まとめ

 セナ以前にF1GP中(テスト、他カテゴリーのレース中等は除く)に事故死したF1ドライバーは23人。

オノレフ・マリモン(54’)

ルイジ・ムッソ(58’)

ピーター・コリンズ(58’)

スチュアート・ルイス・エバンス(58’)

アラン・ステイシー(60’)

クリス・ブリストー(60’)

ウォルフガング・フォン・トリップス(61’)

カレル・ゴダン・ド・ボーフォール(64’)

ジョン・テイラー(66’)

ロレンツオ・バンヂーデイーニ(67’)

ジョー・シュレッサー(68’)

ゲルハルト・ミッター(69’)

ピアス・カレッジ(70’)

ヨッヘン・リント(70’)

ロジャー・ウイリアムソン(73’)

フランソワ・セベール(73’)

ヘルムート・コイニク(74’)

マーク・ダナヒュー(76’)

トム・プライス(77’)

ロニー・ピーターソン(78’)

ジル・ヴィルヌーブ(82’)

リカルド・パレッテイ(82’)

ローランド・ラッツエンバーガー(94’)

 そして、24人目がアイルトン・セナ・ダシルバである。

 F1とは、元来、危険なスポーツである。そう認識するしかないのかもしれない。その一方で、「F1ドライバーがレース中に事故死する確率よりも、公道で事故死する確率の方が高い」と言う人もいる。(実際、F1が始まった1950年から今日までの全世界の交通事故死者の氏名をリスト・アップせよと言われても、不可能だ)それも、また、真実であるかもしれない。

 だが、ただ一つ、確かなことがある。

「レースをやっていると、人間とはいかに脆い存在かということがわかってくる」ことだ。生前のセナの言葉だ。

 

 セナと言えば、全身全霊をF1に捧げたというイメージがあるし、事実そのとうりだった。故に語れる台詞でもある。

 しかし、イメージとは異なり、意外にもセナ自身は、「レースが僕のすべてじゃない」と言い切ってもいる。以下はその発言をB.ヤングの記事「天才神話の誤謬」(GPX1992冬シーズンオフ号)から引用したものである。

「レースが僕のすべてじゃないよ。他に関心はいくらでもある。飢えとか、ドラッグの問題とか、子供たちが道端に放り出されて飢え苦しんでいる姿を見ると辛い。本当に辛いよ。」

 セナは、ブラジルの裕福な層の、敬虔なカトリックの家庭に生まれた。そして、現在のブラジルは貧富の差が激しく、ストリート・チルドレンが街に溢れている。

「自分の富やライフスタイルのことで、居心地悪く感じることがあるよ。僕はとても恵まれた立場にある。愛情もあるし、生活は満たされている。好きなことを職業にする機会にも恵まれたし、物質的にも恵まれている。このことについて話すのは、簡単であると同時に居心地悪くもあるんだ。」

「自分が世界を変えられるわけがないのはわかっている。小さな貢献をするぐらいがせいぜいだよ。F1は重要じゃないんだ。そういう問題に比べたら、無に等しい。」

 山口正巳元GPX編集長は、こう語っている。

「僕は悲しいまでに勝つことを第一義にするスタイルは好きでない。勝つ以外は認めないスタイルは見ていて心が痛むからだ。(中略)しかし、悲しい顔の向こう側に、セナがブラジル人であるという事実があって、落とすことを許さなかったのだということに、アクシデントの後、ブラジルの反応を知る度に気づいていった。ブラジルは、僕が見聞きした以上に荒れた境遇だったのだ。

 セナはそのブラジルに勇気を与える夢であり、それを知っていたセナは、悲しい表情になるほど自分を追い込んで、その夢に応えなければならなかった。過剰とも言えるその自覚が、彼を悲しい顔にさせていたのだ。」(「セナと私」東京中日スポーツ‘94)

 

 安岡章男前ホンダ総監督は、マネージャーらから、身体の不自由な子供や恵まれない子供へ多くの寄付をしていたことを知らされ、

「セナの契約金交渉(1600万ドル《約20億円》は、当時の史上最高額)を見ていて、なぜここまで執着するのかと思ったこともあるが、それを聞いて、『ああ、そうだったのか』と思った」という。(「セナと私」東京中日スポーツ‘94)

 遺族は、セナの遺志を継いで、その遺産をもとにセナ財団を設立。セラピストでもあった姉のビビアンヌを中心として運営され、ストリート・チルドレンの救済をその事業主体としている。

 いかに史上最高の才能とは言えども、セナという一ドライバーにここまでの賃金を払えるF1の世界というのは、巨大なビジネスの世界でもある。ちみもうりょうが跋扈する世界で、把握が困難である。極端な話、優勝賞金さえ公表されていない。(詳しくは、「F1の経済学」城島明彦著・日本評論社刊、あるいは、「F1倶楽部11号特集ザ・マネー」らを参照のこと)

 F1マシンというのは、スポンサー名・スポンサーカラーをペイントされている。ここが貴重な収入源であるが、これだけで運営がなされているわけでない。そして、スポンサーに対する広告効果を発揮する場が無ければならない。この2つを満たすものは何か?それは、TV放送であり、TV放映権料である。その中継規模は、オリンピックを上回り、サッカーW杯に次ぐものと位置づけられている。

 140を越える国々とどのような契約を結んでいるのか、知ることは出来ない。だが、予選でのラッツエンバーガーの死をもっても中止することの出来なかった事情は、もはや、F1のスポーツとしての事情ではなく、興行としての事情が優先されたんだと感じとることは出来る。そして、それは、「誰がいけない」という個人の話ではなく、「GPスケジュールを中止して原因究明に撤しよう」という空気が生まれなかったことこそに問題があるような気がする。

 何故なら、今日、企業のサポートなしにドライバーはF1に到達することは無理であるので、F1ドライバー自身がビジネスの事情を骨身にしみて理解しているし、逆らえないのだ。その意味で、ドライバーの立場は思っているより脆弱である。

 過去に富士で行われたF1で、観客に死傷者が出たにも関わらず、レースを続行したために、レース後にその事情を知らされた1位と2位のドライバーが表彰を拒否して帰国してしまい、メカニックがシャンペン・ファイトをするという珍事があったが、それは、古き良き時代の話であった。(1978年のこと。その後、開催後たった2年目にして日本GPは中止され、再開は、9年後の1987年の鈴鹿まで待つことになる)

 セナの伝記、事故に関する著書は、数多く出版され、中には、「誰がセナを殺したのか?」などというタイトルの本まであるが、僕は、今の段階では、それは、“時代のせい”としか答えられない。

 理由を考えていくと、その因果は常に巡り巡っていくものだからだ。

 どの糸口からアプローチをしても、必ず矛盾に突き当たる。そして、セナはその矛盾を知りながらも、コクピットに収まっていた気がしてならない。あらゆる矛盾を知りながらも、それをF1マシンを扱うがごとく、見事なコントロール能力でバランスさせていたのだ、という事実に気づかされる。

「外から見れば、まるで子どもの遊びのようでエゴが大手を振ってまかり通るように見えるかもしれない。でも、違うんだ。中に入ってみれば、自分の夢や目標についてくる責任やプレッシャーの大きさを感じ、経験することも出来るはずだ。これだけ大きな構造の中にいると、やることはきちんとやらなきゃならないし、妥協なんて出来ないんだ。」

「レースは、人生のすべてじゃないよ。まったく違う。

 もちろん、レースは僕の職業だし、全力で取り組んでいる。でも、Fフォードから仕事として始めて以来、F3、F1とくるにしたがって責任が重くなっていった。プレッシャーが大きくなるにつれて、情熱の対象だったものから喜びの一部が奪われていったんだ。」

 89年のFISAとの不毛な闘争以後、シーズン・オフはテストにすら参加せず、ブラジルでバカンスを過ごすことを習慣としていた。ヨーロッパでは真冬にあたるこの時期、赤道直下、南半球のブラジルでは、夏を迎える。まさにバカンスのシーズンである。

「僕はほとんど一年中、自分の国や家族から遠く離れて一人で暮らしているんだ。レースのない時まで一人でいる必要は無いと思うよ。だから、ブラジルに帰った時に、愛する人達のそばへ戻るのは当然のことじゃないかな。」

 セナは農場を経営していた父のミルトンに倣って、広い農場を買った。サンパウロからヘリコプターで1時間ほどのところ、タツイにある。肥料を与えない自然農法で、トウモロコシや果物を栽培している。

「面白いものだね、年とともにだんだん自然が恋しくなって、土に触れることが楽しみになってきたんだ。今では、この農場が僕にはなくてはならにものになっている。」

 湖のほとりにある農場には、母屋、使用人たちのための庭付きの家、カート・レース場、小さな飛行場、そして、ラジコン飛行機やジェットスキーをしまうためのガレージがある。

「ラジコン飛行機は、車の次ぎに好きなんだ。エンジンもついているしね。これもやっぱり、バランスを取って安定させることが大切だ。あぶなっかしいところが面白いんだけれど、ミスは許されない。素早く、正確に操縦しないとね。」

 セナは、そこを楽園と呼んでいた。

「この農場ではありのままでいられる。」

 そして、友人の仏人ジャーナリスト、リオネル・フロサワールにこう打ち明けるのだ。

「でも、ここではすべてがあまりにも静かで、ストレスの多いフォーミュラー1の世界に戻ることを考えると、怖くなるね。」

 

 セナが、サーキット医師S.ワトキンズと共謀して、事故死を装い、今も楽園にいることを前提に、この小説、彩雲を書いた。この中のセナは、日本の友人と会うため、お忍びでやってきたという設定である。

 地球の真裏に住んでいる僕は、セナが今も楽園に住んでいるという、無責任な幻想を描いた。単なる幻想ではあるが、今も楽園にいて欲しい、と思ったのは真実である。 

 

 今回集めた記事の中で、ぼくが一番好きなものは、クリストファー・ヒルトンによる「育ての親デニス・ルッシェンが語る1982年のアイルトン・セナ」(近藤茂寛訳、F1倶楽部9号)だ。

 最後に、その中のルッシェンの言葉を引用して終わりたい。

「そういえば、この間、どういうわけかふとアイルトンの素晴らしいエピソードを思い出したんだ。……忘れてしまったけどね。

(中略)

 それが本当に思い出せないんだ。ちょっとだけ蘇って、また、消えてしまった。……とにかく、思い出したら、すぐ、電話するよ。」

 

                  (文中敬称省略)

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