お仕置 牛は翌朝、馬になり、出来心も許すまじ


 いたずらや悪さをした者は罰を受けなければなりません。吉原はお歯黒溝で囲まれた廓という特殊な世界ではございますが、人間が生活している空間ですから外の世界と同じようなトラブルやアクシデント、事件が起こりました。たとえば客の場合だと清算するときに勘定が足りないってことがあるでしょうし、遊女いじめを生き甲斐にしているような遣り手や楼主がいて折檻した挙句に命を落とした遊女もいたようです。それに男女が織り成す場所ですから、吉原を抜けだして駆け落ちする者もいれば心中もありました。そしてどのような事件であれ、起こせばそれなりの罰が待っていました。

 京や大坂の遊郭の遊女は一晩に客を一人しかとらなかったらしいのですが、吉原では『廻し』といって何人かを相手にしてもよいことになっておりました。籬の向こうから「登楼(あ)がっていってちょうだいよぉ」なんていわれてその気になって登楼したはいいものの、馴染みがやってきたりなどすると遊女は馴染みのほうが気心が知れていますから、つい長居をしてしまってほかの客はおろそかになりがち。待たされているほうは手酌で酒を飲みながら、「早くこっちにこいって花魁に言ってくんねえ」などと若い衆をせっつき、それでもやってこなければ酒も入っているのでいよいよ腹が立ち、喧嘩っぱやいお兄いさんだと、ようやっときた遊女に向かって手を上げたりすることも少なくありません。怒りの声と悲鳴は大声なのでよく響きます。遣り手や若い衆が何事かとやってきて「声を荒立てたら隣に響きますから」などと仲裁に入り、「俺も大人げなかった」と客が反省すれば、遊女と仲直りの盃を交します。

 しかし、結局、朝まで相方がやってこないこともたまにあったりする。相方はこなくても飲み食いの勘定を払わなければなりませんから、こんなときの客の怒りは相当なもんでありまして、腹いせに畳をむしったり、蒲団をやぶいたり、さらに蒲団の中におしっこや挙句に大のほうまで用を足して、何もなかったように蒲団をきちんとたたんでおくなんてこともあったようです。これはまあ、どっちもどっちなのでそんなには責められないでしょう。

 飲めや歌えのどんちゃん騒ぎで一夜を過ごした翌朝、支払う段になって勘定が足りなくなることはよくあったようで、端っから持ち合わせがないのに登楼するなどという不心得者もたまにおりました。福々しく堂々としているのでよもや金なしなどとは思えません。しかし、そういう恰幅のよい輩がなぜかよく無銭遊興をやらかすのでございまして、そこでついた呼び方が『恵比須講』。さらに明治になってからだと思いますが『法律』とも呼んだようです。これは屁理屈をたれ、ロハにしようと難癖つける者でありまして、実際、法科の学生が多かったとか。金なしで遊びほうけたくせに、さらになんだかんだといちゃもんをつけるのですから、タチが悪いったらありゃしません。

 勘定が足りなければ取り立てをしなければなりません。本人の身内など支払いのできそうなところに不足分を払ってもらうのですが、そこまで本人を連れていっては途中で逃げられる恐れがあるので、本人や連れがいる場合はひとりを吉原内で軟禁状態にしておきます。本人を通りにひきだし、側面に外を覗けるぐらいの四角い穴を開けた、人がひとり入れるぐらいの大きさの桶を逆さにして、上からかぶせるんですね。逆さの桶の上に大きな漬け物石を乗せれば逃げることはできません。新吉原開設から十数年間、このように晒しものにする『桶伏せ』は行なわれていたといいます。雪の降る日にこれをされたならば、さぞつらいものがあったことでしょう。

 桶伏せが行なわれなくなってからも、連れをひとり軟禁しておくことは引き続き行なわれました。取り立てが終わるまで行灯部屋に押し込めておくのです。行灯部屋ですから暗く、狭いところですが、1日に2回、握り飯とたくあんの食事が支給されて、晒し者にもされないのですから、桶伏せよりぐっと扱いはましになりました。また、付け馬というのも行なわれました。「ぎゅう(牛、及。明治になって妓夫)」と呼ばれた若い衆が付き馬になって客が用立てのできるところまで同行するのです。

 付き馬を代行するところもありました。馬屋とか始末屋と呼ばれているもので、中見世以上は前者へ、小見世以上は後者へ客を引き渡して取り立てを依頼し、これでも回収できないと始末屋は客の衣類はもちろん、持ち物一切を取り上げ、夏は裸、冬は古浴衣1枚で放り出しました。請負金額は不足金額の7割または半額となっており、始末屋は吉原の外、田町に青柳と越前屋の2軒があったことが知られています。このような商売が成立してしまうのですから、料金不足の客は相当いたのでしょう。これら2軒の主人はいずれも岡引をしていたということです。


 失楽園という言葉が流行語になって以来、「うちはダブル不倫よ」などと自慢気にのたまう者も少なくありませんが、ダブルならともかくシングル不倫だと発覚したらば家庭内で修羅場を見るのは明白でしょう。しかし、明けても暮れても同じ顔を見ていると、次にどんな行動をするかもわかってくるようになるようでありまして、そうなると面白くもなんともなくなる。つまり飽きてしまうわけでして、相手が馴染みの遊女だとて、たまには浮気のひとつもしてみたくなるのは、人情というものでありましょう。だけれども、浮気は気づかれぬうちが華。馴染みがいるにもかかわらず、ほかの遊女に浮気してバレちゃった男には、やはり相応の辱めが待っておりました。

「さっき、菊里さんのところに登楼したあの人は、熊造丸屋の月の戸花魁のいい人じゃなかったかな。よく似ていたよ」などと客は何気にもらすし、遊女は遊女で「今度そちらに登楼したら知らせてくんなし」と向こうの相方の遊女に手紙を送り、浮気の尻尾をつかまえようとします。夜が明けると遊女は客を大門まで見送る習わしになっていましたが、後ろめたいことのある客は「めんどくせえから一人でいいよ」と見送りを拒んだり、頭巾や手拭いで顔を隠して見送りしてもらうでしょう。しかし、何度も登楼したことのある馴染みですから、顔はすっかり覚えられてしまっています。花魁の命令で新造や禿(かむろ)と呼ばれる子どもなど数人が、大門のうちで月の戸の馴染みがやってくるのをいまか、いまかと待ち構えているのですから、逃げおおせられるもんじゃありません。下駄は脱げてあっちへ飛び、髪の毛をつかまれたり、叩いたり、挙句に用心桶の水をかぶったりの大捕り物の末に男はとっつかまってしまう。男は大門が吉原の唯一の出入口であることをさぞ怨んだに違いありません。

 つかまった男は遊女の座敷に通され、羽織や帯を解かれて薄着1枚の格好にさせられます。そして花魁や番頭新造などから馴染みがいるのに、どうして向こうに登楼したのかと詰問され、その非を問い質されます。こんなとき「つい、出来心で……」などと言ったところで許されるものじゃありません。何度も詰問され、顔に墨を塗られ、嘲笑され、腹が減ったからといって何も食べされてもらえやしません。やがて男が何度も謝り、花魁の気がすむと、遣り手や若い衆に男を案内した引き手茶屋の者を呼んで、処遇をどうするか相談します。このときの引き手茶屋は仲裁のような役目を負っていたのかもしれません。男と花魁は仲直りの盃を酌み交わし、男は総花と呼ばれる祝儀を払ってようやく解放されたのです。


 女の子を商品だとする現代の風俗店では、従業員の男はそれに手を出してはいけないとしているところが多いようです。当時の吉原でも若い衆と花魁が深い仲になるのは御法度でした。一般の商家では奉公人どうしが深い仲になると、ほかの店や奉公人にしめしがつかなくなるという理由で禁止していました。遊郭ではこのような理由のほか、若い衆が地色(いろ)になっては花魁が他の男に肌を許さなくなり、稼がなくなるのを恐れていたのかもしれません。奉公人どうしがこうなった場合、商家なら暇を出すかもしれませんし、二人の仲を考えて所帯を持たせてやることもありますが、遊郭では若い衆はクビにしても商品である花魁をクビにするわけにはまいりません。あるいは客とやることはやってんですから、妊娠することもあり、妊娠したらまず堕胎しなければなりませんが、それを拒否する遊女もいたでしょう。

 楼主はこういうとき遊女を折檻します。そのやり方は、柱や木に縛りつけて打擲したり、数日間、食事を与えなかったり、夏なら手足を縛って押し入れにも放り込んで蚊責めにすることもありますし、冬なら裸にして冷水を浴びせもしました。堕胎の場合は折檻するまでもなく、無理矢理手足を板などに縛りつけて身動きできなくし、取り上げ婆や中条流と呼ばれる者が堕胎をしたこともあったようです。一方、お茶を挽くことの多い遊女は、見世にとって不要なので、女衒(ぜげん)に頼んで岡場所に売り飛ばすこともあります。これを住み替えといいまして、遊女は希望をまったく無視された上に借金はさらに増えて、年明けは夢のまた夢、抜け出すこともほとんどできない蟻地獄的状況に陥ってしまうのでございます。遊女がある程度、歳がいっていれば若い衆と所帯を持たせてやることもあったようですが、しかし、このようなことは異例だったのではないでしょうか。

 遊女は借金を抱えています。女衒に売られてきたのならその代金の借金、最高級の花魁になればなったで自分の身の回りの世話をしてくれる禿や、新造にかかるいろんな費用を負担しなければならないのでまた借金がかさむ、つまり、楼主は花魁を年明けまで働かせるために借金でがんじがらめにし、遊女は借金を返済するために客を取るという構造になっている。だから花魁はすぐに借金を返したくもできないから、自分を身請けしてくれる旦那を懸命に探しております。身請けの金額は、宝暦(1751〜1764)以前の最高級遊女であった太夫の場合、350両とか太夫の体重と同じだけの重さの小判だったという例が残っています。もっとも、「太夫は大名の遊び道具」といわれたように、楼主は相手を見て身請けの金額をふっかけたこともあったでしょうが、女衒に売られた場合の料金でも50〜100両はしましたから、格下の遊女を請け出す場合でもその代金と同額ぐらい必要だったかもしれません。

 伝説によると、自分の体重と同量の小判で身請けされたのは三浦屋の太夫・高尾(俗に2代目)で、身請けしたのは仙台藩62万石藩主の伊達綱宗となっています。このとき楼主の三浦屋四郎左衛門は高尾の帯などに鉄を縫い込み、体重を20貫目(75kg)にして身請けさせましたが、船で隅田川を下って新橋にある伊達の屋敷に向かっている途中、高尾が情人の島田重三郎に操をたてて綱宗の意に従わないので、怒った綱宗は三股と呼ばれるところで高尾を船端に吊してその首を刎ねてしまった。これが歌舞伎などになっている「高尾の吊し斬り」事件ですが、綱宗が吉原通いをしていたのは事実でもその相手は高尾ではなく、まして吊し斬りにしたのはつくり話というのが真相のようです。しかし、吉原通いをしていたことが幕府に知れ、綱宗は万治3年(1660)、所行紊乱(びんらん)のかどで隠居を命じられました。伊達騒動の始まりとなった事件です。

 幕府は大名や武士の吉原通いをたびたび禁じ、目にあまる者を処分しました。たとえば春日野という遊女に熱を上げていた尾張藩・徳川宗春を押込隠居にし、7代目あるいは11代目といわれる高尾を身請けした姫路15万石の藩主・榊原政岑(まさみね)は、その高尾を国元へ連れて帰った咎で越後の高田へ転封のうえ隠居させられました。この11代目高尾を最後に高尾の名をつぐ太夫は絶え、三浦屋も宝暦6年(1756)につぶれました。太夫という階級がなくなったのもほぼこのころで、吉原へは武士よりも町人が多く通うことになります。幕府が禁じたこともありますが、相対的に町人の財力のほうが強くなっていったのです。

 武士以外では、坊さんは吉原に通うことはもちろん、女と密通するのは厳重に禁じられていました。今日でも宗派や地位によって妻帯が禁じられているところがあるようですが、当時は女とえっちしたことが発覚すると女犯の罪といって遠島、まあ江戸からなら八丈島あたりへ島流しになりました。しかし、吉原のあった浅草田圃といえば近くには浅草寺を筆頭にいくつもの寺があり、坊さんも少なからずいますから、なかにはしんぼうたまらんとばかりに吉原に行く不届き坊主もいます。坊さんは剃髪という目印があるからすぐにばれちゃうだろうって? いやいや、当時は医者も頭を丸めていましたから、しんぼうたまらん坊主は医者に化けて通ったんですねえ。そんな抜け道もあったわけです。

 ところで、身請けをしてくれる人はいない、しかし、廓勤めは金輪際ご免だという遊女は逃亡を画策します。若い衆のなかに不寝番(ねずのばん)といって、廊下や各部屋の行灯に油を注いでいる者がおりました。彼らは定期的に楼内を回って明かりを絶やさないようにしたり、逆に火の用心をしていましたが、さらに重要な役目が遊女の逃亡や心中に対する警戒です。吉原から逃げるには、大引けすぎの皆が寝静まったころにそっと塀を乗り越えて廓を抜け出すか、まだ大門の開いている時間にそこから逃げるかのふたつにひとつしかありません。遊女が男装していれば、深夜の大引け前だと四郎兵衛会所の見張りをごまかし、運よく逃げられることもあったのです。遊女は多くの場合、地色に手引きしてもらって、ふたりで一緒に逃げました。捕まったらひどい目にあうことがわかっていますから、逃げるのは命がけです。

 遊郭内では遊女が逃げたことがわかると、若い衆や捜索を頼まれた地回りなどが八方に散って行方を追いました。一方、逃げているほうはといえば、遊女というのは運動らしい運動をほとんどしていませんから、久々に走ったのですぐに息が切れて、これ以上は走れないということになる。なかには逃げ切れた者もいたでしょうが、捕まってしまうと男はすかたんに殴られ、蹴られ、女は後ろ手に搏られて廓に連れ戻される。その後、遊女は楼主や遣り手から折檻され、捜索にかかった費用の一切を背負わされて、さらに借金を増やしたのでございます。


 吉原では何を警戒しなきゃいけないかといって、筆頭クラスは刃傷沙汰でありましょう。たとえば歌舞伎や講談で有名な佐野次郎左衛門の吉原百人斬り事件というのがあります。佐野次郎左衛門は下野(栃木県)佐野の百姓でしたが、博奕場に出入りし、博徒との交流もあったので刀を振り回すぐらいの心得は多少はあったのでしょう。それが江戸町二丁目の大兵庫屋庄右衛門の抱え遊女・八橋にぞっこんになったのですが、八橋にはすでに情夫がいたので次郎左衛門にはなびこうとしません。元禄9年(1696)12月14日の昼近いころ、八橋はその情夫を大門で見送った後、同町二丁目の茶屋の立花屋を訪れると、前夜に大兵庫屋でその情夫とばったり出くわした次郎左衛門がまだいるというのです。八橋にとって次郎左衛門は情夫ではなくとも馴染みなので、挨拶のひとつもしとかにゃなるまいと茶屋に上がりましたが、次郎左衛門は「先ほどまで男と懇ろだったのか」と思うと、可愛さあまって憎さ百倍。たちまち嫉妬の炎がめらめらと燃え上がり、刀を抜くと八橋の首を切り落としてしまったのです。芝居だとそれから次郎左衛門は大立ち回りを演じるようなのですが、実際には止めに入った若い衆など数人に傷を負わせて次郎左衛門は茶屋の二階から屋根にあがり、屋根から屋根に飛び移っていく途中で足を滑らせ、地面にころげ落ちたところを取り押さえられたようです。その後、町奉行が次郎左衛門にどのような裁きを下したのかは知られておりません。

 佐野次郎左衛門の百人斬り事件から20年ほど経ったころ、巷では心中事件が相次いで起こっていました。近松門左衛門が「曾根崎心中」「心中天網島」などの心中ものを著してからブームになったのでありまして、ある年など大坂だけで1年間に50件近くの心中事件が起きたというのですから尋常な数じゃありません。しかし、吉原では遊女と客の惚れあったどうしが一緒になるには遊女を身請けしなければなりませんし、それができずに駆け落ちしても失敗すれば、あの世で一緒になろうと考えるのは、当時は極めて自然な考え方であったのかもしれません。心中のやり方は互いに短刀で突き合うこともありますが、あらかじめ時間を決めておいて、それぞれ別の場所でその時間に決行することもあります。そのとき女は短刀で咽喉を突いて自決するのですから、現場は凄惨さを極めていたそうです。もっとも、死ぬほうは清らかな気持ちであっても、どんなやり方であれ自殺現場は決して奇麗なものじゃありませんが。

 巷で増加一方の心中に頭を痛めていた幕府は、相対死(あいたいじに)というなんとも素晴しいネーミングをして、一連の享保の改革でその取り締まりを強化します。すなわち、男だけが生き残った場合、女に手を下した科、つまり下手人(斬首刑)となり、女だけが生き残ったり、両方とも生き残った場合は江戸なら人通りの多い日本橋で裸にして3日間晒し者にした後、非人手下(てか)にしました。男女とも死んだ場合もやはり裸にして3日間、日本橋で晒しました。見せしめにして減らす効果を狙ったのです。なお、幕府が心中をわざわざ相対死と名付けたのは、心中の文字をひっくり返してひとつにすると「忠」の字になるので、それを嫌ったためだという説があります。また、非人手下という罪は非人の身分にするというものですが、非人頭にお金を払えばまた平民身分に戻ることができるという救いがあり、楼主のなかにはこうしてまた遊女を見世に出した者もいるようです。

 4000石の高禄旗本・藤枝外記教行(げき のりゆき)28歳と、京町二丁目の大菱屋久右衛門の抱え遊女・綾衣(あやきぬ)19歳が、吉原近くの千束村の一農家で心中したのは、天明5年(1785)8月13日のことでした。藤枝家は3代将軍家光が妾にした京の町人、お夏の父・弥市郎を士分に取り上げたのが始まりで、将軍家とは遠縁にあたります。外記はもともと500石取りの旗本・遠山家の出でしたが、藤枝家に養子に入って4000石取りとなり、2500石取りの旗本の娘を妻に迎えました。500石取りが一足飛びに4000石になったのですから、安泰な将来を保証されたようなものなのですが、何が不満だったのでしょうか、もともとの身分の低さと養子に入ったことが劣等感になっていったのかもしれませんし、一人残った藤枝家の養母に頭が上がらず、自分の一存で何事も決められない不自由さに窒息状態になっていったのかもしれません。外記は家に寄り付かなくなり、吉原に入り浸るようになります。その相手が綾衣で、藤枝の養母は外記の放蕩をたびたび諌めたようなのですが、外記は聞く耳を持たず、二人は将来を約束しあうほどの仲になっていきました。折しも吉原は仮宅営業中で遊女は抜けだしやすい状況にあり、両国回向院前の仮宅にいたらしい綾衣と駆け落ち。そして知り合いだった千束村の農家に逃げ込み、外記は綾衣を刺し殺してから、割腹自殺しました。世間は外記の行為を笑って「君と寝よか 五千石とろか なんの五千石 君と寝よ」という唄にし、藤枝家は改易、お取りつぶしになりました。

 心中した者の末路は悲惨ですが、葬られ方も哀れなものがあります。吉原では心中で死んだ遊女は素裸にして手足を縛り、荒菰(こも)で簀巻きにして浄閑寺、通称・投げ込み寺に葬りました。こうすれば地獄で畜生道に落ちないからだとか、犬猫並みの畜生にして葬らないと祟るからだとかいわれています。心中した者はあの世で一緒になろうと考えて死ぬが、現世の者は心中した者はいずれにせよ地獄に落ちると考えている。実に対照的です。



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