新吉原 惚れて通えば千里も一里、長い田圃も一跨ぎ



 幕府は吉原が辺鄙な浅草田圃に移転するにあたり、いくつかの補償を提示しました。元吉原は2丁四方でしたが、移転地はその1・5倍とすること、移転に際して1万500両を支給すること、昼間だけだった営業を夜もしてよいこと、などです。こうして日本堤の西側、浅草田圃の埋め立てが始まりました。日本堤とは大川(隅田川)に流れ込んでいた山谷堀(川)の川岸沿いにつくられた土手のことで、高さは8尺(2・4m)から11尺(3・3m)程度。この土手、いわゆる土手八丁をてくてくと歩いていった先に新しい吉原は建設されました。

 浅草の待乳山聖天から日本堤(現在の土手通り)を8丁ほど行くと、左手に1本の柳の木が見えてきます。ここを目印に左に曲がり、勾配のなだらかな三曲がりの坂を下ると、屋根のある冠木門に突き当たります。吉原の入り口・大門です。柳の木は吉原帰りの客がここまできて吉原を振り返ることから見返り柳、三曲がりの坂道はこれから登楼する客が衣紋を直したことから衣紋坂と呼ばれ、日本堤から大門までの距離がほぼ50間(約90m)あるところから五十間道とも呼ばれています。

 五十間道には、両側に水茶屋、酒屋、吉原のガイドブック『吉原細見』板元・蔦屋重三郎が細見を売る店、編笠を貸す編笠茶屋などが建ち並び、日本堤からは大門が見えなくなっていました。一説に鷹狩りで日本堤を通る将軍が吉原を指して、「あれは何だ?」と問われないために曲がりくねった道にしたと言われています。かなり眉唾くさい説ですが、人目につくのを避けたかったのはどうやら確からしいですね。また、見返り柳の向かいにある茶屋の隣には高札場、さらにその隣に吉徳稲荷がありました。高札には次の文言が書かれていました(正徳元年=1711の高札)。

 一、前々より禁制のごとく江戸町中端々に至る迄、遊女の類隠し置くべからず、若し違犯の輩あらば、其所の名主五人組他地主迄、曲事たる可き者也。
 一、医師の外、何者によらず乗物一切無用たるべし。附、槍長刀門内へ堅く停止たるべき者也。
 公許・吉原以外に江戸市中で遊女屋を構えたら、名主、五人組、地主が連座で罪を受けること、そして吉原内へは緊急の医者は駕籠などの乗物を使って入ってもよいが、それ以外は武士であろうが大名であろうが、乗物から降りなければならない、なお武士は槍や長刀を持ち込んではならないが大小は認めるというわけです。また、五十間道に編笠を貸す店があったのは、もちろん武士が編笠で顔を隠すためですが、旗本や御家人は幕府を警護するのが勤めであり、本来なら昼でも夜でも勝手に遊び歩いてはいけないことになっていたので、素顔をさらしたまま吉原内で知り合いにばったり出くわしたときには幕府から何らかのお咎めがあるやもしれません。そういうわけで編笠をかぶったのです。しかし、宝暦(1751〜1764)ごろを境に編笠茶屋はなくなります。客の中心が武士から町人に移ったことや、武士の間で頭を覆い、目だけを出す頭巾をかぶるのが流行したからだと言われています。

 さて、大門のちょっと離れた左右には水をたたえた大溝(おおどぶ)があり、これがぐるっと吉原を取り囲んでいました。大溝は新吉原初期のころ5間の幅(約9m)があり、唯一の出入口が大門だったので、吉原は文字どおりの廓だったのです。この大溝は江戸末期から明治初期のころ2間(約3・6m)に狭められ、さらに明治36年ごろには3尺幅となりました。もちろん現在ではすっかり埋め立てられています。また、大溝は幕末ごろからお歯黒溝とも呼ばれるようになりました。遊女たちがみなお歯黒をつけ、口をゆすいだ水がここに流れ込んでお歯黒色に染まっていたからだとも言います。吉原がたんに「なか」と呼ばれ、「なかに行こう」と誘われたら吉原を指していることも、大溝で囲まれた場所だったことに由来します。

 新吉原の町割は元吉原の5町を踏襲しており、大門を入ると右手が江戸町1丁目、左手が江戸町2丁目、少し進んだ左手が角町、そして、その先の右手が京町1丁目、左手が京町2丁目となり、大門の向こう端である水戸尻(すいどうじり。水道尻とも書く)に突き当たります。ここには秋葉権現を祭った秋葉常灯明があり、この明かりが消えると吉原に火事が起こる言い伝えられてきました。江戸町1丁目と同2丁目の角のところは「待ち合わせの辻」と呼ばれています。宝暦ごろまで、大門からこのあたりまでのところで遊女が毛氈を敷き、床几を並べて客を待ち、会えたら一緒に登楼することにちなんだと言われています。大門から水戸尻までの吉原のメインストリートは「仲之町(仲ノ町とも書く)」と呼ばれ、135間(約245m)の長さがありました。ところで、新吉原は元吉原の町割を引き継いだと述べましたが、もともとは吉原以前に公許された京の伏見や大坂の新地などの遊郭を模したものです。大門が江戸読みで「だいもん」と言わず「おおもん」と呼ばれるのも、それらの遊郭の呼び方に由来しています。

 また、新吉原はちょうど四隅が東西南北の方角になります。したがって、遊女屋の部屋も四隅が東西南北になるわけですが、この配置により客は四面のどの方向に寝ても北枕になることはありません。吉原にはこのような縁起かつぎがたくさんありました。

 これら5町のほかに、新吉原では元吉原にはなかった揚屋町という町が江戸町1丁目と京町1丁目の間につくられます。揚屋というのは、大見世の客が最初に通されて最上級の遊女である太夫や幇間らと飲食した店で、これが済んでから客は太夫と妓楼に向かいました。揚屋町とは元吉原のとき各町に散在していたこのような揚屋を一か所に集めたところです。しかし、揚屋制度はお金がかかり過ぎるので、もっと安価に客を遊女に引きあわせる場所が登場しました。これが引き手茶屋と呼ばれるところで、このやり方がやがて主流になると、揚屋は宝暦年間(1751〜1764)に消滅、ほぼ同時に太夫、格子女郎という階級もなくなりました。太夫の代わりに最上階級となったのが花魁(おいらん)と呼ばれる遊女ですが、これより下級のいわば遊女全般が花魁と呼ばれることもあり、厳密な呼び方ではありません。なお、花魁という呼び方は、その子分である新造や禿たちが「おらが太夫さん」と呼んでいたのが訛って「おいらん、おいらん」となったのだとか。使われ始めたのは宝暦以降だとされています。

 江戸町や京町には大見世、中見世、小見世というグレードに分かれた妓楼がありました。大見世に登楼するには引き手茶屋を通さなければなりませんが、中見世や小見世は茶屋を通さなくても登楼できます。これを素上(すあ)がりなどと言います。武士は引き手茶屋か素上がりならその見世に大小を預けました。刀があると酔っぱらって喧嘩が始まったとき、危なっかしくてしょうがありませんので、刃傷沙汰を防ぐためにも刀を預けなければならなかったのです。  寛文8年(1668)、江戸町2丁目に2本の道がつくられ、堺町と伏見町が新たに設置されました。ここは堺や伏見の出身者が多かったからだといいますが、明和5年(1768)、新吉原になって2回目の火災で吉原が全焼してから再建されたとき、堺町はなくなりました。妓楼の格式で見るとこの伏見町は、ほかの5町より劣ったものとされています。

 伏見町よりさらに劣ったというか、さらに安価な見世もあります。江戸町1丁目の西側、吉原の縁の通りである浄念河岸(西河岸)の見世、西河岸と正反対の東側に位置する羅生門河岸(東河岸)の見世などです。ここには最低料金50〜100文から客をとる切り見世や、もう少し高い局見世などがありました。屋台の二八そば(かけそば)が1杯16文、夜鷹が24〜50文ぐらいですから、その安さについてはだいたい想像がつくかと思います。切り見世は早い話がちょんの間だったわけで、とくに羅生門河岸はすさまじいものでございました。

 羅生門とは源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が鬼の腕を切り落とした伝説で有名なところです。その鬼の名は茨木童子といい、羅生門河岸という通り名は、ここに茨木屋という見世があったことに由来するとする説もありますが、素見しでもここを通ろうものなら腕をとられ、袖を引きちぎってでも入れようとする、挙句に客を蹴飛ばしても入れようとするところから「蹴転(けころ)」とも呼ばれました。まったく名前だけからしてもそのすさまじさが推測できるというものでして、『羅生門腕を抜かれるかと思い』という川柳も残っております。

 西河岸と羅生門河岸のそれぞれ突き当たりには社が祭られていました。西河岸の左右端の榎本稲荷と開運稲荷、羅生門河岸の左右端の明石稲荷(赤石稲荷)と黒助稲荷(九郎助稲荷)で、いずれも吉原の繁栄を願うもの。黒助稲荷は元吉原から移しました。現在、吉原の脇にある吉原神社はこの4つの社に衣紋坂にあった吉徳稲荷の5つが一緒になったものです。

 新吉原の敷地面積は2万670坪あります。と聞けば実に広大だったようにも思えますが、西河岸から羅生門河岸までは180間(約330m)しかありません。吉原は仲之町の245m×330mという、普通に歩いてもわずか数分で端まで行けてしまう狭い空間だったのでございます。しかし、多くの見世がありますから、到底、わき目もふらずに歩けるところではありませんし、素見しまで含めたら1万人ぐらいはこのなかにいて、毎夜、大勢の人でごった返していましたから、歩くのに時間もかかり、感覚的に狭いという印象はなかったのかもしれません。

 さて、吉原内部の説明はあと少しを残すだけとなりました。大門のすぐ内側には「四郎兵衛会所」と呼ばれる詰め所があります。大門は唯一の出入口ですから遊女が逃亡しようとしても出る場所はここだけなので、この会所に詰めて遊女を監視したわけです。その数は、はじめは1町から1人ずつの6人に使い番を加えた7人で、後にはさらに5人増やした計12人となり、4人が3交代で見張りをしました。この四郎兵衛会所の仲之町を挟んだ向かいには門番所があり、ここはその名のとおり、犯罪者を取り締まったところです。同心が昼夜2人ずつ交代で、格子の内から吉原のなかと大門の外を見張っておりました。

 吉原で宴のときか蹴転での散々な目か、まあ、それは人それぞれでしたが、こうして一時あるいは一夜を過ごした客は大門を出て、現実の世界へと戻っていったのでございます。おっと、忘れていました。衣紋坂を登りきったあたりで客は「今度はいつこれるかなあ」とか、「てやんでえ、袖がちぎれたぜ」などと思いながら吉原を振り返ります。すると大門は見えない代わりに1本の柳の木が目に入ります。これが「見返り柳」。男たちのさまざまな思いを名前に込めた柳の木がそこにあるのでした。現在でもここには何代目かの見返り柳が立っています。



 元吉原のころから京町1丁目に三浦屋という大見世があり、楼主は代々、三浦屋四郎左衛門を名乗っていました。新吉原の初代総名主もこの三浦屋四郎左衛門で、そのときの雇い人に四郎兵衛という者がいます。四郎兵衛会所はこの四郎兵衛が最初の見張りになったのが始まりで、名前だけが代々、受け継がれることになったものです。その監視は、とくに「入鉄砲に出女」を重点的に取り締まった関所ほど厳しいものではなく、遊女らが太夫の墓をお参りするときなどは大門を通したと言われています。

 しかし、ある火災のとき、火の手から逃げようとしている遊女を吉原から逃亡しようとしていると勘違いした四郎兵衛は大門を閉めきってしまい、多数の遊女が焼死するという痛ましい出来事がありました。吉原は「苦界」とか「地獄」とも呼ばれることがありますが、これはまた別の意味での生き地獄的状況といえましょう。大門が唯一の出入口だったために起きた悲劇で、以後、大溝にも橋がかけられるようになったというエピソードを聞いたことがございます。これを「刎橋(はねばし)」といい、板でできたもので見世の大溝に面した裏口から向こう側に渡されるようになっていました。全部で9がつありましたが、火事など非常の際に下されるだけで、ふだんは見世側のほうに上げられていました。ですから、やっぱり大門が唯一の出入口に変わりなく、追いはぎやひったくりなどが吉原内に逃げ込もうものなら袋小路。同心や岡っ引にとっては、まったくのしめこのうさぎだったわけです。

 ところで、浅草方面から吉原へ行くには、浅草寺横の馬道を通って日本堤へ出るか、浅草寺裏の田圃道を通って日本堤に出る道があります。舟なら隅田川の船場のある柳橋あたりから山谷堀に入り、やはり最後は日本堤を歩きます。山谷堀は川幅が狭いので、このときは猪牙舟(ちょきぶね)という船頭1人に客が1〜2人乗れる小さな舟が使われます。また千住側の箕輪(三ノ輪)方面からだとやはり日本堤に出るしか道はありません。このように徒歩や駕籠、あるいは馬、舟で吉原に向かったのですが、町民が市中で馬に乗るのは元禄時代(1688〜1704)ごろに禁止され、柳橋から山谷堀の猪牙舟の値段も幕末には片道148文、駕籠はもっと値段が高いので多くの人は徒歩で向かいました。浅草方面からでも三ノ輪方面からでも徒歩だと吉原まで20〜30分はかかるでしょうか。

 新吉原ができた当初、日本堤は寂しい通りで追いはぎや辻斬りなどもあったようですが、元禄時代になると日本堤脇には店や人家が建ち並ぶようになったので、比較的安心して通れる道になったのでしょう。20〜30分という土手八丁の道のりはそんなに遠い距離ではありませんが、実際にはそれより遠い日本橋あたりからも大勢が詰め掛けたのです。しかし、吉原に行こうと思い立った日にはすでに心は上の空。志ん生のくすぐりじゃないけれど、「惚れて通えば千里も一里、長い田圃も一跨ぎ」とばかりに、武士も町人もそしてあるまじきことか僧侶までもが浅草田圃のなかの桃源郷を目指したのでございます。

 しかし、ちょっと目を転じてみますと、ここらはそんな桃源郷でないことがすぐにわかります。浅草から三ノ輪あたりまでの一帯は浅草寺を筆頭にやたらと寺社の多いところで、日本堤の西端、現在の大関横丁交差点の近くには吉原ととくに縁の深い浄閑寺があります。ここは通称・投げ込み寺と呼ばれているところ。病死したり心中したり、あるいは折檻されえて命を落とす遊女もありましたでしょう。遊女たちはもともとが身売りされた身の上なので、死んだら無縁仏として、「○○売女」という戒名をつけられ、文字どおり投げ込まれたのでございます。

 また、吉原から北の方角には小塚ッ原があります。南の鈴ヶ森と並ぶここは江戸の二大仕置場のもう一方。江戸時代を通じておよそ20万人がここで処刑され、その数は鈴ヶ森よりも多く、風向きが変わると死人を焼く何とも嫌な臭いが吉原に充満、妓楼などではそれを消すためにお香を薫いたといいます。いやはや何とも周辺は極楽と地獄があわさったような場所であり、男には桃源郷でも遊女には苦界。吉原はその典型だったといえましょう。



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