迷う剣は心を知る






  【5】



 部屋は、静寂に支配されている。
 動くもののないその中では、息をする音だけがその静寂を拒絶していた。
 窓のない部屋は弱いランプの明かりだけが光の全てで、その光さえ部屋を満たす圧倒的な闇に飲み込まれそうだった。

「何をやっているんだ、俺は……」

 気絶するように眠っているシーグルの横で、セイネリアは自分の顔に手を当てていた。
 その顔に感情はない。
 ただ、無表情というよりも、呆然としているといったほうが近く、事実セイネリアは、今、途方に暮れていた。

 気付けば、セイネリアは解毒薬を持っていた。
 亡者のように延々と快楽を求める彼に、口移しでそれを飲ませていた。

「何が欲しかったんだ、俺は……」

 目を閉じ、子供じみた顔で眠るシーグル。
 先程までは未だ苦しそうだったものが、今では安定した寝息に変わっていた。
 セイネリアは、彼のその頬を撫ぜる。
 体力の限界を越えた後に、更に薬に侵された彼は、幾分かやつれて見えた。
 解毒薬を飲ませたのが早かった所為で、後に残るような事にはならないだろう。薬が強すぎた為に、彼が最中の事を覚えている事もない筈。そう考えて、それに安堵を覚える自分にセイネリアは力なく嗤う。

 元から、予感はしていた。

 一度、彼を壊さずに済んだ後、何か、満たされた気がした時に。
 自分は彼を壊せないのだと、壊したくないのだと。それは、既に分かっていたことだった。
 だが、その執着の正体を、セイネリアは正しく理解しようとはしなかった。
 ……いや、自分にはあり得ないと決め付けていただけなのかもしれない。
 だから、言えた。
 自分にはあり得ない感情だからこそ、揶揄うように彼に何度も言った。

「愛している、か」

 何度も口に出して、一度も本気で言ったつもりではなかった言葉が、今、重いものを吐き出すように口から零れる。
 だが多分、それが答えだとすれば自分の感情は全て辻褄があう事を、セイネリアは認めない訳にはいかなかった。

「……ふり、だけの筈だったんだがな」

 愛しているふりをしているつもりが、本当に愛していた。

 何時からその言葉が真実になっていたのか、セイネリア本人さえ気付けなかった。

 セイネリアは嗤う。
 喉を震わせて嗤う。
 酷く、自分が滑稽だった。
 まるで、安い芝居小屋の喜劇のオチのようだと思った。

「ふざけた茶番だ。俺も、人の子だったという事か」

 セイネリアは嗤う。
 声を上げて、肩を震わせて。









 月明かりに照らされた部屋は、ランプの明かりもあってそこまで暗くはない。
 互いに顔も見る事なく剣の手入れをしている二人の間には、最初からずっと会話は無かった。そもそも、仕事で組まされる事が多いから同室にされているだけで、彼ら二人の間に個人的な交友関係は一切なく、同じ部屋にいても会話が一言も交わされないなどいつもの事だった。

「なぁ、クリムゾン」

 そんな中で、ラタは同室の男に声を掛ける。
 尤も、名を呼んでも、彼が返事をしない事は分かっていた。
 だから気にせず、ラタは話を続ける。

「マスターにとって、彼は、どういう存在だと思う?」

 返事ではなく、舌打ちのような音が聞こえて、クリムゾンが話を聞いているのをラタは確信する。だがそれは当然だった。どんなにラタに対して興味がなくとも、主の事ならば彼が聞いていない筈はない。

「勿論、あの人が何を考えて何をしようと、俺が気にする事じゃない。だが、あまりにもあの人らしくなかったからさ。具体的にどこがおかしいとかそういう話以前に、あの人らしくなかった、全部な」

 磨いた剣の様子を見て、すぐにそれを鞘に納める。
 人を斬った訳ではない剣は、そこまで念入りに手入れが必要な訳でもない。日課となっている錆び止めだけを塗って終わりである。
 ラタがブーツを脱いでベッドにもぐり込むと、クリムゾンは、未だに武器の手入れが終わっていないようだった。
 ラタは肩を竦めて、自分のベッド脇のランプを消すと目を閉じる。
 そういえば、彼は自分よりも持っている武器の種類が多い。基本メインとサブの一本づつしか使わないラタと違って、状況に応じていろいろ使い分けるのがクリムゾンのやり方だ。
 そんなことを考えながら、まだ起きている彼の方から漏れる光を避けるように背を向けたラタに、とっくに返事を諦めていたクリムゾンの呟くような声が掛けられた。

「何故、剣を止めた」

 一度瞑った目を開いて、ラタは溜め息を吐く。

「マスターが、止めそうな気がしたんだ」
「何故」
「何故だろうな。……あぁ、そうだな、いつものマスターなら、止める筈はないな」

 躊躇う事も、迷う事も、あの誰よりも強い男のイメージではない。
 一度出した命令を覆すなんて事も、らしくないのだ、あの男には。

「何故だろうな。あまり、いい予感はしない事は確かだ」

 ラタは目を瞑った。
 それ以上、彼らの主の事で深く考えたくはなかった。
 だから無理矢理意識を閉ざして、睡魔を引き込む。
 何時の間にか、同室の男の武器を手入れする音もなくなり、部屋の中には静寂だけが残されていた。

「……あり得ない」

 呟いて、そこで初めて、クリムゾンはラタに視線を向けた。
 無駄に豪奢な金色の髪だけが、夜具の中から出ているのが見える。
 クリムゾンは、その赤く長い髪を手で掻き揚げて、歯をぎりと噛み締めた。

「あり得る筈がない、あの人に」









 月は高い位置にある。
 満月に近い今、空は夜にしては明るく、その明るさに追いやられ、見える星は少ない。
 だから、月明かりに照らされた部屋は思いの他明るく、ランプの光を向けなくても、机の上に置かれた小瓶のラベルが何のものかくらいは見分ける事が出来た。

「……本当に、途中で気が変わるなんて、珍しい」

 呟いてみても返らない返事に、白衣を着た男は呆れたように肩を竦めた。

「まぁ、処置が早かったから大丈夫でしょ。呼吸も安定してたし、体にも薬による異常はなし、起きたら元通りさ。多少、吐き気とか頭痛とかあるとは思うけどね。それ以上に、体中痛くて動けなさそうだけど」

 言いながら、人の悪い笑い声で喉を震わせると、彼は、机の上の小瓶を手にとって、自分のポケットにそれを仕舞う。
 補充にいかないとならないな、とのんびり考えてから、それも少し多目に仕入れた方がよいかもしれない、と更に思う。普段使うようなものじゃないから、余り数を置いてないのだ――この男が、一度壊そうとした相手を助けてやるなんて、まず、なかったから。
 暗闇の中、漆黒を纏った男が、隣の寝室から出てくる。
 窓のない部屋から、窓のある部屋に来て、溶け込んだ暗闇からその姿が浮かび上がる。
 琥珀の瞳だけが、暗闇の中で浮かんで見えた。
 分かっていても、彼は、自分の主のその姿を見てぞっとする。
 その姿を見るだけで、この男を敵に回す気なんて、まず大抵の人間はなくなるだろうと思った。

「なら、吐くだろうな。吐けるものなどないと思うが」

 黒衣の男、この傭兵団の主である男の声に、感情はない。
 この程度で読めるような反応を見れるとは、彼も最初から思っていなかったが。

「あぁ、普段から食べれなくて、酷い時は吐くんだっけ。それじゃ確かにね」

 また難儀な人物だ、と彼は溜め息を付いた。

「それでも掃除は必要だな。あの有様じゃ部屋が使えん」
「掃除ねぇ、まぁ、確かに臭ってたしね」

 今更、この男がそんな事を気にする方がおかしい、と彼は主の不興を買うことを承知でまた笑った。

「でも掃除の間、彼を移しておける場所もないしね」
「明日になったら、カリンにでもいうさ」
「あの人もマスターの後始末ばっかで大変だよね」
「……全くだ」

 会話からはいつもの主で、別段気になる点はない。

 眠っている、あの銀髪の青年を連れてきた時感じた違和感は、今は、なかった。

 あの青年を連れて来るのに付いていった者達も何処か不思議そうな顔をしていたから、あれは気の所為ではないとは彼は思う。勿論、それよりも確実におかしいのは、その後取ったこの男の行動だろう。
 最近、主がご執心の『お気に入り』。
 けれども少し、執心の度が過ぎている気がする。
 自分の獲物を取り返しに行くくらいはあるだろうが、その後に獲物の状態を気にするなんて、余程酷い時に処分を決める為くらいだった。
 少なくとも、今までのこの男ならば、そうだった。
 彼――白衣の男の名はサーフェスと言う。
 彼はここで医者の役割をしているが、主の『お気に入り』を命令を受けて診てやるのは、死体か、壊れた後の確認が今までの事だった。

 ――何か、この男が気を変えるような出来事でもあったのだろうか。

 実際、途中までは壊す気のようであったというのは、最初に使った薬を見れば分かる。人に汚されたおもちゃなど、捨てる気になっても不思議はない。いつものこの男であったのなら、それが当たり前の行動だ。

「じゃぁ、カリンさんに、声掛けてくれたら、ホーリーにも手伝わせるっていっておいてよ。ついでに、栄養剤も渡すからさ。どうせ起きても食べないんでしょ?」
「あぁ、そうだな」
「本当は食べてくれればいいんだけど、無理そうだし。栄養剤でどうにかさせて、後は水でもたくさん飲ませておいて」
「分かった」

 用事が済んだなら、ここにいる意味もない。
 サーフェスは歩き出すと、廊下に続くドアへと向かう。
 引き止められもしないから、もう、主も自分に用はないのだと思う。
 だが、ドアに手を掛けて、ふと、彼は思う。

 この男は、今夜は何処で寝るつもりだろうと。










 窓からの光が、部屋を照らす。
 何時の間にか、夜の静寂は鳥達のさえずりで追い払われていた。
 顔を上げれば、窓から差す光がガラスの形をハッキリと床に描き、その光の道の間に細かな塵が舞っているのが見えた。

 寝室からは、まだ、シーグルが起きた気配はない。
 普段の彼ならば起きているだろうに、やはり相当に体の負担が大きかったかとセイネリアは思った。

 組んでいた腕を解いて、固まった筋肉を解す。
 体の中に軋む音を聞きながら、一度立ち上がり、窓へ向かって歩いていく。
 外には誰の気配もなく、鳥の声だけが窓を越えて入ってくる。
 起きて鍛錬を始めるものもいない時間なら、思ったよりも早い時間なのかもしれない。とはいえ、今日は世間は休日かと思い直して、セイネリは椅子へと戻った。

 椅子に座り、再び目を閉じて耳を澄ませば、僅かに下の階からは人の動いている気配がした。
 この部屋は2階で、ここには、セイネリアの部屋以外は会議室と一部の幹部の部屋しかないようなものだった。その為、この時間にこの階の廊下を歩くような人間は滅多におらず、部屋の周りは遠くの鳥のさえずりが聞こえる程には静かだった。
 それでも、すぐ外の廊下を歩く音が聞こえて、ならば今は見張り交代の時間かとセイネリアは思う。建物の中央にある屋根の上に突き出た部屋は、見張り台として、常時誰かがいる事になっていた。
 その足音を聞きながら、ふと、セイネリアは思いつく。
 この時間なら、彼女は起きているだろう。
 起きてはいなくても、呼べばすぐにくるだろうが。
 忠実すぎる部下の姿を思い出して、セイネリアは立ち上がった。

「あ、マスター、お、おはようございます」

 廊下に出てすぐ、思いがけず現れたセイネリアに、見張りの男はあたふたと慌てて敬礼をする。

「カリンを呼んできてくれ」

 言えば男は、ぎこちなく返事をして、そのぎこちなさのまま、カリンの部屋に向かって歩き出す。上の見張りをするのはそれなりに慣れた者の筈だが、彼はここにきてまだそれ程長くはない筈だった。セイネリアも2,3度顔を見た程度だ。

「あ、ボス。起きてんでしたら、ちょっといいっスかー」

 先程の男が来た方向から、別の声がする。
 この部下とは思えない口調に、セイネリアは心当たりがあった。

「なんだ、フユ」

 言われた男は、音も立てずにするりと滑るように近づいてくると、セイネリアに向けて、掌に乗せられる程度の大きさしかない皮袋を差し出した。

「朝一で届いたんで、渡しときます」

 袋についた記号をみて、セイネリアは顔を顰める。

「ボス宛っス。差出人の名前はなし。いかにも胡散臭いって感じ」

 男は面白そうに笑っているが、セイネリアの顔は益々不機嫌になる。

「まぁいい。確かに受け取った、後で確認しておく」

 言えばフユは軽くお辞儀をして、またするりと一歩、元来たほうへ後ずさった。
 恐らく彼が交替して、今から見張りに立つのだろう。そう思ったセイネリアは、部屋へ帰る為に彼に背を向けようとした。
 そこでフユが足を止め、ちらりとセイネリアを振り返る。

「あぁボス。あんま新人いじめちゃだめっすよ。あいつ、馬鹿正直なのと目がいいのがなかなか使えますんで」

 主を主とは思わない態度にはいつも回りの者が顔を顰めるが、セイネリアは別に気にはならない。彼の有能さは疑いのない事実で、その彼が使えるというのなら、先程の男も使えるのだろうとセイネリアは思う。
 カリンもすぐに来るだろうと思ったセイネリアは、部屋の中へと戻った。

 フユが持ってきた物。
 それは一般的に『親書』と呼ばれている物で、手紙のようにいわれるが、紙に書かれたものではない。
 声によるメッセージを相手に届ける為の冒険者用サービスの一つで、魔法で生成された”石”に声を入れ、そこから声を聞き出すには、受け取り人の支援石についている窪みに乗せなくてはならないという仕組みだ。便利ではあるが、その石の値段がやけに高いので、大抵の冒険者達には知られてさえいない支援石の機能の一つでもある。
 勿論、上級冒険者や、セイネリアのような秘密裏の取引をする者達は普通に使う。ただし、そこまで安いものではないから、『親書』で送る時は重要用件という事になる。

 セイネリアがそれを見た時に嫌な顔をしたのは、昨日、シーグルを襲った連中のところでその石を見つけたからであった。
 恐らく、セイネリアを脅迫するか、嫌がらせにか、喘ぐシーグルの声でも入れて送ってくるつもりだったのだと予想出来た。だから、あの時既に声を入れ終えていた石があったのなら、今日になって届くように既に手配済みだったのかもしれないと。
 正直なところ。
 今もし、シーグルが奴等に抱かれて喘ぐ声など聞いたら、冷静で居られる自信がセイネリアには無かった。
 だが、匿名の情報提供や取引相手はそこまで珍しいものでもない。聞かない訳にもいかない事も、セイネリアには分かっていた。

 セイネリアは、袋から取り出した石を見ると、考えながら腰の内ベルトに付けていた支援石を出す。石を支援石の窪みに乗せると、声はすぐに聞こえ出した。

『いいか、シーグルは俺を助ける為にあいつ等の言い成りになった。でも、奴等らに屈しなかった。声を押さえて、感じないようにして、耐えてたんだ。あんた相手の時とは違ってた。シーグルは多分……あんたとの時は、ある程度納得している。勝負した上だからなのかもしれないけど……多分……』

 声はそこで切れる。
 あまり質のいい石ではなかったのだろう、声を入れている最中で効果が切れたのだと思われた。
 声の主が誰かは、考える事もなく分かる。
 セイネリアは額を押さえ、目を瞑る。
 口元には僅かに自嘲の笑みが浮かんだ。

 そこへ、ノックの音がして、セイネリアの意識は思考の海から浮かび上がる。

「ボス、入ります」

 やはり起きていた彼女は、すっかり身なりを整えて、すぐに今から出かける事も可能であろう格好で立っていた。

「お呼びだとか。今日は随分早く起きられたのですね」

 言って頭を下げるカリンに、セイネリアは、深く椅子に座ったまま足を組んだ。

「なにせ、向こうの部屋が使えんからな」

 隣の部屋を親指で差したセイネリアを見て、カリンは美しく整った眉を寄せる。

「まさか、寝ていないのですか?」
「仮眠は取った。問題はない」

 それでも彼女は何かいいたそうに口を開き、思い直して口を閉じた。
 たとえ、どれだけ不満があったとしても、彼女がセイネリアに逆らう事は絶対にない。
 最初の時の契約を、彼女はずっと守っていた。
 だからこそ彼女は、実質のこの組織全体のナンバー2であるのだ。

「そういう訳だからな、シーグルが起きたら向こうの部屋の片付けを頼む。あぁ、その前にドクターのところへ行けば、ホーリーが手伝うといっていた」
「彼をどうしたらいいのですか?」
「その時にドクターが栄養剤を渡すそうだ。それについては奴に聞け。飲ませたら後はそのまま寝かせておけばいい。シーツと上掛けを替える時くらいは、起きろといえば起きるだろ。……分かってるとは思うが、部屋の中には閉じ込めておけ」

 カリンが、明らかに不満そうにセイネリアを見る。
 不満と言うより不安という方が相応しいが、彼女がそこまであからさまに表情に出す事は珍しい。とはいえ、どんなに不満であったとしても、命令すれば彼女は実行する。そこは疑いようがない。

「……彼が、大人しく言う事を聞くでしょうか」

 彼女の不安は尤もだと思ったセイネリアは、僅かに口端を吊り上げる。

「あいつは女相手に暴れたりはしない。何か聞いて来たら、お前の判断で答えて構わん。部屋から出せという場合は、俺に言えと言っておけ。あぁなんなら、逃がしたら俺からお前が酷い目にあうとでもいっておけば、大人しくしてるぞ、あいつは」
「分かりました」

 それで下がろうとしたカリンを、だが、セイネリは引き止める。

「ところで、カリン」
「はい、何でしょう?」
「昨日連れてきた子供はどうした?」
「ロスクァールが、アルタリアと一緒に暫く面倒を見るそうです。彼は、クーア神殿の知識もありますから」

 ロスクァールはリパ神官だが、元は大神官の地位にいただけあって、一通り、他神殿の知識も確かにある。団の中にはクーア神官もいるが、あの子供が彼の養い子と然程変わらない歳だった事を考えて、カリンはまず彼に預けたのだろうと納得する。

「なら、少し用がある。何処にいる?」
「西館の方の、ロスクァールの部屋に居ると思います。用があるなら連れてきますが」

 彼女が言うより早く、セイネリアは立ち上がった。

「いや、いい。そろそろシーグルが起きるだろうしな、俺が行く。あいつが起きた時、俺はいない方がいいだろう」




Back   Next


Menu   Top