何時か会う誰かの為
<番外編・ウィア16歳のお話>







  【3】



 夜の山は静かで、静かだからこそ、たまに聞こえる物音は、遠い微かなものの筈なのにやけにハッキリ耳へと届く。
 遠い獣の雄叫びは、夜に山や森に来た事がないウィアの不安を煽って、聞こえる度に一瞬足を止めそうになる。
 けれども、それが気配でわかるのか、その度にウィアを振り返って歩調を緩めてくれるエルの姿が、ウィアの足に力をくれる。

「予定より遅くなったが、もう少しだ」

 ランプの明かりで僅かに見えた、彼の口元が笑みを浮かべる。
 それで今彼が浮かべているだろう笑顔を思い出して、ウィアもつられるように笑った。

 あれからも、何度か土砂崩れや川の増水の為に通るのに時間がかかったり、時には迂回しなくてはならなかったりで、予定の小屋に着くまでにはすっかり日が暮れてしまった。
 辺りは本当にただ暗闇が広がるばかりで、覆い茂った木の間から漏れるような月の光だけが、行き先を僅かに照らしていた。勿論、ウィア達は日が落ちてすぐにランプに火を灯して歩いてはいたものの、圧倒的な暗闇の中ではその光は余りにも頼りなく、暗闇に吸い込まれていくように、傍にあるものをどうにか照らすだけだった。
 それでも、前を歩く男の姿が見える。ウィアにはそれだけでこの闇を歩く事が出来た。

「見えたぞ、お疲れさん」

 前を行くエルの足が止まって、彼が振り返る。
 ウィアが少し遠くを見えるようにランプを持ち上げれば、古ぼけた山小屋が確かに見えた。それは小さくて、回りの大木達からしたらあまりにも質素な物だったが、暗闇で気を張って疲れきっていたウィアにとっては、救いのように頼もしく見えた。
 安心して、思わず足から力が抜けて、へなりとその場に座り込みそうになったウィアの体を引っ張るようにしてエルが支える。

「ほら、気を抜くのは中に入ってからだ。もう少しだ、しゃんと歩け」

 エルの笑顔をすぐ傍で見て、ウィアは疲れに気が抜けそうになりながらも笑顔を返した。

 小屋の中は予想通り、埃くさくお世辞にも綺麗とはいえなかったものの、使っている人間自体は少ない所為か、使い込まれた汚れも少なかった。中の物も整理はされていて、渡された夜具代わりの麻布は、多少カビくさいものの他の人間の匂いがしなかった分我慢が出来る代物だった。
 エルはすぐに部屋にある暖炉に火を入れて部屋の中を暖めようとしていて、ウィアは濡れた服や靴を脱いで、布に包まりながら足を暖炉に向けて火が完全に点くのを待っていた。

「ここはあまり人来ないのか?」

 聞けばエルは火を点ける作業を続けたまま、ウィアに声だけを返してくる。

「まぁ、このヘンは最近はあまり人が来ないな。ただこの傍は春になるとルーメリーの大群がやってくるんだ、それを追ってヤバイ化け物もついてくる事があるからな、その監視小屋だ」

 ルーメリーというのはいわゆる渡り鳥なのだが、とにかく群れる習性がある。集団で季節によって住処を変えるわけだが、ルーメリーがきた場所は羽の色の赤一色で森が埋まる程になると聞いた事がウィアにもあった。

「そんなヤバイとこで、こんなちっぽけな小屋で大丈夫なのかよ」
「大丈夫だ、ちゃんと小屋のあちこちに結界用の護符が埋めてあるからな。あぁ、朝になったらそれの点検を頼むな、あれも調査にきた神官様のお仕事になってる」

 言って、やっと火が勢いよく燃え出した暖炉からエルが離れる。
 ついでに、こちらを向いたエルと目が合ってしまって、ウィアは少しだけバツが悪そうに顔を逸らした。

「分かった、朝になったらな」
「まぁ、分からなかったら放っておいてもいいからな。どうせまたそのうち別の神官がくるだろ」
「馬鹿にすんな、壊されて作り直しみたいな事までなってたらアレだけど、点検くらいは出来る」

 ムキになってウィアがいう顔が可笑しかったのか、エルは笑って、それからウィアの頭に手を置いて撫ぜてきた。

「はは、悪かった。まぁ、完全に壊れてたら正神官様だって一人じゃどうにも出来ないさ、幸い守りの術自体はちゃんと働いてるようだからな、壊されてるって事はない、安心しろ。明日になったら詳しいとこは専門家であるお前さんに頼むからな」

 こんな言い方をされて、こんな風に子供みたいに扱われて、いつものウィアなら頭にきて蹴るなり物を投げるくらいのうさ晴らしを既にしているだろう。
 なのに大人しく黙り込むなんて、本当にらしくない、と自分でもウィアは思う。

「守りが働いてるならここは安全だ、明日も山歩きだしな、今日はゆっくり休め」

 言いながら彼はどこからか鉄の鍋を出してきて、水袋の水を入れ、暖炉の上にかける。その後に何か荷物から取り出してごそごそと作業を始めたから、恐らく夕飯の支度をしてくれているのだろうとウィアは思った。
 ウィアは彼の作業する音を聞きながら、暖炉の火をぼおっと見ていた。
 足の裏が火に暖められて少しばかり熱かったけれども、その感じが気持ち良かった。じめじめとした靴の中からやっと乾かされた所為か、それとも靴の締め付けがなくなった所為か、こうして足をあっためているととても楽で、疲れが少しづつ抜けていくようだった。
 てらてらと揺れる火、暖かい足。
 疲れきっていたウィアは、自然と自分の意識も揺らいでいくのを感じていた。布団の中に比べれば環境は最悪な筈なのに、ふわふわとした今の状態がとても心地よくて、ウィアの瞼はそれに耐え切れずに瞳を隠した。





「ウィア、寝てるのか? 寝る前に飯だけは食っとけ」

 掛けられた声にはっと目を開くと、暖炉の揺れる明かりの中、エルの笑顔と美味そうなスープの匂いが飛び込んでくる。それに反射的に反応したのは頭よりも体の方で、起きた途端にぐぅと腹が鳴った。
 エルが笑って、スープの入った器を差し出す。
 ウィアがそれを受け取れば、彼は少し離れた場所に座ってパンを切り分けだした。
 ウィアはそんなエルを少しだけ見ていたが、とにかく空腹に耐えられなくてスープを口に運ぶ事にした。熱い流れが体の中に入っていくと、体の芯から温まって、疲れが解れていくようだった。
 食べている間にも、トン、トン、と手馴れた調子のナイフの音が聞こえて、ウィアはまたちらりとエルに視線を向けた。
 パンを切り分け、塩漬け肉をのせて、そんな作業を何故か楽しそうに彼はしている。
 彫りの深い顔は暖炉の火に照らされて、顔の造形をくっきりと際立たせ、彼の今の表情も相まってまるで木彫りの天使像のように暖かい印象を与えた。
 スープに視線を戻し、ウィアはまた一口それを口に運ぶ。

 ――うん、なんかやっぱり俺、このオッサンの事好きな気がする。

「ほらウィア、これがお前の分な」

 そういって紙の上に置いたパンを持ってきてくれたエルに、ウィアは視線が合うとなんでもない事のように聞いてみた。

「なぁエル、あんた、俺と寝ない?」

 けれどもエルはその言葉の意味を理解しなかったようで、彼は笑って柱に寄りかかると自分の食事を始めた。

「なんだウィア、こういうとこきて心細くなったか? 一人で寝るのが寂しいとかいうんじゃ、ガキって言われても仕方ないぞ」

 そんなエルにウィアは少し呆れたが、今までの流れ的にそう考えるのもしょうがないかと思い直す。

「いや、そうじゃなくってさ。俺とセックスしないかっていってんだよ。あんただってそんだけ長く冒険者やってりゃ、男抱いた事ないとかいわねーだろ」

 次にエルが返した反応は、激しい咳だった。
 丁度物を口に入れた瞬間にウィアの言葉を聞いたようで、彼は激しく咳き込むと、暫く言葉を言えずにもがいていた。

「俺、あんたの事気にいったしさ、どーせここには俺とあんたしかいないし。別に恋人にしてくれってんじゃなくてさ、ただちょっと寝てみたいなって思っただけなんだ。お互いにちょっと気持ち良くなれればいいかなー程度で気楽にさ、ね、ちょっと俺と寝ないか?」
「ウィア……」

 やっとの事で咳が収まったのか、エルは口を抑えたまま恨みがましいような顔でウィアを見ると、今の言葉が冗談ではないと分かったのか、がっくりと疲れたように肩を落とした。

「お前は、いくつ俺と歳が違うと思ってんだ」
「えー、別に構わねーじゃん。おっさんやじーさんでも、若いヤツとヤれるのは大歓迎じゃねぇ、普通」

 エルが大きく溜め息をつく。

「少なくとも俺は、自分の子供と同じくらいの歳のとそーゆー事する趣味はない」

 ウィアは盛大に不満の声を上げる。

「かったい事いうなよー、いいんだよもっと軽いノリでさ。女と違って子供出来るわけでもないから、後々面倒事になる事もないし。あ、それともやっぱ男相手がだめとか?」

 エルは怒る程の気力もないのか、顔を手で覆って下を向いたまま、力なく顔を左右に振っている。

「そーゆー問題じゃなくてなぁ……ったくお前、いつもそんな調子で男と寝てるのか」
「気にいったヤツとならね。相手も自分も気持ち良くなって、そん時だけ良ければいいんだよ」
「まぁ、そういうのも否定はしやしないが……呆れたヤツだな」

 エルは多少は立ち直ったのか、呆れた顔のままウィアを見ないで、中断していた食事を始めた。
 結果的には発言を無視されたような態度に、ウィアは少しむっとする。

「なんだよ、俺モテるんだぞ」
「まぁその容姿じゃぁなぁ」
「別に男と寝るのが好きなんじゃなくて、声掛けてくるのが男のが多いからなだけだし」
「そらー、お前さん可愛いからなぁ」

 ウィアが何を言っても、エルはもう相手にするのも疲れたというようにマイペースで食事を続ける。さすがにこの状況では寝るのは無理だと思っても、なんだか馬鹿にされているようでウィアだって頭に来る。
 とはいえ、いくら何を言ってもエルは受け流すだけで、ウィアはだんだんと今度はなんだか哀しくなってきた。

 ――折角、好きかなって思って自分から言ってみたのに。

 最初から恐らく断られるだろうなとは思っていたものの、ここまで相手にされないと、さすがのウィアだって傷付くというものだ。
 だから、もう抗議する事もなく黙っていれば、今度はエルの方が気になったのか、食事を止めてウィアの方に顔を向けた。
 ウィアは下を向いて、何故だか出てきた涙を手で拭いていた。

「ったく、泣くな、坊主」
「だってあんた、真面目に俺の話聞いてくれないじゃねーか」

 エルは手に持っていたものを置いて、大きく溜め息を付いた。
 それから、ウィアの隣にやってきて座ると、ウィアの頭を引き寄せて自分に寄りかからせる。

「俺はな、お前が魅力ないからってわけでも、子供だからって馬鹿にして相手しない訳でもないんだ」

 言われてウィアは、一つだけ思い当たる事を口に出してみた。

「俺と同じくらいの……子供がいるとか?」

 そうであるなら、確かに嫌かもしれない。そう考えたウィアだったが、返されたエルの声が思いのほか暗く、辛そうだった事に驚く事になる。

「いや……だが、生きていたらきっと同じくらいだったな」
「子供、死んだのか」

 言えばエルは、ウィアの頭をぐしゃぐしゃと混ぜて、唇に苦笑を張り付かせた。

「死んだというか、生まれてこれなかった。あいつは身ごもったまま死んだからな」
「奥さん、いたんだ」

 エルは目を閉じたまま、ウィアの頭を今度は優しく撫でてくれた。

「あぁ、とても、とても愛していた。彼女を失ってから、他の誰も欲しくないと思うくらいに」

 言ってエルは目を開くと、ウィアの方を見て笑い掛ける。
 その目は深い哀しみを浮かべていたが、それでもとても優しそうで、幸せそうにも見えた。

「だからな、お前とは寝ない。俺は今でも彼女だけしかいらないんだ」

 そう言って、もう一度微笑んだエルのくしゃりとした笑顔は、みたことが無い程に、本当に幸せそうに満たされていた。
 死んだ人間の話をするのに何故こんな顔をするのか、ウィアには分からない。けれど何故だかウィアの方が心が痛くて、そして彼が羨ましかった。

「なんで……哀しいんじゃないのかよ。だって、死んだらもうその人に触れられないし、感じられないし、なのになんであんたは笑ってるんだよ」

 エルはウィアの頭を撫ぜてくれる。
 泣いた子供をあやすようなその顔は、もしかしたらウィアに生まれてこれなかった自分の子供を重ねているのかもしれない。どこまでも優しい水色の瞳は、暖かくて、安心出来て。ウィアもまた、殆ど記憶にない父親というものの影をその瞳に見ていたのかもしれなかった。

「そりゃぁ彼女が死んだ時は哀しかったさ。世界の終わりがきたみたいにね、哀しくて、辛くて、俺も死んでしまいたかった。けれど、彼女は死ぬ間際に、俺が無事な事を喜んで笑顔で死んでいったからね、俺は生きなきゃならなかった、どんなに辛くても」

 その時の彼が辛かっただろう事は、ウィアにも想像出来る。けれども、それがどれだけの辛さだったかはウィアに分かる筈がない。両親が死んだ時でさえ、ウィアはあまりにも幼くてまだ辛いと感じる事が出来なかった。深く人を愛した事のないウィアには、彼の気持ちがわかる筈はなかった。

「それでも、俺は今幸せなんだ。例え彼女を失っていても。彼女を愛していた、その事実があるから。だから、笑えるんだ」

 自分の事ではないのに、ウィアの瞳からはぽろぽろ止め処なく涙が零れてくる。
 エルはそんなウィアの頭をただ撫ぜて、燃える暖炉の火を見ていた。

「分かんねーよ。だって、そんなに好きだった人がもういないのに……」

 しゃくりあげながら呟くウィアに、エルはただ笑みを浮かべるだけだった。

「お前も、本当に人を愛すれば分かるさ。そうしたら、今みたく気楽にいろんな奴と寝る気もなくなる。そん時の為に、もうちと自分を大事にしてやれ、ウィア」

 寄りかかる大人の体は、頼もしくて、そして温かくて。
 泣いているうちに、ウィアはいつしか眠りの中に落ちていった。





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