現状雑感。 これは世界と自分とのスタンスの物語なのだ。 受け止めきれるか。自分に。 世界とは自己の主体認識におけるそれではなく、すべての主体によって認識される「世界」の集合。 己と己の外側ではなく、己を含めた空間を外側からみた光景。 思惟生命体であれば。 純粋意識であれば。 あるいはそれを認識することが、可能かもしれない。 想いが世界を変えるチカラ。 むしろそれが、「癒し」ではなく。 自分を肥大化させた末の世界変容ではなく、世界を肥大化させた結果としての同一化、としたら? 己を卑小化するということではなく、世界を「世界」の集合体と実感できる力とすれば。 世界と自己の完全同一視を成し得るとすれば、自己が世界となると同時に、世界は自己となる。 「世界」の集合である世界を(自己の「世界」を含めて)、「自己」と同一視すること。 世界とのゼロ距離。 均一化。 それこそが共感能力とすれば。 空論か。 しかしその上で選んだのが、たったひとりの「同族」であるとすれば、やはりこの世界に根源的な価値を見出せなかったこととなる。 結びつくこと、に実利的価値以上の何かを見出すか。 終末の結びは未だ掴めず。 或いはその追求に大した意義を見出せぬか。 しかし。 構造的な意味合いはどうでも良い。 ただこのセンテンスが気になる。 「とりあえずは、どこかに」 この意味はおそらくロジカルではあるまい。 といって構造主義的なエモーションで割り切れることでもないと直感する。 これはもっと、そう、インスピレーションに頼った部分に拠る。 Sense、か。 戻る