セレスティンによる現世否定は、ある一面において絶対的に正しかった。
 それは但し、決して最上解ではなかったことも忘れてはならないが、それでも彼の提示した「世界」の
あり方は決して間違ったものではない、紛れもない「正解」であった。
 最上の解とは無論「すべてが幸せである世界」であることは疑いないが、この世界観においてそれは
天上界においてすらなされていない。
 理想郷は何処にも存在しない。少なくとも現段階においては。

 セレスティンの提示した「世界」とは、「すべてに平等に機会が与えられる世界」であり、それは「すべて
が幸せである世界」に対して無力であるが(何故なら彼がこの「世界」を提示した理由こそが、正にその
最上解へ至る階梯としてのものであったに他ならないのだから)、それでも「一握りの先天的な不幸を
内包しながら大多数の幸福が保証される世界」に対しては圧倒的に正しい。
 それは例えば天上界であり、また地上界が至ろうとする道の先でもある。
 それはまさしく「神(この場合の「神」の定義は無論、一神教的な意味合いにおいての絶対神、或いは
造物主としての主神を指す)のしろしめす秩序」のあり方であり、それを否定する彼の主張は「神」の「力」
に対する反逆者(その意味でセレスティンが新世界構築の方法論として提示したのが「力」であったこ
とはは皮肉であるが、「機会をつかむもの」が「力持つもの」と置換し得るならば、それは正しい。
 何故なら「機会を平等に与える」とは「幸福を平等に与える」ことでは決してないのだから)という刻印を
押されたとしても、その輝きを本質的に失うことはない。
 何故なら、「神」は常に「間違っている」からである。

「神」は「造物主」であると同時に常に「試すもの」であり、試すという行為は「常に正解を否定しつづける」
ことに他ならない。
 「試されるもの」にとって、提示された命題に対して出したすべての答えは、唯一無二の「正解」である。
「たった一つのの正解を定める」というのは自己の論理で「他のすべての正解を否定する」ことであり、
「試すもの」は本質的に誤りを内包している。
 それでもなお「神」が非難されないのはひとえに彼が「造物主」たることに依存するが、造物主と被造物
者の絶対的な上下関係に自明性など本来存在しない(その根拠を「力の差」以外に求めることは出来ず、
それは常に下克上の可能性を孕んでいることからも絶対性を保証し得ない)ことを鑑みても、この世界
において「神」を絶対視する理由が単純に「秩序の維持」に起因することは明らかである。
 現状に対して不満を抱かぬものは無くとも、変革を望むものは異端視される。
 変革とは世界の再構築であり、今ある価値観の崩壊である。
 現在の価値観によって構築されたヒエラルキーの上部に位置するものにとってそれは「悪」に他ならず、
そして変革とは決して上から為されるものではない。
 その意味において「神のしろしめす秩序によって構築された世界」、つまり「試され続ける世界」を否定す
るセレスティンがその「力」を示すことによってのみ新たなる「世界」を提示し得たのは必然でもあった。
 それはマクロな意味合いにおいての「世界」にとって、ひとつの「正解」であったのだから。
 
 セレスティンがその行動で示したのは「犠牲を容認する現世の否定」であり、それは「今を作り出した昨日」
「誤りの拡がる明日」を決して容認しない姿勢であった。
 彼の計画が最終的に意図しない方向で収束した原因は、その方法論としての「力」の不足ではなかった
だろう。
 彼の想いの出発点は「たったひとりの純粋な女神を汚さぬ世界を創る」という、そのこと自体は本質的に
ベルダンディーの示した祈りと同質のミクロなものであった。
 それが転倒を起こした結果としてマクロな世界の「正解」を求めたのであって、永い間月に凍りついていた
彼自身の想いは、既にその主張と乖離していたのかもしれない。

 他方、ベルダンディーによって「現世」の肯定が成されたのであるが、この場合の「現世」とは純粋に「己の
周りを構成する世界」、つまり主体にとってのミクロな「世界」であったことを見逃してはならない。
 ミクロではあってもそれがその主体にとって「たったひとつの世界」であることは、それがたとえ女神であっ
たとしても疑い様の無い事実である。
 それは「護りたいと想う世界」が拡がる限り、そして「護り抜ける力」の及ぶ限りにおいて成立する、紛れも
無い「世界」である。
 その「世界」に対する「正解」はその主体の想うところに依存し、そしてその「想い」を否定することは誰にも
出来ない。
 たとえそれが、「犠牲を容認する世界」を肯定することであっても。
 進歩的希望は「進むための力」であり「進むべき方向を誤らないための道標」であるが、それ自体では「今
ある世界」を救えない。
 そうであっても、それを理解していても、その上で選ばれた「ミクロな世界にとっての正解」を否定すること
は決してできない。
 
 ベルダンディーは「世界を護る」と宣言したが、それは女神としての使命感ではなく、或いはヒロイズムへ
の傾倒でもなく、それがいわば結果論としての世界愛であったことは異論の無いところであろう。
 彼女が提示したのは「今を護り抜く」という、素朴ともいえるほど純粋な、そして小さな願いである。
「今」とは「今につながる昨日」を含む、「今から始まる明日」であり、同時に「世界」とは彼女にとってのミクロな
「世界」であるが、その全面肯定に対するひたむきな祈りの結晶として存在したのが「世界を護る」という言葉。
 そしてその方法論として彼女が示して見せたのが「愛」であり、それは己の周りにある小さな世界を護ろうと
する想いであった。
 が、彼女の女神ゆえの強大な「力」によって成立したのは「現世」と置換し得るほどの広大無辺な「世界」。
 それゆえ結果的に「世界愛」とも見える形でそれは現出したのである。

 女神と神と、そして「神」はそれぞれの「世界」をもって対峙した。
 そこに住まい、それを想うものが選び取ったのは、変わらない「世界」。
 遅々とした歩みと、不器用な足掻きによって構成された世界。
 裁きという名の理不尽と、祝福という名の沈黙を与える「神」の創り出した、今。

 すべてに安息をもたらして、物語は幕を閉じた。
 それでも。
 それでも思わずにはいられない。
 世界の歪みを認め得なかった、ひとりの神の「答」を。
 その「世界」の先にあるものを。
 
 主よ、人の望みの喜びを。



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