Fallen Mandane

■第00回 暑い夏の過ごし方
■第01回 吾はいかにしてSFファンと成りし乎
■第02回 たそがれに還る
■第03回 SFと「私」
■第04回 SFと「私」その2
■第05回 小松左京『女シリーズ完全版 旅する女』光文社文庫
■第06回 桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』富士見ミステリー文庫
■第07回 安野モヨコ『監督不行届』祥伝社
■第08回 吾妻ひでお『失踪日記』イースト・プレス
■第09回 奥泉光「ボルヘスを読んで小説についてあらためて考える」

 ■第00回 暑い夏の過ごし方 

 私は重度の汗かきのうえ屋外での仕事に就いているので、夏場はいつも地獄を見る。
そんな私にとってSF大会は夏に残された唯一の希望である。「大会があるまでは〜、大会があるまでは死ねない〜」と念仏のごとく唱え続け夏をやり過ごすのだ。

近年、海の日を利用して7月下旬に大会が催されることがある。それはそれで一つの見識とは思うが、勝手を言わせてもらえば、私はあまり好きでない。7月下旬、関東地方はまだ梅雨明け前だ。大会終了後の虚脱状態で炎天下に放り出されてみろ。支えるものが何もない。

その場合、私は9月下旬頃に刊行される本のことを思い浮かべ「○○が出るまでは〜、○○が出るまでは死ねない〜」と呪文を唱えることにしている。ただし○○には刊行が確実な書名を代入すること。「『ワイルド・カード』の4巻が出るまでは〜」などとやると、かえって虚脱感が増すので注意が必要だ。


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 ■第01回 吾はいかにしてSFファンと成りし乎

 桐生祐狩『小説探偵GEDO』を読んで、なぜ自分はSFを読み続けているのかつくづく考えてしまった。もとより少し考えただけで回答が得られる問題ではない。しかし理由はともかくSFを読み始めたきっかけだけは説明できる。広島在住の親戚がいたからだ。

小学生のころ私はこの親戚に洗脳されて広島カープのファンだった。当時はカープの黄金時代で毎年のように巨人とペナントを争っていた。自然、アンチ巨人となる。そのとき図書館で見つけたのが漫画家の故・畑田邦男編集による『アンチ巨人読本』だった。そこに横田順彌のハチャハチャSFが収録されていたのである。巨人一辺倒の球界を皮肉った近未来SFで(いま読むと風刺が鋭すぎてある意味笑えない)これがめっぽう面白かった。

『アンチ巨人読本』を返しに行った私は司書に尋ねた。「横田順彌という人の本、他にありますか」。そして恐ろしいことには、当時出ていた横田順彌の著書のほとんどが図書館の棚に並んでいたのである。

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 ■第02回 たそがれに還る

 SF大会が終わった。

 毎年、大会から帰ると言い知れない虚脱感に襲われるのだが、近年は特にひどい。年齢による体力の衰えが一因なのだろう。十代の頃は徹夜で騒いでも一晩眠れば回復できたが、今は疲れが翌日、翌々日に時間差で攻撃を仕掛けてくる。体調がよくないから精神もふさぐ。精神がふさぐと食欲も衰える。食欲が衰えると体調もさらに悪化する。悪循環だ。

加えて、ネットにある大会レポートリンク集なるものがいけない。いや、作った方は全く悪くないのだが、あそこから色々なレポートに飛んでいると、脳内時間が大会の時点まで巻き戻されてしまうのだ。下手すると半日くらいパソコンの前に貼りついている。

しかし意外なところから脱出の手段を見つけた。実はいま、2件ほどお金になる原稿を引き受けていて、締切が9月上旬から半ばにある。その仕込みのため数冊のSF小説を読んでいるのだが、読んでいる間が最も心やすらぐ。後ろ向きの思考をせずに済む。SF大会の後遺症には、SFが一番らしい。アル中の人間をクスリ漬けにしただけのようにも思えるが、気にしない気にしない。

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 ■第03回 SFと「私」

 『SFマガジン』11月号を手にとって驚いたのは石川喬司氏の短篇が掲載されていることだった。自分を主人公に日本SFの来し方を振り返る、私小説かエッセイと呼んでもいい作品である。

同じ号の『Jコレクション』総括特集で、鏡明氏はJコレクション作品の特徴のひとつとして「私」を挙げている。SFとは本来、人類の行方のような「大きな物語」を扱うもので、それが「私」探しを主題にするようになったのは、ライトノベルを経由したこのジャンルの新潮流だと。

両者は矛盾している。鏡説が正しいとするのなら、なぜ、ライトノベルを経由していない(はずの)石川氏は、「私」を素材にしたSF小説を書いたのだろう。

この矛盾に対する私なりの仮説はあるのだが、今は書いている時間がない。続きは次号で。

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 ■第04回 SFと「私」その2

 前回の続きです。日本のSFに「私」はあったのか、なかったのか。

もう一度、鏡明氏のJコレクションに関する論考を読み返して思ったのは、私は鏡氏のように「大きな物語」と「小さな物語」を二項対立的に考えてはいないのだということ。むしろ両者の界面にこそSFはあるのではないかと、漠然とながら感じているのだ。

乱暴を承知で言うと、今ある日本のSFは、少なくとも敗戦体験なしには成立しなかったと私は考えている。小松左京氏が自身の戦争経験を書きあぐねている時にSFという方法論に出合い、「地には平和を」を書いた挿話など、いかにも象徴的だ。同じことは半村良の作品についても言える。敗戦=国家の滅亡という「大きな物語」に対し、個人=「私」=「小さな物語」が接した時、一種の処方箋として機能したものがSFだったのではないのだろうか。(書いているうちにまとまらなくなってきた。この項、続けられれば続く)

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 ■第05回 小松左京『女シリーズ完全版 旅する女』光文社文庫 

 思うところあって、ここにはとりあえずSF絡みの書評(のようなもの)を書くことにした。縛りなしであっち行ったりこっち行ったりというのが、自由なようでいて実は一番ネタ探しに苦労することに気付いたからだ。読む方も辛いだろうし。

と、いうわけで新装開店第1回は、小松左京の『旅する女』。

文章がいい。
『女シリーズ』の魅力は、結局そこに尽きるのではないだろうか。
小松左京の文体は、織田作之助、開高健などに通じる、脂っこい、いわば関西系饒舌体とも呼ぶべき系譜の中にあるのだが、ここでは扱う題材のせいか、脂臭さが不思議と抜けて、ある種の静謐さを獲得している。極論を承知で言うと、もはやここでは何が語られているかは問題ではない。語る声調それ自体がすでに気持ちいいのだ。 だが、随所に凝らされた作者の技法の冴えもまた見逃してはなるまい。SFはもとよ り怪談、ミステリ、恋愛小説、リドル・ストーリー……。小松左京といえば、代表的 長篇では言いたいことを言うために構成や完成度をも犠牲にする傾向があるのだけれど、本書では、やはり彼も一流の「小説家」であることを再認識できる。

作中で披露される小松の女性観は、古いと言ってしまえば古い。しかしそれだけの理由で、こんなにも上質の小説を読み逃してしまうのは惜しい。

ジャンルを問わず、よい小説を読みたい向きにお薦めしたい。

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 ■第06回 桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』富士見ミステリー文庫

 最近、私の周囲では桜庭一樹ブームが起こっている。
複数の知人から勧められたので読んでみた。

可愛らしい表紙と文庫本でわずか200頁という薄さ。だが内容は見かけに反して重く、厳しく、救いのない話である。主人公は地方都市に住む女子中学生。父を災害で失い、母のわずかな稼ぎで生活している。彼女は中学を出たら進学せず、生きるため自衛隊に入ろうと決めていた。そこへ転校してきたのが、地元出身の有名ミュージシャンの娘だった。主人公は娘の奇矯な言動に巻き込まれ、陰惨な事件に直面させられる。

本書で繰り返し対比されているのが「実弾」と「砂糖菓子の弾丸」である。前者は生きていくために必要な事柄や力、後者はまったくそういうことに役立たない諸々のメタファーだ。大人は「実弾」を持っているが、主人公たちのサイド、つまり子供は「実弾」を持っていない。だから大人から「実弾」を撃たれても「砂糖菓子の弾丸」で応戦するしかないが、それでは勝敗の帰趨ははじめから決まっているも同じだ。主人公は「実弾」の有用性に気付いているものの、実際には「実弾」を持たないため事件の前では傍観者であることを強要される。

汚い大人にはなりたくない式の、どこまでもだらしなく感傷的に堕す可能性のある話だが、そこを救っているのは主人公のストイシズムである。彼女は大人に敗北することと、敗北を感傷的に正当化することを峻別し、後者を拒絶する。「砂糖菓子の弾丸」では大人を撃ちぬけない。真実である。しかしその認識ゆえに、本書は大人の肺腑をもえぐる実弾たり得ているのだ。

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 ■第07回 安野モヨコ『監督不行届』祥伝社 

 著者名とタイトルからおおよその見当がつく通り、安野モヨコが、庵野秀明との結婚生活を赤裸々に描いたエッセイ漫画である。

著者自身もオタクだと述べてはいるものの、小学生のころアニメファンだったという程度、今ではお洒落やインテリアにも気を遣う立派な社会人になりおおせた……つもりだった。しかし相手は「『日本のおたく四天王』と呼ばれ」「自らの力でウルトラマンになった男」である。その結婚生活たるや、もう……。

結婚生活に関するエッセイ漫画というのは、えてして私のような独身者には縁のないジャンルだったりするのだが、本書は違う。縁がないどころか身に覚えのありすぎる エピソードが詰め込まれていて、時には指摘のあまりの鋭さに読みながら赤面さえしてしまう。

巻末にはGAINAX・神村靖宏による詳細なオタク用語解説が付されている。しかしネームに引用の誤りを見つけると我慢できなかったらしく、コマの隅にも色々と「神村チェック」が入っていて、これがまたいかにもオタク的ビヘイビアの典型で苦笑を誘われる。

全体的な流れとしては、妻が夫にどんどん洗脳されオタク化していく——というものだが、よく見ると、最初はボサボサ頭でブクブク太っていた夫が、次第に身綺麗になり痩せていく様もちゃんと描写されている。夫は夫なりに妻に感化されているのだ。
このあたりの微妙な手綱さばきが、人間ドックや家捜しといった作中で描かれるリアルなネタと相俟って、本書を近年みだりに目につくオタクの自画自賛漫画とは一線を劃すものにしている。
(文中敬称略)

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 ■第08回 吾妻ひでお『失踪日記』イースト・プレス

 もうあちこちで語られているから詳しい説明は不要だろう。あの吾妻ひでおの、漫画による自叙伝である。

細部が光っている。ゴミ箱から食べ物を漁るコツであったり、配管工事の基礎知識や仕事のごまかし方であったり、アル中病棟の日課であったり、そうしたところの描写 が実にさりげなく、だが生き生きと描かれていて、読者の好奇心を刺激し作中に誘い込むフックになっていると同時に、本書の読みどころとなっている。

吾妻がこういう細部を漫画として描き得るほどに自分の内部に刻み込んだのは、生きるため半ば状況に強制されてのことであったろうが、30年近い漫画家としての職能訓練の結果もまた活かされていたのではないか。

彼は「夜の魚」などの作品に見られるように、内面に、暗く、本人にさえ制御不可能な妄念を抱え込んだ漫画家である。そのことを一概に否定はしない。

しかし本書に「夜の魚」的なものは皆無である。描かれている吾妻と描いている吾妻の間には一線が引かれ、前者がどれだけ精神的破綻を来していても、後者はあくまで明晰でテクニカルである。

吾妻はその作風と経歴ゆえ時に伝説の漫画家とも呼ばれ、読者からは熱い思い入れと共に語られることが多かった。私自身、十代の頃は古本屋を回って当時すでに多くが絶版になっていた吾妻作品を集め、果ては行きつけの喫茶店に押しかけサインをせがんだくらいだから思い入れがないわけがない。
だが「不条理日記」による最初の熱狂から四半世紀が過ぎ、そろそろ読者も頭を冷やして吾妻作品に勝手にまとわりつかせた「伝説」を取り払い、ひとりの漫画家としてもういちど読み直しその技量を吟味する頃合が来ているのではないか。本書の刊行は、ハヤカワ文庫での旧作の再刊と共に、そうした動きを促すものと本書を読了して反省しつつ認識した。

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 ■第09回 奥泉光「ボルヘスを読んで小説についてあらためて考える」

 奥泉光が昨年9月に立教大学で行った講演の再録が載っているので、『すばる』5月号を買った。

この講演のキモとなっているのが「全体性」という言葉である。
奥泉によれば、文学の働きのひとつに個人における「全体性」の回復というものがある。いちど「全体性」から離れた個人が、もういちど「全体性」を獲得し直すのが物語の持つ作用だというのだ。

問題はその「全体性」の内実だ。それは多くの場合、家族から国家までを含む「共同体」と重なってくる。ここで奥泉が例として挙げているのが最近流行の純愛物語なのだが、私なりに卑俗な例を考えてみると、勘当息子の里帰りなんてケースなど直感的に理解しやすいかもしれない。

だが、と奥泉は言う。ボルヘスの作品の持つ「全体性」とはそれとは別物なのだ、と。
ここから先は、私がヘタに要約するよりも、実際に読んでいただいた方がいいだろう。
しかしこの人にインタビューしたときも痛感したのだが、奥泉光という作家は、小説について明晰で簡潔でありながら、読者の側で考え出してみると実に奥の深い言葉を口にできる人だ。

小説というものを考えたい人には、一読を勧めたい。

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