惑える愚か者の序曲





  【4】




 目が覚めたエルクアは、とにかく暖かいその感覚に心地良く寝返りを打って、側にある体温に縋るようにすり寄った。
 のだが。
 ふわんと、妙に柔らかいその感触に、唐突に頭から眠気が吹っ飛んだ。

「えぇぇぇええええっっ」

 あまりにも理解出来ない事態に、エルクアは顔を赤くして青くして、何かを言おうとしてなにも言えなくてぽかりと口を開いて放心した。

 なにせ、エルクアの隣で眠っていたのは、あの誰よりも強くて自信家なあの男ではなく、下着姿のあられもない格好で眠っている妙齢の女性だったのだから。

「うっるさいわねぇ」

 さすがにこれだけ騒げば、眠っていた女も起きる。
 エルクアは考えた。パニックに陥って全く頭の回らない頭で考えた。
 昨日のアレは自分の夢だったのだろうか、本当は酔っぱらった勢いで女性とそういう事になって――という考えは、起きあがった途端下肢を襲っただるさとそもそも力の入らない腰で却下された。
 ならあのセイネリアが女性に変身して……などというバカバカしい考えも頭をよぎったが、女は金髪に薄緑の瞳で、さすがにあの男と通じるものはどこにもない。

「まだ午前中じゃない、もうちょっと寝かせててよ、もう」

 力の入らない腰でベッドから逃げ出す事も出来ず、ただ呆然とエルクアは座り込む。
 そうすれば、女はじっと動かない彼を見つめ、不機嫌そうに、だが仕方ないといった風情で起きあがった。

「まったく、しょうがないわねぇ。説明してあげるわ」

 言いながら大きなあくびを一つ。
 エルクアは、説明してあげる、というその言葉に縋るように彼女を見た。

「ここは元から私の部屋で私のベッド。夕べあの男が貸してくれっていうから貸したのよ、どうせ私は夜は仕事だしね。で、帰ってきたら潰れたあんたが寝たままで、悪いがこいつを頼むって言われた訳」

 思わずエルクアは、彼女の言葉にこくこくと頷く。そういう理由ならここにこうしているのもわかる。
 しかし、わかってほっとはしたのものの、考えてみればとんでもない事ではないだろうか?

「あいつ……女のとこに俺連れ込んで人のベッドでヤったのかよ」

 呟けば、視線を感じてエルクアは女を見た。

「ふふーん、その様子だとやっぱ、最後までヤられちゃったのね、坊や」

 言われた途端、自分の口走った言葉を理解して、エルクアは思い切り両手で口を塞いだ。顔は真っ赤で、耳まで熱い。
 そうすれば。

「んふー、坊やぁ、隠すなら口じゃなくて別のとこじゃないのー」

 と、言われて、エルクアは今になって自分が素っ裸だという事に気づいた。……いや、考えれば、あのまま気を失うように眠ったのだから当然ではあるのだが。

「いやっ、これっ、うわっ」

 咄嗟にエルクアは今度は股間を押さえた。
 だが、そんな激しい動きをすれば腰に響くのも当然な訳で……結果、エルクアは股間を押さえたまま、うずくまってベッドに転がった。

「いやー、やっぱ童貞君はかわいいわー♪」
「ちょ、なぜそれをっ」
「そりゃ、あの男に聞いたもの。ついでに、気に入ったら女の方の初めての手ほどきをしてやれって。いいわね、あんた可愛いわー」

 ――人を女のとこに置いていったばかりか、何余計な事いっているんだあの男はっ。
 恥ずかしさが限界を越して、エルクアは本気で目から涙が出てきた。

「ま、それにしても――」

 急に女はエルクアを見て、苦笑のような微妙な笑みを浮かべた。
 女の様子の変化に訳がわからないエルクアは、首を傾げて女を見返すしかなかった。
 女が苦笑のままため息をつく。

「あんた、銀髪なのねぇ……」

 言って、手を伸ばしてくると、エルクアの頭を子供を褒める母親のように撫でる。
 エルクアはおとなしく撫でられていたものの、やはり訳がわからず頭には疑問符が浮かぶばかりだった。

「銀髪、だから何かあるのか?」

 聞けば、ぷっと彼女は吹き出すように笑った。

「ここの娼婦仲間じゃ結構知られた話よ、セイネリアは銀髪の相手は買わないって」

 エルクアにはすぐにその理由がわかる。

「男でも女でも、あの男は銀髪の相手は抱かないのよ」

 ――なんだよ、あいつ。

 あんなに強くて自信満々で、相手なんかいくらでもいて、それでも彼が本当に欲しいのはたった一人だけ。
 その一人だけはどんなに欲しても手に入らなくて、あんなに偉そうにしているくせに手に入らない彼の事を思って心を痛ませる。

『俺が本当に欲しいものなどあいつくらいだ。今までも……これからもな』

 あの、強い男が、ただ焦がれた相手を思い出すという理由だけで通りすがりの自分を助け、同じ髪の色の相手を抱かない。銀髪である自分を抱いたのだって、本当に欲しい彼の事を少しでも知りたかっただけの事だ。

 ――そんなに、大切で欲しい相手だったなら、あんたこそ、俺に言った通り後先なんか考えずシーグルを連れていけば良かったんだ。

 あの男なら出来るだろうに、とそう思ってから、エルクアは理解する。
 あの男がそうしない筈はない、あの男がそうしなかったのは、シーグルが拒否したからだと。

『あいつは、一度も俺のモノになんてならなかった』

 苦しげに呟いたあの男は、どれだけの想いで彼から離れたのだろうか。
 エルクアにはわからない。あれだけの男があれだけの想いをただ諦めたその気持ちがわからない。

――約束は果たすさ。

 騎士団に帰ったら、シーグル・シルバスピナと話をしてみよう。あの男がそれだけ欲しいと願った彼がどんな人物なのか、エルクアは知りたかった。

「どうかした?」

 黙り込んだままどれだけ時間が経っていたのか。
 ずっと考え込んでいるエルクアに、しびれを切らした女が少し不機嫌そうに声を掛けてくる。

「え、あ、いやその……」

 首都から遠いこの町では、シーグルとセイネリアの事を知る者もいないだろうし、へたに彼の名を出しでもしたら後が怖い。
 となればここはごまかすしかないだろうとエルクアは思う。
 
「いやー、あの男ってさ、なんかやっけに自信満々なくせに、夜の相手はわざわざ買ってるのかよーとか思ってさ」

 聞いた途端、女は目を丸くして一瞬固まった後、また吹き出して笑う。

「あぁ……そうねぇ、あの人が娼婦を相手にするのはどっちかというと情報収集なのよ。金なんかいらないって言っても払って、割り切った関係しか許しちゃくれないの。だってね、いいネタしこんであの男に買ってもらってもね、気が乗らないと抱かないで金だけ払っていくんだから」

 それから彼女は、得意げに胸を張る。

「私もね、こうしてちょっと私用を頼まれるくらいに気に入られるには相当苦労したのよ。いい情報を手に入れるにも、客に怪しまれるようなあからさまな事する馬鹿じゃ相手にしてくれないし、色仕掛けなんかハナっから無視されるし」

 あぁ、やっぱり女はああいう男が好きなんだろうな、とエルクアは思う。
 確かに怖いけれど、強引で自信家で、そしてその自信を裏付けるだけの実力がある。それは男としては魅力的だろう。

 と、そんな事をしみじみと思っていたエルクアも、女が笑みを浮かべたまま体を近づけてくるのに気づくと、体に緊張を走らせた。
 じり、じり、と顔からにじり寄ってこられるに至って、エルクアはろくに力の入らない下半身を引きずるように後ずさる。

「え、と……何か?」

 女は誘う時特有の妖艶な笑みを唇に乗せて、うっとりとエルクアを見つめた。

「あの男に頼まれたっていったじゃない。あたしが女の初めてを教えてあ・げ・る。気にいらなかったら放り出していいって言われたけど、気に入っちゃったわー、貴方可愛いし」

 そうして、下半身に力が入らない彼がそこから逃げられる筈もなく。
 彼は、動かない腰を笑われながら、情けなくも女性に乗られてそちらの方の初体験をする事態になったのであった。







 アッシセグは、昔、この地がまだクリュースではなくファサンと呼ばれる国だった頃、その国内における第3の港町として栄えていた豊かな町である。
 ただ、貿易で栄えていた第一、第二の港町と比べると、ここは貴族や金持ち達の別荘地として有名で、港町と言われるとよく浮かぶ賑やかなイメージとは少し違った落ち着いた場所であった。海辺へでれば、白い海岸と青い海の色のコントラストが美しく風景を描き、まぶしい日差しと心地よい風が向かってくる。
 そんなのどかな町の風景はどうにも居心地が悪くて、最初にここへ来た時は酷く違和感を覚えたものだ。
 椅子に深く腰掛けたまま、セイネリアは縦に長く大きな窓を眺める。そこからは、白い町並の向こうに海が広がり、圧倒的な青空が支配する光溢れる風景が見えた。

「何をそんなに落ち込んでらっしゃるのです?」

 部屋に入ってきたのは気づいていたものの、声を掛ける気にならなかったから放っていたら、彼女の方から声を掛けてきた。
 途端、セイネリアは口元だけに皮肉げな笑みを刻む。

「思った以上に、俺という人間は女々しいと思っただけだ」
「シーグル様の事で、何か?」

 セイネリアが弱音を吐くと、カリンはまず彼の事で何かあったのかと聞いてくる。それがはずれた事がないのだから、セイネリアには何も返す言葉がない。
 皮肉な笑みを苦笑へと変えたセイネリアに、カリンが静かに告げる。

「ボスが、そんならしくない顔をされるのは、いつでもシーグル様の事ですから」

 セイネリアは目を閉じる。
 閉じればすぐに思い出す事が出来る彼の顔は、いつでも苦しそうにあの白い容貌をゆがませていた。そういえば、彼への感情を理解してから、自分は一度も彼が笑った顔をみたことがないと思う。
 薄く目を開け、所在なくだらりと落としていた左手を目の目に持ち上げる。かつて抱きしめ、手を絡ませた彼の感触を思いだそうとして宙を掴んでも、手の中が空っぽな事にむなしさを覚えるだけだった。

 セイネリアはここへ来てから、銀髪の者と寝ようとはしなかった。
 理由は単純に、行為の最中に錯覚しそうになるからだ。この手にいるのが彼なのではないかというあり得ない錯覚、心の望みが見せる幻。それでもすぐにそれが違うという事がわかって、やりきれない思いと後悔にさいなまれる。
 そしてそれは怒りになる、何故この手の中にいるのは彼ではないのだと。
 だからずっと銀髪の男も女も相手をしなかった。
 それでも、あそこまで中身が違って馬鹿な男なら、まさかシーグルと見間違える事などないだろうとも思ったのだ。
 確かに、自分が一番馬鹿にしている典型的な貴族の青年など、シーグルではないと思って抱けた。だが、彼が首に縋りついて来た時、目の前にある銀髪の髪に、セイネリアは思ってしまったのだ。
 これが、シーグルであったなら、と。
 シーグルは薬で完全に意識をとばしていた時以外、いくら抱いても、想いを伝えても、一度も何かを返してくれたことはなかった。与える快感を耐えて、厭って、ただ拒絶するか、ただ諦めてうつろに受け入れるだけかしかしてくれなかった。
 愛する者を抱いて、抱きしめ返されたなら、それはどれだけ幸福なのだろう。
 喘いですがりついてきた、あの髪の色だけが同じ青年がシーグル本人だったなら、自分はどれだけ満たされるのだろうと、そう思えば行為の熱なんてどこかへ消えてしまっていた。

 愛している――それは、セイネリアにとって、いくら伝えても返ってくる事がない言葉だった。
 それでもそれはもう、諦めがついていた筈だった。例え彼が自分の手の中にいなくても、彼が彼として生きていてくれるのならと、そうして手を離したのだから。
 それでも自分の中に確かにある彼に対する『欲』は、忘れた頃に時折激しく感情を揺さぶる。いや、忘れる事を許してくれない。
 セイネリアは目の前で空を掴む手を開き、そのまま覆うように自分の顔の上に置いた。表情を手の中に隠して、いつもの彼に戻る為に、心の中に浮かぶ影に別れを告げる。
 それでも。
 それでも、この手の中に彼がいない事など大した事ではない、とセイネリアは自分の心に言い聞かせる。
 『彼』が永遠に消えてしまう事を考えれば、それは耐えられない痛みじゃない。
 彼が彼として居てくれる――あの、強い瞳が失われずに更に強くなっているだろうと考えれば、心の奥に広がる暖かさがある。
 
 ――大丈夫だ、だから、まだ俺は待てる。
 
「カリン、フユと連絡を取ってくれ――」

 忠実なる部下の彼女は、覆っていた手を離したセイネリアの顔を見て、紅い唇に嬉しそうな笑みを浮かべた。







 首都にある騎士団本部、早朝のこの時間に貴族騎士がいる事はまずない。
 歩いて訓練場や仕事場に向かう者達はほぼ全員が平民出の一般団員達で、だからこそだらだらと歩きながら雑談に興じている者が多い。
 ただ、こんな時間からはっきりと目を覚まし、背筋を伸ばして歩いていく連中もいない訳ではない。彼らは、どこかまだヨレた格好の他の団員達と違ってきっちりと装備を整え、訓練場へと歩いていく。
 彼らがこれだけちゃんとしているのには理由がある。彼らの隊の隊長は、この時間にはすでに訓練場に来て、一人でも剣を振っているからだ。

 エルクアは、そんな彼らの後をついて歩いていく。
 こんな時間から騎士団にでてきたのは初めての事で、わらわらと歩く一般団員達の様子に驚くばかりだ。
 やがて、前を行く彼らは訓練場につく。
 そこには、まだ誰もいない訓練場で、ただ無心に剣を振る騎士の姿があった。
 全身を旧貴族の魔法鍛冶製の鎧で包んだ姿は、あの彼の整った顔が見えなくてもエルクアの目には美しく映った。それは、決してその見た目の鎧の美しさのせいではなく、どこにも隙がなく、流れるように剣を操る無駄のない動きと型の美しさだった。
 剣に関してはほとんど素人なエルクアでさえ、彼の動きが一朝一夕で出来るようなモノではないことくらい理解出来る。
 彼の纏う緊張感と、極力まで無駄を省いて剣の速さを追うその動きは、思わず立ち止まって見とれてしまう程美しいとエルクアは思った。

 そして、気づけば、彼の部下達もまたそんな彼の動きに見とれていたのか、剣を下ろして彼がこちらに気づくまで、彼らは誰も若い彼らの隊長を呼ぼうとはしなかった。

「なんだ、来たのなら声を掛ければいいだろう」

 それに返されるのは、部下達の笑い声と朝の挨拶の言葉。あっと言う間に部下達は彼を取り囲んで雑談に興じだし、けれどもよく聞いていれば、その会話内容は剣の扱い方に関するまじめな話しばかりだった。

 自分は、今まで何をしていたのだろう、とエルクアは思う。
 貴族騎士なら最初から役職を貰えて当然、貴族騎士なんて所詮飾りのようなもの。それを不思議にも思っていなかったから、他の連中のようにだらだらと騎士団では一日寝てたり遊んでいたりしていた。
 彼は、騎士団では誰よりも強いのに、一般団員以上に訓練をして、誰よりも貴族階級が高いのに部下達と話をしている。
 なんでも持っていてずるいなんて嫉妬する以前に、彼は持っているのが当然といえるだけの事を自分で積み上げてきているのだ。
 確かに、彼の事をみれば、自分が騎士団に入るためにした努力など努力と言える程のものはないのだろう。

「あのっ、シ、シルバスピナ卿っ」

 思い切って声を掛ければ、彼は初めて自分に気づいたらしく顔を向けてくる。
 周りの彼の部下達も、何事かとエルクアをみる。

「お……私は、第3予備隊隊長のエルクア・レック・パーセイといいます。貴方の噂を聞いて、どのように貴方が部下と接しているのかが気になって見せてもらったところです。貴方の努力には感服しました……その……是非、今度いろいろ話しなど聞きたいと思っているのですが……」

 緊張しすぎて、うまく口が回らない。
 貴族の礼儀も頭から飛んで、とにかく相手を怒らせないで友好的に接してもらう事だけを願って言葉を考える。

「そういう訳でっ、その……以後、よろしく頼みますっ」

 そういって無理矢理話しを纏めて、勢いで手を前に出した。
 そうすれば、周りの団員達が道を開け、彼の姿が近づいてくる。目の前まできたと思えば、上げられた彼の手はエルクアの手には伸びてこなくて一瞬がっかりするものの、その手は頭の兜を掴んで外し、美しく若い青年の顔を外気に晒す。
 銀髪と白い容貌の中、深い海のように濃い印象的な青い瞳がまっすぐにエルクアを見つめてくる。
 それからわずかにその瞳が細められて、彼はその冷たいとも言える程きつい容貌に柔らかい笑みを浮かべて、エルクアの手を握った。

「こちらこそよろしく、パーセイ卿」



 ……ただしこの後、シーグルはまだ自分はシルバスピナ卿と呼ばれる身分じゃないといい、エルクアはエルクアで、自分はパーセイ卿じゃないと言い合ったそうな。




---------------------------------------------

そんな感じでセイネリアさんの現状+エルクアさん紹介のお話でした。




Back  

Menu   Top