柳生一族の真実

JUBEI's Top  Tomita's Home

柳生一族の人々。
柳生三厳
柳生宗矩
柳生友矩
柳生宗冬
柳生宗厳
柳生利厳
柳生厳包
柳生藩
柳生家
柳生荘
月之抄

柳生三厳 1607-1650
慶長十二年(1607)柳生宗矩の長男として、大和国添上郡柳生(奈良市柳生下町)に生まれた。 母は松下之綱の娘。通称は七郎、のちに十兵衛。 早くから新陰流兵法を修め上達した。 元和五年(1619)徳川家光の小姓となり、やがて家光が新陰流を学び始めると、三厳はその相手を務めて寵遇された。 しかし何故か(ホントに何ででしょうね)寛永三年(1626)に家光の勘気に触れて致任した。 その後赦免されて再び出仕するまでの十数年間は、ほとんど柳生の地で新陰流の事理に関する研究に従事していた・・・ということになっている。

気に入られていたのにはっきりした理由が分からず追い出され、次に江戸に出るまでの11年間に柳生で行っていたのが兵法の研究・・・ということで、「その間は実は隠密として暗躍していたんだ!!」という説を生むわけですね。

寛永十四年(1637)に江戸に出て、父宗矩の直伝を受け、また自分の兵法論一巻(月之抄?)をまとめて呈出し、印可を得た。寛永十五年(1638)赦免され、書院番に列す。 正保三年(1646)、宗矩が没すると家督を継ぎ、遺された領地(一万二千五百石)のうち八千三百石を受け継いだ。 残り四千石は宗冬が受け継ぎ、柳生氏は一時大名から旗本となる。 慶安三年(1650)三月二十一日、知行地内の山城国相楽郡北大河原村弓ヶ淵(京都府相楽郡南山城村)での鷹狩中に急死。享年四十四歳。 法名は長岩院殿金甫剛大居士。 柳生の中宮寺に葬られる。 現在、墓は奈良市柳生下町の芳徳寺と東京都練馬区桜台六丁目の広徳寺とにある。

柳生宗矩 1571-1646
元亀二年(1571)、大和国添上郡柳生(奈良市柳生下町)に、柳生宗厳の五男として生まれた。 母は興原助豊の娘。 通称は、はじめ新左衛門、のちに又右衛門。 文禄三年(1594)、徳川家康の側近に仕え、関ヶ原の戦(1600)に功あり、戦後柳生氏の旧領二千石を与えられた。 また、若年から父に学んで新陰流兵法(剣術)を修めていたため、慶長六年(1601)徳川秀忠にこの術を伝え、千石加増された(=三千石)。 また、元和七年(1621)からは徳川家光の兵法師範を命ぜられ、その後その重任に応えて心を砕く。 寛永六年(1629)三月、従五位下但馬守に叙任される。 寛永九年(1632)十月には三千石を加増(=六千石)され、また同年十二月には総目付(のちの大目付)となり、大名以下諸士の監察その他の激務に従事した。 寛永十三年(1636)八月、四千石加増(=一万石)で大名となった。 寛永十六年(1639)九月に家光に新陰流兵法印可の書を呈し(これ、映画版柳生一族の陰謀の最後に宗矩が出したやつだね。)、翌寛永十七年(1637)に五百石加増(=一万五百石)、その後さらに二千石を加増されて、一万二千五百石となる。 正保三年(1646)三月二十六日没。享年七十六歳。 法名は西光院殿大通宗活大居士。 下谷の広徳寺(現在は移転して東京都練馬区桜台六丁目)に葬られる。 死後、従四位下を追贈された。

柳生友矩 

柳生宗冬 1613-1675

柳生宗厳 1529-1606
(石舟斎)

柳生利厳 1579?-1650
兵庫助

柳生厳包 1579?-1650
連也斎

参照文献
・国史大辞典

とみたのホームページへ
裏柳生のかくし部屋へ

ご意見ご感想などは こちらへお気軽にどうぞ。
1998.5.13. Last Update.