BATMAN RETURNS
 ティム・バートン 映画
ティム・バートンの手がけた作品には、主役であろうと脇役であろうと「行き場の無い者」にスポットがあてられることが多い。行き場の無い者−Nowheremanは、社会に組み込まれずに疎外感を感じているが、一芸に秀でた能力を備えていて、劇中、人生の桧舞台に上るチャンスを与えられる。しかし彼らは、必ずと言っていいほど行き場の無い終幕をむかえるんよね。

「結局、自分のことを理解してくれる者など、どこにもいないのだ」

そう、彼らは決して理解してもらおうと努力することはない。他人が理解してくれるのを待ってるだけなんよ。「自分もまっとうな者にないたい」というポーズを見せてはいるけど、理解してもらえない状況が、逆に彼らのナルシズムに貢献し、より一層孤立していくんよね。もう、なんでしょう、人としていかがなものか?って感じがするけど、僕はこういったキャラにめっぽう弱いんよ。

『あしたのジョー』『グレートブルー』『ゴッホ』もそういった意味で、かなり共感を覚える作品で、やっぱり、行き場の無い者は行き場の無いまま終えるのが美学なんじゃろうねぇ。彼らにとっての安息の地は、往々にして破滅的なもんであったりするし・・・・・
『BATMAN RETURNS』での舞台、ゴッサムシティは、Nowheremanたちのハキダメだ。その最右翼、ペンギンが僕の心を掴んで放さない。

ゴッサムシティの聖なる夜、とある夫妻が自らの子を下水路に流す。揺りかごの子は、泣き声を残してポッカリと口を開けたドス黒い下水管に飲み込まれる。エルフマンのサウンドトラックは聖厳なコーラスから、マガマガしい奏でに転調し、揺りかごはゆらりゆらぁり下水を下っていく。キャメラが揺りかごを見送ったところで巻物調に広がるメインタイトル。幾百の蝙蝠が散り散りに飛び交いテーマが最高潮を迎えたとたんマーチが高鳴る。なっ、なぜにマーチ!?震えがきた。経験したことがないから分からんが、女性がSEXで得るエクスタシーみたいなもんだ。もう、穴という穴が半開きだ。
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やがて大人になったペンギンは、Nowheremanとしての人生をマットウしていくが、これまた御多分に漏れず、スポットを浴びる時が訪れる。
しかし、魚を生でむしゃぶりつき、唾液を吐き散らしながら悪事を働くその姿は、観る者の共感も同情も得られない。
もはや、バートンにすら見放された(?)かのようなペンギンは、悲劇街道をわき目もふらず突き進む。
自らの兵隊、ミサイルペンギンによってBATMANを貶めようと企むが、兵隊を結び付けていたものが「信頼」ではなく「機械の力」であったが為に、逆にBATMANに利用され、窮地に落とされる。一味のウグイス嬢が暗闇にフェードアウトする演出は、ペンギンの閉ざされた未来を象徴していて美しいが、当のペンギンは、いよいよ寄る辺も身よりも無い、この世にただひとりきりの、異形の者なのだ。

しかし、バートンは彼を見放してはいなかった。
これより先は、実際に作品を観て、ペンギンの行く末を見守ってほしい。そこであなたは、ペンギンに捧げたバートンの、極上の愛に触れることができるだろう。
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かように、上野聡一に強烈なハウリングをもたらすこの作品。この興奮を伝えたくてペンを走らせてはみたが、いくら力説したところで上野聡一と同じ体験をしない限り分かってもらえるはずもないと、Nowhereman精神にのっとったムナシサを覚えなくもない。

では、なぜにこういった俺色の濃いコメントを書き連ねるのか?どこかにいるであろう同類に向けて発信しているのか?自分の存在を認めてもらいたいからなのか?伝えるという行為そのものが孤独からの脱却ならば、どれだけ伝え続ければ孤独は払拭されるのか?されるはずがない。他人とは理解し合えないのだから。

こうして、Nowheremanは我を忘れることではなく、我に逃げ込むことで現実逃避を繰り返し、我の世界を築き上げてゆく。しかし、そこから産み出される作品は皮肉なことに世の称賛を受けることさえある。それは、彼らが良きにしろ悪しきにしろ中途半端ではないからであろう。突き抜けているからであろう。ある意味純粋であるからであろう。

まっ、そうは言っても現実社会で「どうせ俺のことなんか・・・」とか言ってるヤツがいたならば、「甘ったれるな!」と、つねってやるとこだけどねっ。中途半端だぞっ、俺。
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ティム・バートン公式サイト(英語)
99/07/12
 
 


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