シュリ
 カン・ジェギュ 映画
冒頭の訓練風景、この映画は只者ではない!という予感を与えられるも、その後のいたずらに過剰なアクションにより「ふ〜ん、がんばっとるねえ」という落ち着きを取り戻すに至る。この時点で、意味もなくPC春商戦に思いを巡らす。タバコが吸いたくなる。

が、しかし、それはラストにおける感動の大爆発に向かう収束でしかなかった。

一見、香港映画にありがちな近距離における銃の向け合い。
『レザボア』もやってた。『ケイゾク』もやってた。『シュリ』にいたってはこれで都合3回目のシチュエーション。
「はいはい、わかったよ」と残り上映時間を逆算してみる。

しかし、ついにヒキガネはひかれた。

言葉も交わされない、画のみでグングン押し寄せるメッセージ。
全てが集約されていた。
僕はこんなに涙もろかったのか?
全てを帳消しにして余りあるラスト。
同じ民族同士が銃を向け合うことへのメッセージ。
正解もなく、どうすることもできない社会へのメッセージ。
そして、
映画は写真であることへのメッセージ。
口で説明されることがいかに愚かな事なのかというメッセージ。

それらのメーッセージを僕は受け取り、全てに胸を撃ちぬかれました。
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あらを探せばいくつも指摘することはできましょう。ヒロインの持つ悲哀で言うなら『ニキータ』の方がツボでしょう。しかし、この映画が果たした、あるいは今後果たすであろう貢献に想いを巡らすと、そんなことは問題ではなくなるのです。少なくとも僕にとっては。

戦争というものが引き起こす様々な悲劇。それを表現しようとする時、戦場を舞台にすればダイレクトに伝わります。

負傷した兵士。
累々と横たわる死体。
泣き叫ぶ子供。

「戦争は悲惨だなあ」そう思うでしょう。あくまで記号として。
そう、それらのことは、最早敢行事例でしかありません。いかにリアルな戦場シーンを創り出したとて、戦争ドキュメントにかなうはずもありません。やたらとヤクザを出したがる日本映画のように安易で手っ取り早い表現方法なのです。クリエイターの名を冠する者、そこはもう一ひねりして欲しいところ。
また、言いたい事を一方的にブチまけていては単なる自己満足になってしまいます。相手に聞いてもらう「おもてなし」をしてこそのエンターテイメントでありメッセージ。
『シュリ』は、メッセージを娯楽として昇華させることに成功した、類稀な作品だと僕は思います。アクションとラブ・ストーリーの衣を着せて。
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この映画を評する言葉で「韓国映画にしては」という前置きをよく目にします。確かにハリウッドを意識した創りになっているのだからいたしかたない。しかし、この映画はテーマパークのアトラクション要素満点の昨今のハリウッドには、到達することのできないインパクトがありました。保険やマーケティングを考慮した娯楽と、メッセージを伝えるための娯楽では与える力が違って当然といえば当然ですが。

全ての映画にメッセージがなければならない、とは思いません。しかし、伝えたいことが明確にあるならば、それをいかに伝え、受け取ってもらうかが作品の要なのではないでしょうか。
『シュリ』はまさにアメとムチ。娯楽とメッセージ。
それをなし得た作品が韓国、ひいてはアジアで創られたということは、これ以上はない喜びであり、励みであり、武者震いなのです。
日本の映画製作も少なからず影響を受けることでしょう。
いえ、そう願います。

ただし!
「あれだけのものが3億で撮れるんなら韓国で撮ろう。」
はナシですよ。
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00/02/14
 
 


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