失くした日




  【6】



 ワーナン・レジンがこの屋敷にやってきてから、既に二か月が過ぎようとしていた。
 ただ、騎士試験が近づいてきた事もあって彼から剣ばかりを習っている訳にもいかず、最近では勉強面や諸々の準備等でシーグルは忙しい事が多かった。その為、ここ数日は、彼と会うのは主に午前中の訓練だけになっていた。

「ったく、とうとう俺から一本とりやがった。大したガキだぁな」

 大笑いをして、ワーナンがシーグルの頭を乱暴に撫ぜる。
 その日は初めて、シーグルは彼から手合せで一本を取れたのだった。

「まぁこれで、剣に関しちゃ俺のお役はごめんってとこかな」
「何をっ……」

 たかだか一本とれただけでそこまで言われる理由が分からず、シーグルは驚いて反論しようとした。
 だがワーナンは、その大きな掌で上からシーグルの頭をぽんぽんと軽く叩くと、豪快に笑い出した。

「なぁに、お前はもう俺との戦い方を理解した。大事な基礎がしっかりしてる分、お前さんはある意味俺よりももう上さ。ただまだ実際やれば俺の方が大抵勝てるのは体の差だな。単純な腕力とリーチの差ってぇのはそれだけでけぇんだよ」

 聞いた後、シーグルは頭に乗せられたままだった彼の手を払うと、顔を上げて彼の顔を見つめる。

「体と、力も、強さの内です。それ込みで勝てなければ、強いとはいえません」
「……まぁそうだがな。お前の歳じゃそこまで焦る事でもない。どうせガキはこれからどんどん体が大きくなる、力だってどんどん強くなる。時間だけで俺との差なんてどんどんなくなっていくだろよ」

 にっと笑って見せた彼の顔に、だがシーグルは下を向いた。

「俺は多分……貴方みたいな強い体にはなれません。だから、それでも勝てるだけの強さを手に入れないとならないんです」

 ワーナンは困ったように顔を顰める。
 シーグルは下を向いたまま強く掌を握り締めた。

「こんな体でも……それでも強いと、おじい様に認めて貰わなくてはならないんです」

 極端に食が細いシーグルでは、ここから成長したとしてもそこまで立派な体を手に入れる事は不可能だろうと思われた。だからシーグルは、それでも強いと認められるだけの実力を手に入れなくてはならなかった。――だが。




「……そらぁ、無理だな」




 言われた言葉の意味と、その声の冷たさに、シーグルは思わず顔を上げる。
 見上げたワーナンの顔に笑みはなく、彼は声と同じ冷たい瞳でシーグルを見ていた。

「お前のじーさんはお前を認める気はねぇよ。その細い食えねぇ体じゃ、騎士としては対して役に立たねぇだろうと言ってたからな」

 シーグルはただ驚いて、師の顔を見つめる事しか出来なかった。

「まぁ、やれるだけは教えてやれってのは契約の内だったからな、教えられる分は教えてやったが……お前さんががんばればがんばる程、俺でさえ可哀相になってなぁ……なにせ、お前さんは実際その歳じゃそうそうねぇくらいいい腕だ。それなのにじーさんに認めて貰えねぇなんて、ほんと、憐れだよな、お前」

 ワーナンが、いつも通りに、シーグルの頭を大きな掌で撫でてくる。
 けれど、ハッキリと向けられた憐れみの目に、シーグルの頭の中は真っ白になっていく。

「どうせ、騎士として役立たずの跡取りなら、成人する前に壊しちまえってのがあのじーさんの出した結論だよ」

 言葉の最後に重ねられた彼の唇の笑みに、シーグルはぞわりと肌を総毛立たせた。
 逃げなくてはいけないと、頭の警告に従おうとして一歩後ずさろうとする。けれどもそれさえかなわない。両肩は既にがっしりと掴まれていて、逃げられる状態ではなくなっていた。

「俺の契約は、お前に剣を教えてやれってのがメインじゃなくてな。……あぁ、お前さんが思ったよりも真面目にがんばってるからついついちゃんと教えてやったが、まぁ教えてたのは単にお前さんに信頼されろって言われてたからでさ、信頼された後裏切って、お前さんをぶっ壊してくれってのが本当の契約内容なんだよ」

 ワーナンは笑っていた。
 けれどもそれは、今まで彼が見せていた、陽気で大雑把な冒険者の男らしい笑い顔ではなく、得物を見下ろす征服者の目だった。

「だから最後の仕上げに、お前に『男』を教えてやるよ」

 言うと同時に、男の口元が歪んで嗤う。赤い舌をちろと出して唇を舐めるその様を見て、シーグルは頭では信じられないまま、助けを求めて叫んだ。







「やはり、考え直していただけませんか」
「くどいぞレガー、もう黙れ」

 何度も何度も交わしたやりとりは、同じ言葉で終わりを告げる。
 主にそう言われれば、反論する事は部下である彼には許されていなかった。
 レガーは主に頭を下げながらも、それでも引き下がれなくてその姿勢のままでいた。

 シルバスピナ家――この港街リシェの領主にして、建国時から続く旧貴族の一つ。かつて初代王と共に戦った騎士であった旧貴族達は、今では殆ど騎士とは名ばかりで、国の為に戦うという立場を忘れている。その中でも数少ない、騎士であろうとあり続けるこの家は、家の名がその初代当主の銀の髪から付けられた事から、銀髪の者が代々家を継ぐ事になっていた。勿論、過去にやむをえず銀髪でない者が当主となる事はあったものの、銀髪である事と立派な騎士である事がここの跡取りにはいつでも求められた。

「そんなに止めて欲しいのなら、お前が引き受ければ良かったではないか」

 ぽつりと、呟くような主の冷静な声に、レガーは頭を上げないまま答えた。

「ですからそもそも、シーグル様を壊そうなどという考えを改めて頂きたいのです。あの方は大丈夫です、とても強い方です、ちゃんと立派な騎士になられます」

 けれども、返されるのは嘲笑の気配。

「ふん……親が恋しいあまり食えなくなるような子供がか?」

 レガーは歯を噛み締めて、唇を引き結んだ。

「最初の数年はそれでもまだ幼いからと大目にみていたが、一向に治る見込みがない。本気であの子供が強いというなら、ちゃんとその程度は自分で乗り越えている筈だ」

 シーグルが食べられない事で何人もの医者や治療師が呼ばれたが、彼らは一様に大本の原因は精神的なモノであるとの結論を述べた。だから最初は、その内、もう家に帰れないという自覚さえ出来れば治るものと思われていた。
 けれどもシーグルは食べられないままだった。
 本人は治そうと努力して、確かに『まったく』という程ではなくなりはしたものの、現状でも極端な少食である事には変わりはなかった。しかも精神的に負担が掛かることがあれば、前のようにまったく食べられなくなり寝込む事になる。
 だから、主である現シルバスピナ卿の出したシーグルに対する結論は、弱い子供、だった。

「それでも、今の自分で出来うる限りの強さを手に入れようとしてらっしゃいます。あの歳で、とても強い意志を持ったお方です」

 レガーはずっとシーグルを見ていた。
 食事の事は仕方ないとしても、シーグルはあの歳の子供とは思えない程、我慢強く、真面目で、強い意志を持ったとても優秀な子供だった。実際に彼が弱音を吐くところは見たことがないし、言い訳をして許されようとする事もしない、一つのことを教えれば、出来るようになるまでずっと諦めずにやりつづける。食べられないという点さえ抜かせば、この家の跡取として、これ以上理想的な子供はいないと言ってもいいはずだった。
 シーグルが祖父であるシルバスピナ卿に認めてもらえるように、どれだけ努力していたか、そしてその努力分の成果をどれだけ身につけているかも、レガーはずっと見て来て知っていた。

「ふん、がんばったところで所詮あの貧弱な体ではたかが知れてる。遅かれ早かれ壊れるのは変わらん。外で壊された場合は命さえ危ない――アルフレートが死んだ今、残されたたった一人の銀髪の跡取りだ、あれを失う訳にはいかん」

 それでも、シルバスピナ卿はシーグル自身を見てはくれない。愛する息子の愛する孫として、あの可哀相な少年を見てやることはない。
 かつて、最愛の息子に裏切られたと思った時から、彼の心は冷たく閉ざされてしまった。その所為か彼は、シーグルを跡取として以上の目で見てやる事はない。

「何故、外に出たら壊されると言い切られるのです、シーグル様なら大丈夫だとお思いになれませんか?」

 レガーはあくまでも彼の部下だった。逆らう事は出来なかった。
 息子に裏切られた時の、彼が怒り嘆き苦しむ姿もその目で見ていた。だからその彼が孫に愛情を注いでやろうとしない、その理由も分かっていた。
 けれども、あの誰にも頼れない少年を、もし助けてやれる者がいるとすれば自分だけだとの思いが彼にはあった。

 シルバスピナ卿の笑い声が、部屋に響いた。

「……なぁレガー、お前だってあの子が冒険者になったら、まず大抵『そういう目』で見られると分かっているのだろ? アルフレートとよく似ているくせに、あの細い体とあの目がな、その手の趣味の連中には『ソソル』そうだぞ。あの子を見た者が影で言っているのを何度か聞いた事がある」

 他に誰もいない静まり返った部屋の中で、不気味な程楽しそうに、老騎士の笑い声がこだまする。

「それにな、あれは優しくされた事が少ないせいか、妙に人を信じすぎる。あれで冒険者になったらそれこそ恰好の獲物だな」

 笑いながら話す、主の言葉にレガーは否定の言葉を吐けなかった。
 それでも、彼のしようとしている事は止めなくてはならなかった。

「しかし……」
「だから、道は残してやったぞ」

 口を開いた途端、止めるようにシルバスピナ卿が振り返る。
 その状態で、レガーが言葉を続けられる筈がなかった。

「もしあの子が裏切られて、男に犯されても壊れないようなら、あの子はお前がいう通り強いのだろう、約束通り外に出してやるさ。冒険者としての生活は騎士として得るものが大きいからな、悪い事じゃない」

 こんな事を聞くと、彼の本当の望みが何なのかレガーには分からなくなる。
 シーグルを普通に跡取として、騎士として認めてやる気があるのなら、他にももっとやりようはある筈だった。

「それならそう、教えて差し上げればよいのです。何もあのような男を使ってまで、そこまで酷い事をされる必要などないではないですか」
「ふん、文句を言うのなら、やはりお前がその役をすればよかっただろう。あんなごろつきに犯されるより、お前が犯してやったほうがまだあの子も救われただろう、これはお前の所為だ」

 本当は最初に、シルバスピナ卿はレガーに命じたのだ。

 あの子供はお前に懐いている、だからあの子を犯せ――ここで一番信頼しているお前に裏切られればあの子は壊れるだろう。どうせ、外に出て壊れるくらいなら、さっさと壊して本当の人形にしてしまったほうがいい。

「今からでもいいぞ、お前がやるというなら止めてもいいが――どうする?」

 レガーはシーグルを救いたかった。
 けれども所詮、やはり彼はあくまでシルバスピナ卿の部下でしかなかった。
 そして……自分自身の手で、あの可哀相な少年を壊す事も、彼に出来る筈がなかった。





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流石にしつこいので今回の戦闘シーンはなし。次はエロです。




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