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- 彩雲
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- 太陽はとうに真昼の高みに達していた。長い光は、空気を、春の午後にふさわしく、暖めていた。連休の始まりであるこの日は、街も静かで、小鳥のさえずりさえ聞こえる。風も無く、昼寝や散歩には、程好い日和だ。
- そんな穏やかな陽射しの中を、僕は、両手に荷物を抱え、バタバタとあわただしく急いでいた。
- 荷物とは、完成したばかりのラジコン機“彩雲”。走っていたのは、日が沈む前に、一刻も早く、“彩雲”を飛ばしてみたかったからだ。
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- 開発の進んだ関東平野とはいえ、利根川の川原まで出れば、地平線を見渡すことが出来る。そこが、僕のフライト・エリアだった。
- コンクリートの堤を乗り越え、滑走路となる川原を臨む。坂東太郎の雄大な流れを背にしたRC飛行場は、単なる雑草まみれの空き地だった。
- とはいえ、他の場所に比べると比較的地肌が露出している。滑走路を確保するには必要充分な広さがあった。何よりも、民家から離れ、なおかつ送電線が近辺に無いという地理的条件が、RC機を飛ばすのに好適だった。
- 民家から遠いので、ギャラリーがいないのが寂しかったが、子供達、とりわけサッカー少年や野球少年達に領土を侵略される恐れもなかった。もちろん、いたずらっ子達のゲリラ的奇襲もなければ、“近所の親父”という名のにわか評論家諸兄の無遠慮な批評を受ける心配もなかった。
- だが、今日は少し、違った。そこに、先客がいたのだ。
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- その男は、イタリア系らしいブラジル人。背は、日本人より少し高い程度。いや、もしかしたら、かわらないぐらいかも知れない。プロポを手に、RCヘリコプターを操っていた。
- もちろん、僕の姿など、目に入っていないだろうし、気づいた様子もない。彼は、ヘリの舞う空ばかりを見ていた。
- ヘリは実にいい音をさせて、ぶんぶんと飛び回っている。彼は、指先こそせわしなく動かしているが、空を見上げてじっと立ったまま、ピクリともしなかった。
- そう、気配が全く無かった。まるで小さな樹木か、大きな草のように、風景の中に溶け込んでいた。
- 彼は、近寄り難いような雰囲気を湛えていた。しかも、異国人。「言葉」の懸念もある。僕は「気軽なあいさつ」をかわすタイミングを、完ぺきに逸していた。
- 話してもいない異国人を、ブラジル人と決めつけた理由は、別段、当てずっぽうでもない。この町には日系を中心としたブラジル人労働者とその家族の数は多い。だから、外国人と言えば、ブラジル人と決めてかかっていた。
- むしろ、彼と顔見知りでないことが問題だった。
- 彼らの中にも友人はいる。友人達は、日本語を解し、話せるが、顔見知りでなければ、それも定かではなくなる。むろん、英語さえろくに話せない僕に、ポルトガル語など、理解できるはずもない
- 少しだけ近寄って、彼の横顔をそれとなくのぞき込む。
- …見覚えのある顔だった。顔見知りなら、話が通じるかもしれない。一瞬、安堵する。
- だが、何処で会った顔なのか、思い出せない。記憶の底に沈んでいるようで、すぐには浮かび上がらなかった。誰だかは、判らず、今一つ、確信が持てなかった。
- この、記憶に対する自信の無さと、その躊躇にかけてしまった時間は、もはや、決定的でもあった。
- それに、彼に話しかけたとて、(彼に替わって)すぐに飛び立てるわけでもない。彩雲は、つい先ほど組上がったばかりなのだ。調整など、何一つ為していない。準備には、まだ時間が必要だった。
- 彼は、相変わらず、空を舞うヘリを追いかけることに集中していて、僕に気づく気配は、全く無かった。
- その時の僕は、時を惜しんでいたこともあり、たいして考えもせずに話しかける労を億劫がった。
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- とりあえず、彩雲を“滑走路”(…即ち草っ原)の隅に置く。
- 空冷エンジンを機首に備えた低翼の機体は、第二次大戦中の機体としてはありふれたスタイルにも見えた。
- だが、細長く、無駄なところのまったく無いスリムな機体は、エンジンを納める最低限度の直径を有しながらも、風を素直に受け流す、スピード感を感じさせた。
- エンジンに火を入れてみた。残念なことに、余り、いい音ではない。空を舞う彼のヘリに、官能的な音の良さで、明らかに負けていた。
- 僕は、いったんエンジンを止め、再調整を施す。原因らしい原因が判らない。接触不良なのかも知れないと疑い、プラグをはじめ各部を念入りに清掃し直す。
- それから、再び火を入れる。エンジン音に大差はない。こんなものかと諦める。しかし、今度は比較の対象となるエンジン音が聴こえてこない。ローターの風切り音も止んでいた。
- ふと、振り返ると、RCヘリのそばでしゃがみ込んでいる彼がいた。僕が彩雲の調整に気を取られている間に、彼は着陸を終えていたのであった。
- 目が合うと、にっこりと微笑む。僕は、戸惑いつつも、つい反射的に(日本流に)軽く会釈を返す。
- やはり、知り合いだったのだろうか?その割には、話しかけてこない。日本語が達者でない、来日したばかりの知り合いだろうか?
- いや、そんな最近の知り合いはいない。ここ数カ月というものの、休日となれば、部屋に閉じ籠って彩雲の製作にばかり熱中していた。それどころか、この2、3年は、RC機の製作と、習熟飛行とに費やし、人と滅多に会わなくなっていた。RC機仲間など限られたもので、その顔を忘れようもない。
- だから、もし、彼と出会っていたとしたのならば、それは、混沌とした平日の記憶の中、なのかも知れない。
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- 何はともあれ、彼が飛行を止めたのならば、気兼ね無く飛び立てる。それだけは確かだ。挨拶もそこそこに、僕は、早速フライトの準備に入る。
- エルロン、ラダー、エレベーターの効きも良好。僕は、滑走路の後端まで、ゆっくりと滑走させる。
- 彼も同好の士に興味があるのか、そのまま土手に座って彩雲を見つめている。
- その視線を、少し感じた。だが、待望の彩雲初飛行である。ギャラリーがいるのも悪くない。それも、野次馬ではなく、同好の士だ。
- 風も止まっている。草までもが、そよぐのを止めて、息を止めて彩雲のテイク・オフを見守っているかのようだ。
- 僕は、おもむろにエンジンの回転を上げ、エレベーターを上げた。彩雲が、滑走路を滑り始める。
- プロペラの風切り音が入り混じったエンジン音と共に、タイヤが土を蹴るザザーッという摩擦音が聴こえる。だが、それもほんの数秒の内。やがて、摩擦音が消え、エンジン音だけになる。
- 彩雲は、ふわりと空気の上に乗っていた。機体が、空気の柔らかな感触を感じたかのように、ぶるりと軽く振るえる。
- 急坂になった空気の坂を滑るようにして昇っていった。あっという間に、高度をとる。エンジンの悪さからは想像の出来なかった上昇力。
- 思っていたより、あっさりと、彩雲は離陸していた。
- けれど、順調だったのは、ほんのわずかな間だけ。すぐに僕は格闘を始めなければならなかった。
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- 清明高気圧は、通り過ぎようとしていた。頭上の空は、青く晴れ渡っていたが、西の空には雲塊が見える。上州と越後を隔てる山脈は、冬の名残の雪を纏っていた。
- 静穏な晴日とはいえ、春先のこの時節、その遷移は早く、風は変わり易い。その上、川辺には、断続的に微かな川風も、打ち寄せる。測ることの出来ない、とても微かな風が回っている。
- 彩雲は、そうした微かな風のそよぎや変化に、微妙に反応する。どうやら、機体の性格が、想像以上にセンシティブだったようなのだ。
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- 左に傾いた機体をラダーで右へと修正する。と、その反動で翼は右に傾く。実に過敏に反応する。スゥィート・スポットが、かなり狭そうだ。
- 今度は、エルロンを主に、ラダーをアシストに効かせて、修正を試みる。これでも、まだ、揺り返しがある。さっきほどではないが、左に若干傾く。もしかしたら、失敗作かもしれない。不安が胸をよぎる。背筋が痒くなってくる。
- だが、懸念している暇もなかった。あっという間に、彩雲はフライト・エリアの端に到達してしまっていた。
- やむを得ず、バンクを少し深くして左旋回を試みる。充分注意して、エルロン、ラダーをニュートラルに戻す。再び機体が揺れる。バンク角の維持が難しい。だが、それは、愚然にもコーナリングに最適なバンク角の遷移を刻んでいた。ラダーであて舵をとると、狙いどうりの緩旋回。実にきれいに円を描いた。風を切る音が聴こえるようだった。
- 僕は、微笑みを奥歯で噛んだ。唇の端が少し上に上がる。「よし」と、声にならない声を漏らす。
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- それから、そのまま、フライト・エリアの端で、彩雲を2、3周ほど定常旋回させた。これもまた、きれいに決まる。直進させるよりも楽だった。
- その間に、僕は呼吸を整える。まだ十数秒しか経っていないのに、掌のひらに汗をかいていた。
- すぐに着陸させ、調整を試みた方が良いのかも知れない。舵の効きが過敏すぎる。僕の腕では、墜落させてしまうかも知れない。だが、しかし、これだけセンシティブな機体なら、着陸は、なお難しそうだった。・・・つまり、このままでは、確実に失敗するのだ。
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- 彩雲の大破。想像したくない、起こり得べき事実。
- 完成までに数カ月を要した。いや、もともとRC機について素人であった僕は、RC機の製作、そして操縦の熟練にそれ以上の月日を費やしていた。それもこれもすべて、彩雲の雄姿を、この目でみるため・・・。
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- しかし、それは緩やかなデモ・フライトを演じるだけで充分なもの。決して、俊敏な機体を望んでいたわけではなかった。そんな機体を乗りこなす技量はなかったし、そこまでの技術を身につけるつもりもなかった。
- 僕は、ただ、空に浮く彩雲を眺めていられれば、それで満足だった。きっと、僕以外の誰かが操っていたものだとしても、満足だったに違いない。
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- 「Attention!」
- 甲高いしゃがれ声が、背中から突き刺さる。その痛みに驚き、振り返る。彼が、彩雲を指さしていた。
- 彩雲は機首を下げていた。いつの間にか、バンク角を深め、急旋回となっていたのだ。何をぼうーっとしていたのだろう。僕は無意識のうちに指を動かしてしまっていた。
- 慌ててスロットルを上げ、機首を起こす。川面に触れる直前、機首は上を向く。あと数秒遅れていたなら、墜落していたところであった。
- 高度を取り戻し始めると、僕は、じわりとバンクを浅くしていった。そして、こちらに機首を向けるのを見て取って、水平飛行に移した。
- 微妙な横滑りは、まだ消えていなかったが、こちらへは向かってきた。僕は、せわしい指さばきで、方向修正を繰り返し、高度を失うたびに上昇を繰り返していた。航跡は、無様に波打っていた。それは、荒れ馬に振り回されるような、よたよたとした動きだった。
- 決して誉められたことではない。けれど、今は、こうするより他はない。
- そして、頭上で180度の緩旋回。再び水平飛行に戻し、河の真ん中で、また180度緩旋回。旋回と水平飛行とを交互に行う。そうした楕円の軌跡を描く場周飛行を、数回繰り返した。
- そのうち、滑りは少なくなり、指の動きも小さくなってきた。風は、また、静止している。僕はようやく覚悟を決めた。
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- 河面の上で90度旋回。そのまま川の流れに沿ってしばらく直進させる。そこから90度旋回。川原の上まで直進させ、すぐにまた90度旋回。機首をこちらに向ける。風はまだ凪いでいる。
- 僕は、機首を持ち上げると共に、徐々にスロットルを戻し始める。機速を失った彩雲は、上を見上げた形のまま、ゆっくりと高度を失っていく。
- 彩雲は、まるで止まった絵のようだった。その絵の中の彩雲に、僕の中のカメラが、スローにズーム・アップしていく。
- ゆったりとした穏やかな時の流れ。その中で眠たくなるほどのんびりとスロットルを操作する。・・・そんなつもり、感覚でいた。けれども、それはわずか数秒の間の出来事でしかなかった。
- その時の僕は、1秒の間に多くの事を感じていたし、多くの事が出来そうだった。一つ一つの動作が確実にこなせていた。
- 壊したくないという思いの強さのあまり、最高の集中力を発揮していたのだ。
- 色々なものが急に目に入るようになってきた。雲の数、雲が流れゆくさま。遥か彼方の橋を渡る車の小さな黒い影。土手の草々。春を感じて色づき始めた、小さな花達。陽射しを受けて、きらきらと瞬きを反す川面。
- そして、僕と彩雲を見守るたった一人の観客。
- 全てが一瞬の間に、僕の視界に入ってきた。そして、その全てを僕は感じていた。じっと見つめる彼の瞳にもだ。
- 優れて鋭敏になった感性は、記憶の底へストレートにたどり着く。僕は、“彼”の顔を思い出していた。
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- 最初は、記憶の覚醒に安堵した。次に、その事実に驚いた。そして、真実ではないと疑い、まっすぐに彼を見た。疑問には答えが必要だった。だが、その答えの根拠のなさに、逡巡した。
- この逡巡が、羽化登仙にあるまじき行為だった。
- 僕は集中力を失っていたのだ。
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- 「Pull up!」
- 彼が再び声を投げつける。2度、3度。
- 我に返った僕は、土手に向かって突進する彩雲に、気づく。 機速を落とすことを忘れていたのだ。彩雲は、そのまま高度を保って、滑走路上を直進していた。土手まで、もうコンマ何秒もない。驚いている暇は無かった。考えている暇も、躊躇している暇も無かった。
- 僕は、ただ、彼の言葉のままに機首を引き起こす。スロットルを上げて機速をさらに増し、彼の指示するとおり、土手越えを試みる。
- 機体が土手の坂面と平行に、昇って行く。まるで、土手の上数十センチを透明な板で覆っているかのように、その上を滑るように、斜めに昇って行く。
- 土手への激突は免れた。だが、浮力が、まだ、足らなかった。坂の上を地面効果で浮いているだけに過ぎなかった。
- 土手の向こう側から、誰も昇ってきませんように・・・僕は、息を詰めて祈りながら、プロポをきつく握りしめていた。こんな時だけ、僕は神様に語りかける。あと、2、3秒のことなんです、と・・・。
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- そして、風が、西北西から吹いた。
- 冬なら珍しくない、からっ風と同じ向きの風。冷たい風だが、冬ほど寒さを感じない。だが、僕は“神風”の予感に、背筋が凍えた。
- 風上側の左翼を押さえ気味にした。けれど、それでも流される。流されながらも、風に乗り、舞い上がる。瞬く間に、充分な高度を得る。
- 風を読んでいたのか?・・・ちらりと覗き見た彼の表情は、変わらない。まるで、これが、当然の理であるかのように。
- RCは、見える範囲で、墜落させても支障の無い場所で飛ばすのが、絶対的な原則だ。土手の向こう側には、県道があり、また、思わぬ死角が生じる恐れもある。だから、180度旋回させなければならない。そして、我を取り戻していた僕は、もはや、躊躇をしていなかった。
- 流された状態から、修整操作をとらず、そのまま上昇旋回に持ち込む。彩雲は、緩やかな螺旋を描いて、昇っていく。風に逆らわず、流されないように、風をつかみ、風に乗った。
- 豪邸の螺旋階段を昇るように、優雅に、そして、実にダイレクトに回り込む。単なる緩旋回が、何とも、小気味良い。この機体は、天性のコーナリング・マシンなのかも知れない。
- 高度をつかんだ彩雲を、風下・川下側に膨らんだ孤を描かせて、川の中央に運ぶ。それから、風下・川下側に機首を向け、210〜230度ほどの旋回をし、偏流をとりながら川原に向かわせる。
- 気まぐれな西北西の風は止みつつあったが、それでも、微かな息吹はあった。風に向かって進路をとりながら、機首を上げ、機速を落としていった。
- 「easy、easy!」
- 彼の声を漏らす事なく耳は捉えるが、視線は彩雲へ向かったまま、動くことは無かった。しかし、まだ、心臓は動悸を激しく打っていた。心の動揺は隠し切れない。
- 空を仰いだ彩雲が、二重にぶれて見える。
- 彼であるという希望、彼は生きていたという妄想、それを否定する理性。そして、理性が働きはじめているにも拘らず、これ以上彼の目の前で恥をかきたくないという羞恥心とが、遠慮無しに沸き起こる。
- それらが混然と渦巻き、胸を流れる血潮は、制御できるものではなくなっていた。辛うじて、頭が首を挟んで、指先は、腕を通じてから、その胸につながっていた。そのために、コントロールを失わなかっただけのことだった。
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- 風は再び静止した。彩雲は、順調に高度を落としていた。機影は、ゆっくりと大きくなっていった。機体のぶれは既に無かった。
- にもかかわらず、僕には、彩雲が今にもふらふらしそうな恐怖感があった。指先が白く、血が抜けていく感覚があったのだ。手が今にも振るえそうだった。
- そして、ふいに南風が吹く。川面からの川風だった。
- 姿勢を保つので精一杯だった指は、柔軟性を欠いて、その関節を硬直させていた。そのため、横風への修整動作が遅れた。
- 右翼を持ち上げられ、彩雲は、斜めに、土手の方へ流された。そのまま横転し、墜落するのではないかとさえ思われた。泣きたい気分だった。
- 「スロットルを吹かせ!」
- 彼の声がそう聴こえた。
- 彼の声は、僕の側に近寄ってきていた。駆けてきたのだ。
- 「風に逆らうな!」
- 英語がすべて、言葉として聴こえた。意味が理解できた。彼の言っていることは直接、僕の心に伝わった。
- 「そのまま、仰角の姿勢を保って、高度を上げるんだ。」
- 何をしようとしているか、おぼろげには判った。でも、それを、僕は試したことがなかった。
- その時初めて、不安げな顔で彼を見た。
- 「Believe me.」
- 一瞬、英語で聴こえた。
- 「大丈夫だ、俺を信じろ。君なら出来る。」
- その瞬間は、彼を肯定した訳ではなかった。他の手段を思いつかなかったというのが、実のところだ。抗がっている間など無かったのだ。
- 風は待っていてはくれない。空中でひと休みするなど出来ない相談だ。一秒もあれば、遥か上空に舞い上がってしまう。
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- 彼の命じるがまま、彩雲は天空に向かって孤を描くようにして宙返りをする。孤の頂点、半円を描いたところで、スロットルを閉じる。だが、そのまま円周を降りて来るわけではない。
- ゆるりと孤の頂点を下りてきたところで、機体を右に倒し込むようにひねる。
- バンクを維持して90度の螺旋状の降下旋回。そして、水平位置に達してから、スロットルを開く。
- ちょうど、Qの字を逆さにした航跡を描いて水平飛行に移したのだ。
- その航跡の美しさ、爽快感に、ため息をつく。宙返りに移った彩雲に、まるで自分が乗っているかのように、血の気がひいた。その後の空気の上を滑るような、螺旋状の旋回は、豪快なコーナリングの快感に満ちていた。僕のこの手による操縦とはとても思えなかった。
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- 再び楕円の場周飛行を繰り返し、川面から、川原へ90度旋回させた。川風を横から受けてのアプローチに臨む。
- 試験飛行だから、燃料もそれほど積んでいない。もう、あとどれほど飛び続けられるかも分からない。墜落させずに事を終えるには、時間と機会は限られつつあった。
- 「自分を信じるんだ。」
- 彼は、静かに念じるように、語りかけてくる。
- 「出来るとは思えないことなんて、うまく出来るはず無い。」
- そして、再度、繰り返す。
- 「落ち着け。自分を信じるんだ。」
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- 機首を空に仰がせたまま、機速を落とす。
- 相変わらず、風は、川面から、横風を吹きつける。その息吹の強弱は、ランダムで一定していない。だが、いつも、この風に乗せてRCを飛ばしてきた。その呼吸をよく知っている、いつもの風だ。
- ラダーをエルロンを、その風の息吹に合わせて、動かし続ける。時に強く、時に弱く。
- 完全に偏流をとって、まっすぐに着陸させることは無理だった。やはり、この機体は、直進が苦手なのだ。けれど、流されながらも、着陸に必要な直線距離は得られた。いや、斜めに流された結果、かえって充分な距離が得られた。
- タッチ・ダウン。それは離陸と同じく、あっけなかった。先ほどまでの失敗がまるで嘘のようだった。
- そして、彩雲の雄姿を覚えていない事が意外だった。彩雲がどんな光を受けて、どんな映えかたをしたのか、まるで記憶になかった。その姿を見たくて、僕はRCを、彩雲を作ったというのに・・・。
- 気づいた時には、既に車輪が砂利を蹴る音だけが聴こえていた。スロットルを閉じて、エンジンを切ったことも覚えていなかった。記憶は、実に曖昧で、断片的だった。
- いつの間にか、僕は、彩雲の傍らに立っていた。
- 川からの風が、頬を撫でるように叩く。すると、僕はそれを合図に空を見上げる。彩雲が、いま、飛んでいた空を。雲量が少ない、いつもより灰色味が薄い、より深い青い色の空を。
- その空に、今しがた彩雲が描いた航跡をなぞる。視線が空を舞う。それは、現実を認知しようとする、無意識な動作であったかも知れない。だが、それでも、まだ、現実感が薄かった。この手に感じた手ごたえが、自分の感覚が、まったく信じられなかった。
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- 「Good job!」
- プロペラの風切り音が、弱々しく途絶えていくところへ、力強い拍手の音がかぶさる。
- 彼はにっこりと微笑んで、僕に握手を求める。
- うっかり、彼と視線を合わせてしまった。その瞳は貴重な液体を含んでいて、今にも破裂しそうに、その輝きが揺れ動いていた。
- 吸い寄せられた、と言った方が正解なのかも知れない。
- 恐いと思う事ほど、見たくなるように、・・・行ってはいけないと思う方向へ、足が向いてしまうように。
- 「Thanks・・・」
- 彼の手を握り返した。
- 僕は、その時、彩雲を無事に着陸させたことを後悔していた。
- 「Thanks a lot・・・」
- まだ、あのまま飛んでいれば良かった。
- じゃじゃ馬な機体に悪戦苦闘している方が、遥かに、楽だった。
- 彩雲にちらりと目を移す。エネルギーを失ったプロペラが、空気の厚みに抗し切れずに、カラカラと音を立てながら、今にも止まろうとしていた。
- 「Thanks for your help・・・」
- 気が重かった。いや、それ以上だった。
- 彼は、あまりにも似すぎている。ここにはいないはずの“彼”に・・・。
- 「O.K.・・・O.K.・・・」
- 彼は僕の手を軽く握り返し、Hahahaと笑いながら、肩を二、三度、ぽんぽんと軽く叩いた。まるで、気の良いごく普通の青年だった。
- 巻き毛の髪に、気品のある顔立ち。それなのに、顔のまん中を陣取る重要パーツである鼻は、妙にぼてっと膨らんでいて、不細工だった。もっとも、それ故、妙な愛敬もあった。そのアイテムを持つが為に、男として本能的な敵意を向けてしまうほどのハンサムでもなかった。高貴さと親しみとを、滑稽なほど絶妙なバランスで兼ね備えていた。
- やっぱり、似ている。そう思った。そう思ってしまうと、他の考えが出来なくなっていた。
- ただ、一つ。記憶の中の“彼”よりもずっと日に焼けた顔をしていた。それだけが、異なっていた。
- F1のコクピットに座っていた当時の彼は、もう少し、白く、蒼白でさえあり、年に似合わないしわが刻まれていた。その頃の彼に比べると、随分と健康的であり、自然で、若々しくもあった。
- それが、すぐに“彼”と思い当たらなかった大きな理由でもあった。そして、「“彼”であるという妄想」に反駁する唯一の根拠でもあった。
- 僕は、名前を聞かねば、と思った。
- 名前を聞けば、“彼”の名を答えるはずはないと思った。そうすれば、少なくとも、今、胸の中をとめどなく溢れる妄想を否定することが出来る。
- 彼とどう接すべきか、沸き起こる様々な感情の波に流されかけていた僕の理性は、ただ一つ浮かんだ言葉にすがろうとしていた。
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- 「名前は、なんと言うんだい?」
- そう、尋ねてきたのは、彼の方だった。
- 思わぬ攻撃に、頭が真っ白の僕は、しどろもどろに自分の名を答える。彼は、ふむふむとうなづく。だが、その顔は、何かを言いたそうだった。
- 2、3秒の沈黙の後に、ようやく、僕は誤りに気づく。彼は、僕の名ではなく、彩雲の名を尋ねてきたのだ。僕は、思わず、視線を、沈黙したままの彩雲に、移していた。しまったという顔をしていて、それを隠さなかった。
- そして、彼はその表情の変化を見逃していなかった。
- 僕の名を呼び、それから、こう尋ねてきた。
- 「この飛行機の名は?」
- ふっと、口から息が抜け、それから、笑みになった。
- 「“彩雲”て言うんです。」
- 僕は、にっこりと笑って、そう答えていた。
- 「美しい飛行機だね。」
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- ”彩雲”とは、第2次大戦中の艦上偵察機。飛行機としてはまったく余分なところの無い、磨き込まれたスリムな機体に、二千馬力のホマレ・エンジンを積んだスピードの申し子。
- 時速633Hの最高速度、1万1300mの上昇限度、5300Hの航続距離は、空母用の偵察機としては、当時世界最高の性能を誇っていた。時速565Hしか出せないゼロ戦はもとより、時速609Hを誇る米軍艦上戦闘機ヘルキャットもスピードの点では敵としない。それが彩雲だった。
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- 「我に追いつくグラマン無し。」
- 「・・・。」
- 「偵察作戦から帰還しての一言が、これなんだ。」
- 米軍は、既にその当時、レーダーを装備していたので、偵察機”彩雲”を容易に発見。新鋭戦闘機”グラマン”を迎撃に上げる。
- 彩雲は、作戦空域を反転、そのスピードを活かして脱出する。美しい機体を持ち、名エンジン”誉”を積む彩雲の速さは、新鋭戦闘機”グラマン・ヘルキャット”をはるかに上回っていた。
- グラマンの前方の視界からは彩雲が小さく、彩雲の後席から振り返ったグラマンもまた小さくなっていった。
- 「我に追いつくグラマン無し。」
- 第一声を発したパイロットの顔が目に浮かぶような気がした。
- そして、振り返ると、“彼”がいた。
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- 僕のつたない英語の演説を、彼は黙って聞いていてくれた。それなのに、僕は彼の存在をすっかり忘れて熱弁を振るっていた。はたと我に返った時の、その恥ずかしさといったらない。もし翼があったなら、そのまま天高く舞い上がり、消えてしまいたくなるほどだった。
- 「もちろん、僕は見たこと無いですよ・・・祖父に訊いた話
- です。」
- 消え入りそうな声で、まるで弁解のように付け加える。
- 「・・・見たことの無い飛行機だから、飛んでいる姿が見た
- くて、RCを作ったんです」
- 言葉にした後で、そんな言葉を口にする自分が、ますます恥ずかしくなっていた。僕はいよいよ何も話せなくなっていた。 彼は相変わらず、黙ったまま僕を見ている。けれど、その視線が何処に焦点を合わせているのか、僕には分からなかった。僕が、彼と目線が合わないように避けていたからだ。
- それほど、恥ずかしかった。
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- 「赤とんぼ」
- 突然、彼は、ぽつりと言葉を吐き出す。
- 「神風」
- それも、一つ、二つではない。
- 「流星」
- 幾つもの戦前の飛行機の名を、口にした。
- 「銀河」
- まるで、しゃぼん玉を次々と吐き出すように。
- 「月光・・・・ゼロ・ファイター。」
- しばらく沈黙した後、ゆっくりと僕を振り返る。その目は、いたずらっぽい輝きを秘めていた。
- 僕は、ただただ、驚くより他はない。
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- 「昔、一緒に仕事をしていた友人に教えてもらったんだ。」
- 彼は、そう説明していた。
- 「その友人に、機体を作ってもらったこともある。」
- そうとも話していた。視線を少し外して、宙を仰ぐ。一瞬、思いだし笑いのような笑みを見せるが、すぐに、かみ殺した。・・・そして、ヘリを指さす。
- 「このエンジンも、彼らにもらったんだ。」