誰かの為の独奏(ソロ)




  【5】



 そこから次の次日の朝、前日から少し早くくるようにと言われただけあって、言われなくても来ている朝の訓練組は勿論、じじぃ組も込みのシーグルの隊の全員は、まだ人のいない訓練場で何故か整列をしていた。

「サッシャン、まだかー」
「もう少し、お待ち下さい」

 そんなやりとりが数度繰り返されて、立っている者がダレてきた頃、やっと懸命に絵に向かっていた青年が『もういいですよ』の合図を送る。

「はい、それじゃ次は一人づつ来て下さいー。最初はローンじぃさんからお願いしますね」
「なんだぁ、俺からかよぉ。俺ぁ真っ先に隊長様からって言うと思ったぜ」
「ローンじぃさんは、いる時に描いておかないと、次は何時早起きしてくれるかわかりませんから」

 そのやりとりの後、それに同意する笑い声がどっと起こる。
 ローンじぃさんは文句を言いながらも、少し身を正して、サッシャンの前においた椅子に座った。

 つまるところ、今回のグスの提案は、『シーグルの肖像画』を描くのを受けたのではなく、『後期隊員の絵』を描くのを受けたという事にすればいい、というものだった。
 それなら今まで断った連中にも、これから断る連中にも、いい訳が立つではないかと。
 勿論、描く人数がとんでもなく増えたサッシャンは青くなって許して下さいと騒いだが、そこまでちゃんとした絵ではなくラフなものでいい、という事で無理矢理同意をさせたのだった。……まぁ、実はこれも策略の一つだったのだが。
 いくらサッシャンでもこの人数になれば、期間的にも、労力的にも、ちゃんとした絵は描くのは辛いに違いない。しかも描く人数の大半が『描きたい人物』ではないのだ。ある程度ラフな絵にするという事で妥協すしてくれるだろう。シーグル自身が、あまり気合いを入れた絵ではなく、ざっと描かれたくらいの絵のほうがいいという希望も取り入れた、グス会心の策であった。

 さらにはまだ、この計画には続きがあった。

「サーッシャンっ」
「何でしょう、どうにも今回の件といい、貴方の話は嫌な予感がします」

 シーグルの絵が描けると浮かれていた分、ぐったりと疲れた様子の丸いイメージの青年に、グスはわざとらしくもその首に腕を回して寄りかかる。

「重いですよっ。重いですってばっ」

 騎士とは思えない体力の微妙な青年は、それだけで悲鳴を言ってもがく。グスはそんな彼の頭をぐりぐりとなでながら、耳元にこそこそとつぶやいた。

「なぁに、そもそもお前さんが隊長に条件なんて出さなきゃよかった訳だろ」
「条件、じゃないです。隊長がお礼を、と言われたからいっただけですよっ」
「あのなぁ、お前はな、旧貴族の次期当主様に、一度は嫌だと断わられた要望を、拒否し難い場面で言っちゃって無理矢理受けさせちゃった訳だよ。しかもざっと描いたくらいの絵のお礼にしちゃ、忙しいあの人の時間を取るなんて厚かましいと思わないかぁ?」
「それは……」

 グスの言っているのは、どう考えても脅迫用の屁理屈という奴だ。だが困った事に、貴族が平民を貴族院に突き出す場合、こんな言い分が普通に使われていたりするのだ。勿論、シーグルならそんなバカな訴えを起こすことはない……が、グスが貴族院か騎士団上層部に言えば、少なくとも審問を受ける事にはなるだろう。

「どうすっかなぁ、ちぃっとチクってみたらどうなるだろな」

 にこにこと笑うグスに、サャッシェンは顔を赤くして泣きそうになりながらも、その丸い腹がぼっこりとへこむくらい、大きな、大きな、ため息をついた。

「わかりましたよっ、何が望みなんですかっ」

 サッシャンだって、本気でグスが上に言うつもりで言っているとは思っていないだろう。だからこそのその言葉に、グスは満面の笑みを浮かべて、彼の耳に手を当てて顔を近づけた。







 きょろきょろと、らしくなく落ち着かない様子で部屋を見回したシーグルは、現在部屋の中は自分一人だという事が確信出来ると、明らかに安堵の表情を浮かべた。
 どうやら、キールは少しでているらしい。
 頬を少し紅潮させながら棚を開けて、大事そうにそうっと紙包みを取り出す。それをやはり慎重に広げていけば、現れた絵を見たシーグルの表情が、子供のように無邪気な笑みに彩られる。

――母さん。

 声に出さず、唇だけでつぶやいて、シーグルは目を細めてその絵を見つめる。
 サッシャンが描いたあの絵は、実はフェゼントというよりも、シーグルの記憶の中の母親に近かったのだ。
 元々フェゼントは母親にそっくりで、絵には色がない為、目の色の違いが分からないというのもある。後はおそらく、描いたサッシャンがフェゼントを女性だと思っていたせいで、絵が女性ぽく見えるのが大きかったのだと思う。……弟としての目で見ているせいもあるだろうが、フェゼントも近くで見ると男性だとちゃんと分かるところが所々ある。サッシャンが、あまり近くで見て書いたものではないだろう事もその理由に拍車をかけているのだろう。

 ともかく、シーグルにとっては、その絵はもう記憶の中だけにしかいない母親の絵だったのだ。







 渡されたものを見て、彼女は大きく目を開くと、僅かに頬を赤く染める。

「あ、あのこれっ」

 ラナは絵から顔を離すと、グスのを顔を見つめて嬉しそうに、けれどもちょっと不安そうに声を掛けてきた。
 だからグスは、彼女ににっこりと優しいおじさんらしい笑顔を返してやる。

「サッシャンの奴が、下絵から一枚くれるってさ。まぁ、こっそり貰っとくといい」
「あ、ありがとうございますっ」
「礼はサッシャンに言ってやんな、他の連中には内緒だからいない時にな」
「はいっ」

 グスが渡したのは、今回の絵を描く時に、下絵として書いた線だけのシーグルの絵であった。完成図は全員で並んでいる絵になるものの、まずは全員の集合したスケッチから位置とポーズのあたりだけつけて、そこから一人づつのスケッチをとって全体絵にあてはめる……という方式を取るそうで、その際描いたシーグル単体の、全体絵に当てはめる前の下絵だった。

「あの、グスさんには、今回いろいろして頂いて……本当にありがとうございましたっ」

 若い女性に頭を下げてもらったことで、グスも流石に頭を掻いて少々照れる。
 実を言うと今回、絵の件でグスが彼女にしてやったのはこれだけではなかったりする。集合絵の並び順を決める時に、『やっぱ隊長の隣にムサイの置くのは失礼だろ』と彼女がシーグルの横になれるようにしてやったというのもあるのだ。

「いーって、やっぱ女の子には親切にしてやんなきゃな」

 と言いながらも、今の言葉はちょっとテスタのがうつったかな、と思わなくもない。ただ、あの遊び人のちゃらけ親父なら、ここで終わらずに彼女を誘おうとするんだろうなと思うと、グスはなんだか深いため息が出てきてしまう。
 やっぱ俺はもう枯れてるんかね、なんて思うのは逆にそう茶化してくる相方がいないせいか。
 そうやって考えて一人で唸っていたグスだが、ラナが嬉しそうに絵を見ているのを見れば、とりあえずは良かったな、まぁいいかで済んでしまう。だがそう考えた後、少々不安になって、グスは少し戸惑いながらも彼女に言った。

「ただ、いくら隊長の事がその……あれでもだ、あの人は貴族の跡継ぎだし、そのな、本気だと、後々な……」

 こういう事ははっきり言うのも言いにくく、どうにも煮え切らない口調になってしまうのは仕方ない。
 そのグスの困りどころを分かってくれたらしいラナは、そこでにこりと笑みを返した。

「はい、そこは分かってます。それに、隊長くらいに特別だと、自分に手が届くなんて考え付かなくて、逆にそういう意味での本気になんてならないですから」
「まぁ、そういうのもあっだろうな……」

 正直ほっとして、グスは少し引き攣った笑みを浮かべる。

「あれくらい非の打ち所のない人だと、見ているだけで嬉しいというか、すごい得したというか……だから部下だといって近くに行けるだけで十分です、私」
「あぁ、その気持ちは分かるな」

 その台詞には大いに同意して、グスが大きく頷けば、ラナはぷっと拭き出して楽しそうに声を出して笑う。それには少々どう返していいか困ったものの、グスは頭を掻きながらやはり笑うしかなかった。

「まぁ、隊長の匂いの事なんて知ってるのは、身内以外じゃ俺達くらいだろうしな。あの人のそういうのまで知ってるってだけで、どんだけ俺らが近くにいるかってのが分かって嬉しかったりするわな」

 ラナはそこで、また絵を眺め、目を細めて微笑んだ。

「えぇ本当に、隊長も私達を身近に思ってくださっているといいんですけど……」







 誰よりも強くて、誰よりも自信に溢れたように見える男は、そのぞっとするような金茶色の琥珀の瞳を細めて、それはそれは愛しげに言ったのだ。

『あいつの匂いの理由、教えてやろうか――?』

 黒い騎士の、らしくない柔らかな表情を思い出して、エルクアはくすりと笑みを零す。

 セイネリアと知り合ってからというもの、少し長い休みを取れる度、エルクアはアッシセグに里帰りをしあの男にあっていた。約束通り、シーグルの騎士団での様子については普段からフユを通して伝えてはいるものの、それはあくまで報告すべき内容だと判断するような話だけであり、細かい話やどうでもいいちょっとしたエピソード等は、直に会った時に土産話のように話す事になる。
 だが、それをあの男がやけに嬉しそうに聞くのだから、その度にあの男の想いというか愛情の深さに驚いて、エルクアとしては分かっていても嫉妬してしまう事になるのが常だった。
 自分とヤっている最中でさえ余裕癪癪で見下しているような男が、シーグルが会議中にイラつき過ぎて発言者を睨んで話を終わらせたとか、一緒に食堂に言ったらミルクと果物しか食べなくて回りの目が痛かったとか、そういう話を嬉しそうに熱心に聞いているのだから、それで癪に障らない者はいないだろう。
 だからよくエルクアは言ったのだ、彼に行為を強請りながら、自分をシーグルだと錯覚する事はないのか、とか、自分は今だけでも彼の代わりになれないのか、とか。

「あいつとお前はその髪以外は似てなさすぎる」

 返す彼の言葉はそれがいつもで、だがある時、彼はほんの気まぐれのように、『それに、シーグルは抱きしめると特有の匂いがする』と言ったのだ。

「そんな特殊な匂いなのか?」
「特殊、でもないな。瑠璃香鳥の香水に似た匂いだ」
「そら香水付けてるんじゃないのか?」
「あいつがわざわざそんなモノを付けているものか。なにせあいつはいつも甲冑姿だ、そんなものつけていると匂いが篭るだろ。まぁ、嘘だと思うなら、今度近づく機会があったら確認してみればいい」

 そうやって楽しそうに笑う黒い髪の男の顔が、本当に自分との行為の最中より何倍も楽しそうなのがエルクア的には悔しいのだが。彼を一時的に自分の手に入れられているような気になれるから抱かれているのに、こういう顔の彼を見ると、それは自分一人が勝手に思っているだけの事なのだと実感してしまう。まるで、彼の前で一人芝居をしているピエロの気分だ。

「しかしまぁ、瑠璃香鳥の香水とは、また女性なら羨むような……なんか本当にいろいろ持っていすぎじゃないか……」

 だからそう愚痴ってしまえば、彼はその笑みを消して目を閉じる。

「そうでもない、理由はちゃんとあるしな」
「理由?」
「あぁ、あいつの匂いの理由、教えてやろうか――?」

 エルクアは身を乗り出す。
 それを返事と受け取ったのか、誰よりも強い黒い騎士は、外では誰にも見せないような柔らかい笑みと、愛しいものを思い描いて見るその目を、どこか遠くに向けて穏やかに呟いた。

「瑠璃香鳥というのはな、ケルンの実だけを好んで食べる鳥なんだ。香水はその爪を加工して作る。……つまるところ、あいつがガキの時からどれだけケルンの実ばかりを食ってきたのかが分かるというところだな。……恐らくガキの頃はそれしか食べてないくらいだったんだろうさ」

 おそらく、見たこともない愛しい『彼』の少年時代の姿を思い浮かべて、誰よりも強いと恐れられる男は、これ以上なく優しく瞳を細めた。





END.

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最後のオチはセイネリアでした。そりゃこの人、シーグルの匂いのことは知ってて当然だよなって話で……。




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