吉原・周辺遊里関係年表

この年表は書き直し中の『新吉原』の一部をなす項目ですが、ある程度まとまった(というか、どこかで区切りをつけないときりがない)ので、暫定的ながら公開することにしました(2000/05/11)。元吉原などを追加(2000/06/08)。書き直し見本(テキスト)
天正
(1573.7.28〜1592.12.8)
[天正13(1585)]
大坂の神崎、蟹島、江口、阿波座、三軒家、難波島などの遊女屋が認許される。
[天正17年(1589)]
京の柳町に廓ができる。公許された廓の始まりとされる。ただし、足利義満が金閣寺を造営した応永4(1397)、京の東洞院七条下る地に廓・九条の里が公許されたという説もある。
文禄
(1592.12.8〜1596.10.27)

慶長
(1596.10.27〜1615.7.13)
[慶長5(1600)]
一説に庄司甚右衛門、鈴ヶ森に茶店を張り、関ヶ原に出陣する家康と家臣を遊女8人で慰安。
家康、江戸市中の遊女屋を認許。
[慶長6(1601))]
品川に遊女屋ができたとされる。
[慶長7(1602)]
京・柳町の廓、三筋町に移転。
[慶長10(1605)]
江戸城普請に伴い柳橋が馬場御用地になり、この辺の遊女屋、元誓願寺前へ移る。元誓願寺前は現在の京橋〜日本橋のあたり。この後、遊女屋の者、遊郭設置を幕府に陳情するも不採用。
[慶長17(1612)]
庄司甚右衛門、傾城街の設置を幕府に陳情。陳情書の中で、このころ、全国に公認遊郭20ヶ所余あるとしている。
[慶長期(1596〜1615)]
慶長の前半ごろか、江戸の風呂屋に湯女現れる。垢かき女と呼んだ。爪で垢をかく。
武江年表の記述「この頃、傾城屋、定まりたる廓はなく、所々に散在す。麹町八丁目に十六、七軒、京六条より来る。鎌倉河岸に十四軒、駿河弥勒町より来る。大橋の内柳町に二十余軒、慶長十年に元誓願寺前へ引越す。大橋は今の常盤橋にて、柳町は今の道三河岸の事なりと云ふ。是れ普通の説なれど、『事跡合考』、今の京橋具足町の東、葦沼の汐入りを築き立て、傾城町とす。其の地取ろ丸くして、南の片側をすみ町、北の片側を柳町と名づけ、中一筋の通りを中の町と名づくと云々。この説によれば、慶長の頃の傾城町は、京橋の柳橋にや」。
武江年表の記述「この時世、風呂屋湯女はやり出す。……『落穂集』に云ふ、風呂屋江戸所々にあり。朝よりわかし、晩は七時(午後4時ごろ)に仕舞ひ、昼のうち風呂に入る人の垢を流し候湯女も、七つ切り(同)に仕舞ひ、夫(それ)よりは身の仕度を調へ、暮れ時に至り候へば、風呂の上り場を用ひたる格子の間を座敷にかまへ、金の屏風などを引廻し、火を燈(とも)し、件の湯女は衣服をあらため、さみせんをならし小歌やうのものをうたひ、客集めをせしなり。右の風呂屋木挽町あたりにも一、二軒ありしと云々」。
元和
(1615.7.13〜1624.2.30)
[元和3(1617)]
3月、江戸に遊郭の設置が公許される(元吉原)。
夏、葺屋町で遊郭の建設、始まる。
[元和4(1618)]
11月、元吉原、遊女屋17軒、揚屋24軒で営業を始める。
武江年表の記述「甚右衛門、渾名をおやぢといふ。吉原開発の事にあづかりしもの皆壮年なり。甚右衛門は四十に越えたるをもてかくはいへりとぞ。親仁橋(おやじばし)も元吉原道路のため、願ひて掛けたるなり」。庄司甚右衛門は江戸町1丁目で西田屋を営む。吉原の初代名主。
[元和6(1620)]
日本堤築かれる。
寛永
(1624.2.30〜1644.12.16)
[寛永3(1626)]
10月、京橋角町から遊女屋が移転して角町つくられ、吉原五町が完成。
年季奉公の期間を10年に延長。
一説にこの年、江戸の四ツ目屋開店。
[寛永6(1629)]
女歌舞伎禁止(男の相手をするようになったため)。若衆歌舞伎に移行。
[寛永12(1635)]
このころから風呂屋繁昌し、賑わっていた吉原への客減りはじめる。
[寛永14(1637)]
3月、湯女制限令。3人以上置くのを禁止。
11月中旬、10月25日に起きた長崎・島原の乱に出陣するため、宮本武蔵が馴染みの新町(京町2丁目)河合権左衛門抱えの雲井を訪れ、武蔵を見ようと太夫、格子が多数仲之町に群集。雲井は局女郎。局女郎は格子と端の中間とされる女郎。ちなみに揚屋を通すのは格子以上。吉原大全記述「局といふは大内官女の居所の名なり、しかれば女郎の居所をすべて、つぼねと称すべきはづなれど、河岸につとむる女郎をいふ」。
[寛永17(1640)]
4月、ある武家屋敷に仕えていた伊丹右京という美少年(16歳)、男色の意地により、同月、同藩の細野主膳という者を殺害。主君の命で浅草慶養寺で自刃。そのとき、右京と男色の契りのあった同藩舟川采女という美少年(18歳)も一緒に自害し、このころの語り草となる。
秋、幕府、吉原の営業を昼だけに制限。
京・三筋町の廓、朱雀野の嶋原に移転(嶋原遊郭。東西99間、南北123間、6町からなり、周囲に幅1間半の堀をめぐらす)。
[寛永18(1641)]
春、幕府、遊女が大門の外に出るのを禁止。元和3年の吉原開設許可以来、太夫3人を給仕(のちの芸者のような仕事)差し出す習慣も終わる。評定所に行く太夫は前日から客をとらなかった。
[寛永19(1642)]
長崎市中に点在していた女郎屋を丸山町、寄合町に集め、遊里化。
この年、吉原、遊女屋125軒、揚屋36軒。遊女数、太夫75人、格子女郎31人、端女郎881人、計987人。
 →格子女郎の区分は寛永期にできた。
『あづま物語』刊行。「吉原細見」のはしり。太夫、はし、かぶろ、たいこもちなどの語が出ている。
[寛永21=正保元(1642)]
11月18日、庄司甚右衛門死去。69歳。
[寛永期(1624〜44)]
湯女風呂流行。とくに神田佐柄木(さえき)町、雉子(きじ)町の続きにあった丹前風呂が有名。丹前は堀丹後守屋敷の前という意味。
正保
(1644.12.16〜1648.2.15)

慶安
(1648.2.15〜1652.9.18)
[慶安元(1648)]
2月、湯女制限令。
5月、湯女制限令。
 →湯女を3人に制限するもので、実行力は薄かった。
5月、若衆狂いを禁止。
この年、遊里で果し合いをしたら死損にするというお触れが出る。旗本奴、町奴らが吉原内でよく喧嘩をしていたための措置。
[慶安5=承応元(1652)]
6月、湯女制限令。3人に。
[正保・慶安期(1644〜52)]
このころの遊女区分、太夫、格子、端、局女郎、切見世女郎。
承応
(1652.9.18〜1655.4.13)
[承応元(1652)]
11月、江戸市中の湯屋、風呂屋の終業時刻を決める。
[承応2(1653)]
神田丹前(丹後守屋敷前)の風呂屋の湯女・勝山、旗本同士の刃傷事件に連座し、吉原送り。明暦3年太夫に。勝山は勝山髷、外八文字を始めたとされる。勝山は湯屋と吉原との間、一時、故郷に帰っていたらしいが、明暦3年の湯屋廃止で吉原送りになったという説もある。
京町三浦屋の総巻、花川戸助六の後追い心中をする。吉原で起きた心中の最初とされる。
[承応3(1654)]
初代高尾現れる。妙心高尾、あるいは自分の子どもを抱えて道中したので子持高尾という。
明暦
(1655.4.13〜1658.7.23)
[明暦2(1656)]
10月、町奉行、浅草日本堤か本所への吉原移転を指示。吉原、日本堤への移転を決定。
[明暦3(1657)]
1月、振袖火事により吉原全焼。2月上旬、沙汰があり、その地で小屋掛け営業。
3月ごろ、新吉原の建設始まる。
6月14〜15日、葺屋町の小屋を引き払い、遊女ら今戸、山谷、新鳥越へ引っ越して、同地の農家で仮宅営業。徒歩、屋形船などで行く遊女の姿に人々が目を見張る。
6月16日、湯女を置いている湯屋の停止命令。江戸市中で廃業した湯屋は約200軒。しかし、湯屋はその後茶屋となり、湯女の後身の茶立女が春をひさぐ。
8月中旬、新吉原が営業開始。湯女は全員吉原へ。
[明暦期(1655〜58)]
たぶん新吉原のとき、西田屋抱えの遊女・誰哉(たそや)、揚屋からの帰りの四ツ(夜10時)過ぎ、何者かに殺害される。以後、用心のため、各通りに誰哉行灯設置。西田屋は吉原名主・庄司甚右衛門とその子孫の見世。大見世ではなかったらしい。
勝山、外八文字を考案。旗本の丹前法(京では六法)を真似て考案したというが、このころ八文字はまだなかったという説もある。
このころ、清掻きは三味線だけでなく、唄も歌われていたらしい。
万治
(1658.7.23〜1661.4.25)
[万治元(1658)]
九郎助稲荷設置。今戸村の百姓・九郎吉の息子の九郎助が畑の中にあった稲荷社を吉原に移したもの。九郎助稲荷は黒助稲荷などとも書く。ただし、九郎助稲荷は元吉原開設当初からあったとする説もある。千葉九郎助という者の屋敷内にあり、田の畔(くろ)稲荷と崇められていたのが元吉原開設とともに移転されたという。九郎助稲荷は縁結びの神として、他の3つの稲荷より信仰厚く、のち、八朔の日に祭礼が行なわれ、ねりものや俄(にわか)などが出た。毎月牛の日も縁日で見世物が出た。俄狂言は安永〜天明ごろ考案された。
[万治2(1659)]
12月5日、三浦屋の高尾(二代目)死去。戒名・転誉妙身信女。辞世・さむ風にもろくもくづる紅葉哉。万治3年とする説もある。万治3年説は仙台藩主・伊達綱宗が高尾を体重と同じ重さの金20貫で身請けしたが、島田重三郎という情人がいて意に従わなかったため、芝の下屋敷に舟で連れていく途中、三股(隅田川の両国橋と永代橋の間、西岸寄りにあったデルタ地帯)のあたりで吊し斬りにしたというもの。歌舞伎化されてるが、吊し斬りの事実はない。伊達綱宗は伊達正宗の孫で、不身持ちとお家騒動により、同年、隠居させられた。
[万治期(1658〜61)]
このころの太夫風俗、櫛、笄、簪などささず。
このころの揚屋19軒。
寛文
(1661.4.25〜1673.9.21)
[寛文元(1661)]
8月、吉原へ行くのに馬・駕籠の使用を禁止。しかし、実際は元禄ごろまで馬が利用されていた。駄賃は日本橋や飯田町より大門まで並200文、錺(かざり)白馬348文。浅草御門より大門まで並132文、錺白馬248文。いずれも馬子は2人で小室節を唄う。
[寛文3(1663)]
11月26日夜、吉原、市中の茶屋の取り締まりを幕府に陳情するも証拠を持ってこいと言われ、この日の夜、18人が鉄砲洲、三崎、築地の茶屋を急襲、茶屋の主人・善右衛門と抱えの茶立女・小太夫ら3人を引っ捕らえて番所に差し出す。茶屋側は取り戻そうとして刃傷沙汰に。
[寛文4(1664)]
日本堤南側五十間道との間に泥町(のちの田町)開かれる。
[寛文8(1668)]
3月、茶屋が取りつぶし。江戸市中の売女(茶立女)多数捕まり、江戸町2丁目を分け、堺町、伏見町を設置し、ここへ売女を入れる。これが散茶女郎になる。これにより市中の売女、一時一掃。湯屋時代、牛台を置き、及(ぎゅう=若い衆)が客引きをしていたのに倣い、以後、吉原の散茶見世から牛台が使われるようになった。「お茶を挽く」という語も散茶にかけてこのころから使用。
[寛文期(1661〜73)]
このころの遊女風俗、髪は立兵庫が多い。
大溝の幅5間。
三弦、小唄、浄瑠璃などを語る太夫が多い。なかでも江戸町勘左衛門抱えの因幡の浄瑠璃が有名。
新吉原初期の揚げ代、太夫90匁、60匁、37匁。格子26匁。呼出し散茶梅茶30匁。散茶金1分。局5匁、3匁。それ以下銭100文、1匁。
延宝
(1673.9.21〜1681.9.29)
[延宝3(1675)]
散茶女郎の人気沸騰し、太夫・格子がお茶を挽くばかりに。散茶は客を振らないと持て囃された。
[延宝4(1676)]
11月7日(異説12月)、江戸町2丁目湯屋桐屋市兵衛方から出火し、西風にあおられ、新吉原初の全焼。遊女12人焼死。三谷、箕輪周辺に仮宅。
[延宝6(1678)]
絵師・菱川師宣による『吉原恋の道引』刊行。描かれている客のほとんどは中間を伴った武士。
[延宝7(1679)]
三浦屋抱えの小紫、情夫だった白井権八の処刑を知り、自害。
[延宝期(1673〜81)]
桶伏せは延宝期以前になくなったとされる。
天和
(1681.9.29〜1684.2.21)
[天和2(1682)]
11月、江戸市中の私娼取締令。
[天和3(1682)]
このころ、三浦屋抱えの太夫・二代目薄雲全盛。
[天和期(1681〜84)]
大名や旗本などがせっせと吉原に足を運んだのはこのころまで。ただし、以後も武士の客は多かった。
このころの遊女風俗、打掛けの上から帯をして外出。下駄ではなく草履を履く。太夫の髪は兵庫。新造は玉結び、禿は奴島田。
貞享
(1684.2.21〜1688.9.30)
[貞享元(1684)]
このころの太夫の四天王、彦左衛門の吉野、三浦の高尾、山本屋の利生、九兵衛の夕霧。
[天和〜貞享]
このころの揚屋、20軒。
元禄
(1688.9.30〜1704.3.13)
[元禄2(1689)]
このころ、太夫3人、格子57人、端418人、散茶1000人余、次女郎1300人余。
[元禄6(1693)]
11月、幕府、大名、旗本の吉原通いを禁止。
[元禄7(1694)]
11月26日、大門口の高札立て替え(文言の改め)。その後の立て替えは、正徳元年(1711)、延享3年(1746)、文化3年(1806)の三度。
[元禄9(1696)]
12月14日昼に近いころ、下野(栃木県)佐野の百姓・佐野次郎左衛門の吉原百人斬り事件起きる。佐野次郎左衛門は江戸町2丁目大兵庫屋庄右衛門の抱え遊女・八橋にぞっこんだったが、八橋には情夫がいたためなびこうとしないので、同町2丁目の茶屋・立花屋で八橋の首を刎ね、屋根や物干しづたいに逃げ回った事件。以後、茶屋や遊女屋の二階の物干しがなくなる。
[元禄11(1698)]
9月6日、一説に本所吉田町の夜鷹が始まったという。この日、数寄屋橋より出火し、風にあおられ千住まで焼失したその焼け跡に小屋ができ、夜な夜な女がやってきて泊まっているところへ、若い者がつれづれの慰みに争って買ったのが始まりという。
[元禄13(1700)]
7月、三浦屋抱え太夫二代目薄雲、350両で源六に身請け。薄雲は信州埴科郡鼠宿出身、猫好きで知られた。
8月、吉原通いに辻駕籠の使用が許可される。以前よりたびたび使用禁止のお触れが出たが、守られず、幕府が折れた格好。
[元禄期(1688〜1704)]
八朔に遊女が白無垢を着る習慣始まる。江戸町1丁目巴屋源右衛門抱えの太夫・高橋が瘧(おこり)で臥せっていたとき、馴染み客が来たので白無垢を着たまま揚屋に向かった姿が色っぽく、それを真似たもの。
このころ、吉原に井戸がなかったので紀伊國屋文左衛門が数百両投資し、揚屋町の尾張屋清十郎の敷地内に井戸を掘り、また仲之町の端に呼び井戸を掘ったので、その場所を水道尻と呼ぶようになったとする説があるが、これは誤り。
 →享保5年参照。
このころの揚げ代、太夫昼37匁、夜37匁。格子昼26匁、夜26匁、局3匁、4匁、5匁。散茶金1分、20匁。
元禄中期ごろより、紀文(紀伊國屋文左衛門)、奈良茂(奈良屋茂左衛門)が吉原を豪遊。吉原大鑑によると紀文は2300両を投じて「大門をとぢて、上中下の女郎裏表の茶やにいたるまで、惣仕まい(借り切ること)いたすべし」、また当時の川柳に「大騒ぎ五丁に客が一人なり」といった豪遊ぶり。ただし、紀文が一人で吉原を総仕舞いしたことはなかったらしい。豪遊が行なわれたのは宝永初年までの約10年間。
宝永
(1704.3.13〜1711.4.25)
[宝永元(1704)]
日本堤南側の泥町、町地として認可。のち田町と改称。明和期まで編笠茶屋があった。
[宝永期(1704〜11)]
道中のさい、2人禿の太夫が現れる。以前は1人。
正徳
(1711.4.25〜1716.6.22)
[正徳元(1711)]
7月、大門口の高札改まる。
[正徳3(1713)]
3月、幕府、二挺立て、三挺立ての猪牙舟を禁止するも効果なし。
[正徳期(1711〜16)]
このころの遊女風俗、櫛、笄をさすようになる。髪は古来兵庫、島田、勝山。禿は奴島田。腰巻は白が多い(後世は赤がほとんど)。草履。
このころ、三浦屋の太夫は2人禿で道中、全盛の格子も2人禿だが、ほとんどは1人禿。菱屋の若紫だけしばらくの間3人禿。
享保
(1716.6.22〜1736.4.28)
[享保2(1717)]
この年、揚屋14軒。
[享保3(1718)]
10月、飯盛女、旅籠1軒につき2人と決める。
[享保5(1720)]
吉原に井戸がないことを嘆いた揚屋町の揚屋(尾張屋)清十郎、箕輪の秋葉権現に祈り、自らの敷地内に井戸を掘ったところ、清水わき出す。
いわゆる遊女3000人の頂点に「揚屋の六美人」が君臨。揚屋の六美人は、京町三浦屋四郎左衛門抱えの高尾・薄雲、江戸町山口七郎右衛門抱えの音羽・白糸・初菊、京町三浦屋甚左衛門抱えの三浦。
庄司勝富(本名・又左衛門。庄司甚右衛門の6代の孫)、吉原の歴史をつづった『洞房語園異本』を著す。同書は類書中もっとも歴史や風俗が正確で詳しいとされる。
同書記載の全国の遊女町、「武陽浅草新吉原、京都島原、大坂瓢箪町、伏見夷町(しゅもく町ともいふ)、同所柳町、奈良鳴川(木辻ともいふ)、大津馬場町、駿州府中弥勒町、越前敦賀六軒町、同国三国松下、同国今庄新町、泉州堺北高洲町、同国同所南津守、摂州兵庫磯の町、石見塩泉津稲町、佐渡鮎川山崎町、播州室小野町、備後鞆蟻鼠町、芸州多太海、同国宮島新町、長門下関稲荷浜、筑前博多柳町、肥前長崎丸山町、薩州樺島田町、同国山鹿野(寄合町ともいふ)。右都合二十五所」
[享保7(1722)]
8月、市中の私娼を禁止。
この年、徒歩新宿の旅籠1軒で1人、飯盛女を置くことを許可。
この年、揚屋11軒。
[享保10(1725)]
庄司勝富、町奉行・大岡越前の命により吉原の歴史をつづった『新吉原由緒書』を提出。
[享保12(1727)]
一枚摺りの地図の吉原「細見記」が横本形式になる。
[享保13(1728)]
7月、仲之町に灯籠を出す。角町中万字屋の玉菊が享保11年3月29日、25歳で死去し、この年が三回忌なのでお盆中、その追善のため仲之町俵屋虎文、揚屋町松屋八兵衛などが始めたもの。以後、7月1日から12日までは仲之町の茶屋が揃いの提灯を吊し、13日から晦日までは各見世が思い思いの提灯を吊した。ただし、玉菊の追善は誤りとする説(『嬉遊笑覧』)があり、玉菊の等級も不明。
この年、太夫11人、揚屋7軒。
細見を兼ねた洒落本「両巴巵言」刊行。
[享保16(1731)]
10月、万字屋又右衛門のところの京の島原遊郭より下した遊女が大人気に。以後、京阪下りの遊女を抱えた見世が増える。
この年、町奉行が岡場所6ヶ所を「売女御免の場所」(認許化)にしようと検討するも吉原反対し廃案という説。
[享保18(1733)]
この年、太夫4人、揚屋6件。
[享保20(1735)]
8月、幕府、大名、旗本の吉原通いを再禁止。
[享保21(1736)]
この年、太夫3人、揚屋5軒。
[元禄〜享保]
元禄から享保の間に端女郎消え、太夫、格子女郎、散茶女郎、梅茶女郎(局女郎)、切見世女郎(局女郎)の区分に。
[享保期(1716〜36)
享保期、岡場所が公許以外の遊里の総称に(岡場所は江戸のみの用語)。
享保19年以前の揚げ代、太夫昼夜74匁。太夫格子昼夜52匁。散茶夜金1分。梅茶10匁、1分。
享保期末、小田原屋喜右衛門、台の物屋=喜の字屋を開業。台の物は、市井で400文や500文のものを客に2朱で売る。これを二朱台という。同800文や900文のものは金1分で売る。これを一分台と呼ぶ。幕末まで二朱台と一分台の2種類のみ。
幕府、品川を遊里として黙認。
揚屋が衰微するのに伴い、引き手茶屋が並びはじめる。
このころから「待合の辻」という呼び方が生まれたらしい。
このころまで、少なくとも太夫クラスは化粧をしなかったらしい。嬉遊笑覧引用の『原武が雑記』の記述「女郎の風俗も昔(享保ごろ)は紅粉おしろいをむさき事とし、揚屋女郎の薄化粧だに揚屋風とは言ひながら賤しきことに言ひなし……」。これによれば宝暦ごろになると遊女はみな化粧をしていたらしい。
このころより道中で駒下駄を履く。
このころより、編笠をかぶる吉原通いの姿が珍しいものになる。
元文
(1736.4.28〜1741.2.27)
[元文期(1736〜41)]
編笠を被る吉原通いの姿、すっかり見られなくなる。
寛保
(1741.2.27〜1744.2.21)
[寛保元(1741)]
3月、仲之町に桜が植樹される(寛延元年(1748)、同2年2月の説もある)。「大門を押されてはいる桜かな」。寛永2年より習慣化。桜は3月朔日に植えられ、同晦日に撤去される。
6月、三浦屋の太夫・高尾、200両で姫路藩主・榊原政岑(まさみね)が身請け。榊原政岑はこの咎で同年10月隠居、襲封した政永は同年11月、越後高田へ転封。この高尾は榊原高尾と呼ばれ、7代目とも11代目ともいう最後の三浦屋の高尾。
[寛保4=延享元(1744)]
この年、太夫2人、揚屋5軒。
延享
(1744.2.21〜1748.7.12)
[延享元(1744)]
太夫2人に。
[延享2(1745)]
この年の揚げ代、太夫90匁。格子60匁。
[延享3〜4(1746〜47)]
このころまでに西田屋が廃業したらしい。
寛延
(1748.7.12〜1751.10.27)
[寛延4年(1751)]
この年、太夫2人、揚屋1軒。最後まで残った揚屋は尾張屋清十郎。
[寛延期(1748〜51)]
このころの遊女風俗、簪、笄、櫛各1本ずつさす。髪は兵庫。仕掛けを着て帯は前結び。三つ歯の低い下駄を履く。道中のときは紗綾(さや)縮緬、羽二重を着る。着物は毎日取り替え、同じものは着ない。
宝暦
(1751.10.27〜1764.6.2)
[宝暦2(1752)]
この年、太夫1人、揚屋1軒。
[宝暦3(1753)]
このころより、大文字屋の大かぼちゃという小唄が行なわれる。京町大文字屋の市兵衛は不細工で、頭がかぼちゃそっくりのため、人々がかぼちゃとあだ名したのを、自ら唄って人を笑わせた。
[宝暦6(1756)]
高尾などの太夫を輩出した大見世・三浦屋廃業。高尾には11代続いた説と7代説とがある。
[宝暦10(1760)]
この年を最後に『細見』から太夫なくなる。最後の太夫は江戸町1丁目玉屋山三郎抱えの花紫。
[宝暦11(1761)]
この年の揚げ代、太夫揚屋付き各90匁、片45匁。格子同60匁、片30匁。散茶入山形に一つ星金3分。
[宝暦12(1762)]
このころ専業の女芸者ができる。初めての女芸者は、扇屋の歌扇(かせん)。女芸者は遊女と違い、お歯黒、眉剃りはしかなった。
[宝暦期]
太夫、格子、揚屋なくなる。太夫、格子がなくなった後は、散茶女郎が分離・格上げされ、呼出(よびだし)、昼三(ちゅうさん)、附廻(つけまわし)に。揚屋の代わりに引き手茶屋。
見返り柳が植えられる。京・嶋原遊郭の「出口の柳」を範にしたもの。出口の柳は遊郭の外、大門に向かって右側。
編笠茶屋で編笠の貸出が行なわれなくなる。この後、しばらく編笠茶屋の名称は残るが、中味は茶屋(外茶屋など)になる。
このころまで、大門から待合の辻まで毛氈を敷き床几に坐って客を待つ遊女の姿が見られた。
このころの遊女風俗、髪は島田、笄をさし、簪は前に4本、櫛1枚。下駄は表なしの黒塗り二枚歯。
一説に江戸市中の岡場所約40ヶ所。
宝暦末、幕府、板橋と千住を遊里として黙認。
明和
(1764.6.2〜1772.11.16)
[明和元(1764)]
このころの芳町の子供屋(陰間を抱える見世)12軒、陰間55人、陰間茶屋24軒。堺町・葺屋町・岩代町の子供屋5軒、陰間32人。陰間の揚代は一切り(一時半)1分、昼夜仕舞2両、片仕舞(昼か夜の一方だけ)1両。
品川宿全体で500人の飯盛を置くことを許可。この年の品川宿旅籠数、大旅籠9軒、中旅籠66軒、小旅籠18軒。
[明和5(1768)]
4月6日、暁八ツ(午前2時ごろ)、江戸町2丁目四ツ目屋喜三郎方より出火し、大風で吉原全焼。五十間道まで焼けるが、九郎助稲荷は無事。並木町、今戸、橋場、山谷などに仮宅100日。再建後、堺町廃止。
このころ、深川に料理茶屋現れる。
[明和8(1771)]
4月23日、暁寅の刻(午前4時)、揚屋町より出火し、吉原全焼。このときも九郎助稲荷は無事。今戸、橋場、両国などに仮宅。
[明和9=安永元(1772)]
2月24日、内藤新宿再開の許可が出る。4月14日、新宿遊女町の見世開き。旅籠52軒、飯盛150人。新宿は享保5年に廃宿されていた。
2月29日、目黒行人坂の火事により吉原全焼。山谷堀、橋場、両国などに仮宅。芳町の陰間茶屋の仮宅も出る。
[明和期(1764〜72)]
編笠茶屋なくなる。編笠茶屋は田町に28軒、五十間道に20軒(異説片側25軒×両側=50軒)あったという。
このころから「花魁」という語の使用始まる。一説に花魁は「おいらが姉さん」「おいらが太夫さん」が訛ったものとか。他の廓、四宿でこの言葉は使わない。
明和年間前後から清掻きの唄がなくなり、三味線だけになったらしい。清掻きが廃止されたのは明治5年の娼妓取締令のとき。以後、若い衆が下足板を打ち鳴らすようになった。
売女を置く料理茶屋増える。
吉原の芸者、20人余。
明和末、幕府、内藤新宿を遊里として黙認。
安永
(1772.11.16〜1781.4.2)
[安永3(1774)]
一説にこの年の江戸市中の岡場所60ヶ所余。
[安永4(1775)]
松葉屋3代目瀬川、1000両(異説1500両)で烏山倹校に身請け。
[安永7(1778)]
水道尻の秋葉常燈明近くに火の見櫓できる。天保期に廃止。
[安永8(1779)]
この年刊の『紫鹿子』の記述「随分古風にしてうまみあり、ぽっとりと和らかく、髪の風はでならず、外八文字は昔の風儀あっておもしろし」。吉原の取り柄は古風さだという。
[安永期(1772〜81)
このころには、すでに初会から肌を許す遊女がいたらしい。川柳「初会から中納(なかゆひ)を解くこはい奴」
このころの遊女風俗、櫛3枚、簪前ざし6本、後ろざしはない。下駄は表付き黒塗り三枚歯。禿も簪をさす。
吉原の芸者数、60人余。
天明
(1781.4.2〜1789.1.25)
[天明元(1781)]
9月晦日(異説8月晦日)、子刻(午前0時)、伏見町(異説江戸町2丁目)家田屋方より出火。1町ほど焼ける。全焼ではなかったため、仮宅はなし。この飛火は、家田屋遊女・須磨絹のせいとも小夜絹のつけ火ともいわれる。
[天明2(1782)]
6月、松葉屋6代目瀬川、1500両で越後屋手代に身請け。
この年、蔦屋重三郎、全細見販売株を取得し、『吉原細見』独占出版。
[天明3(1783)]
このころ、見世に「楼」をつけ始める。遊女屋を妓楼と呼ぶのはこれ以後。
[天明4(1784)]
4月6日(異説4月12日、同16日、8月16日)丑下刻(午前3時半ごろ)、水道尻提灯屋より出火し、吉原全焼。向両国、回向院前、浅草などで仮宅。
[天明5(1785)]
8月13日、旗本・藤枝外記教行28歳と京町二丁目・大菱屋久右衛門の綾衣19歳が千束村の農家で心中。「君と寝よか 五千石とろか なんの五千石 君と寝よ」。藤枝家(実際の家禄:4000石)は改易、取り潰し。
12月、見返り柳向かいの高札場、80両で修復。
[天明6(1786)]
7月12日より大雨降り続き、15日、千住の大川出水。17日、吉原床上浸水。20日になってようやく水が引きはじめる。
吉原の遊女数、禿まで含めて2270人余。
[天明7(1787)]
『通言総籬』出版。大見世松葉屋を写実。
この年、町奉行、吉原以外に1ヶ所公許設置を検討するも吉原反対し廃案という説。
11月9日、暁卯刻(午前6時)過ぎ、角町大黒屋長兵衛方長屋より出火し、吉原全焼。深川新地の大橋側、八幡前中洲、冨永町などで仮宅。
[天明8(1788)]
松葉屋7代目瀬川、松前藩の松前文京に500両で身請け。
この年刊『吉原楊枝』の記述「呼出し昼三の客は国家の留守居、有徳なる旅人、大商人の旦那、大名の御留守居の類なり。平の昼三の客は、有徳なる町人のむすこ、若殿様、御用足し、町人の旦那の類なり。一歩の座敷持ちは、きめづきん、おはたの二男、または店衆の類なり。大見世の部屋持ちの客は、家中者、または高のよき山の手の類なり」。
[天明期(1781〜89)]
このころの陰間茶屋、芳町、木挽町、湯島天神内、麹町ぬし町代地、神田花房町、芝明神前、市ヶ谷八幡宮内。
蹴転(けころ)という茶屋女、下谷広小路御数奇屋町、同提灯店、仏店、広徳寺前堀田原周辺、その他にあったが、寛政以後なくなる。
田町と五十間道にあった茶屋計20軒。
内所(楼主がいる間)の神棚に張り形の置物をまつるようになったのは、天明以後らしい。
このころの遊女風俗、髪は立兵庫、松葉簪前ざし5本、後ろざし4本、仕掛け二枚に帯は前結び。腰巻は紅色。下駄は黒塗り三枚歯。
[安永〜天明]
仲之町の茶屋・桐屋伊兵衛、角町の中万字屋などと相談し、俄狂言をつくって仲之町を練り歩く。評判になり、以後、習慣化し、8月朔日から晦日まで秋葉権現の祭礼で俄狂言を行なう。
道中風俗、羽二重、紗綾縮緬などの使用絶え、錦繍のような美服を着るようになったが、毎日同じものを着ていたらしい。
寛政
(1789.1.25〜1801.2.5)
[寛政3(1791)]
2月、隠し売女厳禁令。
春、「吉原楊枝」「仕掛文庫」などの洒落本が咎められ、山東京伝、手鎖り50日。
[寛政6(1794)]
4月2日亥半刻(午後11時ごろ)、江戸町二丁目丁子屋長兵衛方と隣家の境から出火し、吉原全焼。田町、聖天町、山の宿などに仮宅。この仮宅営業のときから遊女は門外に一切出られなくなった。
[寛政7(1795)]
岡場所50ヶ所余取りつぶし。
[寛政9(1797)]
12月13日、内藤新宿火事。多く女郎屋が消失。
[寛政10(1798)]
約50人の町芸者、売女の咎で捕まる。
[寛政12(1800)]
2月22日亥半刻、竜泉寺町百姓甚右衛物置から出火し、吉原全焼。田町、聖天町などで仮宅(異説同11年同3月、11月22日)。
[寛政期(1789〜1801)]
惣花の値段、大見世3両、交じり見世2両、小見世1両2分、河岸見世以下2分に定まるが、以後、見世によって値段は異なり、一定していなかった。
幕府、道中する花魁の簪の数を8本に制限。しかし、以後、守られることはなく、数が増える。
このころの遊女風俗、髪は立兵庫がなくなり、横兵庫、丸髷、天神髷、勝山。横兵庫は文化年間に全盛。松葉簪前ざし7本、後ろざしはなし。以前と比べて全体的に地味。寛政の改革の影響か。
老母への孝心で有名だった扇屋の花扇のことを、来日中の清人・費晴湖が長崎で聞き、詩に読む。
遊女の身請け代、500両以下に制限。
享和
(1801.2.5〜1804.2.11)
[享和期(1801〜04)]
享和の初め、遊女の数、禿まで含めて3317人。
文化
(1804.2.11〜1818.4.22)
[文化4(1807)]
品川端の内鶴屋抱えの飯盛女・つた、衣類対丈鯨尺で6尺7寸(約2m50cm)あり、美人なので珍しいと鶴屋は日夜繁盛。つたは駿州府中の出身、この年20歳。2年後の文化6年春、廃れたので、淀滝と名を改め、浅草柳稲荷の向かいで大女の力持ちという見世物になる。
[文化7〜8(1810〜11)]
東河岸九郎助稲荷近くに局見世(長屋)できる。羅生門河岸の始まり。
[文化8(1811)]
式亭三馬のこの年5月6日の項の記述「この節、吉原甚だ不景気なり」。
このころ、総籬8軒、半籬19軒、それ以下187軒。
[文化9(1812)]
11月21日(異説22日)、夜五ツ(8時ごろ)過ぎ、浅草田圃非人頭善七小屋から出火し、南風激しく、新町(京町2丁目)へ飛火して吉原全焼。善七小屋は吉原の西の並びにあった。田町、聖天町、瓦町などで仮宅280日。翌年8月、吉原で営業開始。
[文化13(1816)]
5月3日申の刻(午後4時)、京町一丁日海老屋吉助方から出火し、吉原全焼。田町、聖天町、瓦町などで仮宅。
[文化期(1804〜18)]
このころ、山谷通いの猪牙舟700艘余。
遊女がさす簪に定紋をつけるようになる。
このころの遊女風俗、櫛は大型を二枚、簪は前ざし6本、後ろざし8本、後ろざしに定紋。髪は島田、長い笄をさす。仕掛けは三枚重ね。
吉原の芸者数、154人。
文政
(1818.4.22〜1830.12.10)
[文政3(1820)]
10月、売女取り締まり。
[文政7(1824)]
4月3日暮れ六ツ時(午後6時ごろ)、京町2丁目(異説京町1丁目)林屋金兵衛方から出火して、吉原全焼。聖天町、花川戸、山の宿町などで仮宅。
[文政8(1825)]
遊女の数、禿まで含めて3600人。男芸者20人、女芸者160人ほど。
[文政期(1818〜30)]
このころの遊女風俗、櫛の上に垂直に簪をさす。簪は前ざし8本、後ろざし8本。櫛、簪、笄とも以前より大型化。仕掛けは三枚重ね、本帯を前で結ぶ。
天保
(1830.12.10〜1844.12.2)
[天保2(1831)]
裏茶屋の数、揚屋町に15軒、京町1丁目に4軒、角町に4軒。これら以外の江戸町などに裏茶屋はなかった。
大見世の数、江戸町1丁目に玉屋と扇屋の2軒のみ。
[天保3(1832)]
9月21日、下谷龍泉寺町千束稲荷の祭のさい、花出し練り物がでたのを、西河岸の娼家より見ようと屋根へ上った遊女、禿、若い衆計16人、ころげ落ち、皆、重い傷を被る。
[天保5(1834)]
局見世の長屋、新長屋、和泉長屋、井戸長屋、稲荷長屋、蛤長屋、三ヶ月長屋、くら闇長屋、提灯長屋の8ヶ所。
[天保6(1835)]
正月24日(異説2月25日)、角町堺屋松五郎方から出火し、吉原全焼。花川戸、山の宿などで仮宅300日。
[天保8(1837)]
このころ柳橋から山谷堀まで猪牙舟片道148文。
10月19日暁六ツ時(午前6時ごろ)、伏見町(異説江戸町2丁目)丁子屋源太郎方から出火し、吉原全焼。花川戸、山の宿、深川八幡前などで仮宅300日。
[天保9(1838)]
12月、料理屋・水茶屋の隠売女を禁止。
[天保13(1842)]
3月18日、江戸市中の料理茶屋20軒余所払いになり、勺取り女はすべて吉原送り。8月までに順次引き払い、1軒そっくり吉原に移って娼家になったところもあった。
6月初旬、絵双紙屋、芝居役者・遊女絵などことごとく停止。
この年、天保の改革で江戸市中の岡場所一掃。売女は吉原送り。これにより遊女は禿まで含めて4393人に。
一説にこの年、品川の飯盛1500人。
羅生門河岸の長屋、世継長屋、松葉長屋、三ヶ月長屋、稲荷長屋、三井長屋の5ヶ所。
[天保14(1843)]
天保の改革で陰間一掃。
[天保期(1830〜44)]
天保の改革以前、一説に江戸市中の岡場所70余ヵ所。もっと多かったともいわれる。
このころ吉原の台の物屋、4軒。
このころから新造も売るようになる。
引手茶屋へ行く道中を1日1楼1人に制限。以前は、すべての呼び出しが道中した。
天保年間以前、入山形(いりやまがた)に二ツ星(1両1分の呼び出しで新造付き)の花魁がなくなる。
『天言筆記』に、深川の女芸者が大繁昌で吉原はさびれるばかりという記述。
天保の改革以後、総籬1軒、半籬17軒、それ以下241軒。
弘化
(1844.12.2〜1848.2.28)
[弘化2(1845)]
7月、吉原灯籠、すっかり珍しいものに。
8月、梅本屋佐吉抱えの福岡が佐吉などから折檻責めにあい死亡。怒った遊女16人が梅本屋に放火。自身番に佐吉の非道と福岡の死亡を訴え出る。梅本屋は「芋殻または豆腐殻、草箒の芽出し並に実葉を混ぜ候雑炊を日に二度宛、三度は給し申さず、汁は一つかみ程の味噌を入れ、塩のみ多く差し加え候を啜らせ」という状態だった。
12月5日暮れ六ツ時(午後6時ごろ)、京町二丁目河津屋鉄五郎方から出火し、吉原全焼。浅草山の宿、田町、花川戸など20ヵ所以上の地で仮宅250日。河津屋抱えの玉琴、六浦、姫菊が苦役を悲観してつけ火したと召し捕られる。
この年、大見世、江戸町1丁目の玉屋のみ。
[弘化3(1846)]
9月、前年の全焼の普請なり、営業再開。このとき、吾妻長屋、関本長屋、永続長屋、三長長屋の局見世が新たにできる。松葉長屋は稲毛長屋に名称変更。
揚屋町には、魚屋、酒屋、質屋、そば屋、湯屋、蝋燭屋などの商店が多く、妓楼は小見世が点在するだけ。
[弘化4(1847)]
10月、秋葉権現の祭のとき、花出し練り物、数多く出る。
[弘化期(1844〜48)]
このころ、台の物屋6軒。
嘉永
(1848.2.28〜1854.11.27)
[嘉永4(1851)]
3月、角町万字屋茂吉、江戸中へ遊女大安売りの引き札を配る。ほか2軒がこれにならった。引き札の文面、
「一、御客様方益御機嫌克被遊御座恐悦至極に奉存隨て私見世之儀御蔭以年来遊女屋渡世相続仕冥加至極難有仕合に奉存候然処近年吉原町日増に不繁昌に相成申候其根元と申遊女屋仲間人気甚悪敷相成廓内寛政度之議定不相用自分勝手之渡世致客人送り候茶屋へ揚代金弐朱に付三百銅三百五十銅亦二つ分け抔と申引手銭差出し候故新規茶屋是迄より三百軒余も相増候得自然と御客様方に麁末之品差上候様に相成候に付此度商内之仕法替仕茶屋一切請不申現金売正札付直段引下け御徳用向遊女沢山仕入御酒肴夜具等に至迄吟味仕差出し申候間御客様方被仰合不限昼夜に御賑々敷御光来之程奉希上候猶御懇意様方へも御風聴被成下候様偏に奉願候以上
一、座敷持遊女 金壱分之所 銀拾弐匁
一、部屋持遊女 金弐朱之所 銀六匁
一、内芸者 金弐朱之所 銀六匁
 但し御酒正宗御肴会席真似合
一、御馴染御祝儀御思召次第
一、茶屋船宿送り客一切請不申候
      新吉原角町
          万字屋茂吉」
吉原から客が減っていったことがわかる。
[嘉永5(1852)]
猿若町2丁目市村座羽左衛門、享和のころ青山あたりの鈴木主水という武士と内藤新宿の賤妓・白糸とが心中したことが俗歌に残っていたのを狂言にして興行したところ大当たりし、俳優2代目坂東秀佳が内藤新宿北裏通りの成覚寺に白糸の墳墓を営む。
『吉原細見』に倣い品川で『品川細見』を売る。銀10匁の遊女53人、金2朱41人、以上が大見世。銀6匁38人、銀5匁302人、銀4匁65人、合計499人。6、5、4匁は、銭600文、500文、400文。600文、500文、400文とはいわず、6寸、5寸、4寸と呼ぶ。6寸と5寸を中といい、4寸を小見世という。
[嘉永6(1853)]
10月5日、本所の夜鷹、40人余捕らえられ入牢。
[嘉永7=安政元(1854)]
夏より江戸町1丁目大黒屋文四郎の妓楼が遊女に伊勢音頭の踊りをさせる。ほどなく終わる。宣伝文、
   「口上
御客様方倍御機嫌克被遊御座恐悦至極奉存候隨私家業年来遊女屋渡世続仕候段偏に泰平之御余光と難有仕合に奉存候扨此度品替て何をかな御鬱散にも相成申べく事をと愚案仕白拍子のふるき例にならひて遊び女の拙き手ぶりに今様めきたる唄ひものなど相催し御笑ひの一くさに奉入御覧候就而者茶屋付勿論ふりの御客様には別入念且御入用成丈け御手軽にて一しほ御遊興に相成候様専一に工夫仕候此段何卒御披露被成下御にぎ%\敷御遊来之程伏奉希候以上
   寅五月十日より
         新吉原江戸町壱丁目
              大黒屋文四郎」
[嘉永期(1848〜54)]
このころの流行り唄「京で辻君、大坂で惣嫁、江戸の夜鷹は吉田町」。夜鷹は本所吉田町が有名だった。ほかに両国橋東、永代橋西、御厩(おうまや)河岸西河岸など。江戸の夜鷹の料金は定額24文だが、多くは50文、あるいは100文を渡した。
安政
(1854.11.27〜1860.3.18)
[安政2(1855)]
10月2日亥の刻(夜10時)、安政大地震により、京町2丁目、江戸町1丁目より出火、その後潰れた家からも出火し、吉原全焼。吉原内での死者、遊女299人、禿84人、その他1029人。山の宿、花川戸など20ヵ所以上の地で仮宅500日(後、100日延長)。
[安政3(1856)]
8月23日から微雨始まり、25日戌の刻(午後8時)より大雨になり、深川本所の仮宅、大洪水で被害。潰れた家もあった。
[安政4(1857)]
4月19日夜、本所松井町1丁目に仮宅を出していた揚屋町の娼家・新丸亀屋鉄五郎抱えの遊女、玉川と雛次の2人、馴染み客の男2人と二階座敷の一間で情死。男は小田原町と長浜町の魚屋に使われている者。4人が一度に心中したのは吉原始まって初めて。
仮宅、6月限りとして引き払う命令が出て吉原に戻る。仮宅は600日。引き移るときの行装が人々を驚かせる。
文使いの料金、船宿まで1本16文。便は1日、朝、夕の2回。文使いの家は揚屋町の路地奥にあったらしい。
[安政5(1858)]
5月、仲之町に溝を掘って花菖蒲を植える。以後、習慣化。
7月末ごろよりコロリ(コレラ)大流行。死者は江戸市中で3万人、全国に広がり、以後3年間で30万人死亡。遊女も多数死亡。
[安政期(1854〜60)]
このころ遊女の数、3800人余。
万延
(1860.3.18〜1861.2.19)
[万延元(1860)]
9月28日亥の刻(夜10時)過ぎ、江戸町2丁目(異説伏見町)紀の字屋六太郎方から出火し、吉原全焼。火は田町1丁目2丁目に及び、長さ4町半、幅1町40間ほどを焼失。原因は放火。本所松井町1丁目、深川仲町、黒江町、根津門前で仮宅。それぞれ総門を設けて一方より出入りさせる。
文久
(1861.2.19〜1864.2.20)
[文久元(1861)]
3月、関八州の料理屋・宿屋に私娼を置くことを禁止。
9月、神田あたりの地獄と呼ばれる淫売女数百人、捕らえられ入牢。地獄は上品金1分、下品は金2朱。自宅や中宿で商売する。
11月24日、吉原普請なり、仮宅を引き払う。
[文久2(1862)]
2月ごろ長崎の外国人よりもたらされた麻疹が北上、4月より江戸で流行りはじめ、6月末大流行。花街の娼妓の多くもかかり、来客を迎えない家が多い。
11月14日暮れ六ツ(午後6時ごろ)過ぎ、京町1丁目裏屋から出火し、吉原全焼。深川、黒江町などで仮宅700日。
[文久3(1863)]
安政6年に設けられた横浜港崎(みよざき)町遊郭の大見世・岩亀楼(がんきろう)へ、吉原から住み替えした喜遊が自害。アメリカ人に見初められたが、外国人に体を売るのは日本人の恥という理由。
[文久4=元治元(1864)]
正月26日、江戸町1丁目大口屋文右衛門方から出火。この前年、文久2年の全焼から大方普請がなっていたが、再度全焼。引き続き仮宅。
元治
(1864.2.20〜1865.4.7)
[元治元(1864)]
11月23日、揚屋町小火。
慶応
(1865.4.7〜1868.9.8)
[慶応2(1866)]
3月、浅草御蔵前で活人形の見世物。膝栗毛の弥次喜多の人形、遊女湯浴みの裸人形などが出る。
11月4日夜四ツ(午後10時)過ぎ、深川熊井町の油屋あさ方から出火、長さ4町50間、4町ほどを消失し、その地にあった仮宅も全焼。暁七ツ(午前4時ごろ)鎮火。
11月11日明け六ツ(午前6時ごろ)過ぎ、江戸町1丁目大桝屋いち方から出火。西北の風にあおられ全焼。昼四ツ(午前10時ごろ)鎮火。深川永代寺門前、山本町、黒江町などで仮宅2年。
[慶応3(1867)]
12月13日、吉原で歩兵が喧嘩。14日大勢集まり、鉄砲を撃ちまくる騒ぎに。廓中の男女逃げまどい、官吏がきてようやく鎮まる。
[慶応4=明治元(1868)]
根津の岡場所が公許になり(根津遊郭)、江戸唯一の公許という吉原の特権がなくなる。
幕末から明治にかけて、大溝の幅2間に。

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