武将 服部半蔵(半三)正成

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略歴

天文十一年(1552)生まれ。徳川家康と同年。生まれは伊賀。
父親半三保長が、三河松平に、三代(清康、広忠、家康)にわたり仕えたことから、彼も若くから松平家に仕官する。

16歳にて宇土城夜討の際、伊賀者を従え戦功をあげ、槍を賜る。
(と資料にあるが、歴史的に矛盾しているところあり。調査中)
永禄十二年(1569)遠江国掛川城攻、元亀元年(1570)姉川戦等に参戦。
元亀三年(1572)、三方ヶ原の役で、敗戦のなかながらも戦功を上げる。
やはり槍を賜り、伊賀者百五十人を正式に裁量する身となった。
天正十年(1582)、本能寺の変の際、和泉堺にあった家康を守って、難所の伊賀を越えた事は有名。
その後、天正十二年(1584)蟹江城攻、同十八年(1590)小田原役などに参加。
結果として、十八年の家康関東入国の後、遠江国に八千石を知行。
与力三十騎、伊賀同心二百人(伊賀越えに参加した者)を支配する。
またほぼ同時期に、江戸城半蔵門前に屋敷を与えられる。
(というか、半蔵の屋敷が近かったので、半蔵門と呼ばれるようになった。)

慶長元年(1596)十一月四日死亡。享年五十五歳。法名西念。
麹町の安養寺に葬られる。安養寺は後に西念寺と名を変え、現在は四谷にある。
「鬼の半蔵」と異名を取り、家康の十六将の一人に数えられている。

エピソード1・信康切腹の事

家康の嫡男信康が、信長の不興を買い切腹を申しつけられたとき、半蔵は介錯役を命ぜられた。
しかし、結局彼はその役が果たせずに、同行した者が、代わって介錯した。
これについては、主君の息子をどうしても手にかけられなかった忠義者として賞賛もされたし、信康を手にかけて家康の怒りをかうのが怖かった憶病者と、ののしられもした。
どうとるかは、その人次第。

エピソード2・伊賀越え

現在調査中。

半蔵正成の子供たち

正成には二子、正就、正重があった。2人とも別名を半蔵又は半三という。
正成の死後、正就は五千石と二百人の伊賀同心、正重は三千石を受け継いだ。
ともに石見守を号す。

正就は、家康の異母弟・松平隠岐守定勝の娘を妻に迎える。
しかし、地位の高い妻を娶ったことをかさにきたりするなど器量が狭く、部下からの信望が得られなかった。
理由は定かでないが、慶長九年(1604)に家康の「御勘気」を食らってしまい、領地配下は、舅の松平定勝にあずけられた。
元和元年(1615)、大坂冬の陣で失地回復を図ろうとするが討ち死にしてしまう。

正重は家康のすぐ近くに仕えていたが、やがて妻の父親大久保長安のもと、佐渡で働くようになる。
寛永十八年(1641)に舅、長安が死んだ際、故人のあまりに派手な贅沢ぶりがとがめられた。
長安の息子とともに、正重も言いがかりをつけられて罰せられ、三千石は取り上げられた。結局流浪の身となり、その後は不明?。

こうして、「八千石の服部家」は断絶した。

で、ドラマの中の「二代目」は、年代や経歴から正重の方。
正就くんは、完全に無視ですか。かわいそうに。

半蔵正成の父、半三保長

現在調査中、


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1997.11.4. Last Update.