彩雲
 
 
 
 太陽はとうに真昼の高みに達していた。長い光は、空気を、春の午後にふさわしく、暖めていた。連休の始まりであるこの日は、街も静かで、小鳥のさえずりさえ聞こえる。風も無く、昼寝や散歩には、程好い日和だ。
 そんな穏やかな陽射しの中を、僕は、両手に荷物を抱え、バタバタとあわただしく急いでいた。
 荷物とは、完成したばかりのラジコン機“彩雲”。走っていたのは、日が沈む前に、一刻も早く、“彩雲”を飛ばしてみたかったからだ。
 
 開発の進んだ関東平野とはいえ、利根川の川原まで出れば、地平線を見渡すことが出来る。そこが、僕のフライト・エリアだった。
 コンクリートの堤を乗り越え、滑走路となる川原を臨む。坂東太郎の雄大な流れを背にしたRC飛行場は、単なる雑草まみれの空き地だった。
 とはいえ、他の場所に比べると比較的地肌が露出している。滑走路を確保するには必要充分な広さがあった。何よりも、民家から離れ、なおかつ送電線が近辺に無いという地理的条件が、RC機を飛ばすのに好適だった。
 民家から遠いので、ギャラリーがいないのが寂しかったが、子供達、とりわけサッカー少年や野球少年達に領土を侵略される恐れもなかった。もちろん、いたずらっ子達のゲリラ的奇襲もなければ、“近所の親父”という名のにわか評論家諸兄の無遠慮な批評を受ける心配もなかった。
 だが、今日は少し、違った。そこに、先客がいたのだ。
 
 
 その男は、イタリア系らしいブラジル人。背は、日本人より少し高い程度。いや、もしかしたら、かわらないぐらいかも知れない。プロポを手に、RCヘリコプターを操っていた。
 もちろん、僕の姿など、目に入っていないだろうし、気づいた様子もない。彼は、ヘリの舞う空ばかりを見ていた。
 ヘリは実にいい音をさせて、ぶんぶんと飛び回っている。彼は、指先こそせわしなく動かしているが、空を見上げてじっと立ったまま、ピクリともしなかった。
 そう、気配が全く無かった。まるで小さな樹木か、大きな草のように、風景の中に溶け込んでいた。
 彼は、近寄り難いような雰囲気を湛えていた。しかも、異国人。「言葉」の懸念もある。僕は「気軽なあいさつ」をかわすタイミングを、完ぺきに逸していた。
 話してもいない異国人を、ブラジル人と決めつけた理由は、別段、当てずっぽうでもない。この町には日系を中心としたブラジル人労働者とその家族の数は多い。だから、外国人と言えば、ブラジル人と決めてかかっていた。
 むしろ、彼と顔見知りでないことが問題だった。
 彼らの中にも友人はいる。友人達は、日本語を解し、話せるが、顔見知りでなければ、それも定かではなくなる。むろん、英語さえろくに話せない僕に、ポルトガル語など、理解できるはずもない
 少しだけ近寄って、彼の横顔をそれとなくのぞき込む。
 …見覚えのある顔だった。顔見知りなら、話が通じるかもしれない。一瞬、安堵する。
 だが、何処で会った顔なのか、思い出せない。記憶の底に沈んでいるようで、すぐには浮かび上がらなかった。誰だかは、判らず、今一つ、確信が持てなかった。
 この、記憶に対する自信の無さと、その躊躇にかけてしまった時間は、もはや、決定的でもあった。
 それに、彼に話しかけたとて、(彼に替わって)すぐに飛び立てるわけでもない。彩雲は、つい先ほど組上がったばかりなのだ。調整など、何一つ為していない。準備には、まだ時間が必要だった。
 彼は、相変わらず、空を舞うヘリを追いかけることに集中していて、僕に気づく気配は、全く無かった。
 その時の僕は、時を惜しんでいたこともあり、たいして考えもせずに話しかける労を億劫がった。
 
 
 とりあえず、彩雲を“滑走路”(…即ち草っ原)の隅に置く。
 空冷エンジンを機首に備えた低翼の機体は、第二次大戦中の機体としてはありふれたスタイルにも見えた。
 だが、細長く、無駄なところのまったく無いスリムな機体は、エンジンを納める最低限度の直径を有しながらも、風を素直に受け流す、スピード感を感じさせた。
 エンジンに火を入れてみた。残念なことに、余り、いい音ではない。空を舞う彼のヘリに、官能的な音の良さで、明らかに負けていた。
 僕は、いったんエンジンを止め、再調整を施す。原因らしい原因が判らない。接触不良なのかも知れないと疑い、プラグをはじめ各部を念入りに清掃し直す。
 それから、再び火を入れる。エンジン音に大差はない。こんなものかと諦める。しかし、今度は比較の対象となるエンジン音が聴こえてこない。ローターの風切り音も止んでいた。
 ふと、振り返ると、RCヘリのそばでしゃがみ込んでいる彼がいた。僕が彩雲の調整に気を取られている間に、彼は着陸を終えていたのであった。
 目が合うと、にっこりと微笑む。僕は、戸惑いつつも、つい反射的に(日本流に)軽く会釈を返す。
 やはり、知り合いだったのだろうか?その割には、話しかけてこない。日本語が達者でない、来日したばかりの知り合いだろうか?
 いや、そんな最近の知り合いはいない。ここ数カ月というものの、休日となれば、部屋に閉じ籠って彩雲の製作にばかり熱中していた。それどころか、この2、3年は、RC機の製作と、習熟飛行とに費やし、人と滅多に会わなくなっていた。RC機仲間など限られたもので、その顔を忘れようもない。
 だから、もし、彼と出会っていたとしたのならば、それは、混沌とした平日の記憶の中、なのかも知れない。
 
 何はともあれ、彼が飛行を止めたのならば、気兼ね無く飛び立てる。それだけは確かだ。挨拶もそこそこに、僕は、早速フライトの準備に入る。
 エルロン、ラダー、エレベーターの効きも良好。僕は、滑走路の後端まで、ゆっくりと滑走させる。
 彼も同好の士に興味があるのか、そのまま土手に座って彩雲を見つめている。
 その視線を、少し感じた。だが、待望の彩雲初飛行である。ギャラリーがいるのも悪くない。それも、野次馬ではなく、同好の士だ。
 風も止まっている。草までもが、そよぐのを止めて、息を止めて彩雲のテイク・オフを見守っているかのようだ。
 僕は、おもむろにエンジンの回転を上げ、エレベーターを上げた。彩雲が、滑走路を滑り始める。
 プロペラの風切り音が入り混じったエンジン音と共に、タイヤが土を蹴るザザーッという摩擦音が聴こえる。だが、それもほんの数秒の内。やがて、摩擦音が消え、エンジン音だけになる。
 彩雲は、ふわりと空気の上に乗っていた。機体が、空気の柔らかな感触を感じたかのように、ぶるりと軽く振るえる。
 急坂になった空気の坂を滑るようにして昇っていった。あっという間に、高度をとる。エンジンの悪さからは想像の出来なかった上昇力。
 思っていたより、あっさりと、彩雲は離陸していた。
 けれど、順調だったのは、ほんのわずかな間だけ。すぐに僕は格闘を始めなければならなかった。
 
 
 清明高気圧は、通り過ぎようとしていた。頭上の空は、青く晴れ渡っていたが、西の空には雲塊が見える。上州と越後を隔てる山脈は、冬の名残の雪を纏っていた。
 静穏な晴日とはいえ、春先のこの時節、その遷移は早く、風は変わり易い。その上、川辺には、断続的に微かな川風も、打ち寄せる。測ることの出来ない、とても微かな風が回っている。
 彩雲は、そうした微かな風のそよぎや変化に、微妙に反応する。どうやら、機体の性格が、想像以上にセンシティブだったようなのだ。
 
 左に傾いた機体をラダーで右へと修正する。と、その反動で翼は右に傾く。実に過敏に反応する。スゥィート・スポットが、かなり狭そうだ。
 今度は、エルロンを主に、ラダーをアシストに効かせて、修正を試みる。これでも、まだ、揺り返しがある。さっきほどではないが、左に若干傾く。もしかしたら、失敗作かもしれない。不安が胸をよぎる。背筋が痒くなってくる。
 だが、懸念している暇もなかった。あっという間に、彩雲はフライト・エリアの端に到達してしまっていた。
 やむを得ず、バンクを少し深くして左旋回を試みる。充分注意して、エルロン、ラダーをニュートラルに戻す。再び機体が揺れる。バンク角の維持が難しい。だが、それは、愚然にもコーナリングに最適なバンク角の遷移を刻んでいた。ラダーであて舵をとると、狙いどうりの緩旋回。実にきれいに円を描いた。風を切る音が聴こえるようだった。
 僕は、微笑みを奥歯で噛んだ。唇の端が少し上に上がる。「よし」と、声にならない声を漏らす。
 
 それから、そのまま、フライト・エリアの端で、彩雲を2、3周ほど定常旋回させた。これもまた、きれいに決まる。直進させるよりも楽だった。
 その間に、僕は呼吸を整える。まだ十数秒しか経っていないのに、掌のひらに汗をかいていた。
 すぐに着陸させ、調整を試みた方が良いのかも知れない。舵の効きが過敏すぎる。僕の腕では、墜落させてしまうかも知れない。だが、しかし、これだけセンシティブな機体なら、着陸は、なお難しそうだった。・・・つまり、このままでは、確実に失敗するのだ。
 
 彩雲の大破。想像したくない、起こり得べき事実。
 完成までに数カ月を要した。いや、もともとRC機について素人であった僕は、RC機の製作、そして操縦の熟練にそれ以上の月日を費やしていた。それもこれもすべて、彩雲の雄姿を、この目でみるため・・・。
 
 しかし、それは緩やかなデモ・フライトを演じるだけで充分なもの。決して、俊敏な機体を望んでいたわけではなかった。そんな機体を乗りこなす技量はなかったし、そこまでの技術を身につけるつもりもなかった。
 僕は、ただ、空に浮く彩雲を眺めていられれば、それで満足だった。きっと、僕以外の誰かが操っていたものだとしても、満足だったに違いない。
 
 
 「Attention!」
 甲高いしゃがれ声が、背中から突き刺さる。その痛みに驚き、振り返る。彼が、彩雲を指さしていた。
 彩雲は機首を下げていた。いつの間にか、バンク角を深め、急旋回となっていたのだ。何をぼうーっとしていたのだろう。僕は無意識のうちに指を動かしてしまっていた。
 慌ててスロットルを上げ、機首を起こす。川面に触れる直前、機首は上を向く。あと数秒遅れていたなら、墜落していたところであった。
 高度を取り戻し始めると、僕は、じわりとバンクを浅くしていった。そして、こちらに機首を向けるのを見て取って、水平飛行に移した。
 微妙な横滑りは、まだ消えていなかったが、こちらへは向かってきた。僕は、せわしい指さばきで、方向修正を繰り返し、高度を失うたびに上昇を繰り返していた。航跡は、無様に波打っていた。それは、荒れ馬に振り回されるような、よたよたとした動きだった。
 決して誉められたことではない。けれど、今は、こうするより他はない。
 そして、頭上で180度の緩旋回。再び水平飛行に戻し、河の真ん中で、また180度緩旋回。旋回と水平飛行とを交互に行う。そうした楕円の軌跡を描く場周飛行を、数回繰り返した。
 そのうち、滑りは少なくなり、指の動きも小さくなってきた。風は、また、静止している。僕はようやく覚悟を決めた。
 
 河面の上で90度旋回。そのまま川の流れに沿ってしばらく直進させる。そこから90度旋回。川原の上まで直進させ、すぐにまた90度旋回。機首をこちらに向ける。風はまだ凪いでいる。
 僕は、機首を持ち上げると共に、徐々にスロットルを戻し始める。機速を失った彩雲は、上を見上げた形のまま、ゆっくりと高度を失っていく。
 彩雲は、まるで止まった絵のようだった。その絵の中の彩雲に、僕の中のカメラが、スローにズーム・アップしていく。
 ゆったりとした穏やかな時の流れ。その中で眠たくなるほどのんびりとスロットルを操作する。・・・そんなつもり、感覚でいた。けれども、それはわずか数秒の間の出来事でしかなかった。
 その時の僕は、1秒の間に多くの事を感じていたし、多くの事が出来そうだった。一つ一つの動作が確実にこなせていた。
壊したくないという思いの強さのあまり、最高の集中力を発揮していたのだ。
 色々なものが急に目に入るようになってきた。雲の数、雲が流れゆくさま。遥か彼方の橋を渡る車の小さな黒い影。土手の草々。春を感じて色づき始めた、小さな花達。陽射しを受けて、きらきらと瞬きを反す川面。
 そして、僕と彩雲を見守るたった一人の観客。
 全てが一瞬の間に、僕の視界に入ってきた。そして、その全てを僕は感じていた。じっと見つめる彼の瞳にもだ。
 優れて鋭敏になった感性は、記憶の底へストレートにたどり着く。僕は、“彼”の顔を思い出していた。
 
 
 最初は、記憶の覚醒に安堵した。次に、その事実に驚いた。そして、真実ではないと疑い、まっすぐに彼を見た。疑問には答えが必要だった。だが、その答えの根拠のなさに、逡巡した。
この逡巡が、羽化登仙にあるまじき行為だった。
 僕は集中力を失っていたのだ。
 
 「Pull up!」
 彼が再び声を投げつける。2度、3度。
 我に返った僕は、土手に向かって突進する彩雲に、気づく。 機速を落とすことを忘れていたのだ。彩雲は、そのまま高度を保って、滑走路上を直進していた。土手まで、もうコンマ何秒もない。驚いている暇は無かった。考えている暇も、躊躇している暇も無かった。
 僕は、ただ、彼の言葉のままに機首を引き起こす。スロットルを上げて機速をさらに増し、彼の指示するとおり、土手越えを試みる。
 機体が土手の坂面と平行に、昇って行く。まるで、土手の上数十センチを透明な板で覆っているかのように、その上を滑るように、斜めに昇って行く。
 土手への激突は免れた。だが、浮力が、まだ、足らなかった。坂の上を地面効果で浮いているだけに過ぎなかった。
 土手の向こう側から、誰も昇ってきませんように・・・僕は、息を詰めて祈りながら、プロポをきつく握りしめていた。こんな時だけ、僕は神様に語りかける。あと、2、3秒のことなんです、と・・・。
 
 そして、風が、西北西から吹いた。
 冬なら珍しくない、からっ風と同じ向きの風。冷たい風だが、冬ほど寒さを感じない。だが、僕は“神風”の予感に、背筋が凍えた。
 風上側の左翼を押さえ気味にした。けれど、それでも流される。流されながらも、風に乗り、舞い上がる。瞬く間に、充分な高度を得る。
 風を読んでいたのか?・・・ちらりと覗き見た彼の表情は、変わらない。まるで、これが、当然の理であるかのように。
 RCは、見える範囲で、墜落させても支障の無い場所で飛ばすのが、絶対的な原則だ。土手の向こう側には、県道があり、また、思わぬ死角が生じる恐れもある。だから、180度旋回させなければならない。そして、我を取り戻していた僕は、もはや、躊躇をしていなかった。
 流された状態から、修整操作をとらず、そのまま上昇旋回に持ち込む。彩雲は、緩やかな螺旋を描いて、昇っていく。風に逆らわず、流されないように、風をつかみ、風に乗った。
 豪邸の螺旋階段を昇るように、優雅に、そして、実にダイレクトに回り込む。単なる緩旋回が、何とも、小気味良い。この機体は、天性のコーナリング・マシンなのかも知れない。
 高度をつかんだ彩雲を、風下・川下側に膨らんだ孤を描かせて、川の中央に運ぶ。それから、風下・川下側に機首を向け、210〜230度ほどの旋回をし、偏流をとりながら川原に向かわせる。
 気まぐれな西北西の風は止みつつあったが、それでも、微かな息吹はあった。風に向かって進路をとりながら、機首を上げ、機速を落としていった。
 「easy、easy!」
 彼の声を漏らす事なく耳は捉えるが、視線は彩雲へ向かったまま、動くことは無かった。しかし、まだ、心臓は動悸を激しく打っていた。心の動揺は隠し切れない。
 空を仰いだ彩雲が、二重にぶれて見える。
 彼であるという希望、彼は生きていたという妄想、それを否定する理性。そして、理性が働きはじめているにも拘らず、これ以上彼の目の前で恥をかきたくないという羞恥心とが、遠慮無しに沸き起こる。
 それらが混然と渦巻き、胸を流れる血潮は、制御できるものではなくなっていた。辛うじて、頭が首を挟んで、指先は、腕を通じてから、その胸につながっていた。そのために、コントロールを失わなかっただけのことだった。
 
 風は再び静止した。彩雲は、順調に高度を落としていた。機影は、ゆっくりと大きくなっていった。機体のぶれは既に無かった。
 にもかかわらず、僕には、彩雲が今にもふらふらしそうな恐怖感があった。指先が白く、血が抜けていく感覚があったのだ。手が今にも振るえそうだった。
 そして、ふいに南風が吹く。川面からの川風だった。
 姿勢を保つので精一杯だった指は、柔軟性を欠いて、その関節を硬直させていた。そのため、横風への修整動作が遅れた。
 右翼を持ち上げられ、彩雲は、斜めに、土手の方へ流された。そのまま横転し、墜落するのではないかとさえ思われた。泣きたい気分だった。
「スロットルを吹かせ!」
 彼の声がそう聴こえた。
 彼の声は、僕の側に近寄ってきていた。駆けてきたのだ。
 「風に逆らうな!」
英語がすべて、言葉として聴こえた。意味が理解できた。彼の言っていることは直接、僕の心に伝わった。
 「そのまま、仰角の姿勢を保って、高度を上げるんだ。」
 何をしようとしているか、おぼろげには判った。でも、それを、僕は試したことがなかった。
 その時初めて、不安げな顔で彼を見た。
 「Believe me.」
 一瞬、英語で聴こえた。
 「大丈夫だ、俺を信じろ。君なら出来る。」
 その瞬間は、彼を肯定した訳ではなかった。他の手段を思いつかなかったというのが、実のところだ。抗がっている間など無かったのだ。
 風は待っていてはくれない。空中でひと休みするなど出来ない相談だ。一秒もあれば、遥か上空に舞い上がってしまう。
 
 彼の命じるがまま、彩雲は天空に向かって孤を描くようにして宙返りをする。孤の頂点、半円を描いたところで、スロットルを閉じる。だが、そのまま円周を降りて来るわけではない。
 ゆるりと孤の頂点を下りてきたところで、機体を右に倒し込むようにひねる。
 バンクを維持して90度の螺旋状の降下旋回。そして、水平位置に達してから、スロットルを開く。
 ちょうど、Qの字を逆さにした航跡を描いて水平飛行に移したのだ。
 その航跡の美しさ、爽快感に、ため息をつく。宙返りに移った彩雲に、まるで自分が乗っているかのように、血の気がひいた。その後の空気の上を滑るような、螺旋状の旋回は、豪快なコーナリングの快感に満ちていた。僕のこの手による操縦とはとても思えなかった。
 
 再び楕円の場周飛行を繰り返し、川面から、川原へ90度旋回させた。川風を横から受けてのアプローチに臨む。
 試験飛行だから、燃料もそれほど積んでいない。もう、あとどれほど飛び続けられるかも分からない。墜落させずに事を終えるには、時間と機会は限られつつあった。
 「自分を信じるんだ。」
 彼は、静かに念じるように、語りかけてくる。
 「出来るとは思えないことなんて、うまく出来るはず無い。」
そして、再度、繰り返す。
 「落ち着け。自分を信じるんだ。」
 
 機首を空に仰がせたまま、機速を落とす。
 相変わらず、風は、川面から、横風を吹きつける。その息吹の強弱は、ランダムで一定していない。だが、いつも、この風に乗せてRCを飛ばしてきた。その呼吸をよく知っている、いつもの風だ。
 ラダーをエルロンを、その風の息吹に合わせて、動かし続ける。時に強く、時に弱く。
 完全に偏流をとって、まっすぐに着陸させることは無理だった。やはり、この機体は、直進が苦手なのだ。けれど、流されながらも、着陸に必要な直線距離は得られた。いや、斜めに流された結果、かえって充分な距離が得られた。
 タッチ・ダウン。それは離陸と同じく、あっけなかった。先ほどまでの失敗がまるで嘘のようだった。
 そして、彩雲の雄姿を覚えていない事が意外だった。彩雲がどんな光を受けて、どんな映えかたをしたのか、まるで記憶になかった。その姿を見たくて、僕はRCを、彩雲を作ったというのに・・・。
 気づいた時には、既に車輪が砂利を蹴る音だけが聴こえていた。スロットルを閉じて、エンジンを切ったことも覚えていなかった。記憶は、実に曖昧で、断片的だった。
 いつの間にか、僕は、彩雲の傍らに立っていた。
 川からの風が、頬を撫でるように叩く。すると、僕はそれを合図に空を見上げる。彩雲が、いま、飛んでいた空を。雲量が少ない、いつもより灰色味が薄い、より深い青い色の空を。
 その空に、今しがた彩雲が描いた航跡をなぞる。視線が空を舞う。それは、現実を認知しようとする、無意識な動作であったかも知れない。だが、それでも、まだ、現実感が薄かった。この手に感じた手ごたえが、自分の感覚が、まったく信じられなかった。
 
 
 「Good job!」
 プロペラの風切り音が、弱々しく途絶えていくところへ、力強い拍手の音がかぶさる。
 彼はにっこりと微笑んで、僕に握手を求める。
 うっかり、彼と視線を合わせてしまった。その瞳は貴重な液体を含んでいて、今にも破裂しそうに、その輝きが揺れ動いていた。
 吸い寄せられた、と言った方が正解なのかも知れない。
 恐いと思う事ほど、見たくなるように、・・・行ってはいけないと思う方向へ、足が向いてしまうように。
 「Thanks・・・」
 彼の手を握り返した。
 僕は、その時、彩雲を無事に着陸させたことを後悔していた。
 「Thanks a lot・・・」
 まだ、あのまま飛んでいれば良かった。
 じゃじゃ馬な機体に悪戦苦闘している方が、遥かに、楽だった。
 彩雲にちらりと目を移す。エネルギーを失ったプロペラが、空気の厚みに抗し切れずに、カラカラと音を立てながら、今にも止まろうとしていた。
  「Thanks for your help・・・」
 気が重かった。いや、それ以上だった。
 彼は、あまりにも似すぎている。ここにはいないはずの“彼”に・・・。
 「O.K.・・・O.K.・・・」
 彼は僕の手を軽く握り返し、Hahahaと笑いながら、肩を二、三度、ぽんぽんと軽く叩いた。まるで、気の良いごく普通の青年だった。
 巻き毛の髪に、気品のある顔立ち。それなのに、顔のまん中を陣取る重要パーツである鼻は、妙にぼてっと膨らんでいて、不細工だった。もっとも、それ故、妙な愛敬もあった。そのアイテムを持つが為に、男として本能的な敵意を向けてしまうほどのハンサムでもなかった。高貴さと親しみとを、滑稽なほど絶妙なバランスで兼ね備えていた。
 やっぱり、似ている。そう思った。そう思ってしまうと、他の考えが出来なくなっていた。
 ただ、一つ。記憶の中の“彼”よりもずっと日に焼けた顔をしていた。それだけが、異なっていた。
 F1のコクピットに座っていた当時の彼は、もう少し、白く、蒼白でさえあり、年に似合わないしわが刻まれていた。その頃の彼に比べると、随分と健康的であり、自然で、若々しくもあった。
 それが、すぐに“彼”と思い当たらなかった大きな理由でもあった。そして、「“彼”であるという妄想」に反駁する唯一の根拠でもあった。
 僕は、名前を聞かねば、と思った。
 名前を聞けば、“彼”の名を答えるはずはないと思った。そうすれば、少なくとも、今、胸の中をとめどなく溢れる妄想を否定することが出来る。
 彼とどう接すべきか、沸き起こる様々な感情の波に流されかけていた僕の理性は、ただ一つ浮かんだ言葉にすがろうとしていた。
 
 
 「名前は、なんと言うんだい?」
 そう、尋ねてきたのは、彼の方だった。
 思わぬ攻撃に、頭が真っ白の僕は、しどろもどろに自分の名を答える。彼は、ふむふむとうなづく。だが、その顔は、何かを言いたそうだった。
 2、3秒の沈黙の後に、ようやく、僕は誤りに気づく。彼は、僕の名ではなく、彩雲の名を尋ねてきたのだ。僕は、思わず、視線を、沈黙したままの彩雲に、移していた。しまったという顔をしていて、それを隠さなかった。
 そして、彼はその表情の変化を見逃していなかった。
 僕の名を呼び、それから、こう尋ねてきた。
 「この飛行機の名は?」
 ふっと、口から息が抜け、それから、笑みになった。
 「“彩雲”て言うんです。」
僕は、にっこりと笑って、そう答えていた。
 「美しい飛行機だね。」
 
 
 ”彩雲”とは、第2次大戦中の艦上偵察機。飛行機としてはまったく余分なところの無い、磨き込まれたスリムな機体に、二千馬力のホマレ・エンジンを積んだスピードの申し子。
 時速633Hの最高速度、1万1300mの上昇限度、5300Hの航続距離は、空母用の偵察機としては、当時世界最高の性能を誇っていた。時速565Hしか出せないゼロ戦はもとより、時速609Hを誇る米軍艦上戦闘機ヘルキャットもスピードの点では敵としない。それが彩雲だった。
 
 「我に追いつくグラマン無し。」
 「・・・。」
 「偵察作戦から帰還しての一言が、これなんだ。」
 米軍は、既にその当時、レーダーを装備していたので、偵察機”彩雲”を容易に発見。新鋭戦闘機”グラマン”を迎撃に上げる。
 彩雲は、作戦空域を反転、そのスピードを活かして脱出する。美しい機体を持ち、名エンジン”誉”を積む彩雲の速さは、新鋭戦闘機”グラマン・ヘルキャット”をはるかに上回っていた。
 グラマンの前方の視界からは彩雲が小さく、彩雲の後席から振り返ったグラマンもまた小さくなっていった。
 「我に追いつくグラマン無し。」
 第一声を発したパイロットの顔が目に浮かぶような気がした。
 そして、振り返ると、“彼”がいた。
 
 僕のつたない英語の演説を、彼は黙って聞いていてくれた。それなのに、僕は彼の存在をすっかり忘れて熱弁を振るっていた。はたと我に返った時の、その恥ずかしさといったらない。もし翼があったなら、そのまま天高く舞い上がり、消えてしまいたくなるほどだった。
 「もちろん、僕は見たこと無いですよ・・・祖父に訊いた話
  です。」
 消え入りそうな声で、まるで弁解のように付け加える。
「・・・見たことの無い飛行機だから、飛んでいる姿が見た
  くて、RCを作ったんです」
 言葉にした後で、そんな言葉を口にする自分が、ますます恥ずかしくなっていた。僕はいよいよ何も話せなくなっていた。 彼は相変わらず、黙ったまま僕を見ている。けれど、その視線が何処に焦点を合わせているのか、僕には分からなかった。僕が、彼と目線が合わないように避けていたからだ。
 それほど、恥ずかしかった。
 
 
 「赤とんぼ」
 突然、彼は、ぽつりと言葉を吐き出す。
 「神風」
それも、一つ、二つではない。
 「流星」
幾つもの戦前の飛行機の名を、口にした。
 「銀河」
まるで、しゃぼん玉を次々と吐き出すように。
 「月光・・・・ゼロ・ファイター。」
 しばらく沈黙した後、ゆっくりと僕を振り返る。その目は、いたずらっぽい輝きを秘めていた。
 僕は、ただただ、驚くより他はない。
 
 「昔、一緒に仕事をしていた友人に教えてもらったんだ。」
 彼は、そう説明していた。
 「その友人に、機体を作ってもらったこともある。」
 そうとも話していた。視線を少し外して、宙を仰ぐ。一瞬、思いだし笑いのような笑みを見せるが、すぐに、かみ殺した。・・・そして、ヘリを指さす。
 「このエンジンも、彼らにもらったんだ。」
 彼は控え目ながら、誇らしい様子だった。まるで、恥ずかしがりながら家族の自慢をする少女のように。
 僕の視線は、彼の指先を辿る。僕らの足元から、影を三つぐらい延ばした先に、彼の荷物と共に、ヘリは横たわっていた。おとなしく、主人の帰りを待つ飼い犬のように。
 「いいエンジンですよね。」
 彼は、目線を自分の影に落としたままうなづく。
 「いい音させてましたもの・・・」
 少し照れくさそうに顔を上げ、親指を軽く胸の上に掲げサム・アップ。
 その親指の先には、太陽があった。陽は、もうそこまで下りてきていた。伸びはじめた陽光は、長く、瞳の奥まで突き刺すような痛みがあった。
 「まぶしい・・・」
 そう呟いて、僕は顔を臥せる。その顔を覆った手に冷たい感触・・・涙があった。
 
 
 僕は驚いて、自分の手を、涙の痕跡を、まじまじと見つめてしまった。ひんやりとした感触。肉からにじみ出たような、透明な液体。涙滴型をして、ここに落ちたとは想像がつかない。きらきらというより、てかてかと、肉を光らせている。
 涙という実感に乏しかった。これを涙と認めることに逡巡してさえいた。
 それなのに、すぐに、頬に、その新しい痕跡ができる。僕の戸惑いには、まったくかまうことなく、液体は、また溢れ出て、下瞼の淵に納まり切れずに、流れ落ちる。頬から顎へ冷たい糸が垂れ落ちる。
 そして、喉から鳴咽が飛び出す。言葉ではない生き物の声。生き物の泣き声。
 そのすべてを止められない。
 何故、自分が泣くのか、まったくわからなかった。押さえ切れない鳴咽、溢れる涙に、あらがう術がなかった。僕は赤子のような無防備な瞳で彼を見ていた。
 彼もまた、驚いていた。そして、その驚きを隠さない無防備な顔をしていた。
 「Don’t cry・・・.」
 彼は左手を少しだけ伸ばして、僕の右肩をぽんぽんと、軽く叩いた。僕は、泣きながら、ただ首を振る。
 「僕は、馬鹿だった・・・。」
 その頭を、彼は大切なものを愛でるように、そっと、何度も何度も撫でてくれた。
 「戦闘機が、人殺しの道具だって知っていた。知っていたの
  に・・・」
 口をついて出た言葉にまた驚く。鳴咽が、歯を叩くようにしゃくりあげる。涙が、洟が唇に流れ込み、それをすすり込む。 心の底に沈んでいた言葉だったのかも知れない。沸き上がってきた途端、止められなくなっていた。
 「知っていたのに、憧れていた。」
 頭の中で、いくつもの風景が、猛スピードで通り過ぎる。そしてどれ一つとして、それを止められない。
 「Don’t cry・・・.」
 彼は、いつまでも、僕の頭を撫で続けた。
 「子供のままのふりをして、・・・人の痛みだって分かるの
  に・・・。」
 何故、こんな事を彼に話すのか、まったく分からなかった。今、会ったばかりの男。まだ名前も知らない・・・名前を確かめていない男に話すべき事なのか。まったく、おかしな話だった。そして、それをしていた。
 「気づかないふりをしていた・・・。」
 彼にとっても、迷惑千万な話だ。彼はただ、RCヘリを飛ばしに来ただけなのだ。それも、恐らく、誰にも知られたくないために、この場所を選んだのだろう。それは、この場所をテリトリーとしている僕にはよく分かる。
 そんな人間にとって、こんなに生々しく、ややこしい事態は、疎ましいだけのことでしかないことだ。
「大丈夫だよ」「気にするな」
 そんな言葉で、高まりが鎮まり、泣き止むのを待つ、というのが、ごく当たり前の人間のすることであろう。それでも、充分、心ある行為だ。
 だが、彼は、そこに留まらなかった。突然、立ち上がった。
 
 
 彩雲に近づき、しばらく、それをじっと見つめる。
 何をする気なのか気になって、僕は、濡れた目を彼に向け、顔を上げる。その直後、不意に、彼は彩雲を抱き上げる。それから、彼は、僕を見る。僕が彼を見ていることを、確認する。
 無表情のまま、彼は、彩雲を天に掲げる。そして、いきなり、彩雲を地面に叩きつけようとする。・・・それは、真似でしかなかった。だが、僕は、反射的に、手を伸ばそうとしていた。手を延ばしても、彼の場所、彩雲に届くことはない。分かり切っていたのに、手が出ていた。
 その僕の仕草を、一部始終見届けてから、彼はようやく、表情を崩した。にっこりと・・・いや、ニヤリと微笑んだ。
 彩雲を抱きかかえたまま、すたすたと、こちらへ歩いてきた。
それは、彩雲へ近寄っていった時よりも、ずっと早いテンポだった。足取りが軽いと言うと、言い過ぎであったが・・・。
 「いい飛行機を作った。」
 僕の目の前に、彩雲を置き、僕と相対して、しゃがみ込んだ。
 「もし、君がこの飛行機を不要だというなら・・・、」
 そして、僕の目の奥を、眼底の隅まで、まるで科学者が観察するかのように、のぞき込む。
 「僕に、譲ってくれないか?」
 「えっ・・・?」
 僕は息を飲む。答えに詰まった。即答できなかった。
 そして、思わず、質問者の瞳を見返していた。そこは、瞳の大きさよりも、ずっと大きな世界に見えた。その広大な世界に立たされた僕は、孤独の風にさらされていた。
 風は冷たかった。冷たかったが、凍える予感はしなかった。
 「いい飛行機だ。良く出来ている。」
 しげしげとその翼を、見つめながら、彼は語り続ける。翼を追う彼の視線は、僕の神経を生で触れられるような、電気的な鋭い痛みがあった。
 「捨てるにも、壊すにも忍びない。・・・そう、思わないか  い?」
 僕は、こっくりとうなづく。頭の中は、何も考えていない。彼の言葉に、心が反射的に反応しただけだ。それ故、それは、本心とも言えた。
 クスッと、軽く息を吸い込むように、彼は笑いを漏らす。
 「君は、ついさっきまで、これを墜落させまいと必死だった
  んだ。」
 彼は、指先でカウリングの儀装を辿る。頬や顎のような副吸気孔は、ダミーであったが、彩雲にはなくてはならないもの。同じRCでもスポーツ・タイプなら、有り得ない儀装であった。
 「あまりに必死だったから、つい声をかけてしまった。」
 キャノピー内は空洞。コックピットはしつらえてあるが、あえて、フィギアは乗せていない。現代ジェット軍用機のような涙滴型をしているわけではないが、窓枠の多さと、それにはまるように見せるためのガラスの質感を醸し出すのに苦労した。
 これなども、大空を飛ばした時、その反射の違いに気づく人がどれだけいるものか。ディスプレイ用としてならともかく、RC用としては、不必要なほど凝ったつくりだった。
 「君の気持ちは本物なんだ。」
 ボディ・ラインの削り出しにも苦労した。どんなにうまくいっても、本物のイメージとは程遠いものだった。ましてや、塗装に至っては、モノクローム写真しか手元にない以上、想像上の産物以外の何物でもなかった。
 それを一つ一つ丁寧に観察されるのは、なんともくすぐったく、恥ずかしいものだった。自信作と思い込んでいた彩雲の、実際の出来具合と、イメージの中の本物の彩雲との歴然とした差に、愕然とする。火が出るほど恥ずかしかった。
 「そんな人の作った飛行機が、悪いわけない。僕に譲ってく
  れないか?」
 彼は、再度繰り返す。ポーズだけでなく、明らかに本当に欲しいという気持ちが、にじんでいるような声だった。
 「・・・。」
 真に迫ったその声に、ますます、言葉に詰まった。
 いっそ、「壊してやろうか?」と、脅される方が楽だった。労苦の作を一瞬にして破壊する場面を想像すると、恐怖に似た快感が、身体を駆け抜けた。
 しかし、「欲しい」と言われると、労苦の作だけに、惜しいという気持ちが沸き起こって来るものだ。何ともみっともない話だが、事実だから、どうしようもない。
 そして、次の瞬間、知らぬ間に、涙が止んでいた自分に気が付く。・・・いつから、僕は、泣き止んでいたのだろう?
 逡巡している僕の頭上から、“彼”の声が降りかかる。
 「でも、泣き出したときの君の気持ちも、本物だったんだ。
  ・・・全部、本当の気持ちだったんだ。
  どれも、君の心が生んだものだ。」
 その時の僕は、
彼が何を言わんとしているのか、まったく理解していなかった。
そして、同時に、その言葉の全てを子細漏らさず覚えていた。理解していないことを、すべて覚えていた。
 「傷みも憧れもある素晴らしい心だ。」
 そして、繰り返す。
 「Believe me.」
 にこりともしない。真剣な眼差し。
 「自分が信じられなければ、人の心も信じられなくなる。
  もっと、自分を信じるんだ。」
 
 
 
 影は、ずっと長くなっていた。陽光は、まだ痛く、そして長かった。
 僕は、その長くなった影を追うようにして走っていた。夕陽と土手を背にして、家路を目指していた。手は、まったくの自由。何も、持っていない。
 ともかく早く、何より速く、家を目指していた。
 僕は彼に約束したのだ。彩雲の設計図のコピーを譲ることを。
 そして、彼には時間がなかった。そのことを知らされていた。
 
 「もしかしたら・・・あなたは彩雲を操ってみたいと思って
  いませんか?」
 遠慮がちに、こう尋ねたのだ。すると、
 「me?」
 ほんの暫く、考え込んでから、彼は、
 「Yes」
 と答える。その瞳は、イタズラがばれた時の悪ガキのよう。
僕は、少しだけ安心する。
 「僕が、設計図を取りに行ってる間、
  彩雲を飛ばしてみませんか?」
 答えは、もちろん、
 「Yes」
 僕らは同時にほころんだ。
 早速、プロポを差し出すと、
 「Wait a minute.」と、
急に自分の荷物へ駈け戻る。
 そこから、彼は自分のプロポを出してきた。
 「きっと、これなら彩雲らしく飛ばせると思うよ。」
 言うや否や、僕の返事も聴かずに、さっさとセットを始めてしまった。時間が無いと言い出したのは、彼の方だというのに・・・。
 なるほど、彼の差し出したプロポのスティックは、ベアリングの精度が高く、柔らかく、そして手応えがあり、繊細な動きが出来そうだった。
 ただし、それは、明らかに高価なものだ。そして、その型番は僕の知らないもの。今度は僕が彼のプロポを欲しがる番・・・と言いたかったが、明らかに、これは高値の華だった。
「君がどんなに素晴らしい飛行機を作ったのか、見せてあげ
  る。」
 彩雲側の調整が終わった彼に、プロポを返すと、実に得意そうに語りかけてくる。余りに嬉しそうなので、怒る気も失せてしまう。
 「それじゃ、いくよ。」
 エンジンをかける。いいよ、彼のフライトだ。
その彼に、僕は手をかける。
 「ちょっと、待った。」
 いぶかしげに、彼は、僕を振り返る。
 「僕は、まだ君の名前を聴いていない。
  やっぱり、名前も知らない人に、RCを貸す訳にはいかな
  いだろう?」
 少し、何かを口の中で噛むような仕草を見せて、
それから、それを吐き出すように、
 「I see・・・」
と答える。
 「でも、すまないけれど、今の名前を明かす訳にはいかない
  んだ。」
とも答えた。
 「どうしても?」
 「どうしてもだ。」
 「僕は、あなたに彩雲を貸したくないわけじゃあないんです  よ・・・。」
 「わかっている。」
 「・・・・」
 僕は困惑した表情を隠せない。けれど、彼は、僕を見ていない。目線を避けている。その目線の先を辿っていったなら、きっとそこは雲。雲の中に、何かを捜すように目線を動かしている。
 そして、呪文のように、「I know、I know」と呟き、繰り返す。
 一瞬、黙り込み、突然こちらを振り返る。
 「・・・それなら、ハリーと呼んでくれ。昔の友達がつけて  くれた名だ。それじゃあ、駄目かい?」
 充分だった。僕はその名も知っている。その時代の彼の事も。だから、充分だった。
 「O.K.ハリー・・・。」
 今度こそ、本当のスタートだった。
 
 
 僕らは黙り込む。それは、息を飲むために。
 鼓動の高鳴りを感じた。手首が、足首が、ぴくぴくと脈打ち、指先が、耳たぶが、熱くなる。不思議なことに、自らのフライトよりも緊張感がある。
 彼を見ると、既に、目が違っていた。獰猛な目。余りにも強い眼力は、恐怖さえ感じる。先ほどまでの好青年ぶりとの落差は激しかった。
 「Here we go!」
 するすると動き出す彩雲。翼が雑草をかすめる。それは、噛みしめるような、ゆっくりとしたスピード。レーシング・スタートではなくフォーメーション・ラップのように、実にゆっくりと滑走している。こんなスピードで離陸できるのだろうかとさえ思う。
 実際、まだ、機体が浮き上がらない。もう、滑走路の半ばを過ぎている。ストレート・エンドまで、そう時間が無い。
 「ハリー・・・!」
 言葉が喉から飛び出そうとするが、唇はもどかしく、思うように開かない。そして、指先をこねる仕草。けれども、手元にはプロポは無い。何とも寂しく、心細い。
 あっと言う間に、彩雲はストレート・エンドに達する。その先は、河だ。
 「!!」
 彩雲は、ほんの少し浮き上がったかと思うと、そのまま右旋回。ひょいっと、飛び上がっただけで着地してしまった。まるでレーシング・カーが、見えないバンクをコーナリングしていくかのように。
 そして、うまい具合に川への落下を避けてしまった。僕は、一息、胸をなで下ろす。
 「?」
 彩雲は、着地したそのまま、滑走を続けている。浮こうという気配はない。
 「・・・?」
 しかも、こちらに向かって、一直線に突き進んでくる。・・・手近なところまで戻して、テイク・オフをやり直す気だろうか?しかし、それにしては、スピードを緩める気配が無い。かなりの速度で滑走して来る。
 「!?」
 しばらく、それがどういう“こと”なのか理解できなかった。何かトラブルでもあったのか、それとも、初めて操る他人の機体だから、戸惑いや、失敗があったのか、などとぼんやり考えていた。
 しかし、彩雲は、彼のもとへではなく、僕の足元めがけて突き進んでくる。
 「!」
 あと追突まで1秒もないという時になって、ようやく、彼を見た。明らかに、口に頬張った笑みがこぼれ落ちそうだった。唇は緩み、瞳は、くりくりと動きながら、僕を狙っていた。そう、悪ガキにしか見えないハリーが、そこにいた。
 しまった、と思うのと、逃げだしたのは、ほぼ同時だった。
 走りだした僕を、彩雲は、猟犬のように追いかけてきた。
 「ハリー!・・・!」
 彼の唇は、抵抗を止め、彼の笑い声を吐き出していた。
 冗談じゃあない。せっかく、作った彩雲に、自ら衝突して壊すなんて、どうして出来よう。僕は、盛んにちらちらと彩雲と彼とを振り返りながら、必死に逃げ回った。
 僕が、一生懸命に逃げ回るほどに、彼の笑い声は大きくなっていった。
 「O.K.・・・O.K.Stop.」
 彼は、僕の名を呼び、それから、こう言って、手招きした。その場に立ち止まると、僕を中心に、彩雲はぐるぐると旋回を始める。
 そのしぐさも、また、獲物を牽制する犬のよう。実際、彩雲はかなり大きい。優に猟犬一匹分、いやそれ以上の大きさがあるのだ。
 そんな大きなものが、プロペラを回しながら、僕の周りをぐるぐると回っているのだ。肝を潰しても、せんないところだ。
 「Please wait.・・・Don’t move.
  Are you alright?」
 僕は、ぶんぶん首を振る。派手な生返事だ。
 「Hahaha・・・」
 その仕草は、どう見てもコミカルで、彼が笑うのも無理もない。
 「Don’t mind.Don’t mind.」
 やがて、彩雲は旋回を止める。プロペラは回ったまま。それは、まるで尻尾を振った犬のよう。
 自分で操縦した時は、彩雲は、身体の一部だった。彩雲が傷つけば、僕も傷む。そんな感覚だった。でも、今は、一個の別の生き物を見ているような気がする。
 僕は飼い主のような愛情を持った視線で、空飛ぶ犬を見る。犬は、飼い主を、空を仰いで、待っている。
 ハリーが僕の名を呼ぶ。
 「Do you believe me?」
 僕は、なんだか得心のいかない、半端な心持ちで返事をする。
 「・・・Yes、・・・」
 ハリーは、再び、「Hahaha」と息を漏らすように軽く笑い、それから、まっすぐに僕を見た。そこには、間抜けな飼い主と、その下撲がいた。
 「・・・and now、 re‐start.」
 ハリーは、それを走らせる。風を巻き起こし、するすると動き出す。力強く、大地を蹴る音。相変わらず、不機嫌なエンジン音。けれど、ばらつきながらも、一定のビート、音色を刻み始める。まるで傷だらけのレコードから、針が、名演奏を拾っているかのように。
 いつの間にか、機速が上がっている。素晴らしく速いスピード。瞬く間に、彩雲は、すっと浮き上がる。
 青空に吹寄せられるように、まっすぐに上昇していく。彩雲らしく、いや、それ以上の上昇力。何のためらいもなく、まっすぐに駈け昇る。
 虫のように小さく、一点の瞬きだけになった時、エンジンを止める。そこが、頂。
 昇り切った頂から、舞い降りる。木の葉のように、クルクルと・・・。駈け昇ってきた時のあのスピードがまるで嘘のように、ゆっくりと降りてくる。
 やがて高度を使い切って、水平飛行、急加速に転じる。僕らの頭上を、猛スピードでかすめていく。いっさい迷いもふらつきもない、鮮やかな加速。その加速の率直さは、何とも胸がすく思い。背筋を快感が走り抜ける。
 「この機体は、この速度域で安定する。」
 少し右翼を上げ気味に、左へ放物線を描いて、コーナリング。見ているこっちが歯を食いしばりたくなる。思わず、足を踏みしめて、重力に耐えようとしてしまう。
 「こいつは、スピードを欲しがっているんだ。」
 そして、彩雲は、再び、風を巻き起こしながら、頭上をかすめていく。
 空気は、突如、塊となり、彩雲を遮ろうとする。その強固な意志は、大地を震わせる。足の先から、頭のてっぺんまで、震えさせる。
 だが、その虚をつくように、彩雲はすり抜けていく。
 抗がうことを止めた空気が、ほっと一息つくかのように、一陣の風が、頭を撫で、頬を叩く。
 その風の強さで、彩雲の重さが異なっていることに、気づく。スピードを得たことで、重さを増している。存在感が、まるで違うのだ。
 荘厳なる大地の精霊や風の精を向こうに回して、一歩も引かない圧倒的な存在感。その重みは、突進する魂の重みそのもの。無力なる小心者は、ただ、息を飲んで見つめるしか術が無い。 そう、僕は言葉をすべて奪われていた。感動的な芸術作品や、圧倒的に美しい自然の情景を、目前にした時のように・・・。
唇は、ただ、息をすることが精一杯の道具でしかなかった。
 「スピード、スピード、スピード!」
 彼は、興奮して矯声を上げる。
 彩雲は、一直線に川を越える。その先には、夕刻の西の空。層積雲が左右に腕を組むように折り重なっていた。そして、その上空を、すじ雲が、一枚の大きな羽や、天駈ける龍のように、なだらかなうねりを描いて、天頂に向かって伸びている。
 夕刻の太陽は、今しがた、そのすじ雲の中に隠れたばかり。ふと、その輝きが、妙なことに気づく。
 黄色味を帯びた雲は夕刻だから、当然のこと。しかし、そのすじ雲の周囲が五色に彩られている。紫や青色に、幾重にも彩られた色彩のグラデーションの美しさ。この鮮やかな雲が、彩雲。この艦上偵察機の銘々の由来だ。
 彩雲とは何とも美しく、そして鋭く痛いまでの輝きなのか。あまりにもまぶしくて、僕は、またたきを繰り返す。
 古来、吉祥の兆しといわれたその情景。李白に、杜甫に、詩を詠わせた。これを吉祥として年号さえ変えさせたこともある。(平安時代、慶雲、神護景雲、がそれ。2回行われ、共に、朝廷の楼の上に現れたようだ。)江戸時代には、伝通院の上空に現れ、二刻(2時間ほど)続いたという。
 吉祥の兆し・・・そんな言い伝えを知ったのも、偵察機“彩雲”のRCを作ったから。
 だが、この目にする彩雲は、決して初めて見た彩雲現象ではない。こんな現象が彩雲だというならば、僕は、この雲を、見たことがある。
 
 あれは、数年前の今日と同じ春の日。穏やかな、風の無い晴天の日。連休に入ってから初めての5月の日。同じ雲を、僕は見ていた。あれも、吉祥の兆しだというのだろうか?
 僕は、その晩、彼の事故を知った。午後11時頃、アイルトン・セナ重態のニュースが流されたのだ。
 その時の衝撃、その後の顛末を得ての無念さは、筆舌に尽くし難い。彼は、地上を駆る戦闘機フォーミュラー・ワンの名パイロットであり、その速さは、全ての規準を書き換えてきた。彼の尊い存在は、スピードを愛する者にとって、なにものにも替え難い。
 彩雲現象が吉祥のしるしと歴史が言うなら、あの悲劇が吉祥だとでも言うのか?迷信や占いのいい加減さに、怒りさえ感じる。あれが吉祥であってたまるものか。
 
 
 ふっと、目の前を黒い大きなものがよぎる。そのものの、巻き起こす風で、僕は我に返った。まだ、充血した瞳には、怒りが回っていて、目前で起こっている事象を、素直に認識できずにいた。
 そして、また、黒い大きなものが、烈風を巻き起こして目の前を過ぎる。・・・RC機、彩雲だった。
 彼・・・ハリーと名乗る男は、地上すれすれを、猛スピードで彩雲を操っていた。しかも、僕をその中心として、円周飛行をさせていたのだ。高度は、まさに僕の目の高さ。
 コックピットを覆う風防が、陽光を受けて、時々キラリと光る。「どうだい?」とウィンクしているかのように。
 その合図に僕が気づくのを見て取って、彩雲は翼を翻す。低翼式の翼に引き込まれた足を、僕の目の前にさらけ出すが、逆光で影となる。そう、機体下部から見上げた影・・・シルエットの隙間から、陽光が後光のように八方から漏れ、溢れる。
 そして、翼をもう一度、こちらにひねり、急上昇。彩雲現象に彩られた夕景が姿を現し、彩雲は、その景色を二つに引き裂くように天頂に突き進んで行く。
 
 ふいに、エンジン音が止まり、急降下。翼端が頬をかすめるばかりの近さで目の前を通り過ぎる。熱い、あまりに熱く痛いものが、鋭く頬を切った。
 その熱さを、改めて、感じ取った時、息が荒くなっている自分に気づく。
 「よく見ておくんだ。」
 遠くで、彼の声。振り返ると、喜々としてプロポを操る彼。”楽しいです”と顔に書いてあるかのような、何とも楽しそうな表情。
 「僕じゃあない。彩雲だ。」
 そういって、また、HAHAHAと笑う。
 彩雲は僕の周りを、肩に触れんばかりに旋回している。あまりに近すぎるその距離。だが、目の前の彩雲は、点のように小さい現実のRC機ではない。それは、夢で見た大きさ、情景そのもの。
 プロペラが流す風が、そのスマートな機体を撫でていくのが感じられるようだ。陽光にさらされ、風防がクリスタルガラスのようにきらきらと輝く。
 ふいに、誰もいないはずのコックピットに人影を見つける。パイロットだ。彼が、手を振っている。僕は我が目を疑った。
確かめようと目を凝らすと、再び翼を翻す。彩雲は西の空へ上昇して行く。
 「よく見ておくんだ。・・・二度と見れないかも知れない。」
 そう話す笑顔の彼は真剣な眼差し。
 再び急降下で、僕の眼前を駆け抜ける気なのか?
 それは、危険きわまりないこと。マシン・コントロールに自信が無ければ、いや、自信があっても為せないこと。あまりにも接近し過ぎる。近すぎる。
 ミスを犯せば、いや、風の息吹が変わっただけでも、彩雲は、僕に激突する。危険で無謀な行為。恐怖で身がすくむ思いだ。
 けれど、不安は無い。彼に身を任すことへの後悔もない。
 それは、僕が、最高の瞬間にいるからだ。最高の情景を僕はこの目でみて、感じることができているからだ。彩雲が風を震わせ、突き破る衝撃を、すべての肌の細胞から感じ取ることが出来るのだ。
 打ちどころが悪ければ死んでしまうかも知れない場面(シーン)、だが、生きていなければ、見ることの出来ない情景(シーン)。叫び出したくなる。死を望んでいる人、死を恐れている人、そして、合理的な生き方しかできない人々に。
 「Do you believe me?」
 彼が呼びかける。自信のある、そして奢りの無い、とても落ち着いた中音の声。
 僕は、彼にうなづく。
 「YES!・・・Trust you!」
 だが、視線は彼へではなく、彩雲に張り付いたまま。その耳へ、HAHAHAという彼の笑い声が届き、O.K!という叫び声が聴こえる。
 その直前に空気が震えるのを感じた。空も大地も、ぴんと張りつめた極上の弦楽器のようだった。
 そして、光るものが近づく。
 光るものは落ちて来る。魂ある流星のように。突進する魂は、空気を二つに切り割いていく。
その衝撃は、音の波となり、単なる弦と化した空気を、大地を、震わせる。
その震えは耳からだけでなく、直接、肌から・・・いや骨さえも震わせて、音の波動を伝えてくる。音は波でしかない、その真実をあからさまに伝えてくる。神経細胞の末端まで、あらゆるもの全てを使って。
 そして、真実を伝える波は、凡庸なる僕の魂をも震わせる。魂は共鳴を起こす。叫び出したい衝動に駆られる。おまえは、何処にいる、何処から来て何処へ行く、おまえは何者なんだ、と・・・。
 それは狂おしく、もどかしい、心のきしみ。
 心地よい痛みの中から、僕の心は予感を感じ取る。ずっと前から、呼んでいたものがやって来る。僕は、もう、何も驚くことはなかった。これは、ずっと待ち望んでいたもの、待ち望んでいたことなのだ。僕は、もう、わかっていた。
 
 予感のする方向にそれはいた。虹色に彩られた空の中で、瞬きを繰り返しながら、突進する魂は、徐々に姿を露にしていく。空をつかみとるように翼を水平に大きく延ばし、すぐに、視界の果てまで、たどり着く。
 その悠然たる雄姿は、僕の視界から、徐々に空を奪っていく。
 目前の空を食いつくし、巨大化し、魔神となる。魔神は、鼻先の羽根を、剣のように振り回す。荘厳なる静寂の中に響きわたる風切音とエンジン音。
 魔神の光る瞳の中には、パイロットが一人見える。そう、彼だ。
 表情が硬直し、緊張の極致にありながら、目だけが爛々と輝いている。笑っているようにさえ見える。・・・彼こそが、スピードの正体、突進する魂だ。彼は、ぐんぐん、大きくなっていく。
 そのすべてが、僕の瞳を、占めた時。突進する魂は、頬をかすめていく。頬に熱い痛みが一直線に走る。ほんの一瞬の間があった。だが、それは、多分、数千万分の一秒、いや、一京分、一亥分の一秒だったに過ぎない。僕には、時が止まって見えた。すべてが荘厳な静寂の中で静止していた。動いているものはただ一つ。僕の荒ぶる魂だけだった。
 魂は、荒々しく脈打っていた。張りつめた静穏な空間を、速いビートで打ち鳴らしていた。まるで、命の炎が燃え尽きる前の、生命の輝きのように、美しい音楽を奏でていた。
 充血した頭脳の広野に広がっていく音楽。それは緩やかな魂の羽ばたき。その音楽には、眠りに落ちる間際のような、夢と見まごうような気持ちよさがあった。
 そして、時間が動きだした時、スピードの代償たる風が、激しく僕を殴りつけていた。大木が揺れるように、ゆらりと、風に引きずり込まれて倒れそうになる。僕は夢心地で、その痛みを感じていた。頬には、まだ一筋の熱いものがあった。
 風の向こうには、彼がいた。その唇がゆっくりと微笑んでいくのが斜めに見えた。重たい笑い。空が丸ごと微笑んでいるかのような、重たく、確かな微笑み。倒れこみそうになりながら、「あっ」と、僕は小さくつぶやきを漏らす。
 その時、僕らは、ともに、冒険者だった。冒険を共有していたのだ。冒険をともに望んだ。彼も、そして、僕も傍観者ではいられなかった。
 僕の傷みは彼の傷みであり、彼が痛みを感じる事で、僕もまた、痛みを感じるのだ。それを理解すること、想像すること、感じること・・・それが、僕らの冒険の形だった。
 そして、いま、その冒険が終わった。そのことが、はっきりとわかった。だから、空が笑ったのだ。僕は全身を満たす満足感で、たまらなく寂しくなった。
 
 
 
 今でも、あの時、頬を伝って流れた血の熱さを、覚えている。頬の傷は未だ癒えていない。
 この肌に感じ取ったことすべては、どうやら真実らしい。
 それなのに、僕は、まだ、未だに、あの日の出来事が現実であったかどうか信じることができすにいる。
 
 設計図を手に、川原へ駈け戻った時、太陽は既に地平に無かった。日中の明るさも、輝く空も、そして、彩雲現象も、既に消えていた。
 そこにあったのは、川へ吹き込む微かな風と、僕のしょぼくれた荷物とプロポ、それに我が愛機RC機彩雲があるだけだった。それ以外のなにものも、川原には無かった。彼は、そこには、もう、いなかった。何事もなかったかのように、すっかり消えていた。
 僕は、数刻ほど呆然と立ち尽くし、それから、川原中を走り回った。
 彼を捜して、・・・いや、彼が、ここに存在したという証を見つけ出したくて。
 捜せば捜すほどに、時は過ぎ、闇が深くなっていった。
 人里から離れた利根川の川原は、すっかり暗黒たる真の闇に包まれてしまった。対岸の街の灯りが、星のようにともる。川の真上をヘッドライトが流星のように流れて行く。
 春の暖かな日差しの名残が、放射冷却で奪われて熱が逃げる。かわって寒さが、足元から深々と降り積もる。
 「大嘘つき!」
 彼は、心底、彩雲を欲しがっていたのだ。少なくとも、僕には、そう見えた。
 「詐欺師!ペテン師!」
 だからこそ、「せめて設計図だけでも」と、僕に懇願したのではなかったのか?
 「イカサマ野郎!」
 あんなにうれしそうに、そして見事に彩雲を飛ばしていた。彼もまた、彩雲の美しい機体を愛したのではなかったのか? 国に戻って、彩雲を作りたい、彩雲を飛ばしてみたい、そのための設計図ではなかったのか?
 「何もかも、嘘だったじゃないか!」
 
 しかし、すでに、あれが現実の出来事であったという証は何処にも顕在していなかった。頬の傷痕でさえ、その成因が彼にあるという説は、僕以外の何者をも説得できなかった。幻覚であったといわれても、仕方がなかった。
 その傷も、やがては癒えるだろう。すべては、自分の胸の内に仕舞込むしかない。
 
 不思議なことに、あれから、近しい人たちに、「人が変わった」とよく言われるようになった。そして、彼らは、必ず、僕に向かってにっこりと微笑む。不満げにではなく、満足そうだし、嬉しそうだった。だから、多分、いい方に変わったのかも知れない。
 それは、きっと、彼の残していった唯一のものなのだろう。
 でも、誉め言葉として、それを言われたのだとしても、ちっとも僕は嬉しくはなかった。決して、「どんな風に変わった?」とは聞き返さなかった。敢えてそっけなく、無関心を装っていた。
 そして、あの嘘つきのたわ事を信じまいと思うのだ。
 「Do you believe me?」という残響が、耳に張り付いていてもだ。
 あの時以前に欲しかったものを、僕は手に入れたかも知れない。けれど、あの時には既に、それ以上に欲しいものがあることに気づいてしまったのだ。
 そして、彼の行為は、その時の僕の気持ちを裏切ったのだ。
 僕は、あの時、彼に側にいて欲しいと思ったのだ。あの素晴らしいドライビングを見せて欲しい。
 いや、たとえ、それが出来なくても構わない。五体満足で無くても構わない。あなたに同じ世界にいて欲しかった。あなたの見せてくれたものが真実であること、そして、何より、それを成し遂げたあなたが、一人の人間であることを、その証が欲しかった。あなたの新しい言葉が欲しかった。
 あなたがいなくなってしまった今、あなたの伝えようとしたこと、あなたの成し遂げようとしたこと、その全てが、僕にはまったく信じられなくなってしまった。
 あなたの信じた神様や、運命も、底の浅いペテンか、つくられた絵空事にしか感じられなくなっていた。
 
 今や、僕にとって確かなものは、ただ一つ。彩雲の飛ばし方だけだ。
 「スピードを欲しがっている」彩雲にスピードを与える。たったそれだけのことだ。
 あなたにとって、それは散歩気分の出来事かも知れない。けれど、腕に劣る僕にとって、それは冒険以外のなにものでもなかった。そして、どんなにささやかでも、冒険は、僕の胸を踊らせる。
 
 バンクをとって急旋回。翼が震えるようなコーナリング・スピード。翼端から一筋の白い帯が流れる。
 雨上がりの湿った空気を、雲間からこぼれる日差しが暖めている。その程良い湿り気は、肌に柔らかく、暖かい。
 空一面に広がった雲海からこぼれる日差しは、幾つもの光の筋、”天使の梯子”を地上に下ろしていた。
 彩雲は翼を翻すと、緩やかに、天使の梯子を目指して昇って行く。その陽光を浴びてきらめく翼を天上に見せつけるように。鮮やかに輝いて。
 
 

― FINISH