何時か会う誰かの為
<番外編・ウィア16歳のお話>







  【5】



 夕暮れが近づいて来てまだやまない雨に、エルは考え込んでいた。
 既に地面は座っていられないくらいには濡れていて、ウィアは麻袋を被っていた。葉の屋根の所為で直接雨に当たる事はないものの、葉が溜めた水滴がぽたぽたとあちこちに落ちてきていて、最早濡れないようにするのは無理だと言わざるをえない状況だった。

 ウィアは震えていた。

 全身びしょぬれ、という事はないが、頭はともかく服が濡れていて、その濡れた服がぺっとりと肌にくっついて余計に体温を奪っていた。
 雨が降り出してから厚い雲の所為でずっと薄暗くはあったものの、そろそろ本当に暗くなってきた今、空気は冷たく、益々ウィアの体を冷やしてくる。
 震えるウィアの様子を見て、その体を引き寄せて少しでも自分の体温を与えてくれようとしているエルだったが、所詮濡れた状態のままでは効果はあまりなさそうだった。

「すまんウィア、俺の読み違いだ、すぐ止むと思ったんだがな」

 山歩きに慣れたエルは、毛皮のベストを始め上着は皮の為、ウィアのように濡れても直接体まではそうそう水を通さない。ウィアの神官服は殆どが木綿の為、水に濡れると冷気から体を守るどころか逆に余計冷やす結果になる。
 雨の様子を見ながら考え込んでいたエルは、そこで一つの決断をする。

「ウィア、歩けるか」

 顔を上げたウィアは、寒さに震えながらもこくりとうなずいた。

「仕方ない、もっとちゃんと雨をしのげそうな場所を探すぞ。さっきより足元が滑るからな、俺のベルトをしっかり掴んで、俺の踏んだ場所を踏むように歩くんだ」

 ウィアは言われた通りにエルのベルトを持ち、片手で被っている麻布を抑えながらエルの後を歩く。
 手を引いてくれないのは、この足場ではエルでさえそんな余裕がないからだ。ベルトからでも彼の緊張が伝わってきて、どれだけ今彼が気を張って歩いているのかが分かる。

 それでも幸いなことに、完全に日が落ちる前に、ウィア達は小さいものの山の斜面に開いた空洞を見つけた。

 だが、それで手放しで喜んで終わりという訳ではなく、ウィアが見たこともない程緊張した面持ちで、エルはウィアの手をベルトから離させる。

「ウィア、少し離れていろ。今からあの穴の安全確認をするからな。何かあったらすぐ今来たところを辿って逃げろ」
「エル?」

 心配そうなウィアに、エルはまた笑顔を見せた。

「大丈夫だ、全部終わったら迎えいくから」

 ウィアが何が始まるのか分からずそれでも後ろへ下がると、エルはもっと下がるように言って、視界に納めるぎりぎりのところまでウィアを下がらせた。それから、一人で穴の傍に近づき、そこで何かをした後、穴の中が突然強く光リ出した。

 途端、バサバサと何かが飛ぶ音と、そして獣の叫び声が響く。
 その音が聞こえるや否や、エルが叫ぶ。

「ウィア、逃げろ」

 穴はまだ光を放っている。
 そして、そこから逃げ出すように、人間程には大きい黒い塊のようなものが飛び出すのがウィアには見えた。
 エルに言われた通り、ウィアは咄嗟に元の道を引き返して逃げようとしたものの、すぐに足を止めて振り返った。
 光はもう消えていた。
 光の正体は、通称光り石と呼ばれるもので、リパ神官が使う光の呪文を石に込めて、一回だけ発動させる事が出来るというものだ。それをエルが穴の中に放り投げて、”先客”を追い出そうとしたのだろう。
 光が無くなれば、薄暗くてもエルが対峙している獣の姿が分かる。
 それはエルに気付くと立ち上がって、人間の身長以上の大きさになる。姿形から予想するところ、恐らく熊のような動物だろうとウィアは思った。
 すぐに、破裂音のようなものが連続で起こり、獣がまた唸り声を上げる。
 これもエルが使った何かの道具だと思うが、追い払おうとしたものの、その動物は怒って威嚇するだけで逃げ出す気配を見せない。
 黒い影はエルのすぐ傍まで来て大きく伸び上がる。
 この足場では走って逃げる訳にもいかない。
 エルも何かまた出して相手を牽制しているようだが、その状況は絶望的に見えた。
 ウィアは見ている事が出来なくて、エルと獣に向かって穴へと戻る。足場の悪さに何度も転びそうになりながら、木や枝を掴んで急いで歩く。

 お互いに睨みあうエルと獣。
 だが、近づいた所為で見えたエルの表情を見てすぐに、ウィアは胸にあるリパ信徒の印、聖石のペンダントを取って手で掲げ、怒鳴りつけるように呪文を叫んだ。

「神よその慈悲の尊き光を我に――……」

 見習いであるウィアが、戦闘中に使えるリパの魔法はそれしかない。
 リパの神殿では基本の魔法であり、そしてその魔法を使って見習いや神官達が小銭稼ぎに石を作るのだ。
 先程、エルが使ったであろう魔法の石、その石の効果と同じ光の術が発動し、ウィアの手に持った聖石のペンダントが眩い光を放つ。
 獣が吼える。
 傍で見れば確かに熊の一種であるが、頭に大きなこぶのような出っ張りを持つそれは、角熊の、まだ若い雄だと分かった。
 視界が潰された熊は唸り声を上げ、滅茶苦茶に腕を振り回す。
 ウィアは思わず後ずさったが、傍の細い木を熊の腕が叩き、その木が折れたのを見て急いで逃げようとした。

「ウィアっ」

 エルが叫ぶ声が聞こえる。
 急いで逃げた所為で足を取られて滑り落ちたウィアは、どうにか傍の木にぶつかって下まで落ちることは免れた。
 だが、落ちたその音に熊が向かおうとする。
 木に強く体をぶつけた今、ウィアは痛くて立ち上がる事が出来ない。怪我をしているかまでは確認する余裕がないが、少なくともすぐ動ける状態ではなかった。
 怒りに染まった獣の雄叫びが耳に響き、その声にウィアの背筋が冷える。

 けれど、直後にそれはもっと高い、悲鳴のような声に変わった。

 見上げた場所で、角熊は激しく頭を振りながら、痛みに苦しむように暴れている。
 目を凝らせば熊の頭、恐らく目に細い矢が刺さっているようで、澄ませた耳にひゅんと微かな高い音が聞こえれば、立ち上がった熊の腹の辺りにそれが突き刺さり、獣はまた大きく悲鳴を上げた。
 少し視線を動かした先では、エルが弓を構えている。
 熊が悲鳴をあげながら、戦意を喪失し、逃げていくのまでを視界に納めて、ウィアは安堵すると同時に意識を手放した。








 ――パチパチと、何かが弾ける音がする。

 ウィアが目を開けると、赤い炎の光がまず入ってきて、それが眩しくて少し目を細めた。
 ゆっくりと視線を辺りに向ければ、すぐ傍にあるのは男の広い背中。服を乾かしている所為か、彼は上着を脱いで素肌を晒していた。冒険者としての経験と年齢を重ねた背中には、炎の明かりで陰影を強調された素晴らしい筋肉の隆起が曲線を描いている。その日に焼けた肌には、たくさんの細かい傷と、そして右腕から背中に掛けて大きく痛々しい肉を抉られたような傷痕があった。
 見上げているウィアの顔に、自然と笑みが浮かぶ。

「オッサン、無事か?」

 声に反応して、その背中がすぐに振り返ってこちらを見た。

「お前こそ大丈夫か? 骨は折れてないと思うが、どこか痛いとこがあるなら見てやる」

 心配そうに覗き込む顔が、近づいてくる。
 だから心配させないように起き上がって見せようとすると、背中やら足やらに痛みを感じて、ウィアは暫く起き上がりかけた体勢で固まった。

「イテッ……ッッ」

 こちらを見るエルの顔は益々心配そうに顰められるものの、動かしてみれば痛みはあってもそこまで酷いものではない。何より、痛いところを触ってみても、体や骨に響くような痛みではなくひりひりとしたものばかりだったので、擦り傷やら打ち身で済んでいるようだと思えた。
 ウィアは、治癒の術を自分に掛ける。
 見習いの今は人に掛ける事は出来ないが、軽い怪我くらいならウィアは自分でどうにか出来る。
 それから、思い切って痛みを堪えて起き上がり、エルに笑いかける。
 腕や足を改めて動かしてみれば、術は十分利いたようで、痛みも我慢出来ないようなものではなくなっていた。

「んーまぁ、あちこちぶつけた所為で痛いけど、心配してもらうようなモンはねーよ。俺神官だし、こんくらいは治せるしさ。
 それよりここあの穴ン中だろ? さっきの奴が戻ってくる事はないのか?」

 言いながらも、起き上がった所為で落ちた、掛けてあったエルの毛皮のベストを拾って肩に掛け直す。服を乾かしているのだから、当然ウィアも上半身は裸で、素肌に毛皮の感触は、なんだか気持ちよくて嬉しかった。

「入り口に動物避けの結界を張った、少なくともアイツが戻ってくる事はないさ。子供を連れた雌だったりしたらやっかいだったが、そうじゃなかったからな、結界がなくても嫌な思いをしたここに帰っては来ないだろ」

 エルは明らかに安堵を顔に浮かべていて、ウィアから視線を外すと火に掛けていた鉄の容器を下ろした。それから、木のコップに何かの粉を入れると、そこに下ろした鉄容器から湯を注ぐ。ウィアがじっとそれを見ていると、彼は中身をすこし混ぜた後、そのコップをウィアに差し出した。
 ウィアは受け取ったコップを顔のところへ持ってくると、その中身の匂いを嗅ぐ。

「何これ?」

 何かの種類のハーブ茶だとは思うが、ウィアが嗅いだ事のない匂いだった。

「飲んどけ、体があったまる」

 火に当たっているとはいえ、体の内はまだ冷えている、寝起きの今なら尚更。コップの中身をすすれば、熱い流れが喉を伝って、じんわりと体に熱が染み込んで行くのが分かった。
 ほう、と溜め息をついたウィアの頭を、エルの大きな手が撫ぜる。

「ありがとな、助かった」

 最初は笑顔で。けれど、その顔はすぐに苦笑に変わり、そして最後には顔から笑みが完全に消える。

「でもな、お前は逃げてよかったんだ。今度こういうことがあったら逃げろ、次も上手くいくとは限らない」

 大人しく頭を撫でられながらお茶を飲んでいたウィアが、ちらりと目線だけでエルを見上げる。

「あんたこそ、俺が目くらまし使って一緒に逃げるって話だったじゃねーか」

 エルは面食らった顔をして、それからまた顔に苦笑を貼り付ける。

「そりゃだってな、さっきのは逃げるよりも、ヤツを追い出すのが目的だからな」
「るっせぇよ、それだって最初から俺にも手伝えって言えばよかったろ。光の術くらいならいくらでも使ってやったんだ、最初から俺がいりゃもっと安全にアイツ追い出せたんじゃないのか」

 言いながら、拗ねるようにぷいとウィアはエルから視線を外す。
 ずずっとわざと音が出るようにお茶をすすって、苛立ち紛れに木のコップの端を噛んだ。

「それに俺、見たんだ、あんたの顔」

 呟くような小さな声でウィアが言えば、反論しようとしていたエルが黙る。
 ウィアは再びエルに視線を合わせた。

「エル、あんた死ぬ気だったろ。俺戻った時、あんたの顔が見えたんだ。あんたはもう逃げようとは思ってなかった、諦めたようにあの角熊見て笑ってた」

 エルは言葉を返さない。
 ウィアはぎゅっと唇を引き結んで、そして俯くエルに顔を近づけた。

「逃げるなり、戦うなり、あんたはまだどうにか出来た筈だった。なのに死ぬ気だったなんてどういうつもりだよ」

 ウィアのイメージするエルは、優しくて頼りになって力強くて……そして幸せそうだった。その彼が、あんなあっさり自分の命を諦めるなんて事が信じられなかった。
 ウィアだって神殿に通う身だ、いろいろな人間を見てる。治癒を得意とするリパ神殿は怪我人も多く運ばれる。あの時のエルの顔は、死ぬ間際に家族に微笑み掛ける人の顔と同じだった。

「まいった、なぁ」

 エルは呟いて、そうして哀しそうに笑う。

「息子みたいなお前を逃がして死ぬなら、彼女も許してくれると思ったんだが。お前に説教されるようじゃ、まだ来るなって事だろうな」

 力ない笑みは今にも泣き出しそうで、水色の綺麗な瞳が、揺れて、細められる。
 ウィアは見せつけるように、大きく溜め息をついた。

「やっぱ、死ぬ気だったんだな。ダメじゃねぇか、彼女の為に生きるんじゃなかったのかよ」

 エルは俯いて、力なく首を左右に振る。
 辛そうに伏せられた瞳は、ウィアの顔を見る事はなかった。

「あぁ、そうさ……それでもな、時々無性に辛く、寂しくなってな、もう全て終わりにしたくなる事があるんだ。彼女を思い出すと幸せを感じると同時に、死にたくなる程苦しくなる」

 あんなに幸せそうに、死んだ妻の話をしていたのと同じ男が、辛そうに、涙を浮かべて言葉を噛み締める。やがてその大きな手で顔を覆い、押し殺した嗚咽が聞こえてくる。
 ウィアには彼の辛さがわからなかった。
 彼の苦しさも、痛みも、悲しみも、どれも想像さえ出来なかった。
 ただ、あれだけ幸せな顔を出来る男が、それと同じくらい苦しそうに見える様は、ウィアにそれ以上彼に言う言葉を失くさせた。

 深く、深く、エルは彼女を愛していた。

 彼女を失った所為で深く哀しんだ彼は、けれどもその愛情故に生きて笑う事も出来た。例え愛する人を失っても、彼が手に入れたのは苦しみだけではなかった事を、ウィアは彼の笑顔で知っている。
 どれだけの愛が、彼をこれだけ苦しめて、そして幸せにしたのか、ウィアには分からない。
 けれども、ウィアはあの、幸せそうな笑顔のエルが好きだった。
 彼女の事を本当に幸せそうに話す、彼の柔らかい笑顔が大好きだった。
 きっと笑いながらも、こうして何度も彼は哀しみに涙を流して来たのだろう。力強く暖かい手で、笑って生きているその心の深い部分に哀しみを抱えながら。
 パチパチと爆ぜる炎の揺らめきを頬に映しながら、俯いて、ただ声を殺して泣く男にウィアは言う。

「なぁ、オッサン、俺と寝ないか?」

 エルは何も返事をしなかった。
 けれど、ウィアはただ彼の返事を待って、じっと彼を見つめていた。
 その視界の中、ゆっくりと、彼が顔を上げる。
 久しぶりに視線が会ったエルに、ウィアは笑顔でもう一度言った。

「エル、俺と寝よう……ただし、あんたは俺のことを死んだ奥さんだと思って抱いてくれ」

 エルが目を見開いて、顔を強張らせる。

「何いってるんだお前、それこそ冗談じゃない」
「冗談じゃないぜ、俺」
「馬鹿いうな、前にもいったろ、自分の子供程の歳のお前を抱けるか、しかも彼女の代わりだって、そんな事……」
「そんな事?」

 ウィアが聞き返せば、エルはまた視線を外す。

「許される筈がない、彼女にも、お前にも」

 ウィアは笑って、エルの顔を両手で挟んで上を向かせる。そして自分と目と目が合うように固定すると、その笑顔を消して、まっすぐ彼の目を見つめた。

「誰もあんたを責めたりしないよ。死んだ彼女もあんたを愛してたなら、あんたがそうして嘆いている姿のが方が嫌だと思う。俺はさ、エルが好きだけど、別に俺自身を愛して欲しい訳じゃない。俺は、彼女を愛してるあんたが好きだ」

 エルは、驚いた目でウィアを見つめている。
 ウィアはクスリと笑ってやると、そっと顔を近づけて、そして彼にキスをした。
 触れて、すぐに唇を離して、余計に驚いて固まってしまったエルにウィアはまた笑う。

「俺さ、あんたみたいに誰かを愛した事ないんだ。セックスはいろんなヤツとしてきたけどさ、本当の意味で愛して貰った事もない。だから、知りたいんだ、本当に愛してるってあんたの思いを、体からも心からも感じてみたい。あんたが奥さんを愛してるってその思いを俺に教えて欲しい。その代わりに、あんたが少しだけでも寂しさを紛らわせられるのなら、俺は、嬉しいんだ」

 そこまで言うと、今までずっと顔を強張らせたままでいたエルが、ふっとその表情を和らげる。哀しいような辛いような表情ではあったものの、彼はそれでも無理に笑顔を作って、ウィアにその大きな手を伸ばしてくる。

「馬鹿だな、お前。こんなオッサンに何でそこまでしようとするんだ」

 大きな手と力強い腕が、包み込むようにウィアの体を引き寄せて、そして抱き締めてくれる。
 素肌の彼の胸は暖かくて、とくとくと聞こえる鼓動が耳に心地良い。土の匂いと、木々の匂いが染み付いた肌は浅黒く硬い筋肉で覆われ、その力強さは女性に抱き締められるのとは違う安心感をウィアにくれた。

「少なくとも、今まで寝た相手にエル以上に好きだったヤツなんかいねーよ。だからあんたと寝れるなら、今までで一番自分の寝たい相手に抱かれた事になる」

 エルの掌が、慈しむよう優しく、ウィアの頭を撫ぜた。
 目を閉じるウィアの顔に、彼の顔が近づいてくる。

「出来るだけ気をつけるが……始めたら加減出来ないかもしれん」
「いいよ、俺慣れてるし」

 互いに囁くように言葉を交わして、そうして、エルからウィアに唇を合わせる。
 今度は、触れるだけの優しいキスではなく、相手を求めて互いに粘膜を交わすまで。





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