後悔の剣が断つもの





  【13】




 薄暗い部屋、窓のないこの部屋で暗闇にならないのは、部屋の隅にあるランプ台にランプが置かれているからだ。ただし、部屋全部を明るく照らす事も可能なそれは、わざと光を押さえた炎になるように調節されている。

 また、自分は此処にいるのか、と。

 目が覚めて見えた部屋を見て、シーグルは思った。
 唇には自嘲の笑みしか沸いてこない。
 憎んでいる男に、何度自分は助けられたのだと、自分の不甲斐なさと情けなさに嗤う事しか出来ない。

 シーグルの瞳からは涙がまた、零れた。

 犯された思い出しかない部屋なのに、ここにいる事に安堵する自分がおかしい。
 あの男の部屋にいるのだと、そう思って体から力が抜けるとは、最初の時と比べたら自分の都合の良さを軽蔑する事しか出来ない。

 ――ここにいてはいけない。

 心の奥から湧き上がってくるそれは、一種の強迫観念のようなものだった。安堵して眠りにつこうとする体が許せなくて、シーグルは無理矢理に起き上がる。予想通り少し動くだけで体のあちこちが悲鳴を上げたが、体の痛みならば我慢すればいい、それだけだった。
 だが、それでもベッドから降りれば予想以上に力の入らない下半身の所為で、無様に床に倒れ込む。
 それに悪態を付く間もなく、隣の部屋から足音が近づいてくるのにシーグルは気がついた。
 足音は近づいてくる、シーグルは部屋のドアを睨む事しか出来ない。
 やがて、足音は止まって、薄暗い部屋に光が差す。ドアがゆっくりと開いて、その先の明かりを部屋の中へ広げて行く。

「何をしてるんだ、お前は」

 予想通りの人物が、不機嫌そうにシーグルを見下ろした。
 シーグルは呆然とその顔を見上げる事しか出来なかった。体は逃げようとぎこちなく床を這うものの、すぐにセイネリアが近づいて来て、シーグルを簡単に抱き上げた。

「放せっ」
「黙れ」

 ベッドの上に落とされて、上掛けまで掛け直される。
 そして彼は、羽織っていた上着を脱いで投げ捨てた。

 シーグルの体に緊張が走る。これから何をされるのかなど分かり切っていて、セイネリアに聞く気さえ起きなかった。ただ、今身を守るのはそれだけしかない上掛けを体に手繰り寄せて、服を脱いでいくセイネリアの姿に恐怖する。
 セイネリアはそんなシーグルを感情もなく見つめて、そしてベッドに乗り上げてくる。シーグルは目を見開いて精一杯の虚勢を張って彼を睨んだが、セイネリアはそれを無視してベッドの上に体を横たえた。
 何が起こったのか分からないシーグルは呆然とする。
 けれど、横たわったまま動かないセイネリアの背中を見て、少しづつ思考力が戻ってきた。

「何、してるんだ、お前は」

 セイネリアは動かない、ただ声だけが返って来る。

「見て分からないのか、俺も寝るんだ。今回は流石に俺も限界なんでな」
「お前が寝るなら、俺を追い出せばいい」
「他のベッドを用意する手間も、移動するのもさせるのも億劫だ、元々ここは俺のベッドだ、文句を言うな」
「邪魔なら追い出せ、床でもどこでも俺はいい」

 セイネリアは一瞬黙る。
 だが、今度は言葉より先にその背が動いて、彼は無理矢理顔を向けてシーグルを睨む。

「俺がそれでいいと思うのか、ふざけるな、何の為に俺が今回動いたと思っている。……安心しろ、俺も本気で今日はもう何もする気力が起きん、ただ寝るだけだ。早く俺から離れたいなら、貴様も大人しく寝て体を回復させろ」

 セイネリアの目も声も明らかに怒っていた。
 シーグルはそれ以上反論する事も出来ずに、呆然と、再び背を向けたセイネリアを暫く見つめ、そして諦めてその彼に背を向けて自分も体を横たえた。
 ベッドは広い為、背を向けて寝ていれば体が触れる事はない。
 けれども、相手の体温が傍にいる事を伝えて、そしてそれが緊張を強いる事なく、体は安心して眠ろうとする事にシーグルは恐れる。眠ってしまいそうになる自分が怖くて、懸命に目を開く。
 セイネリアも気配でそんなシーグルの様子がわかったのか、ずっと沈黙を保っていた彼から溜め息が聞こえた。
 そして。

「まだ起きているなら、少しだけ話がある」

 シーグルは返事をせずに、僅かに身じろぎした。セイネリアにはそれだけで起きている事が伝わった筈だった。

「お前の母親と、あの男。血筋的に、二人の間に青い目の子供が生まれる事はない」

 だからつまり、フェゼントは間違いなく父親の子供なのだと、それを理解したシーグルは安堵に思わず胸に手を当てて大きく息を吐き出した。
 安堵の為に口元に笑みが漏れる。その報告だけは、心の底から、何の迷いもなく喜んでいいものだった。
 けれど、喜びはしても、ふと疑問が湧きあがる。
 そもそも、どうやって警備隊も突き止められなかったあの男が犯人だという事を、セイネリアが知ったのだろう、と。

「何故、シェンが母さんを襲った犯人だとわかったんだ」

 だからそう聞けば。

「シルバスピナ卿に聞いた」

 半ば予想通りのその答えに、シーグルは納得しつつも唇を自嘲に歪める事しか出来ない。
 恐らくあの時みたセイネリアからの手紙が、祖父に事の真相を確かめたものだったのだろう。ならば、祖父は全てを知っていて自分に何も知らせなかっただけだと、シーグルは理解する。

「考えても見ろ。あのクソジジイが、本当にお前の兄がシルバスピナの血を継いで無い何処かの男の子供だったとしたら、いくらお前が頼んだとしても、あの家の敷地内にお前の兄弟として住ませてなどやるものか」

 そう言われれば確かに。
 確かに、あの祖父ならばそう考えるだろうとシーグルは思った。

「あぁ、そうだな……その通りだ」

 シーグルの瞳からは涙が零れる。
 なんという道化だろう。
 シェンのいう事を聞いていたのも、兄が父の子ではないかもしれないとを恐れていたのも、全部、一人で道化を演じて勝手に傷ついていただけの事だったのだ。
 シーグルの瞳からは涙が止まらずに流れる。
 嗚咽は漏らさないようにしながら歯を噛み締めて、それでも瞳の涙は止められなかった。

「お前の父親が死んで暫くして、お前の母親は再び冒険者としての仕事を始めた。そこでシェンと再会した。その時既に彼女は病気を患っていたらしい、それを打ち明けられて、あの男は今度こそ自分が彼女を助けられると思って一緒になろうと言ったそうだ。……だが、受け入れられて、彼女を抱いて……そこで気付かれたらしい、この男が自分を犯した犯人だという事にな」

 シェン・オリバーはずっと自分の罪の意識に苛まれていた。自分の愚かさを後悔して後悔に押しつぶされそうになって、そんな彼が愛する人とやり直すチャンスを手に入れたなら、彼はどんなにか救われた気になったろうとシーグルは想像出来る。

 けれども、彼は救われなかった。

「彼女に責められて、あの男は罪を告白した。罵られ、非難される事は覚悟していたが、彼女は狂ったように男を責めた後、最後に、夫と、自分の息子、そしてあの男自身への謝罪の言葉を叫んだそうだ」
「謝罪、だと?」
「そうだ、床に頭をつけて謝るあの男を、彼女は自分の所為で追い詰めたのだと謝った。そして、一番上の息子をずっと疑い、疎んじていた自分を責めて泣き叫んだ。それから彼女はおかしくなった。自分の罪の意識に押しつぶされて、彼女は全てを忘れていった」

 あぁ、だからこそ、彼は余計に救われないまま苦しむしかなかったのだと、シーグルは理解する。
 自分の所為で壊れていく愛しい人を前にして、彼の憤りと憎しみは、最早父だけに向かうしかなかったのだと。だから、同じ顔をしたシーグルにその憎しみをぶつけた。罪の意識も後悔も、全てシーグルにぶつけてあの男は自我を保った。
 ならば、自分はどうするべきだったのかとシーグルは思う。

「シスバスピナ卿は、その彼女がおかしくなる寸前に彼女から手紙を受け取ってその事を知った。自分に何かあった場合も、息子達があの家に受け入れられるようにと書いたものだったそうだ」

 そこまで聞けば、決定的だった。

「つまり、最初から祖父は兄達を受け入れる気があったんだな」

 唇をわななかせて、声を震わせて、シーグルが呟く。

「……お前の兄弟は、シルバスピナの屋敷に来る前に、既に貴族院に登録がされていた」

 だから、つまり、それは。
 シーグルは、唇に無理に笑みを浮かべた。
 笑いでもしないと耐えられそうになかった。
 けれども、いくら笑おうとしても唇は引き攣り、瞳からは涙が絶え間なく流れる。
 本当に、自分がしてきた事は意味がなかったのだと。自分が流してきた血も汗も涙も、全て意味がなかったのだとシーグルは理解した。

「とんだ道化だ……俺は何の為に今まで……」

 後は言葉に出来ず、シーグルは口を閉ざす。
 これ以上声を出せば、嗚咽にしかならなかった。何が哀しいのか、悔しいのか、流れる涙は何の為か、それさえも分からず、ただ涙を止める事が出来なかった。

 シーグルはずっと、自分が頼み込んだ事で、やっと祖父は折れて兄弟達を連れて来る事を許してくれたと思っていた。自分の必死の願いを聞いてくれる程度には、祖父はまだ自分に孫としての情を持っていてくれると思っていた。
 ……いや、最初から、確かにあの祖父にしては、兄弟を連れて来る為に提示された条件が当たり前過ぎるとは思っていたのだ。わざわざ条件として約束などさせられなくとも、シーグルには言われた通りの相手と結婚するしか選択肢はなかったのだから。ただ父の事があったから、念を押す為に自分に約束させた程度のつもりだったのだろう。
 結局、何も知らずにただ一人で空回りしていただけだった。シェンの言う事に従って体を差し出した事も、兄弟の為だと祖父に言われるまま従っていたことも、全て無駄な一人芝居だったのだ。
 どこまでも無様で、どこまでも意味のない、そんな自分が酷く惨めで、憐れで、救いが見出せない。

 どうすれば、良かったのだろう。

 そう思っても何も思いつかなかった。
 その時その時、出来るだけ、精一杯の事をしてきた。だからそれ以上何をすれば今よりもマシになったのかと、思いつくものなどシーグルには何も無かった。

 何が悪かったのだろう。誰が悪かったのか。

 悪いのはシェン・オリバーだ。全ての元凶はあの男にあると言っていい。
 けれども、そう思ってさえ、全ての恨みと憎しみをあの男にぶつける事も今のシーグルには出来なかった。あの男の惨めさと苦しみが分かるからこそ、決して許せはしないものの、全てをあの男への憎しみに変えて楽になる事も出来なかった。

 だから、ただ、自分の余りの惨めさに泣く事しかシーグルには出来なかった。
 泣く無様な自分を嘲笑いながらも、どうしても涙を止められなかった。

 背にあった気配が動く。

 気付いた時には、見知った男の体温が体を包んでいた。
 自分を力ずくで犯して、いつでも体を征服をしてきた憎むべき男の腕がシーグルを抱き締めていた。背に感じる男の体温に、最後まで耐えていた心の壁が崩れ落ちる。わなないた唇からは嗚咽の声が上がる。

「あ、あ、うぁ、ああ……」

 シーグルは泣いた。
 声を上げて、何も耐えずに。
 ただ出てくる涙のまま、上がる声のままに、叫ぶように泣いた。
 生まれて初めて、誰の事も考える事なく、耐えずに、声を押し殺す事なく、ただ自分の感情の吐き出すままに泣いた。
 幼い頃失った暖かさに縋るように、誰よりも強い男の体温に縋って泣いた。





END
 >>>> 次のエピソードへ。


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長いエピソードが終了しました。お読み下さった方、お疲れ様です、ありがとうございました。
シーグルの幸せまではまだ遠いですが、ひとまず、ストーリー全体の中でも大きい山場が終わりました。


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