私は双葉社のゲームブックが好きです。

 これは、大抵のゲームブック好きな方には「私はゲームブックファンではありません」という
意思表示と同義であるように思われます。
 名作を挙げろと言われたら創元推理文庫の一連のシリーズ、「ソーサリー」シリーズや
あるいは「ドルアーガの塔」、そして何より「ファイティング・ファンタジー」シリーズを
挙げるのが普通でしょう。
 もちろんこれらのシリーズも素晴らしいものであるとは思います。
 それでも。
 私はこれらよりも「双葉社冒険ゲームブック」の方が好きなんです。

 理由を探すのは難しいのですが、敢えて言葉にするとすれば前者は「ゲーム的」すぎたと
いうほかありません。
 「ゲーム的である」という表現のニュアンスを伝えるのは困難を極めるのですが、
語弊を恐れずにひとつ言うならば「ゲームは『解かれる』ことを前提にしている」ということです。
 その意味でいわゆる名作ゲームブックは「ゲーム的であった」、と。
 物語を読ませることよりもゲームとして解かせることを優先しすぎた。
 そしてそれは、私が「ゲームブック」に求めた要素ではなかったのです。

 通常、双葉社のゲームブックシリーズに与えられる評価は「ファミコンゲームの
ノベライズばかり」「世界が薄い」「子供向け」「システムが甘い」といったところでしょう。
 その通りであるとは思います。
 原作があり、簡単で、読み易く、「ゲーム」としてはB級の域を脱し得ない作品が多いのは事実です。
 しかし、それこそが私にとってゲームブックの魅力に他ならないのも、また確かなのです。
 私が「ゲームブック」に求めたものは「ゲーム」としての楽しさではなく、選択肢という扉を通して
「物語」に介入する楽しさだったのですから。
 
 物語を読んでいて、考えたことはありませんか?
 「どうしてこいつはこんな選択をするんだ。こうすればもっと幸せになれるのに!」
 この感覚こそが、私が「ゲームブック」に見出した魅力そのものです。
 決して自分自身が物語の主人公になるのではなく。
 主人公に感情移入し、より良い終末に向けてその行動を選択していく。
 自分はどこまでいっても物語世界の登場人物にはなれないけれど、「世界」に関わることは
できるのです。
 大げさに言えば、「世界の未来」を創りだせる。
 だから、ハッピーエンドにしよう、と。

 自分自身が主人公と体験を「共有」する。
 それは、自分が「主人公になる」ということと同義では、決してありません。
 自分は「世界」の外側にいる。
 だからこそ、物語を「物語」として楽しむことができるのだ、と。
 そう思っています。

 その意味において、双葉社のゲームブックシリーズは私の求めるものを忠実に
提供してくれました。
 ここには明確な「主人公」がいて、それは一つの人格として描かれ、自分の言葉を語り、
自分の感情で動きます。
 それは「私」が「主人公」であることを明確に否定することであり、また「ゲームブック」が
「ゲーム」であることよりも「物語」であることを、より強く選択するものでした。
 目の前に世界を提示するのではなく、物語を提示した。
 それこそが他の「名作」とは一線を画する点であり、ある人にとっては堪え難い欠点であり、
そして私にとっては何にもかえがたい長所なのです。

 だから私は、こう宣言します。

 私は、双葉社のゲームブックが好きです。



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#追記

「展覧会の絵」「送り雛は瑠璃色に」が真の名作であるということに関しては全面肯定ということで。
そんな私が好きなのは「ヤマト魔神伝」だったり。