バー バー
HOME蔵刀一覧Q&A案内図鑑賞法等
vol.1 vol.2 vol.3 vol.4 vol.5 vol.6 vol.7 vol.8 vol.9

vol.10

刀に関するお話
刀のつくり…5
 刀のつくりについては回を重ねて述べてきましたが,vol.10と丁度決まりもよいので最後に銘について述べてみようと思います。
 茎に刻み込まれている作者の名前を銘といいますが,それとは別に年紀があればそれを裏銘と呼びます。それら年紀の大部分が銘の裏側に切ってあるためにそう呼ばれているわけです。
日本刀が完成した平安末期から室町初期までは太刀の時代であり,室町以降は打刀の時代となっていますので,それぞれ太刀には太刀銘,打刀には刀銘に銘を切るのが普通です。銘は太刀や刀を身につけたときに身体に触れない外側になるように切るのが通例ですので,太刀銘は佩表に刀銘は差表に切っています。例外としては,太刀でありながら差裏に太刀銘を切るものがあります。三条宗近は「宗近」銘のときは太刀銘に切り,「三条」銘のときは必ず佩裏に刀銘を切っています。
 打刀は差表に刀銘を切るのが普通ですが,打刀の時代の作刀であったとしても,太刀として作られたものはやはり太刀銘に切られています。ただし,例外はいつの場合もあるもので,肥前の新刀鍛冶で初代忠吉以降,この系列の鍛冶には打刀も太刀銘で切っています。 また,脇指,短刀の場合はごくまれなものを除いて通常差表に銘が切られています。
 銘の位置は鎌倉期ころまでの鍛冶は,ほとんどが佩表の目釘穴の上に棟によった位置に切っていますが,古青江鍛冶や伯耆の有綱などのように太刀でありながら刀銘に銘を切る鍛冶は,ほとんど佩裏の目釘穴の下に大振に銘を切っています。鎌倉末期頃からは長銘に,備前国長船住景光といったように切るものが多くなります。室町中期以降の刀は,目釘穴の下あるいは長銘の場合は目釘穴の僅かに上から切るものが多く,二字銘の場合は目釘穴の下の棟よりに切るものがほとんどです。新刀期に入るとほとんどの鍛冶が,刀銘で棟よりまたは鎬筋にかけて銘を切っています。
 このように,銘も時代をみるためには重要な要素なので,全てにいえることですが多くのものをみていい目を養っていただきたいと思います。
TOPへ







vol9

刀のつくり…4
 刀を鑑賞する上では刀身に隠れてしまっていますが,茎も時代や刀工を判断する上では重要な部分です。
茎の部分で大事な見所は,茎全体の形と茎先の形,鑢目などです。ここでは,茎全体の形と茎先の形について書いてみましょう。茎の形には「先細りの茎」,「雉子股茎」,「船底茎」,「たなご腹茎」,「薬研形茎」,「御幣形茎」等があります。平安末期から鎌倉初期にかけては,「先細りの茎」が全国の鍛冶に共通した形です。
 この「先細りの茎」の太刀で外装の柄に俵鋲を打つ際に,俵鋲の足に茎がかからないように刃方の部分を削り取って,ちょうど雉子の股のようにした茎を「雉子股茎」と呼んでいます。「雉子股茎」には,「先細りの茎」を直したものと,当初から雉子股に作ったものの2種類があります。「先細りの茎」を直したものは,削り取った部分の刃方の厚みが上の部分よりも厚いので判ります。「雉子股茎」はほぼ鎌倉中期を最後に見かけるようなことはありません。
 鎌倉末期から南北朝初期にかけては,相州伝系鍛冶特有ともいえる「船底茎」が現れます。室町期になると,茎先の張ったものと先細りや船底がありますが,変り種としては「船底茎」の変形ともいうべき「たなご腹茎」が,村正の一派などにみられるようになりました。
 新刀期の茎はほとんどがやや先細りの茎ですが,変わった型では繁慶一門が薬研型の茎を作っています。これは刃上がり栗尻の変形で,栗尻の刃方が極端に上がって薬研のようにみえるところから呼ばれています。また,大阪の国輝の元禄以降の作は茎の形を御幣形にしたものがあり,「御幣形茎」といいます。
 茎の形とともに重要なものが茎先の形です。「切り」,「栗尻」,「剣形」の3種類がありますが,「切り」は生ぶものには少なく,あるとした大和の保昌一派に限られています。「栗尻」は,茎尻の格好が栗の実の尻の形に似ているのでそう呼ばれています。「剣形」は,相州系の鍛冶に多くみうけられ,その形が左右均等でなく刃方のほうがよけいに削られたものを「入山形」といって室町以降の鍛冶によく見受けます。「剣形」で茎先の特に張ったものを「卒塔婆頭」といいます。
 また,茎を見るときにもう一つ目貫穴の位置が大切です。太刀の場合は区から4本,刀で指3本と言われていています。したがって,定寸の打刀で指4本以上下がった目釘穴があった場合,太刀であまりに区際によった目釘穴があった場合などは,茎を仕立て直したと疑ってもよろしいかと思います。
TOPへ







vol8

刀のつくり…3
それでは,刀の時代を判断する上で重要な事柄について書いてみましょう。
 よく文献等を見ると,この刀は沸出来だ匂出来だと書かれていることがあります。これは,刃文の種類をいっているわけですが,沸出来も匂出来も冶金学的にいえば同じものです。鋼を赤熱したものを水中にいれ急速に冷却することによって,オーステナイトと呼ばれている組織の中に炭素を強制固溶させて,マルテンサイトと呼ばれる針状組織に変化させたものです。
沸はマルテンサイト組織の粒子が粗く,肉眼で容易に識別できるもので,粒子の大きさによって荒沸,小沸などと区別しています。匂は,沸に較べると粒子が細かく,肉眼では粒子を一つ一つ区別するのが困難なものになっています。光に透かしてみると地刃の境に白く煙って刃文を形成しています。
ただし,ほとんどの刃文は沸と匂が混在しているのが通常です。それらの中で,沸がおおくみられれば沸出来,匂がおおくみられれば匂出来と呼ばれるのです。
 刃文の形そのものも「直刃」と「乱刃」の2種類におおきくは分けられています。
「乱刃」の最も古い時代のものは,自然な状態に近い不規則な「小乱刃」です。鎌倉中期になると丁子刃が流行し,「大丁子」,「小丁子」と大小の差を区別して呼び,形によっては「袋丁子」,「蛙小丁子」,「重花丁子」などがあります。「直刃」も鎌倉初期の終わりから中期にかけて初めて焼かれるようになります。鎌倉末期では,直刃か直刃に小足や葉の入るものが多く地味な刃文になってきます。互の目もこの時代に現れ,これも大きさによって「大互の目」,「小互の目」と分けられます。
また,南北朝期には「皆焼刃」が作られ室町期以降もつづき,室町期になると前述の互の目が全盛となります。室町末期から慶長・元和にかけては,相州伝の影響の色濃い出入りの激しい大互の目乱で沸づいた刃文が流行ります。
新々刀期にもなると,水心子正秀の「刀剣復古論」の影響もあり,古備前風の小乱刃や地味な互の目を焼いたものが多くみられる一方,豪壮な刀姿に相応しい華やかな大互の目を焼いたものがあったりと,両極のものがあり面白い時代です。
 これらの特徴を仔細に見ていくことによって,どの時代に作られたかの見当がつくのではないでしょうか。次回以降も懲りずに,刀のつくりについて書いてまいります。 
TOPへ







vol7

刀のつくり…2
 前回に引き続き刀のつくりについてお話しましょう。
 桃山時代から江戸時代になると,打刀が武家の正式な帯刀様式となりましたが,剣術の発達に伴い刀の使用方法がほぼ馬上での使用を想定しないものとなりました。そのために刀の反りが浅くなり,長さは二尺三寸,四寸の寸法で,反りは五,六分といったところが普通となったのです。刀の分類では,慶長以前のものを古刀,それ以降のものを新刀と呼びます。
 文化・文政以降は,当時の復古思想から,刀についても鎌倉,南北朝時代のものがいいのではないのかとなり,反りの浅い新刀も反りの深い古刀の形へ戻っていきます。こうして造られた刀を新々刀と呼ぶようになりました。しかし,全く異なった時代に,同じ様式の刀が生まれているわけですから,刀の時代を判断する時に最も過ちを犯しやすいのも,この古刀と新々刀でしょう。これらの違いを判断するには,刀の姿や形だけでは難しいので,地金や刀文などの違いを十分に知識として取り入れていないと難しいでしょう。
 また,桃山時代以降は打刀の流行から,古い太刀を磨上げ(茎を切り詰めるために銘が全く無くなってしまう「大磨上げ」,茎に銘が一部残る「磨上げ」とがあります。)て打刀に仕立て直すことが行われたのです。なにしろ,新しい刀を鍛えるのは財政的にも,また手に入れるまでの時間にしても相当なものだったでしょうから,古い太刀に手を入れたほうが早く,安く満足のいくものが手に出来たでしょう。
また,新しく鍛錬された刀も鎌倉,南北朝時代のものを模して作られたために,先ほども書いたように鑑定の上での判別を難しくしており,鑑定を行う上で一番の難問となっているのです。
 
TOPへ







vol6

刀のつくり…1
 刀を鑑賞するには,他の古美術品についてもそうであるように,覚えておきたい事柄が色々あります。
 まずは,刀の姿などの全体像を把握することが肝心でしょう。
刀剣の姿は,それぞれの時代の戦闘方法等から違ってきています。平安の時代に入るまでは,戦闘に刀が用いられる頻度が少なかったために,刀の形状としては反りのない直刀といったものが主流でした。しかし,平安も中期になると騎馬戦が多くなったために,寸法も二尺五,六寸のものが必要となってきました。また,馬上から切り下ろすといった使い方から反りのある太刀がおのずと出来あがってきたのです。この時代の反りは腰もとで強く反っていて,反りの高さは七,八分から一寸位までのものがあります。しかし,当時の甲冑はかなり隙間だらけでしたので,その隙間をねらって切ったり,突いたりすることが容易だったので,頑丈に作る必要が無く優美な太刀が作製されたのです。
 その後,鎌倉時代に入る頃までは前述の太刀でもよかったのですが,鎌倉時代中期ともなると,防御側の甲冑が強固なものになってくることに呼応するように,太刀は次第に身幅が広く,重ねも厚くなり,きっさきもおおきなものに変わっていきました。また鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては,戦乱の時が続き,武将をはじめ武士たちまでも武威を誇示するために,三尺以上もある大太刀が流行したのです。ただし,このような大太刀は大きくなったがため,必然的に重ねを薄くし,反りを浅くしなくてはならなくなっていったのです。
 そして室町時代になると,より敏捷さと軽快さが要求され,太刀の長さも反りも鎌倉中期のものが妥当なところではないかと考えるようになってきました。室町時代初期には,太刀に打刀を指し添えることが流行しましたが,室町末期になると太刀は廃れて,長い打刀と比較的短い打刀とを使うように変わってきました。それらから,打刀は最も時代を古くみたとしても室町時代以前に遡ることはめったにないことが判ります。
 次回は,桃山時代以降についてお話することにいたしましょう。
TOPへ







vol5

刀に由来する言葉…2
 今回も,前回に続いて刀に由来する言葉について少々お話しましょう。
刃の部分についてだけ色々な言葉が言われているわけではなく,刀の拵の部分などにもあります。
 例えば,「鎬を削る」ということばがあります。これは今現在も結構使われている言葉ですが,削られている鎬が一体どこなのかを知らずに使われている方もいらっしゃるのではないでしょうか。鎬とは刀の刃と棟との間の稜線のことをいいます。実際の刀での打ち合いの場合,刃と刃を合わせたときには,この鎬をつかって相手の刀の勢いを受け流したりする訳です。生死をかけて打ち合うことで鎬をけずった時代はもう過去の話で,今はいったい何を削っているのでしょう。
 また,「切羽つまる」というものがありますが,切羽とはつばの表裏にかけるもので,これがしっかりとつまって刀身がぐらつかないようになるのです。しかし,切羽がつまれば刀にはいいことなのですが,言葉の言い回しとしては逆に,身動きがとれなくて苦しい状態のことを言っています。これはどうしてでしょう。あまり切羽がつまっていると,刀身も息ができずにどうにもならなくなってしまうとでもいいたかったのでしょうか。
 現代は,人と人とのかかわり方が難しい時代になってきていますが,どうしても気の合わない人とは「反りが合わない」ということになります。刀の反りは一つ一つみな違っていて,現在の科学では別でしょうが,昔は同じ物が二つと無かったため,必然的に鞘もそれぞれ違ったものだったわけです。したがって刀は他の刀の鞘には決して収まらなかったのです。
 まだまだ色々な言葉が刀に関するものから生まれてきていますが,この件についてはひとまずこの辺で終わることにしましょう。
TOPへ







vol4

刀に由来する言葉…1
 今回は刀自体の話から離れて,生活の中でよく使われている刀剣に由来する言葉についてお話ししましょう。
 普通の会話の中で,刀剣の用語が使われていることを一々気にはなさらないとおもいますが,その数が結構多いことに驚きます。
人は誰でも,自分を良く見せようとしたがります。本当にわが身のものになった知識や技術なら良いのですが,まだまだ身になっていない場合を「付け焼刃」と言います。素延べ(刀鍛冶が刀の形に鉄を延ばしてゆくこと)をして刀の格好に整ったたら,土取りという作業を行います。これは,焼刃土というどろを刀身一面に塗り,刃になる部分だけ薄くどろを拭います。刃の刃文(刃の表面に見える白い模様)はこの土取りにより,刀鍛冶が得意とする形に創り出すのです。このどろが乾いたら炉に入れて焼き,具合を見計らって取り上げて水中に入れ「焼き入れ」を行います。焼入れした刃文は決して消えるようなことはありませんが,刃文を研ぎや薬品などで作ろうとするとすぐはげてしまいます。このようなところから,付け焼刃では通用しないと言われているわけです。
 焼刃に関係する言葉は他にもあります。焼き入れをしすぎてしまいかえって切れない刃にしてしまったときには,「焼きがまわる」といわれ,昔は相当な人物であったとしても,齢を重ね衰えてきてしまい,俗にいうボケとなった場合はこのように言われてしまうのですが,できればこのようないわれ方をされないようにしたいものです。
 さらに,リンチとかの場面で使われる「焼きを入れる」という言葉も,先に述べた「焼き入れ」からきているわけですが,語源からすればあまり歓迎される使い方ではなく,その場面には遭遇したくはありませんね。
 また,刀の刃に由来するもので「地が出る」という言葉もあります。刀を鍛えるときには,表面には硬い鉄(皮鉄)を,内側には柔らかい鉄(心鉄)を使い,よく切れるが折れたり曲がったりしないしないという相反する事柄を解決しています。このようにして出来上がっている刀を研ぎ減らしてしまい,心鉄を出し内側に隠されていたものをさらけ出してしまった様子を「地が出る」といっているのですが,自分も地が出ないように注意してゆかなければと,この部分を書きながら気を引き締めているところです。
TOPへ







vol.3

乕  徹
 刀剣鑑定家のいましめに「乕徹とみたら贋物と思え」というものがあります。それほど乕徹の贋物が世の中に氾濫しているのです。これは江戸の昔からあったもので,「時代贋」といわれていましたが,現代の贋作に比べると相当に幼稚なものでした。
 刀剣には乕徹に限らず贋物が非常に多いのですが,なかでも古刀では正宗,新刀では乕徹と津田越前守助広が贋作の数からいえば横綱でしょう。贋作がおおいのにはそれなりの理由があります。乕徹の場合は,刀の切れ味がすこぶる良いということと,刀身にほどこされた彫り物がとても美しいこと等でしょう。
 乕徹は元来は。越前福井の甲冑師でした。泰平の世の中になってくると,甲冑を持つ必要がなくなってきてしまったために,乕徹は刀鍛冶に転業することを決意して江戸に出たのです。
大方の職業で,中年から転業して大成するのは甚だ難しいものです。しかし,乕徹が当時の平均寿命からすればすでに老境の域に達しているのにもかかわらず,名工がひしめく江戸で甲冑師から刀鍛冶に転業し,名工と呼ばれるに至ったことは感嘆に値するものです。
 乕徹という名は,当初は「古鉄」と書いていました。これは,古い鉄から甲冑,刀剣を造るところから表わされたものでしょう。しかし,親の敵の虎とみて一念込めて放った矢が,岩に刺し通ったという中国の故事から,名刀を鍛えようとの願いを込めて「虎徹」と改名したとは,一般に言われていることです。古鉄入道の時代についで,「ハネトラ」と呼ばれる「虎」の字を用いた虎徹時代をへて,寛文4年(1664年)以後は「乕徹」の文字を用いて,「ハコトラ」呼ばれています。
 乕徹の作に「石灯籠切」と添え銘のある刀があります。これは旗本の久貝稲葉守の愛刀でした。
稲葉守は愛刀家で,乕徹の名声を聞き及び一刀を注文しました。やがて出来あがってきた刀を見ると,いかにも姿が悪く,やや不満の色をみせました。刀を持参した乕徹はそれを見て,出来あがった刀を手に庭に駆け下り,松の大枝を切り落としました。その時に,力あまって松の木の下にあった石灯籠も真っ二つにしてしまいました。それを見て,稲葉守は自分の不明を詫び,その刀に「石灯籠切」と銘をいれさせて秘蔵したと伝えられています。
TOPへ







vol.2

鬼丸国綱
 「鬼丸国綱」の太刀ですが,これはもと北条時頼の愛刀でした。国綱は山城国栗田口派の刀工で,国友,久国,国清,国安,有国ら六人兄弟の末弟で,藤六左近将監と称していました。久国,国安,有国は後鳥羽院の番鍛冶として召されていますが,一説には国綱も「正元の番鍛冶」と呼ばれて名高い刀工だったそうです。それが鎌倉幕府に召されて鎌倉鍛冶開拓者の一人となったのです。
 『太平記』に「鬼丸」の話しが出ていますが,これは北条時政の愛刀の話しです。
時政が夜な夜な夢の中で,小さな鬼の為に苦しみ悩まされる続け,いかなる加持祈祷も一向にその験がない日々が過ぎていきました。ところがある晩,太刀が老翁となって現れ,「自分は常に汝の身を護っており,悩まされている妖怪をも退治しようと思うが,汚れた人の手で握られたために刀身に錆が出てしまった。抜こうとするけれども,それが為に思うにまかせない。妖怪を退けようと思うなら,刀の錆を落としてくれ。」と告げました。そこで早速に刀の錆をぬぐわせ,鞘に入れずに枕元の柱に立てかけておきました。
時政の部屋に置いてある火鉢の脚は,銀で造られている小鬼の手で支えられているように出来ていました。ふとそのことに気づいた時政が火鉢を引き寄せたところ,柱に立てかけてあったこの太刀がにわかに倒れかかって,火鉢の支えになっている小鬼の首を見事に切り落としてしまったのです。
その後は妖怪に悩まされることもなくなったので,この鬼が元凶だったと判り,この太刀の霊威を称して「鬼丸」と命名し,重代の太刀としたといわれています。ただし,この太刀の作者については,「奥州宮城の郡の府に,三の真国という鍛冶,三年精進潔斎して,七重にしめを引き,鍛うたる剣なり」とあり,国綱の作とはありません。
TOPへ







vol.1

安  綱
趣味の世界には,書画や写真画の鑑賞,盆栽や草木の鑑賞など深い味わいのあるものがあります。しかし,ここに特異なものとして刀剣愛好という趣味の世界があります。
 かつては武器としての使命を帯びて生まれた刀剣が,何故平和な今日においても趣味の対象として愛好珍重されるのでしょう。理由は色々とありますが,その中でも大きな理由は,過去数百年或いは千年近い日本の歴史を紐解いて,それぞれの時代に活躍した歴史上有名な人物の,時には栄華に酔える英雄の傍らに,或いは悲しいロマンスの主人公と最後を伴にした歴史上の事柄を体験し,それを無言裡に物語るかのような刀の姿にノスタルジーを覚え,人々が興味をそそられることです。また,刀剣の姿そのものの美しい曲線,地鉄の精美,刄文の変化の絶妙さに心を奪われることではないでしょうか。
実際に日本刀の美しさをに接していると,その刀身からも拵の美的芸術的感覚からも,これが過去において武器であったのが不思議に思われるくらいです。
 
 ここからは,刀剣にまつわる色々な事柄を書いてゆきますので,参考にしていただければ幸いです。
先ず日本刀で最古のものといえば,備前国(岡山県)に包平,白耆の国(鳥取県)に安綱,豊後国(大分県)に行平といったところです。これらはいずれも平安時代(約850年以前)の人たちで,現存する在銘のものでは最古のものでしょう。
 白耆国安綱という刀鍛冶の作品には,古来有名なものでは童子切と異名のある刀剣があります。
これは,元子爵松平康春家の秘蔵刀だったが,ご多分にもれず戦後の経済難で手放され,現在では国の所有となっています。源家の大将摂津守頼光が家臣を従えて,当時丹波国は大江山に住む赤鬼(実はシベリヤ方面からの難破船で流れ着いた異邦人だと言われています)の掠奪暴行を鎮圧した事件が大江山酒顛童子赤鬼退治の真相といわれていますが,この物語に活躍した頼光が山伏姿に身を変えて彼らの本拠地に乗り込み,一刀のもとに鎮圧した刀がこの安綱(童子切)との説です。
現在では,国宝に指定され,当時からの健全な姿をそのままに,今日全国の愛刀家垂涎の的になっています。
TOPへ

HOMEへもどる