京・島原遊廓の概要

以下は、原田光風という武士がまとめた在京譚『及瓜漫筆』からの抜き出しです。凡例に「安政六年
といふ歳の秋九月」の日付があり、本文中の「いま」「現在」はその当時のことです(2004/04/16)


島原の廓

 島原は江戸の新吉原に似るが、また異なっていることもあるので、その概略を記す。

料金
太夫 76匁。もらい代24匁。
 馴染み女郎に限らず呼びたい女郎に先客があったとき、先客が上がっている揚屋へその女郎をもらいに行く。このとき首尾よくもらうことができると、この「もらい代」24匁がかかる。先客がいなければ定めのとおりの76匁で済む。天神と端女郎も太夫にならってもらい代がある。
天神 33匁。もらい代12匁。
 昔は価が25匁だった。だから北野天神の御縁日(25日)にかけて天神と呼ぶようになったという。また、太夫を松の位というのに対して梅の位ともいう。この天神を経て太夫になる。
 また、大天神と小天神の2つがあり、価は大天神が43匁、もらい代3匁だったが、宝暦元年辛未になくなり、いま、大小の区別はない。
端女郎 20匁、半夜13匁。もらい代8匁5分、半夜6匁。
 端女郎は口の茶屋でも呼ぶ。口の茶屋ではおよそ15匁、昼より夜四ツ時までは14匁、暮れより夜四ツ時までは8匁5分、夜四ツ時より暁まで11匁という定めだという。太夫や天神が口の茶屋に出ることはなく、この女郎だけがその端の茶屋に出て商売するので端女郎という。廓の作法で夜泊まりは揚屋に限られるが、宝暦2年壬申の年から口の茶屋でも泊まりはじめるようになった。
 往来では、打掛けはするが、禿を従えないし、かけ傘もしない。ただし、天神と遜色ない者は禿を従える。端女郎の優れた者から天神や太夫になる者がいるという。
鹿恋 18匁。もらい代8匁。
 太夫や天神に比べて、その体は相当にわびしい。だから、巷でさびしい人のことを「お茶を立てられる」などと呼んだことから、「かこい」という。昔は「囲」と書いた。また、静かな山奥に住む鹿は人恋しいだろうから、いつしか鹿恋という字を当てるようになったという。だが、140年ほど前の延享3年丙寅ごろに絶え、いまはない。
たいこ女郎 20匁、半夜13匁。
 太夫や天神は自分で三弦を弾くことはないので、三弦を弾いてほしいときはこの女郎を呼ぶ。だが、芸子が現れてなくなった。
芸子 たいこ女郎に同じ。
 昔はなかったが、宝暦元年辛未より始まったという。
局女郎 4匁。
 ただし、揚屋や茶屋から呼ぶときは、端女郎と同じ料金。
北向 1匁
 天和のころ、中堂寺村に住吉屋太兵衛という者がいて、廉価の女郎を多く抱えて繁昌していたので、島原がこいねがってこの廓に招いた。いまも揚屋町のうえに中堂寺町という町がある。
 北向女郎の価ははじめ銀5分で、のち1匁になった。だが、享保のはじめに住吉屋が絶え、以後、北向という女郎も絶えていまもない。

紋日
正月 大晦日、元日、2日、3日(この4日間は大紋日といい、庭銭が入る)、4日、5日、6日、7日、8日、20日、21日、25日、28日
[庭銭]
 庭銭とは江戸でいう総花のことである。価は定められていて、太夫は130匁、天神は50匁、端女郎は30匁である。庭銭は揚屋で受け取り、女郎屋内男女、揚屋内男女、町々の用人、東口と西口の門番のそれぞれで配分するという。
2月 朔日、初午両日、初卯、二卯(初卯は石清水八幡祭、二卯は御香宮御弓祭)、15日、21日、25日、28日
3月 [節句約束]2日、3日、4日(この3日間は庭銭が入る)、5日、6日、7日、8日、9日、14日、19日、21日、23日、24日、25日、28日、ほかに上の午(稲荷御出祭)、中の卯(松尾御出祭)
4月 朔日、8日、15日、21日、25日、28日、ほかに稲荷祭前後3日間、松尾祭、葵祭、山王祭
5月 朔日、[節句約束]4日、5日、6日(この3日間は庭銭が入る)、7日、8日、9日、10日、11日、15日、21日、25日、28日
6月 朔日、5日、7日、14日、19日、28日(住吉神事)
[住吉神事の由来]
 前記の廉価な女郎を多く抱えて繁昌していた住吉屋太兵衛は、泉州堺出身だったので、中堂寺村に居住していたとき、住吉大明神を信心し、その地に勧請して鎮守としたが、島原に引き移っても社は村に残しておいた。その後、社に霊験があるというので、多くの村人が信仰するようになった。あるとき霊夢を見た太兵衛は、島原内の自分の女郎屋の庭に社を移して、中堂寺村住吉の御旅所とした。この神事は5月28日だったが、中堂寺村に障りがあり、のちに6月になった。享保のはじめに住吉屋は絶えたが、御旅所へはその後もおびただしい参詣人があったため、廓の東側に社を移した。この社は「むすぶの神」と呼ばれている。というのも、縁遠い女子がこの社に願をかけると、良縁がまとまるという霊験があるからだ。
 御旅は毎年6月19日に始まり、同月27日・28日が祭である。神事の当日は廓中のすべての禿を練り物にし、すべての芸子を囃しに出す。27日にこの練り物と囃しが廓中を練り歩き、28日は廓の東口より出て中道を通り、丹波口より一貫町をのぼって中堂寺村住吉の本社を参詣する。そしてまた一貫町を松原通りへ出、大宮を下って丹波街道からあたらし町をさらに下り、南の野へ出て廓の西口へと戻ってくる。夜になるとよそから廓に、灯籠、作り物、俄など多くのものが持ち込まれ、夜明けまで京の町中の老若貴賎の群集がおびただしい。
御影供に続く大紋日だが、最近は昔と様変わりしたとある人が語ってくれた。
7月 朔日、7日、9日、10日、[盆約束]14日、15日、16日(この3日間は庭銭が入る)、17日、18日、19日、21日、23日、24日、25日、28日
8月 朔日、14日、15日、16日、21日、25日、28日
9月 朔日、3日(六孫王御出)、[節句約束]8日、9日、10日(この3日間は庭銭が入る)、11日(六孫王祭)、12日、13日、14日、15日、21日、25日、28日
10月 朔日、12日、13日、14日、15日、20日、ほかに亥の子
11月 朔日、8日、15日、21日、23日、24日、25日、28日、ほかに家々の煤払いの日
12月 朔日、13日、15日、21日、25日、28日、ほかに家々の餅搗きの日、節分

開基
 天正17年己未、原三郎左衛門と林又一郎という浪人が遊女屋渡世を御免蒙り、初めて冷泉万里小路に廓を開いた。武門出身者が始めたからだろうか、人々はこれを新屋敷と呼んだ。現在、原氏の子孫は上の町西南角の桔梗屋八郎左衛門、林氏は寛文年中に大坂へ引き移り、大坂新町の扇屋という家がその子孫だという。現在の下の町西南角の藤屋八郎左衛門屋敷が林氏の跡地である。

移転
 万里小路冷泉は東山殿の御酒宴の地である。いまの押小路、柳の馬場東へ入る町を橘町というが、これは昔、橘屋という揚屋があった場所の跡だという。その後、京の町は次第に繁昌し、家々が建ち並んできたため、慶長7年壬寅に六条へ移された。いまの室町新町西洞院の間、五条橋通下ルの2町四方である。島原の揚屋・炭屋徳右衛門が所持する家が、いまも新町五条下ル町にあるという。そして寛永18年辛巳の年、現在の朱雀野へ移された。

名称
 冷泉(いまの夷川通)に廓が開かれたとき、新屋敷と呼ばれた万里小路(いまの柳馬場)上に多くの柳の木があった。出口の茶屋などは柳の木の間あいだに暖簾をかけ、床机を並べていたのである。その後、柳林を伐採して一構えの町としたので、柳町と呼ばれるようになったという。また、六条へ移されたとき、廓の構えのうちに小路が三つあったので、廓は三筋町と呼ばれるようになったという(前記炭屋徳右衛門所持の家の近辺である)。そして現在の地へ移され、島原と呼ばれるようになったのは、肥前の島原一揆で世間が騒擾していたときに移転したからだという。

大廈
 女郎屋の大家は多数あるが、なかでも桔梗屋(上の町西側角)、大坂屋(揚屋町西北角)、三文字屋(大夫町東側)などが有名。揚屋では藤屋、角屋、升屋、三文字屋、桔梗屋、松屋、橘屋、巴屋、かぎ屋、井筒屋など、東西に計15軒あるが、なかでも大廈は藤屋と角屋であり、名立たる座敷がいくつもあるのは、よく知られているところである。茶屋では鎰屋(東口西側)、大和屋(東口道すじ南側)、平野屋(道すじ北側)、えび屋(道すじ北側)が江戸の大茶屋に相当する、わけて名高い茶屋である。

借りる
 知己の女郎がなくても女郎を借りたいのなら昼夜に限らず揚屋へ行けばよい。そうしたら太夫はもちろん天神、端女郎にいたるまで望みのままである。吸い物代は客一人につき4匁(料理がつくと5匁5分)。ただし、茶屋で太夫や天神を借りることはできず、借りられるのは端女郎ばかりである。茶屋での吸い物代は同3匁5分(料理がつくと4匁5分)。夜分にはほかにろうそく代として1挺に1匁ずつかかるが、女郎を呼べば揚代のほかは不要だ。

奇祭
 もぐらを出なくするまじないとして、年越しの夜、女郎、禿以下、芸子、仲居、下女などに至るまで、言い合わせて10人、20人、あるいは5人、7人と集まって組になり、太鼓や鐘を打ち鳴らし、頬かむりをした滑稽な姿で、「うごろもちはうちにか、なまこどののお見舞いじゃ」と囃し立てて家々へ入り、裏口へまで押し入って踊る。数え切れないほどの組が夜明けまで囃し立て、踊りつづけてたいへん賑やかだそうだ。

外場所
 天保中、洛中洛外では島原以外の遊女場がすべて公命により停止されたが、近年、また以前のように外場所御免となった。その場所は、祇園、二条新地、七条新地、五条新地、北野(七軒)などである。そのうち、膳所裏(祇園)、壬生森下(北野)などは価も相当に低く、江戸でいう局長屋のようなところである。一方、賑やかなのは祇園だ。井筒屋(古くから知られた家で、大石良雄の書や古い書画を多く蔵している)をはじめ、島村屋、若松屋、万屋、鶴屋、玉屋、井上屋、京屋、三浦屋、常井筒近江屋、三桝屋などが芸子も数多く抱え、島原に劣らない賑わいである。芸子の名を板行して売っているが、これは島原にない。祇園の繁昌は推して知るべしである。

(町割)
東西の距離に比べて南北が長いほぼ長方形。町割は新吉原とほぼ同じ。
新吉原に対する各町の名称は次のとおり。
 江戸町2丁目:上の町
 江戸町1丁目:中の町
 角町:大夫町
 揚屋町:中堂寺町
 京町2丁目:あげや町
 京町1丁目:下の町
伏見町に相当するところはない。入り口は東側と西側にそれぞれあり、水道尻にあたるところが西側の入り口。東西の入り口をメインストリートの道すじが結び、西側入り口から入って左側に番所がある。

参考『嬉遊笑覧』の記述
〈色道大鑑〉「島原の起源は原三郎左衛門(豊臣公の僕)という者、許命を得て天正17年、洛陽万里小路に遊里を建てる。その上方の道の左右に柳並木がつづいていたので、俗に柳の馬場といった。このとき各地に散在していた遊女屋がみな、ここへ集まってきたという。……名づけて柳町という。それから13年後の慶長7年壬寅に室町の六条へ移された。いまの新町五条下ルである。ここを三筋町という。そして40年後の寛永18年にまた新屋敷へ移された」。
〈一日千軒〉に「原三郎左衛門と林又一郎という二人の浪人が傾城町を願い出て開発したというのは誤りである。林又一郎は伏見を開発した者で、それから島原へやってきた。三郎左衛門の子孫は上の町にある桔梗屋である」。