オフィーリアの悲劇




第一章 悲劇の現代音楽

 オフィーリアは悲しかったのです。なぜなら、彼女は「悲しい」ということがどういうことだか、どうしてもわからなかったからです。それでオフィーリアは、悲しみのあまり、毎日泣いていました。
 でも、ある日、オフィーリアは思いました。
「泣いてばかりいたら、いつまでたっても『悲しみ』にはたどり着けないわ」

 オフィーリアには双子の妹がいました。名前はオフィーディアです。
 オフィーディアは、とてもたくさんのセキセイインコを飼っていました。オフィーディアは、インコの一匹を手にとると机の上に押さえ付け、輪ゴムで「ピシッ、ピシッ」とはじきます。
 インコは「キッ、キッ」と悲しい声をあげます。

 オフィーリアは、「いつもどおりインコをはじいている」オフィーディアに、思いきって聞いてみました。
「それって、悲しいの?」
「いいえ、楽しいわ、オフィーリア。でも、これをくり返していると、インコは冷たくなってしまうの。そうすると悲しくなるわ」
「どうして?」
「だって、『ピシッ、ピシッ』があるのに『キッ、キッ』がなくなるからよ。リズムの後半が、シーンとしてしまうからよ。なんだか寂しくなって、悲しくなるのよ」

 オフィーリアは、町の水族館で、悲しそうな顔の小川さんに聞いてみました。
「魚はしゃべるんですか?」
「そりゃ、しゃべるだろう。口があるんだから。口をパクパクさせるんだから。…でも水族館の人に聞いてみよう」
 水族館の人は悲しそうに言いました。
「魚はしゃべりません。音を出すことはありますけど、『おはよう』とかそういうことは言いません」
 オフィーリアは今度は、カニの前にいました。
「ねえ、小川さん、カニは眠るんですか?」
「そりゃ、眠るだろう。目があるんだから。夜になりゃ、目を閉じて眠るだろうよ。…でも水族館の人に聞いてみよう」
 水族館の人は、やはり悲しそうに、言いました。
「カニは夜行性なので、夜には眠りせん。また、まぶたがないので、目を閉じて眠ることはありません」

 ある日オフィーリアは、悲しいことが書かれている本を探していました。
 そして、本屋さんの中を「ぐるぐる」と歩き回ったオフィーリアは、一冊の本を手にとりました。その本の装丁が気に入ったからです。なんとなく「悲しそう」だったからです。
 現代音楽の作曲家、武光徹の「時間の園丁」という本にはこんなことが書かれていました。

   色濃いアゼリア、蘭、チューリップ、すみれ、水仙、そして清楚なはなみずきの零れるように咲く白い   
  花。それらの花々が、新緑に映える地上に、絶妙な諧調は和音(ハーモニー)を生み出している。この上  
  にさらに付け加えるなにがあるというのだろう? 『音楽』と呼ばれる人間の営為が、なにか余分なもの 
  にさえ感じられてくる。このような思いは退嬰というものだろうか?

 オフィーリアはその文を読んで、「が」と「は」の使い方が、なんか変だなあと思ったのですが、まだ「悲しみ」にたどりつくには程遠い所にいたようです。


第2章 悲劇の現代映画

 ゴンちゃんは、心を込めて、一本の映画を撮りました。
「映画を撮ったよ」
と、ゴンちゃんは言いました。
「へえ、すごいじゃない」
と、ヨーコ。
「えっへん」
と、ゴンちゃん。

「どんな話なの?」
と、マミちゃん。
「誰が出てるの?」
と、フサコ。
「何がテーマなの?」
と、ヨーコ。

 ゴンちゃんは、ちょっと不安になりました。
 どうやら、映画というものは、話があって、誰かが出ていて、テーマがあるものだと、決まっているようなのです。
 ゴンちゃんの撮った映画は、空や、海や、森の、美しい表情をたくさん映しただけのもので、話はないし、人は出ていないし、テーマなんかなかったのです。でも、今さらそんなことは言えません。それでゴンちゃんは、こう言いました。
「そうだねえ。ストーリーは、ちょっと前衛的かな? 主人公は空なんだ。空は他者の悩みを全部写してしまう鏡なんだね。そんな空が、海や森と出会って一緒に旅をするんだ。その中で自分自身の問題を発見していくんだよ」
 ゴンちゃんは続けます。
「空を演じてくれたのはね、無名だけど、とても素晴しい役者さ。自分の劇団を持っていて、映画に対しても造詣が深い。それに演技力が抜群なんだ。だからどう見ても、『本当の空』にしか見えないと思うよ。だれもあれを『人が演じている』とは思わないだろう。それくらい完璧なんだ」
「へえ、すごいのね。本当の空に見えてしまうなんて。そんな役者さんがいるのね」

 ゴンちゃんは、映っているのが本当は「本当の空」であると気づかれたらどうしよう、と気が重くなりました。
「えっと、テーマ、テーマだったね。うん、これはかなり深遠なものだよ。ポストモダンの終焉を、フロイト心理学の見地からとらえてみたんだ。でもその裏には『経済人類学』の発想が見えかくれするんだけどね」
 ゴンちゃんは、自分が知っているむずかしそうな言葉をとりあえず並べてみました。

「とっても面白そうね」
と、マミちゃん。
「うん、見たい見たい」
と、フサコ。
「今から見せてよ」
と、ヨーコ。
「う、うん」
と、ゴンちゃん。

 ゴンちゃんは、なんだかとっても悲しい気持ちになりました。

 映画を撮っている時にはあんなにワクワクしたのに。
 撮り終わった時には「すごくいいものができた!」と思って、大満足だったのに。
 せっかく、心を込めて、一本の映画を撮ったのに。

 さっきまでニコニコしていたゴンちゃんは、もう、どうしてもニコニコできませんでした。

 それからゴンちゃんは、大島渚という人が、映画監督なのにニコニコしているのは、とてもえらいことなんだなあ、と思いました。
「大島渚はニコニコしていても目は笑っていない」
 ゴンちゃんがそのことに気がつくのは、もっとずっと後になってのことでした。


第3章 悲劇の現代演劇

役人A「『シェークスピアの四大悲劇』ってなーんだ?」
役人B「それは、あれだろ。シェークスピアが生まれたことと、シェークスピアが恋したことと、シェークス  
ピアが死んだことと、あれ? もう一つはなんだっけ? あ、『ロミオとジュリエット』か!」
役人A「ブーッ! みんなそこで間違うんだけどね、ほんとは四つめは『マクベス』なのさ」

警察官、鼻歌(ビートルズの、有名な、でも誰もが曲名を忘れがちな曲)を歌いながら登場。

警察官「こらこら、こんなところで悲しい話をしちゃいかん!」
役人のどちらか「誰に向かって、そんな悲しい口をきくのだ!」
もう一人の役人「ごめんなさい、ごめんなさい」
通りすがりのオフィーリア「その悲しい曲、なんていう曲でしたっけ。おまわりさん」
警察官か役人C「芝居がかった悲しい台詞は、やめてくれ」
警察官と役人Cのうち、『芝居がかった悲しい台詞は、やめてくれ』と言わなかった方「役人っていってもいろいろだからねえ。警察官だって、悲しい役人なんじゃないの?」
役人AかBかC「そいつはにせものだ! しかも悲しいにせものだ!」
オフィーリアのとなりにいる役人「ビートルスだろ、その曲」
オフィーリアから一番遠い所にいる役人か、警察官から見て、二番目に遠い所にいる役人「ビートルスじゃなくて、ビートルズだろ」
オフィーリア「誰がにせものなんですか? 悲しそうなおまわりさん」
そこにいる誰か「曲名が知りたいの? それともにせものが誰かを知りたいの? 二つも質問しちゃダメだよ」
そこにいる誰か「いいじゃないか、そんなこと。それで日本の景気がどうこうなるってもんじゃないしね。でも、なんでおまわりさんに聞くんだ! 俺の方がくわしいに決まっているのに」
誰か「こいつは、あらゆることに詳しいんだ!」
誰か「そうだ、そうだ、クリームソーダ」
誰でもいい「わんさか、わんさか」
誰でもかまわない「『警察官』が『おまわりさん』だなんて、決まってないんじゃないのか? そんなことだからダメなんだよ。こないだだって、鍵をしめ忘れただろ! いーや、俺が言いたいのはそんなことじゃない。バブルなんて本当はなかったんだ。今の不景気は『警鐘』なんだよ」
「女の子がそんな言葉使いじゃ、いけないよ」
「どうして? それに、私、何もしゃべってないわ」
「なんで貴様が女言葉なんだ!」
「貴様! 我が輩に向かって『貴様』と言ったな」
「誰が? 誰が言ったって?」
「おまわりさん!」
「『わんさかわんさか』ってなに? どういう意味?」
「『どういう意味?』だと? 意味を求めるやつは、逮捕する!」
「誰が誰を逮捕するの?」
「我が輩が我が輩をだ」
「『悲しい』がなくなっちゃったよ、いいの?」
「そんなことより、お客さん、一人もいないよ」
「そんなこと、気にしちゃダメだ!」
「客なんか気にするな!」
「そーだそーだくりーむそーだ」

オフィーリア、悲し気にうつむく。
そこにいる誰もが、オフィーリアの気持ちには、まだ気づかない。あるいは「気づかない『芝居』」をしている。

暗転。


第四章 悲劇の現代文学

 明るい。明るい。明るい。明るい。
「明るい。明るい。明るい。明るい」と四回続けて書くと、なんだかそこが明るくなったように感じられる。

 明るい。明るい。明るい。明るい。明るい。
「明るい。明るい。明るい。明るい。明るい。」と五回続けて書くと、「明」という字が、なんだか違う字のように感じられる。

 もしこれが、私だけの感覚だとしたら、上の数行を読んだ人が思うことは、例えばこういうものだろう。
「わけがわからない」

 わけがわからない時、人は悲しくなるものだろうか。もしそうだとしたら、前述した数行は、人を悲しくさせる力を持っていると言えるのだろうか。

 悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。
「悲しい。悲しい。悲しい。悲しい。」と四回続けて書いてみた。それについて私自身がどう思ったかは、ここには書かない。

 秘密にされると、人はどんな気持ちになるだろう。

「悲しい気持ちの人は、ここへ来なさい」

 「悲しい気持ちの人は、ここへ来なさい」と書いたのは、私だ。キリストではない。私、オフィーリアだ。
 私は、悲しい気持ちの人を見たいから、そう書いたのだ。見たい。そして聞きたい。「悲しい」ってどういう気持ちなのかと。
 でも、私は知っている。ここに来た人は多分私にこう言うだろう。
「あなたは何をしてくれるんですか?」

 私は何もしてあげません。
「私は何もしてあげません」そう私が言ったら、その人は悲しい顔をするだろうか。
 だとしたら悲しい顔をするのはなぜだろう。悲しいからだろうか?

「私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。私は何もしてあげません。」

 十二回も書くと、多くの人は最後のほうの「私は何もしてあげません。」はちゃんと読まないだろう。だから、実は最後のほうの「私は何もしてあげません。」が本当は「私は何もしてあげません。」ではなく、違う言葉であることに気づかない。何が書いてあるのか、わかっていないのだ。

 読み返した人は、実は「私は何もしてあげません。」がすべて「私は何もしてあげません。」であったことに気づくだろう。その人はどう思うだろう。無駄な時間と手間を使って、悲しいと思うだろうか。

 寂しい。
 悲しい。

 どちらが悲しいだろうか。

 弟が死んだ。
 妹が死んだ。

 どちらだろう。

 海に沈む。
 川に流される。

 ウサギとカメ
 親子ガメ

 オフィーリア
 オフィーディア