気を感じさせて……胸の奥から競りあがってくる嫌な感覚が、予感が的中したらしい事を告げていた。デュオの表情が緊張を張り巡らせて、次第に固くなっていく。

 「お前はこっちに入ってな。」

 小声で話し掛けながら、襟元のハムスターを内ポケットの中へと押し込む。
 それから、音を立てずに素早く隣の部屋へのドアの前まで移動すると、そっと耳をドアへと押し当て、中の様子を伺った。
 神経はドアの中へと集中させながらも、体はすぐにでも逃げられる姿勢にしておく。

 耳に届く…声は3種類。だが、感じる気配はさらにいそうだ。幼い頃からの訓練によって砥ぎ澄まされた兵士のカンが伝えるところでは、5、6人…といったところか。
 彼らは部屋の中でも奥の方にいるらしく、声は聞こえても会話の内容まで聞き取る事はほとんど出来なかった。

 やけに歯切れが良くハッキリした言葉遣い、何となく緊張感を漂わせる雰囲気、さらには命令口調で喋る者もいる。これは…。デュオはさも嫌そうに眉を寄せて舌打ちした。

 …軍人だな。しかも士官クラス。そして場所も考慮に入れると、元オズの兵士。8割りガタは間違いないだろう。

 「やっかいだな…。」

 どうするか…今一つ決断し切れない。

 ドア越しに感じる雰囲気だけでも、彼らが単なる脱走兵や戦争終結で行き場をなくした元兵士といった類でない事は用意に判断が付く。
 単なる宿無しがなんとなく集まっているというには、彼らから感じる気は明確な目的をもった意思あるもののソレだ。とすれば彼らの目的は何か…。元オズを敵視してきた者として、また単純な好奇心として、見なかった振りをして通り過ぎる事は出来なかった。だが…。

 さて…どうする?

 実際のところ、デュオの立場は単なる一般人あり、そのまま見ない振りをして立ち去ってもかまわないのである。
 ほっておくのが嫌なのであれば、ここを出てすぐに警察へ通報に行って後は任せてしまえばいい。
 今のデュオはコロニーから送られた工作員でも、平和の為に戦う兵士でもない。わざわざ自分自身を危険に晒す様なマネはする必要はないのだ。

 …とはいえ、自分の意識の下地にある、戦う為の生活から染み込まされた兵士としての精神が、それらの行動へ踏み切る事を遮っていた。

 さぁて。本当にどうするか…。

 そう思案している間に、中の兵士が一人、どうやらこちらへ近づいて来た様で、その声がだんだんとハッキリ聞こえてきた。

 「今の…サンクキングダムには…のパイロットが…」

 何だって?
 多少慌てて、その後の言葉へ意識を集める。

 「…為、注意をする必要がある。とはいえ、すでにガンダムは破棄処分された後である。その場合、今回の計画での一番の問題は…」

 サンクキングダム、パイロット、ガンダム…そして話しているのが元オズの兵士といえば…彼らのいう計画というのはおそらく…サンクキングダムに対してのテロ行為、か。

 あーあ。

 …呆れた様に肩を落とす。が、見方によってはその表情は笑っている様にも見えた。
 苦笑…というのが正しい言い方かもしれないが、口の左端を少しだけ釣り上げる笑みは、何か皮肉な喜びも感じさせていた。

 「…ったく。これじゃぁしらんぷりってわけにはいかないよな。」

 そう決断すると、すぐにその場を立ち上がって素早くドアから離れ、机の後ろへと姿を隠した。
 ガチリ。隠れてすぐのタイミングでドアが開く。
 そこから現れた人間は、確かにオズの軍服をきた兵士。

 「では、明朝6時までに各自の用意を整えてここに集合する事。以上。」

 ドアが開いた為、声は何の遮るものもなくハッキリと聞こえる。

 明日…か、時間がないな。

 ドアの向こうから聞こえる返答の声からして、ほぼ予想通り全員で5人。…この人数ならばなんとかなる。

 銃の安全装置を外して身構え、仕掛けるタイミングをじっと伺う。部屋から出て来た男が何の注意も払わずにこちらへと歩いてくる。
 先程の話口調といい、多分コイツがリーダー格だろう。まるきりデュオに気付いていない男は、足元に潜む気配に気付かず通り過ぎ様とした…。

 「よォ。おっさん。何の計画してんのかな?」

 気付いた男が身構える余裕もない程の速さで、立ち上がったデュオの銃口が男の後頭部にあてられる。
 男の低い悲鳴と共に、聞き付けた他の者達がこちらの部屋へと飛び出してくる。

 「おっと。動かないでくれよ。動いたらコイツの頭も吹っ飛んじゃうかもしれないぜ。」
 「貴様…。」

 銃を当てられた男が目を剥いてデュオを睨み付ける。それを涼しい顔で無視すると、デュオは再びドア周辺で歯噛みしている男達へと命令した。

 「さてと…。まずはその手の銃を捨てて貰おうか。それから…」

 そこまでいいかけて、背後から新たな気配が近づいて来るのを感じた。
 もう一人…いるのか。
 しかしながら、気配だけでそいつの動きは完全に把握出来た。この程度の奴に焦る必要はまったくない。

 「特佐っ」

 だから、背後から突然そう声が上がっても何も驚く事はなかった。
 その男がこちらへ狙いを定める前に、デュオの銃は正確にその男へ照準を合わせ終わっていた。

 だが…。

 その指が引き金を引く一瞬だけ、男の顔へ視線をずらしたデュオの手が止まる。
 若い兵士。
 恐らくこの中では一番の下っ端なのだろう。デュオよりもほんの少し上なだけのまだ若い…オズの兵士。
 上官を助けるため必死の形相でこちらを睨み付けて来る────その瞳の色は鮮やかなプルシアンブルー。それだけでなく、髪の色はダークブラウン。

 ヒイロ────。

 もちろん本人ではない。…似ている、という程でもない。なのに、ただ同じ髪と目の色の組み合わせというだけで…ほんの一瞬、重ねて見えてしまったのだ、ヒイロに…。

 がっという鈍い音が耳に響く。
 後頭部に強い衝撃を受けたと思ったときには、すでに後悔をするヒマもなく意識が遠退いていくのだけが感じられた。

 死ぬかな────。

 途切れる寸前に考えたのは、妙にあっさりとした諦めの言葉だった。

 



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