手練手管 ほんに惚れたはぬしだけでおざりィす



 廓の例えに「素見千人、客百人、間夫が十人、地色一人」という言葉がございます。吉原にやってきて遊女を見てまわるだけの素見(ひやかし)が1000人、そのうち客となるのは100人、馴染みとなって「私にとってはあなただけよ」などと言われてうつつを抜かす間夫(まぶ)が10人、しかし、遊女がほんに惚れている地色(いろ)は1人だけという意味の言葉です。現代でもこの例えに身に覚えのある人は少なくはありますまい。

 「傾城のまことの恋は恋ならで金持ってこいが本当(ほん)のこいなり」というように、遊女はある意味で客にいかに金を遣わせるかが商売です。たとえば遊女に対して見世から夕食は支給されませんから、遊女は客をとり、その客に何らかの食事(台の物)を注文しもらわなければ食事にありつけませんし、また、まともに男を相手にしていたのではとても身が持ちません。「女郎の誠と卵の四角」はありえないと言われるように、客には身を預けて「ぬしだけよ」と言いながらも、本心ここにあらずのその手練手管は、「年季(ねん)があけたら夫婦になる」なんて起請文を客ととりかわしておきながら、実はその相手が3人いたという『三枚起請』などの落語にもなっています。

 起請文というのは、自分の名前のところに血判を押して神仏にかけて誓うもので、誓紙(牛王紙)を売り歩いた勧進比丘尼という人たちが「起請文を書くたびに熊野権現の烏が3羽死ぬ」と言いまわりました。そして誓いを破ると、熊野権現の烏が血を吐いて死に、たちまち天罰が下ると言われたため、はじめ、その誓いは堅く守られたと言います。起請文は戦国時代、武士同士の間でも盛んにやりとりされました。互いに裏切らないよう誓いを立てるのですが、そもそも親兄弟や主人と家来などが争う下克上の世の中ですから、何度、書いたところで守られるわけがなく、しだいに廃れていきました。これに対して遊女の起請文は、少なくとも江戸時代の終わりまで見られましたが、戦国時代の先例のように、目的は相手を信用させるためだけ、つまり見せかけであることが少なくありません。

 文化14年(1817)に出版された洒落本『籬の花』にその例が出ています。遊女・梅川が客の八右衛門の前で自分の左薬指の爪の下に小刀を突き刺し、おもむろに血起請を書き始めます。文字を墨で書くときは、牛王紙に書かれた烏の目のところどころに血を塗りつけ、「起請文の事」という題に続いて、誓いの文言を書き記し、最後にさまざまな神の名を記し、「もし背かば御ばつをこうむらん」という文章で締めくくります。梅川はこのとき「御ばつうをこうむらん」としました(平仮名の「う」と「ら」はよく似ている)。「御ばつう」は言葉ではないので、誓いを破ったところで罪は被らない、つまり一言「う」の文字を入れるだけで、本物の起請が嘘の起請になるってわけなんですね。そうとは知らない八右衛門、梅川が誠を誓ったと思い込み、紋日(料金が通常の倍になる)にまたくることと、梅川から頼まれた15両の金をも明日持ってくることを約束。梅川は「必ず見捨てておくんなんすなよ」と言って帰る八右衛門を見送ります。

 この八右衛門といい、「ほんに惚れているのはぬしだけ。年季があけたら一緒になろうよ」と起請文をしたためたのを本気にした『三枚起請』の男たちといい、真に受けた男のほうがなんぼか純情かもしれませんが、それはまあ言ってみればタヌキとキツネの化かしあいみたいなものでもあります。「他客(ひと)は客、俺は間夫だと思う客」なんていう川柳もあり、冷ややかな客もおりました。

 閨の中でもさまざまな手練手管が使われます。わざとゆっくり手紙を書いたり、ちょっと手水へと座敷を出ていって他の客のところへ行ったり、たらふく酒を飲ませて酔い潰し、なかなか床入りしようとしないのは日常茶飯事。床入りしても長時間にわたって男とくんずほぐれつしていたのでは身が持ちませんから、適度にあそこをきゅっきゅと締めて、男をさっさと昇天させ、一丁上がりとすぐに寝込んでしまったり、あるいは逆に「もっとしましょうよ」と秘術を尽くし、何度も男を奮い立たせるなんてこともすれば、男の腰遣いに合わせて激しく腰を動かしたりもします。

 何度もおいたをするのは矛盾しているように思うかもしれませんが、男ってのは単純なものでありまして、もてないよりはもてたほうがいいに決まってます。また、たとえば武士の奥方の場合(だけに限りませんが)、喘ぎ声をあげるのは恥だとする風潮があり、その間は硬直しっぱなしのマグロも珍しくありません。一方、秘術を尽す遊女はそれはそれで面白いものですから、こうされるとその後もせっせとこの遊女に通い詰めることになるわけでして、とくにやりたい盛りのむすこ(息子株)に対してこの手管がよく使われたようです。むすこというのは、たとえば商家のまだ店を持たせてもらえない男でありまして、金はある、時間もあるという、吉原の上得意客の一人でございます。

 男を騙すのが手練なら、もてなすのも手管。そんな遊女の手練手管の数々が姉女郎から妹女郎へと伝えられていきました。名奉行として名高い根岸鎮衛が著した『耳嚢』(1781〜1818)という諸事の記録集に、次のような騙しの話が載っています。拙い現代語訳ですが、しばらくお聞きください。


傾城奸計のこと

 享保(1716〜1736)のころだろうか。田所町(現在の中央区内)の町名主で、傾城を身請けして妻とし、偕老の語らいをなしている者がいた。その妻の使いなれた箪笥に、朝夕、錠をおろし、人にさわらせないようにしていた引き出しがある。夫にすら隠すので、夫は以前の遊女勤めのこともあるため間夫や地色のことを疑い、いろいろ訊ねてみるものの、何かと理由をつけて答えなかったので、いよいよ疑いを深め、きつく訊ねると、妻はやむをえないといった様子で話しはじめた。
「大金を使って私を請け出してくださったのは、あなたさまの情けが深かったからです。そして、引き出しをお見せしないのは、その情けが薄まることを恐れたからです。ですから隠していたのですが、それほどお疑いになるのでしたらお見せいたしましょう」
 妻が引き出しを取り出して見せると、中に入っていたのは案に違い、袈裟衣鉢などの仏具であった。
「これはどういうことだ」
 夫はたいへん驚いて訊ねた。
「そのことですが、私には勤めた初めのころより馴染みの男がいました。川の水面で浮き沈みする竹のようにつらい勤めの中で、ともに死を誓うほどに契りを交していた相手です。しかし、男は壮年でありながら空しく世を去り、私はその日より出家同然の身の上と決めたのですが、主に抱えられている身でありますから、思うようにもまいりません。契情(けいせい=傾城)の常として表面上は笑いを売り、閨房では戯れ事をしておりましたが、心では出家浄身に専念しておりました。あなたさまは私を身請けし、妻にしてくださいましたが、これまた大金を使ったことなので、この心はいささかも表に出すわけにはまいりません」
 妻は涙ながらに語るので、夫ももらい泣きを始めた。
「さてさて数奇な運命の女であろうか。私も名の知れ渡った男である」というと夫は粋を自慢する心から「暇を遣わすからその間に出家得度をするのだよ」と離縁を申し渡した。
「ありがとうございます」女は涙にむせび、悦んだ。
「大金をはたいて請け出したお前だが、お前の本心に感じ入り、またそのような話を聞いたからにはお前を妻としているのは気が重い。そうそうに菩提所に行き、剃髪するがよい」
「これはもったいないこと。出家するからには三界に家なし。今日より托鉢して露命をつなぐことこそ、戒行を全うするとも申します」
 女は一両日過ぎてから暇をこい、どこへともなく発っていった。その後、夫やそのほかの人は「さてもさても珍しい女である」と話していたそうだ。
 ところが、しばらく過ぎてからのことだが、そこからあまり遠くないところで、その女は髪結いの妻となって暮らしていたのだとか。廓にいたときから馴染みとなり約束していた者だったので、申し合わせ、そのように計らって夫から暇をもらい、密夫と夫婦になったのだそうだ。
「実に『傾城に誠なし』という諺どおり、恐ろしい女の手練である」と知り合いは語った。


 このようなことはほんの一例にすぎません。



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