壊れた男の壊れた願い




  【2】



 カリンが主の執務室に入ると、彼は無表情を張り付かせたまま椅子に座り、足を机に投げ出して黙っていた。彼がこうしてここまで表情を消しているというのは、それだけ機嫌が良くないという事だろう。こういうのにはエルも敏感だから、あのものおじしないアッテラ神官だったとしても、こんな彼に声を掛けるくらいなら回れ右をして部屋を出ていくだろうとカリンは思った。

「どうかされましたか?」

 カリンが近づいていけば、最強と言われる黒い騎士は一瞬だけ唇に自嘲を浮かべて机から足を下した。

「なに、少し考えていただけだ」
「何をですか?」
「俺が、欲しいモノだ」

 そこでカリンは僅かに驚く。だが彼がこちらを見る事なく、また考えているだろう顔をしたことでカリンは苦笑した。

「出来れば私もぜひ知りたいところです」

 机の上を軽く整理してその上に書類を置いて、それからまた一歩下がって顔を上げれば主と目が合う。

「知ってどうする?」

 相変わらずの抑揚のない声を確認して、カリンは微笑んだ。

「貴方の望みは私の望みですから」

 それでも見返したセイネリアの瞳には、感情というものは浮かばなかった。

「なら、俺の望みが何もないとしたら?」
「それなら、私の望みは貴方のお傍にいる事です」
「契約だからか?」
「それもありますが……私自身が思った事です」
「その望みは、お前が命を掛けたいと思う望みか?」
「はい、そうです。ですから私はここにいるのです」

 迷う事なくカリンが即答する度、セイネリアの唇には自嘲の笑みが浮かんでいく。
 その理由をだいたい察してしまったカリンは、自分の心の痛みを感じられない主の代わりに胸を抑えた。
 セイネリアは、そんなカリンの様子を暫く見つめ、それから目を瞑る。

「エルの望みは弟の敵打ち、ラタの望みは父親の形見の剣をとりもどす事、ラストとレストは二人が一緒でいられる居場所、ロスクァールは養い子の為に神殿から匿う事と――面白いものだな、契約の為に望みを言えと言うと大抵自分以外の誰かが関わる望みときている」
「そうですね」

 セイネリアの声はどこまでも平坦で抑揚がなく、だからこそ彼の心に寒々と広がるだろう空虚な風景をカリンは思い浮かべる。

「お前とクリムゾンは少し似ているな、望みが俺の傍にいること、というなら」

 それにはカリンはすぐには何も答えなかった。それを肯定したとしても、その意味をこの男は理解してはくれないだろうから。
 だからカリンはそれを肯定する代わりの言葉を言う。

「貴方が認めるくらいの人間なら、自分の為の望みを人に頼ったりしないでしょう。誰かの為の望みであるから、他人に縋ってでも叶えたいと考えるのです」
「――何故だ?」
「それは……そうですね、自分の望みなら叶わなくても自分の所為だとただ納得して諦められますが、自分でない誰かの為なら……その人間に対して自分の中の価値があればあるだけ、自分を捨ててでもどうにかしたいと願うのです」

 そうしてカリンは心の中で思う。
 例えば、自分の願いは彼の傍にいる事ではあっても、彼が本心で願うものを叶えるためなら、自分はその傍を離れても彼の願いを叶える事を選ぶだろうと。
 けれどもそれは彼には今言うべきではない言葉で、カリンは黙って考えているセイネリアの顔をじっと見つめていた。
 そうすれば唐突に、瞳を閉じたままセイネリアが呟くように言った。

「この間から傍に置いている男は面白い事を言っていた」
「クォンですか?」

 あの青年をセイネリアが何故傍に置いているのか、その理由をカリンは知っている。知っているからこそその名を聞くと、思わず眉が寄せられるのも仕方ない。

「あぁ。『俺にはたった一つ、どうしても叶えたい望みがある。愛している人の望み――その為なら何でも出来る』だそうだ」

 それなら私も――口に出てしまいそうな言葉をカリンは飲みこんだ。

「そこまでの望みなら契約してみるのも面白いがな。まだもうしばらく、奴が使えるかどうか見てからだ」
「そうですね」

 だからその程度しかカリンが返せないでいると、セイネリアが目を開いてカリンを見てくる。

「カリン、一応あいつの事ももう少し詳しく調べてみろ」
「はい」

 そうしてすぐにカリンが部屋を出て行こうとすれば、彼女がドアに手を掛けたところで主の声が小さく聞こえた。

「『愛している』か……俺にとっては安っぽい睦言の一つにすぎんな」

 その声にはやはり感情の一かけらもなく――カリンの唇には、我知らず悲しげな笑みが浮かんだ。







 廊下から執務室に入った途端、セイネリアは顔を顰めてため息をついた。

「魔法を使った仕掛けはやめとけ、生憎俺には見えるんでな」

 言えば後ろにいた男は、声を出してまでため息をついた。

「そうですか、では次からはもう少し考えます」
「そうしろ」

 言って椅子の近くにあった小さな小箱を掴むと、セイネリアはそれを後ろにいたクォンに投げた。

「今回の手は今までで一番おもしろくないぞ。ネタ切れか」
「んー、この系のアイテムを使った事がなかったので試してみたまでです。これで体が痺れたところを狙おうと思ったんですけど」
「なら二重に意味がない。痺れ薬程度なら俺は十分動ける」
「そうですか……となるとやはり薬物系を使うのは難しいですね」

 そんな会話もこの男とは普通になっていた。それくらいに、クォンはセイネリアに言われた通り、あの手この手で毎日セイネリアを暗殺しようといろいろ手を尽くしていたのだった。

「魔法も薬も効果がない、となれば……やはりどうにかして隙を突いた方がいいんでしょうか」
「そうだな。まぁ、俺にかすり傷でもつけられたら褒めてやる」
「褒美に死んでくれたりとかはないですよね」
「当然だ。まぁ、褒美に一定時間目を瞑ったままでいる、くらいはやってやってもいいが」
「残念ながら、眠ってても貴方を殺せる気がしないんですけど」

 笑って言う彼には、知らんな、と答えて。とりあえずその日は裏街の情報屋に顔を出す用事があるセイネリアは、出かける為の準備を始める。クォンはセイネリアの鎧の準備を手伝いながらも、やはり困ったように話をつづけた。

「うーん、部下の誰かを人質……とかいうのも意味ないですよね」
「当然だ。それに誰を人質に取る気だ」
「そうですね、カリンさんとか?」

 言ってもセイネリアは全く動揺しない。クォンに渡された篭手を受け取って鼻で笑う。

「あいつをお前がどうこう出来ると思うのか?」
「そうですね、でも分かりませんよ」

 器用にセイネリアが歯で噛みながらも紐を結んでいれば、慌ててクォンは反対側の紐を結び出す。

「すいません、なにせ自分で鎧なんて着た事ないもので」
「それなら覚えろ。別にいなくても構わないがな」

 実際全身鎧を着ているような連中で、マトモに冒険者として仕事をした経験があるものなら一人で鎧が着れない者はまずいない。それでも一応人がいるなら手伝わせた方が早いのだが、まだ慣れない彼ではへたすると一人で着た方が早い。だから彼がもたもたとやっている間に他の部分をさっさと身に付け、セイネリアは最後にマントを着けると彼に笑いかけた。

「まぁ好きにしろ、カリンならいつでも俺の為に死ぬ覚悟くらい出来てる」

 クォンはそれに軽く眉を寄せ、それから苦笑した。

「そりゃまぁ随分と自信があるんですね」
「自信というか、事実だな」
「……なら多分、カリンさんにとっては貴方が俺にとっての『彼女』なのかもしれないですね」

 セイネリアはクォンを見下ろす。その瞳は特に感情はないものの、彼の言葉とその表情を見定めるような瞳で、クォンは反射的に一歩下がる。

「お前の言うところの『愛している』か。そういう言葉は俺とあいつの間にはないな」

 そうセイネリアが言えば、体に怯えを出てしまっている男は、それでも真っ直ぐセイネリアの目を見つめ返した。

「『愛している』という気持ちに、言葉なんてたいして意味はないんですよ」

 こちらを見つめてくるクォンの目を見ていたセイネリアは、その彼の黒い瞳に苛立ちを自分が覚えているのに気付いた。

「セイネリア・クロッセス。貴方は確かに力を手に入れたのかもしれない。でも、貴方の心はどこまでも空虚で、何も感じない。その空虚を埋める何かが欲しいのに、それが何か分からない」

 セイネリアの顔からも瞳からも一切の表情が抜けて、ただクォンの顔を見下ろす。
 それをやはり見つめ返して、白い髪の中から黒い瞳を爛々と輝かせ、青年は勝ち誇ったように微笑んだ。

「俺は自分の心を満たせるものを見つけた。だからそれを絶対に手に入れます」

 その瞳はうっとりと夢見て、至上の美酒にでも酔っているように幸福そうに見えた……狂気さえ感じる程に。







 俺は間違っていない、とクォンは呟いた。
 あの男が欲しいものは俺と同じ筈だ、と彼は思う。

『俺が欲しいものなど無い。望んだものは手にれ入てしまえば全て意味などなくなる。お前が望んだものも手に入れればきっと意味がなくなる。望みや希望などというのはただの錯覚だ、自分が手に入れる事が不可能だからこそ、欲がそれを価値あるものだと思い込ませる』

――違う、あの男は欲しいのだ、その欲しいと感じるだけの心が。

 だってあの目はただ虚しくて、そうして飢えている。彼は諦めながらも何かを探している。希望も光も何もない中でただ空を見るあんな目の人間達を、クォンは他にも見たことがある。
 琥珀の瞳があんなにも恐ろしいのは、その空虚と、飢えに対する怒りが見えるから。あの男は自分で自分に怒りを感じている。自分を嫌っている。
 多くを望める力があるのに、何も望めない自分の心にあの男は絶望している。
 あれだけの男のくせに、だからこそあの男は先に進めない。何者にもなれない。

「たとえば彼が、欲しいものをみつけたら」

 クォンは思う、彼が何かを望んだら、あれだけの男が自分の意志で歩き出したならどれだけのことができるのだろう。
 星空を掴むように手を広げて、クォンは考える。
 最初から格が違う。
 自分ではあの男を殺す事が無理な事など、クォンには会った時から分かっていた。最初から彼を殺すという交換条件は自分を始末するためだけのもので、こちらの望みを叶える気などないものだというのは分かっていた。

「それでもいいさ、彼女の為に何か出来るなら――」

 空に向かって手を握ってもその中には何もない。自分がしている事などそんな事だと分かっている。
 けれど彼はそこで握った手をまた開いて、その感触を確かめるようにそこからまた開いて、何度か握って開くことを繰り返した。

――何か、違う気がしたんだけれど。

 握りしめた手が掴んだ空気の感触が、手の重さが違う、と彼は感じた。
 何故そんな事を思ったのか考えて……考えている内に目眩がしてきて、息が苦しくなってきて、彼はそこで大きく息を吐いた。思い出せないならただの錯覚だと、そう考えて考える事をやめる。
 ――ふと。
 そこで唐突に、クォンは辺りの空気の違いに気付いた。
 自分を囲むように、数人の人の気配がある。
 すぐさま緊張に自分を追い込みながらも、彼は自分の失態を呪った。いくら考え事をしていたとしても、この状況になるまで気づかなかった自分の馬鹿さ加減に舌打ちする。
 すぐに気配を消して走り出す。こちらがまだ気づいていないと思っているなら、それだけでこの包囲の中を突破できる可能性も高い。
 けれども彼が、取り囲む人間の一人を殺して彼らの作った輪から出た途端、足元が光ってクォンは見えない何か――空気の塊とでもいうものに吹き飛ばされた。

「結界?」

 倒れた自分に向かって人の気配が集まってくるのを感じて、クォンは唇を自嘲に歪めた。





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次回はクォンさんがヤラれるお話。短いですが。



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