昼の世界 さとの昼錦の裏に異ならず



 幕府の命令で明暦3年(1657)8月、遊郭吉原は現在の日本橋人形町から浅草の裏手・日本堤に移転し、江戸から遠くなる見返りに夜の営業が許可されました。以後、吉原は昼見世より夜見世が中心となります。客の多くは夕方からやってきて、見世の格子の奥から響いてくる清掻(すががき)という三味線の音に誘われて、次々と引き手茶屋や見世へ吸い込まれていきました。このような華やかな夜に対して、昼は比較的のんびりしたものだったと言われています。実際のところはどうだったのでしょう。

 山東京伝の洒落本に『青楼昼之世界錦之裏』(寛政3年=1791刊)という作品があります。これは摂州川辺郡の神崎という廓の、ある冬の明け方から昼七ツ(午後4時ごろ)までが舞台で、時代も後一条帝の御代(1016〜1036年)になっていますが、その時代に廓があったという記録はありません。寛政2年10月に洒落本禁止令が出され、取り締まりの目を逸らすためにそうしたのであり、また花魁、新造、禿、中郎(中老)など、吉原でしか使われない用語が頻出しますので、吉原のうがちであることは明らかです。そこでこの『錦之裏』をベースに、情景を石川雅望の戯文『吉原十二時』(刊行年不明)などで補いながら、吉原の昼の世界をみていくことにします。なお、原文はさと言葉を残しながらも、意味のとりにくいところは現代語訳し、仮名も現代仮名遣いに改めています。また、説明に既存項目と重複するところがかなりあります。ご了承下さい。

夜明け

 東雲の空が明るくなり始めるころ、茶屋の男が妓家の二階の座敷に泊まっている客を迎えにやってきます。妓家は二階建てで、ふだん遊女はこの二階で生活し、接客します。客はその座敷で寝ていました。中見世や大見世の遊女を揚げる場合、必ず仲之町の通り沿いにあった引き手茶屋(たんに「茶屋」ともいう)を通さなければなりません。前日、客はまず茶屋に入り、そこで遊女を呼んでもらい、茶屋男の案内で遊女と見世へ登楼し、朝は茶屋男の出迎えで帰りました。早いときは曉七ツ(午前4時ごろ)に茶屋男が迎えにまいります。

茶屋男「艶(えん)さん、お迎えに参りました」
艶次郎「ふあァ、もうそんな時分かの」
茶屋男「おっしゃったよりは少し遅いくらいでござります」
艶次郎「(一緒にきた)喜之助や志庵はどうした」
茶屋男「喜之さんはただいまお支度をなすっておいでなされます」
 と言っているところへ志庵が相方・夏色の羽織を取りに座敷へやってきます。また、喜之助も顔を拭きながらやってきました。
艶次郎「さあ、すぐに帰ろう」

 これは京伝の『通言総籬』(天明7年=1787刊)に出てくる朝の場面です。この後、三人は茶屋の男と駿河屋という茶屋に向かうのですが、普通はその日揚げた馴染の遊女も同道し、茶屋ですべての支払いを済ませ、茶屋で遊女と別れます。深い馴染は大門までついてきました。遊女と別れてからも、茶屋で酒を飲み、かゆをすすり、亭主やその女房と雑談などをして、しばらく居続ける客もいます。明け六ツ(午前6時ごろ)の鐘が響いてくるこのころ、吉原のメインストリートである仲之町には、眠そうな顔をした客、腹立たしげな顔をした客、うれしいことがあったのかにこにこしている客、茶屋男に何かぶつぶつと文句らしきものを言っている客、すがすがしい顔をした客などが、女郎を伴い、あるいは茶屋男と、あるいは一人だけで、歩いていました。大門口で屋台の茶飯やそばをすすっている客がいます。

遊女「きっとまたお出でなんし。待っておりィすよ。そして何さんも連れてお出でなんしえ」
客男「明日は用があるのであさって、うん、あさっての晩はきっとこよう。あァ、連れてくるよ」

 茶屋や大門ではこのような会話が行なわれていたのでしょう。そして一通りの挨拶が済むと、客は後ろ髪を引かれる思いで吉原を後にします。これがいわゆる後朝(きぬぎぬ)の別れです。初めて登楼した「初回」や二回目の「裏」を返したまだ馴染になっていない客と女郎は、見世の階段の降り口のところ、あるいは階段を降り、見世の出入口のところで別れます。仲之町では帰り客に交じって棒手振り(ぼてふり=商人)が、早くも声を張り上げて商いをはじめています。

 そのころ、『錦之裏』の主人公である吉田屋喜左衛門抱えの夕霧が「おお、つめた」と言いながら階段を上がってきました。階下の台所では米をつく音が響いています。振袖新造のそらねが夕霧の駒下駄と自分の下駄を持ってついてきています。夕霧はこのさといちばんの全盛と言われる呼出し。客を茶屋まで送ってきた帰りのようです。二階の廊下には、行燈、昨夜の杯盤狼藉の後が伺える盆や盃台、茶碗の転がった茶台が座敷から運び出され、並んでいました。寝ずの番の起介が雲雨の契りを拭った紙屑を掃き集めています。掃除は客が帰った座敷からすぐに始めましたが、大見世ともなると広く、部屋数も多いので、昼近くにようやく終わるところもあったようです。

そらね「おや、もう掃除がきたようだ。いっそ匂うよ」
夕霧「起介どん、どうした。足から血が出てるよ」
寝ずの番「台の物の松のくぎで踏み抜きをいたしました」
夕霧「おや、危ねえ」と言いながら座敷の火鉢をかき回しています。炭が燃えつきていました。「そらねさん、下におきができているだろう。ちっと持ってきな」
 そらねが「あい」と返事をして階下に降りていきました。

 遊女の最高位だった太夫が宝暦年間(1751〜1764年)に消えた後、散茶女郎が格上げされ、呼出し、昼三、附回しというランクができました。呼出しは揚げ代が昼夜で1両1分(1両=4分)するその見世のトップの花魁(おいらん)、昼三(ちゅうさん)は呼び名のとおり3分、附回しは2分の花魁です。呼出しと昼三を合わせて便宜的に昼三と呼ぶこともあります。ふだん生活する自分の部屋のほかに、座敷を2部屋持っていました。さらにこの下に張見世をする座敷持ち(自分の部屋と座敷1部屋を所有)、部屋持ち(自分の部屋だけを所有。自分の部屋で客を接待する)という遊女がいます。附回しでも張見世した者がいました。

 また、振袖新造(略して振新、またはたんに新造)は13〜17歳ぐらいの将来の花魁候補で、姉女郎の花魁についてその雑用をこなすほか、姉女郎に一晩に複数の客がついたとき、その名代として客と添い寝をすることもあります。ただし肌を許すことはありません。新造より年下の女児は禿(かぶろ、訛ってかむろ)と呼ばれます。また、寝ずの番(不寝番)は夜起きていて女郎部屋の行燈に油を注したり、火の用心のために廊下を回ったり、時を知らせる拍子木を叩いたり、このように朝、掃除をした男のことです。妓家の雑用男は「ぎゅう(牛、及)」とか「若い衆(わかいし)」「若い者」と呼ばれます。その寝ずの番が踏み抜いた台の物とは料理の膳のことですが、料理そのものを指すこともあります。

 ほどなくして遣手(やりて)がやってきて、「花魁、おはようござります。昨日は大いにくたびれましたよ」と声をかけてきました。夕霧が笑っています。
夕霧「もし、ちょっと見なんし。夜舟さんの寝た形(なり)を」
 番頭新造の川竹が二つ折りにした敷き布団のなかで寝ていて、その脇で、振袖新造の夜舟とあしかのの二人もまた、畳の上へ直に横たわり、布団を被り、枕を外して死人のように寝入っていました。
遣手「この子たちも、形ばかり大きくって、客人へ出ろと言えば嫌がるし、困ったものでござります」
夕霧「さっきからわからぬ寝言ばかり言っていいすわな」
遣手「ばからしいねえ」

 遣手は、女郎上がりで多くは40歳ぐらいの年配、どんな大見世であっても妓家に一人しかいなくて、楼主に代わって遊女らの身持ち、行儀のしつけなど、二階の諸事一切を引き受けていました。遊女の逃亡を監視する役目も負っていたので、遣手部屋は人の行来きが見やすい、階段を上がったところにありました。また、番頭新造(略して番新)も女郎上がりですが、花魁の身の世話をする、いわばマネージャーのような者です。多くは30歳前後ぐらいですが、なかには振袖新造からすぐ番頭新造になる者もいました。妓家が寝静まるのは大引けすぎ(午前2時ごろ)なので、新造も遊女も客を帰してから二度寝をするのが普通です。なお、この時代に掛け布団はまだなく、袖のついた夜着というものにくるまって寝ていました。掛け布団が一般的になるのは幕末のことだと言われています。

 折りから廊下が急にかまびすしくなりはじめました。数人の新造が客の男と階段を上がってきます。男の頭巾がいまにも落ちそうです。ひと悶着の末、大門口で待ち伏せしていた新造に捕まった男が連れられてきたのです。

男「静かにしてくれ。外聞(げえぶん)が悪(わり)い」
なべづる「気が違ったそうさ。てんでに悪いことをしなんしたのに、人が知ったことのように」
男「気のぼせがするわえ」
うで巻「私らはぬしのお蔭で暗いうちから冷えかたまりィしたわ」
恋かぜ「虫がいい。ぬしが始めなんしたろうに」
 などと新造たちは口々にわめいています。客はクモの巣にかかったトンボのように、体形は大きくてもなすすべがなく、ゆっくりと奥二階の花魁・ぐち里の座敷へ入っていきました。

 客は遊女と馴染になると、ほかの遊女へは登楼してはならないという不文律がありました。しかし、浮気は男の習性のようなものです。ある遊女を何度も揚げていれば、やがて飽きてきますし、そうなれば別の遊女を揚げてみたくなるのは人情でしょう。遊女もそのへんはある程度心得ています。そこで「附け断りの文」というものを書きました。馴染がそちらの妓家に登楼したら知らせてほしいという内容の文章で、菓子を添えて禿に持たせて届けさせました。受け取った側は、その客がきたら知らせるのがルールです。そしてほかの妓家に行ったことがわかると、翌朝早くから新造たちが大門の近くに隠れて、その客がやってくるのを待ち構えます。運よく逃げおおせる者もいますが、大勢の新造に囲まれては多勢に無勢、抵抗もむなしく客は捕まってしまいます。この捕り物について、十返舎一九は『青楼年中行事』(享和4年〔文化元〕=1804刊)で次のように書いています。

「客、馴染みし家にいたらず、他の倡家に行きて馴染み遊ぶを制すること、この廓(さと)のならわしにて、はじめ馴染みし女郎の方よりさきの女郎へ附け断りの文をつかわし、もしその客来るときは告げ知らすべきことを頼みやる文言に、菓子、肴などを添えて送る。されど、かの方に意味ありて知らせざるときは、新造に指揮して大いに埋伏させ、客の帰路を待ち受けて捕え来たるその騒動、いわんかたなく、新造、駒下駄の鼻緒を切りて溝へ踏んごみ、客、用水桶を小楯となして手桶の水を頭よりかぶり、誰(たそ)や行燈をひっくりかえし、井戸端にすべりこけて軒下の犬を驚かし、贈り物を下げ行く茶屋の男に鉢を割らせ、うろたえても肥え取りの天秤棒には行き当たらず、逃げ出す羽織は斜めにひらつき、追いかかる振袖は朝風にひるがえり、見物人の山をなして行く道を遮り、ついに多勢に捕えられてかの馴染みの家に至る」

五ツ時(午前8時ごろ)

 遊女らはまだ熟睡しており、居続けの客も涎を垂らしながら、白河夜船で遊女と昨夜の夢の続きを見ています。勘定が足りず、帰れない居残り客は、茶屋や小見世の狭く、薄暗い行燈部屋で軟禁状態にされ、家人が支払ってくれるのを寂しく待ち侘びていました。奥二階のぐち里の座敷の新造たちが、捕まえた客をどうしてくれようかと、まず仕着せの古い振袖を着せ、フクロウに小鳥がたかったように茶かしています。

うで巻「煙草もなりんせん」
なべづる「いま、坊さんにしておあげなんす」
恋かぜ「ぬしを坊さんにしたらどんなだろうのう」
なべづる「気のせいか、もう坊さんじみてきさしったよ」
うで巻・恋かぜ「ほんにねえ」
うで巻「茶屋も憎うおざんす。こないだ暖簾をはずしてきたとき」
なべづる「あんなに大口をたたいてのう」
恋かぜ「まァ、この町をとめてやりィすがいいのさ」
なべづる「恋かぜさん、川村の前(めえ)へ引き摺り下駄を捨ててきたから、取ってきなんしよ。むだ夕さんはどうしたの」
恋かぜ「あの子は二丁目の溝(どぶ)へ踏んごみんして、下で足を洗っていなんすよ。ぬしは私をひっかきなんした。ちょっと見なんし。血がでていんすわ」
うで巻「私が袖をばお破んなんすし。またお針衆(はりし)に小言を言われんすわ」

 客は非が自分にあるため、新造たちの言われるままで言い返しすこともできず、黙りこくっています。そこへ馴染の花魁・ぐち里がやってきました。知らせを受けて茶屋も駆けつけてきました。恋かぜが「町をとめる」と言ったのは、江戸町なり京町なり、その町すべての妓楼に登楼するのを禁止するという意味です。もっともそれはできないでしょうが、二階をとめること、つまりその妓楼への登楼を禁止することはできます。反対に許されることを「二階が明く」と言います。大門で新造に捕まらず、運よく逃げられた客はまず二階をとめられたはずです。この客も二階をとめられるようなことをしたのですから、頭を下げて詫びを入れた程度では済まされないでしょう。なべづるの話に出てくる竹村とは、江戸町二町目の角にあった菓子屋、竹村伊勢のことです。その巻煎餅(まきせんべい)は吉原一の名物と言われ、また最中の月という菓子も評判でした。

 昼四ツ(午前10時ごろ)近くになって、二度寝をしていた者たちがようやく起き始めます。世間ではとうに朝飯が済み、仲之町では、汲み取り桶をかついだ近くの農民、お針と呼ばれた仕立屋、道具箱を下げた髪結などが忙しそうに歩いています。ぐち里の隣の座敷の部屋持ち女郎・車井が、いま目覚めたらしく、鏡に向かってうがいをしていした。禿のつなじが階下よりやってきました。汚れて黒光りしている仕着せに、色あせた板締の細帯を締め、目をこすりこすりしています。こちらも起きたばかりのようです。

車井「つなじか」
つなじ「あい」
車井「いいところへきた。煙草を吸いつけてくりや」
つなじ「あい」
 と返事をして火鉢をかき回してみますが、火が消えていたので、つなじは遣手部屋から煙管を吸いつけて持ってきます。
車井「ええ、もうべらぼうらしい。火が消えたわ」
 車井が煙管を火鉢の縁で叩いているところへ、茶屋男が急いでやってきました。
茶屋男「もし、花魁。蛙声(あせい)様がお煙草入れをお忘れなすったそうでござります」
車井「床のなかにあるか、見ていって下せえ」
 茶屋男が床を探して見つけ出しました。
車井「まだそちらの家(うち)にいさっしゃるのか」
茶屋男「さようでござります」
 と言うが早いか出て行くところへ茶屋女がやってきました。
茶屋女「もし、花魁。お文(ふみ)をお出しなされまし」
車井「今日は人が行くか」
茶屋女「遣わします」
車井「そんならちっと待ってくだせえな。これ、そちらのところのいつもの瓜のこうこ(漬け物)はもうねえか」
茶屋女「まだござります。上げましょうか」
車井「そんなら文を書いているうちに持ってきてくだせえ。後生だよ」

 蛙声というのは表徳(俳名)で、馴染客は本名の代わりにこのニックネームをよく使います。これから昼見世の始まる昼八ツ(午後2時ごろ)まで遊女たちの自由になる時間。せっせと馴染客への文を書いたります。次の紋日には必ずきて下さいとか、夜着がほしいので買って下さいという、営業か無心の文章がほとんどのようです。返事は早ければその日の夕方には届いたようです。『通言総籬』に夕方、禿のめなみが茶屋へ返事を聞きにくる下りがあります。

めなみ「もしえ。お藤さん(茶屋の女房)に花魁がおっせえす。『今朝の文を届けておくんなんしたか』と」
女房「むむ。そう申してくりや。今朝ほど、三保蔵に持たせて遣わしましたが、お留守だと申してご返事は参りませんと」と勝手のほうを向き、「のう、三保蔵、ご返事はこなんだのう」
奥より三保蔵「まいりません、まいりません」
めなみ「そんならそう申しいしょう」

 文を届ける者は文使(ふみづかい)といい、三保蔵のような茶屋や船宿の若い者の仕事でした。うっかり客の女房に渡そうものならその間で喧嘩になることもありましたから、けっこう気をつけなければならない、大事な仕事でした。

 昼四ツ少し前、吉田屋の階下の出入口近くでは、男髪結の吉平が禿の髪を結っていました。柿色の地で藍色の太字で「吉田屋」と染めてある暖簾が、髪結の道具箱にかかり、半分めくれ上がっています。髪を結ってもらっている禿は、落ちそうにちょこんと牛台に腰を掛け、きんかんのほおずきをおもちゃ代わりにして遊んでいます。牛台は見世が始まると若い者が乗り、客を案内する台です。ほかに三人の禿が順番を待っていました。

 禿の髪を結っている前の部屋は遊女が張見世をする部屋です。ここに籬と呼ばれる格子戸がはまっていて、籬の形で見世の格がわかるようになっていました。全面が籬なのは大見世(総籬)、上半分に何もなく、下半分だけ籬のところは小見世(総半籬)、上半分の片面が籬(全体の4分の3が籬)のところは中間なので中見世(半籬)です。吉平が入り口の奥に目をやると、内証(亭主の部屋)と廊下をはさんで階段が見えます。

 画像は『錦之裏』の挿し絵で、右側に牛台に座った禿とその髪を結っている男髪結がいます。その前の格子が籬です。左側に座っているのは魚屋です。少しわかりにくいでしょうが、その前に魚の入った盤台(はんだい)がふたつ置かれています。

吉平「これ、じっとしていねえか。てめえのように動(いご)く者はねえ」
待っている禿「吉平どん、おれは奴嶋田はよして針打に結ってくだせえ。花魁がそう言わしった」
別の禿「次はおれだよ」
もう一人の禿「あつかましい。きさまなものか。おれが先へきたわ」
吉平「この子どもらは、よう毎朝(めえあさ)、毎朝、いがみあう。ちっと静かにしねえか」

「禿の髪は男の髪結が結うものである」と原文に説明があります。これに対して遊女らの髪は、明和(1764〜1772)ごろ登場したと言われる女髪結が結います。女髪結は初めはもっぱら遊女の髪を結っていましたが、20〜30年後の寛政のころから町人の髪をも結うようになりました。口が大きくなるからほおずきを吹いてはならぬと言われていましたから、この禿も戒めを堅く守っていたのでしょう。そのころ、庭先では出入りの魚屋が盤台を並べていました。料理番の文介と源七が、今宵、客に出す魚を吟味するのを、大黒柱の際にいる亭主の喜左衛門が煙管の先で指図していました。

魚屋「おめえさん、これはいい鯵でござります。生麦でなくっちゃァこんな丈長の鯵は捕れません」
喜左衛門「文介、吸い物魚はそれでいいか」
文介「はい。こいつァいい地ビラメだ」
魚屋「いい魚でござります」
源七「旦那さん、ナマコもちっとお取んなさいまし」
魚屋「このナマコは榎堂でござります」
文介「車エビをもちっと入れさっせえ」
喜左衛門「なぜ魚があるのに、そねえに高いのう」
魚屋「しけの挙句でござりますから安くござりません」

 榎堂は榎戸の訛で、生麦、榎戸ともに現在の神奈川県内の地名です。魚屋の前後に八百屋もやってきているに違いありません。同じ時刻、仲之町の江戸町二丁目の角では八百屋が、また角町の角では魚屋が大勢集まって商いをしています。そのため江戸町二丁目の角は青物市場、角町の角は肴市場とも呼ばれていました。

四ツ時(午前10時ごろ)

 二階の夕霧の座敷では新造皆々が起き始めていました。番頭新造の川竹の頭には、今朝起きて髪の乱れを掻き上げたまま、すぐに挿したと見える櫛が落ちそうにかかっています。「川竹は二階の新造頭で間もなく年季明けを迎えようとしている」と説明があります。遊女の年季明けは27〜28歳ぐらいですから、川竹の年齢はその近くで、振袖新造から直接番頭新造になった花魁経験のない新造であることがわかります。振袖新造のあしかのと夜舟の着物の衿は真っ黒で、顔につけた白粉はところどころが剥げ落ち、雪の消え残りのように見えます。夕霧が無心を頼んだ客からの返事を読んでいる後ろから、ほうきを持ち、掃除を始めた川竹が覗き込んでいます。これから遊女らは風呂に入り、食事を取ります。

夜舟「夕べ見えなんだ歌かるたが夜着の袖から出んしたよ」
夕霧「それみなんし」
川竹「おめえがたァ、さっさと湯に入ってきて、床の間やれんじを拭きなよ。何もかもごみだらけになっているわ」
 と言いながら紙を引き裂き、火鉢の灰のかたまりを拾い出し、その縁を拭いています。禿の雪野がやってきました。
川竹「雪野や、湯に誰かいるか、見てきてや」
雪野「いま見てめえりィしたが、外の人は誰もおりィせん」
川竹「花魁、お出でなんせんか」
夕霧「わたしはもうちっとして参じよう。いま、ちっと考えていることがおざんす」
川竹「あしかのさん、わっちが湯にいってくるうちに、花魁の膳とわっちの膳を用意して、お湯も沸かして。それから雪野や、糠(ぬか)を入れて、浴衣を持っておいでや。喜の字屋の書付も取ってきや。早くしやよ。花魁が気をよくさっしゃるから、みんな、ずるくなって」
 川竹はそう言い残して湯へ行きました。

 大見世には内湯がありましたが、振袖新造や下級の女郎は姉女郎をはばかって内湯には入らず、もっぱら外の湯屋を利用しました。雪野の「外の人」というのは、ほかの妓家の女郎という意味ではなく、居続けの客を指しているのでしょう。内湯にはまず居続けが入り、次に女郎たちが入りました。もっとも内湯を嫌って外湯を利用する居続けもいました。糠は布袋に入れて石鹸のように身体を洗うのに使います。これで洗うと乳液状の液が出て肌がしっとりとしますが、二度以上使うと逆に荒れるので、一度使ったら湯場で糠を捨て、布袋は持ち帰りました。喜の字屋は仕出し料理屋のことで、台の物屋、台屋とも言います。料理の料金は1分か2朱(4朱で1分)の2種類しかありませんでした。酔郷散人(沢田東江)の『吉原大全』(明和5年=1768刊)に次の記述があります。

「享保(1716〜1736年)の末、仲之町に喜右衛門という者あり。元来小田原生まれにて、身上も相応なる者なりしが、零落して吉原へ入り、ここかしこに徘徊しておりけり。もとより料理など巧者にしければ、ふと台の物屋を思いつきて、角町の角、鳴瀧屋与右衛門といえる商人の家を買いて所帯を持ち、台肴などをこしらえ売りける。珍しき仕出しなりとて評判よく、喜の字が方へ肴を取りに遣わすべきなど言いはやしければ、自然と喜の字屋と呼びなわらしける。いまはすべて台肴屋の家の名となりぬ」

 喜の字屋にはその日の料理を記した小さな紙が何枚もつるしてありました。この書付を取りに行くと1枚渡され、気に入ったものに印をつけて料理を受け取ります。金平牛房(こんぴらごぼう)、照鰯荒(てりごまめ)、小肴骨煮附(こざかなあらにつけ)、蒲鉾、河茸(かわたけ)、漬蕨(つけわらび)、かれい煮付、新生姜丼蕗焼(しんしょうがふりやき)、辛螺(にしさざえ)、木之芽槽(きのめあへ)吸物、結残魚(むすびぎす)、鯛麺葛掛(あんかけ)などの料理がありました。

 遊女が湯から出てくるころから昼見世が始まるまで、見世にはさまざまな人が訪れます。遊女の里親がやってきて娘と面会し、医者が訪れて病人を回診し、花の咲くころになると、花屋がそれぞれの座敷を訪れて、花瓶に花を生けてまわります。不埒なことをした女郎を遣手が折檻するのもこのころです。頭にかんざしを2、3本挿し、荷を肩にかついだ小間物屋が通りかかり、夕霧の座敷を覗き込んで頭に挿したかんざしを引き抜きました。

小間物屋「花魁、このかんざしは今度つくらせたものですが、鼈甲がとんだいいものです。取っておきなされませんか」
 夕霧は差し出されたかんざしを受け取り、日に透かしてみました。
夕霧「ほんにこりゃいいよ。死ぬほどほしいが、いまはちと相談ができんせんから、明日までに売れずにいたら、持ってお出でなんし」
小間物屋「あい。それでしたら今日中に売れなければ、明日、持って参りましょう」
 そこへ川竹が湯から戻ってきました。
川竹「わたしのこうがいね、うき(鼈甲の合わせ目のすき間)が出んした」
小間物屋「直してあげましょう」
 奥二階から部屋持ち女郎のあだ崎がきました。
あだ崎「ついでにこの櫛も直しておくんなんし。どうぞ早くお頼ん申しィすよ」
小間物屋「かしこまりました」
 この櫛は昨夜、色男と痴話喧嘩をして折れたもののようです。振袖新造もやってきました。
振新「指の輪はまだできんせんか」
小間物屋「明日できます。比翼紋(自分と男の紋が入ったもの)だっけね」
振新「静かに言っておくんなんしな。ばからしい」
 と恥ずかしがるのも新造の精いっぱいの楽しみのようです。
小間物屋「ちょっと浮里さんのところに行かねばならぬ」
振新「浮里さんのところには、たしか居続けがあるよ」
 小間物屋が「ほい」と返事をして座敷を出ていきました。浮里は夕霧の隣座敷の花魁です。

 振新が橋箱と蒔絵の八寸膳を出し、茶漬け茶碗を並べはじめました。火鉢にかかっていた土瓶の湯が沸き始めています。このように花魁や番頭新造の食事は、妹分の新造や禿が準備しますが、一緒に食べることはありません。一階の台所でとります。

川竹「雪野や、おれのくし箱の錠のおりる引き出しに金があるから、二朱持って喜の字屋で買ってきや。鍵は用箪笥の引き出しにあるぞよ」
雪野「ここにゃァ鍵はおざりいせん」
川竹「うろうろしめえよ。手めえ、夕べ入れたじゃァねえか」
 川竹は禿が持ってきた喜の字屋の書付を見て、気に入ったものに印をつけ、取りにやらせました。
川竹「夜舟さん、茶箪笥にじゃぜん豆と唐辛子があったろう。ここ出しな」
 じゃぜん豆は座禅豆の吉原訛りです。
夕霧「貝柱を取りにやって、帆立貝で煮ようじゃァおざんせんか」
川竹「取りにやりんしょう」
夕霧「行平鍋はどうしたのう」
川竹「誰かがとうに割ってしまいんした。あしかのさん、今朝の惣菜は何だ」
あしかの「たしか芋の油揚げでござりィす」
川竹「恐れ入るね」
あしかの「またでござりィすよ」
 などといろいろに食好みをし、喜の字屋から取り寄せたものや台所から持ってきた惣菜、とっておいた煮豆、瓜のこうこなどで朝飯を食べおわると、夕霧は長々とうがいをし、煙草を2、3服呑んでから湯へ行きました。禿が浴衣を持ってついていきます。

 座敷に田町の呉服屋・八十兵衛がやってきました。田町は日本堤の南側、五十間道との間にあります。
八十兵衛「昨日の服のひな型はお気に入りましたか」
川竹「いっそようおざりィす。あれに決めんしょう」
八十兵衛「無垢はやっぱり……」
川竹「ともに無垢にしておくんなんし。それと今度は禿の物の丈をもちっと長くしておくんなんしえ」
八十兵衛「かしこまりました」
 と出て行こうとするのを川竹は「ああ、もしもし」と呼び止めました。
川竹「ついでにわっちがはきかけ(裾回し)にする布(きれ)をみつくろっておくんなんし。そして紫鹿の子の襟をひとかけよこしておくんなんし」
八十兵衛「かしこまりました」
 どこから呉服屋がいることを聞いたのか、禿のつなじがやってきました。
禿「八十兵衛さん、花魁が『ちょっとお出でなんし』っさ」
八十兵衛「手めえはどこの子だ」
禿「車井さんのとこの子さ」
 呉服屋と禿が出ていって間もなく夕霧が湯から戻ってきました。浴衣で耳を拭いています。
夕霧「聞きなんしたかえ。ぐち里さんの客人が捕まってきなんしたそうだね」
川竹「そうでござりィすとさ。ちったァそっとじゃ済みんすめえ」

 夕霧も川竹も湯に入っていたとき、ほかの傍輩女郎から聞いたのです。同じ二階にあるぐち里の奥座敷の出来事ですから、夕霧も自分の座敷にいればわかりそうなものですが、隣座敷のことは振新などから伝え聞いていても、奥座敷のことまではどうやらあまり伝わってこないということなのでしょう。その始末の付け方について『錦之裏』は触れていないので、再び『青楼年中行事』を引用しましょう。

「ここにおいて座敷に請じ、先客の手道具を取り、羽織を脱がせ、帯を解かして、席上に座らせ、番頭新造、その客の非を糺すに、強いて従わざれば、仕着せ、振袖を着せ、あるは顔に墨を塗り、あるは帯しごきに縛し、笑い罵り、嘲弄して時を移すに、客、いかんともなしがたく、空腹をしのぎ、茶を乞うに誰も請けず、ようやく隣の座敷持ち、挨拶して煙草一服の恵投にあい、なお、遣手、若い者を頼み、茶屋を呼び寄せ、相談し、しかつべらしくその是非を糺し、非に落ちて謝る客は、九郎助稲荷の狐のごとく、証人に立った茶屋の判はこのさとのぼた餅ほど大なり。ここに中座の盃済みて、遣手、若い者に祝儀を遣わし、あるは総花を打ち、仕着せを出し、女郎に仕舞いをつけて帰る客、大門をまたぎてつらつらこれを思惟するに、何の他愛もない倡家にありてはその理非分明にわかり、女郎に万全の利を得られ、客の謝り帰りたる、いといとおかし」

 客は顔に墨を塗られ、ひどいときは髷を結んでいる元結を切られてしまうこともありました。こうして散々恥ずかしめを受け、総花を打つ、つまり場にいる全員に祝儀(この場合は詫びの金一封)を渡してようやく解放されます。元結を切られたざんばら髪の客は頭巾に髪を押し込んで被り、大門の外の五十間道にある髪結床に急いで駆け込でいきました。

 食事が済むと昼見世の準備を始めます。
夕霧「あしかのさん、髪結のお吉さんが二階へきちゃいねえか、見てきてくんなんし。お針部屋も見てきなんしよ。もしまだこざァ下の中郎の人を頼んで呼びにやってくんなんし」
 中郎(中老とも書く)亭主の下仕えをする下男のことです。
川竹「雪野や、お歯黒を取ってきて。それから板を一本と襟つけと、くことすきと黒元結を取ってきてや。ついでに悪紙(わるがみ)と煙草も取ってきてや。夜舟さん、筆楊枝を出しな」
 夜舟が夕霧と川竹の鏡台を並べ、櫛、畳紙(たとうがみ)、半挿(はんぞう)などを取りそろえています。ほどなく雪野がお歯黒を買ってきて火鉢に載せました。夕霧と川竹は半挿を膝の上に載せ、筆楊枝を火鉢の尉(じょう=炭の灰)に入れてかき回し、鏡に向かって鉄漿(かね=お歯黒)をつけ始めました。

 くこは髪油、すきは髪をすくときに使う油、悪紙は漉き返して黒ずんだ、臭いのする紙で、手の汚れを拭き取ったりします。筆楊枝は羽楊枝ともいい、お歯黒を塗るための筆のことです。髪結の道具は畳紙にしまいました。また、半挿は耳盥(みみだらい)ともいい、うがいをした水をはきだす器です。

 当時、鉄漿は女性が成人したり、所帯を持ったら必ずつけました。遊女は禿から新造になる披露目の新造出しのときに初めてつけます。雪野が買ってきたのは鉄くずを水のとぎ汁などに浸してできた鉄漿汁です。鉄漿沸かしに入れた鉄漿汁を火鉢にかけて温め、鳥の羽でできた筆楊枝をその汁に浸して歯に塗り、五倍子粉(ふしのこ)をつけてまた歯に塗るを繰り返して歯を黒く染め、最後にうがいをします。鉄漿汁は苦いのでつくるときに水飴を入れることもありました。

 向こうの座敷の床の間には、盃を下締め(襦袢用の紐)で縛って載せてありました。これは待ち人の願掛けをしているものです。花歌が留め袖のかんざしで火入れの火をはさみ、火鉢へ入れていました。
花歌「もしえ、どうしてやりんしょうねえ。腹が立って口惜しくって張り裂けィす」
 話しかけられた花魁の板琴は飯つぶだらけの硯箱を引き寄せ、本にはさみ込んだ文を一心に書いています。
板琴「それだってもおめえ、証拠を見ねえことには何と言われるものか。気をつけなんしな」
花歌「どうでもわっちが推量に違いおざんせん。夕べの様子がそうでおざりィすもの」
 どうやら馴染客がほかの遊女に移り気なのを察知したようです。そこへ振新のげび川が振袖をはたきながら惣高架(共同便所)から戻ってきました。手水は二階にもありましたが、これは客専用で、遊女らは階下のを利用します。
げび川「わたくしは月水虫(さわりむし=生理痛)が痛くってなりィせん。もしえ、今、身の上を見てもらいんしたがね、悪い星に当たっておりィすとさ。どうしようのう。いっそ苦労だよ」
花歌「おめえ、かかさんがさっき会いにきたじゃねえか」
げび川「もう帰りんした」

 生理痛が痛いだの、運勢に一喜一憂するのは現代と変わりません。板琴は二人の会話に耳を傾けようともしません。文がようやく書き終わったようです。そこへ遊女の雑用をする廻し方の牛吉がやってきました。

板琴「げび川さん、文の封じ紙を持ってきてくんな。そして箪笥の金物もちっと磨いてくんなんしよ」
牛吉「ほんにちっと磨きなせえ。売薬店と女郎衆の座敷は箪笥が光らねえと信仰が薄い」
板琴「牛吉ッどん、男の手でなくちゃァばつの悪いことがあるから、あとで文の上書きをしてくだせえ。そして田町へ行く者があれば知らせて下せえ。治丹坊(じたんぼう=切り傷などの膏薬)の三百丸を買ってもらいてえ」
牛吉「おおかた誰かめえりましょう」
 と言って牛吉は出ていきました。
板琴「わっちゃ滋郎(じろう)さんのところに淋病の薬を届けてやりてえが、今日は間に合いんせん」
 淋病の薬を手製することは、二階の座敷ではよくあることだ、と注が書かれています。
板琴「そりゃそうと今日は何日だのう」
花歌「いつでおざんすか」
げび川「わっちも知りィしない」
 折りから表にはいろいろな商人が通っていて、「三番叟(さんばそう=下駄)」「南京操り(操り人形)」「鏡とぎ」「針金」などの呼び声が聞こえてきました。
げび川「もしえ。針金売りがきいしたから十二日でおざんしょう。おや、虚無僧がきたよ。花歌さん、ご覧(ろう)じいし。ちょっと立派な虚無僧ざんす」

 細かなことですが、当時の暦は、たとえば「大、ニ、四、五……」「小、正、三、六……」というように、その年の大の月(30日)と小の月(29日)がわかるだけの1枚紙の簡単なものでした。しかし、今日の太陽暦のように、正月、三月が大の月、二月、四月は小の月と決まっているわけではなくて年によって一定していませんし、平均3年に1度閏月が入りますが、暦を見るまでどこが閏月になるかもわかりません。日付まで必要なくても暦は必需品でした。そのとき、板琴の座敷に中郎がやってきて、権化帳(勧進帳)を見せました。勧化とは寺の修復などのための寄付、勧化帳はその主旨を書いた文書です。

中郎「頼まれましたので、この勧化のご寄付をして下さりまし」
板琴「いくらほどやるのだよ」
中郎「一筋(ひとすじ)ばかりさしあげなさりまし」
板琴「いま、出そう」

 一筋とは銭96枚を紐に通し、100文で通用した銭差のことです。一貫文(1000文)のもありました。そこへ仲居がやってきました。

仲居「げび川さん、こっちの座敷に皿が一枚きておりやしょう。見ておくんなんせえ」
げび川「おざりいせん」
仲居「おめえがたは面妖(めえよう)、そんなことを言いなさる。先日もこっちに平椀の蓋がござりやした。わたしらが預りだからなくなっちゃァ迷惑でござりやす。ばからしい」
 と小言を言いながら出て行きました。
げび川「知ったか、知らねえわ」

 見世へは洗い張り屋、貸し本屋、茶碗鉢屋、文使、炭屋などがひっきりなしに出入りしていました。そして正午近くになると、湯番が「湯をしまいます。湯をしまいます」と二階中を触れてまわります。間もなく内湯の湯が落とされます。

 夕霧の座敷で女髪結のお吉が夕霧の髪を結っていました。
お吉「花魁、まだ塩断ちをなされていますかえ」
夕霧「おとついで日が切れんした」
お吉「そりゃようござります」
 茶屋の下女が布で目を拭きながらやってきました。
下女「もし。花魁え。こないだの扇を書いて下さりましたか。たびたび客人のほうから取りに参ります」
夕霧「何ぞ好みがあるかのう」
下女「お前さんのお名さえあれば」
夕霧「何でもいいかえ。書いておきんしょう」
下女「お頼ん申します」と帰っていきました。
お吉「ぜんてえ、おめえさんには手絡髷(てがらわげ)より忍髷(しのぶわげ)のほうがよく似合います」
夕霧「忍に結うといつも茶を挽きんすから、縁起が悪うおざんす」
 川竹が煙草をつけてお吉に渡しました。お吉は手に油がついているので、紙を持って煙管を受け取ります。
川竹「雪野や、これをこぼしてきてや」
 川竹が半挿を差し出しました。半挿にはうがいをした水が八分めほどに紅のついたつばきが浮いています。ほどなくして髪が結いおわり、お吉は去り、川竹も手水に行きました。一人残った夕霧はなにやら案じげに杉箸で火鉢をかき回しています。杉箸がくすぶりはじめました。

九ツ時(正午)

 まだ格子に清掻は鳴っていませんが、このころから茶屋に客が訪れはじめます。茶屋の男が夕霧の座敷にやってきました。
茶屋男「花魁、昼狐(ちゅうこ)さんがお出でなされましたよ」
夕霧「ほんにか。すぐに行くから雪野を先に連れていってくだせえ」
茶屋男「はい。お早うお出でなされまし」
 と出て行くのと入れかわりに川竹が戻ってきました。
夕霧「もしえ。どうしんしょうねえ」
川竹「わたくしが胸におざんすから、気遣いせずとお出でなんし。夜舟さん、着物を出して上げ申しな」
 と言われて夕霧は何か名残があるのか、ゆっくりと浴衣を脱ぎはじめ、番新と振新に手伝ってもらい、着物に着替えました。その艶やかな姿は誰が見ても最上位の花魁です。
夕霧「雪野や、隣の浮里さんのところに居続けがあるじゃァねえか。おれが言うたからと『銚子をひとつおくんなんし』と言ってきや。お頼ん申しんす」と雪野を取りにやらせてから川竹を見て「もしえ。お頼ん申しんすにえ」
川竹「気遣いなさりますな」
夕霧「必ずえ」
 雪野が銚子を持って戻ってくると、夕霧は茶碗に注いで酒をぐっと飲み干し、座敷を出ていきました。

 階下の内証では亭主の喜左衛門がいろりのそばで、看板板(かんばんいた)に記しておいた遊女の売上げの記録を大福帳に写していました。看板板は黒漆塗りの木札で、遊女の売上げを三分の印なら「三」、一分ニ朱は「一△」などと符牒で記録しておくものです。内証には喜左衛門の女房もいました。夕霧を見て喜左衛門が声をかけました。

喜左衛門「花魁、お早いの。今日は何か店(たな)の衆の出番か」
夕霧「いいえ。浮草屋の客衆でおざりィす」
喜左衛門「ちょっと後ろを向いて見せな。おお、でえぶ髪の品(ひん)がよくなった。さあ、客人が待っていよう。早くいきな」
夕霧「行ってまいりィす」
 夕霧が振新をともなって茶屋へ向かう後ろ姿を喜左衛門が見送っています。
喜左衛門「夕霧もこのごろは風格がでえぶついたのう」
女房「さようさ。だんだんよくなります」

 そのころ一階の台所では料理番が仕込みの真最中。かまぼこを叩いたり、井戸から水を汲み上げる車の音、茶碗の割れる音、米をつく音などが騒々しく響くなか、長飯台を取り囲んで大勢の禿が昼食を食べています。また振新が火入れを持ってきたり、引込禿が茶を掃除していたりなどと、入れ代わり立ち代わりひっきりなしに人が出入りしています。

 亭主の喜左衛門が遊びにきた男としきりに話し込んでいるところへ、病気で親元に預けているとみえる女郎の母親が訪れてきました。
喜左衛門「おお、ござったか。どうだの、ちっとはいいかの」
母親「それが変わりがござりませんで」
喜左衛門「そりゃァ困ったもんだ。早くよくしてえもんだのう」
母親「はい」
喜左衛門「まあ、飯でも食っていかっせえ」

 ふつう病気の遊女は箕輪(三ノ輪)の寮(別荘ともいう)と呼ばれるところで療養しました。箕輪は日本堤を吉原から北に500〜600m行った突き当たりの一帯の農村で、寮では療養のほか16〜17歳で売られてきた女が女郎になるための修行もしていました。遊女は借金でがんじがらめに縛られていますから、病気だからとて親元に預けることはあり得ないはずです。ということは、喜左衛門が「早くよくしてえもんだのう」と治りを願っていますが、心のうちでは半ば諦めているのかもしれません。

 箕輪の寮について、『錦之裏』と同時に発売された京伝の『手段詰物娼妓絹篩(てくだつめものしょうぎきぬぶるい)』に出てくる花魁・梅川が話す下りがあります。槌屋治右衛門抱えの梅川は、亀屋忠兵衛と深く馴染んでいましたが、忠兵衛は揚げ代がたまりすぎて払えず、家も勘当され、にっちもさっちもいかなくなっていました。ある日、番頭新造・梅春は梅川に忠兵衛を会わせてやりたいため、遣手が寝静まってから一階の座敷へ忠兵衛を隠します。そこへ客を寝かしつけて、手水へ行くような顔で階下に降りてきた梅川がやってきました。

梅川「さぞ退屈でおざりィしょう。もし、文は届きいしたかえ」
忠兵衛「昨日届いて詳しく見た。てめえもいよいよ懐妊に違いなく、近々、寮に引っ込み、下ろすとのこと。昔の身なら相談のしようもあれど、何をいうにも金が先立つ。だが、いまは知ってのとおり勘当の身。昔の友だちによしみで助けてもらっている、かつかつのその日暮らしだから話にならぬ」
梅川「引っ込んで寮へ行けば、ぬしには会われず、文の便りもしにくくなりんす。それに聞くさえ怖い下ろし薬とやら。ひょっとしたら死ぬかもおざんせん。よしや身にけがはなくとも、出勤してから傍輩衆に顔を見られるのは恥ずかしゅうおざんす」

 当時、ゴム代わりの兜形というものがありましたが、ほとんどの客はそれを使うことはありませんし、避妊は遊女の手管のひとつです。懐妊はプロとして恥ずべきことでした。しかし、やることはちゃんとやっているのですから、懐妊する危険はつねにあります。懐妊したら寮で産んで里子に出されるか、女児なら禿として育てられもします。新吉原初期の太夫・初代高尾は、自分が産んだ子を抱えて道中した「子持高尾」として有名ですが、これなどはむしろレアケースであり、多くの場合は堕胎させられてしまいます。

 堕胎は一般的には中条流と呼ばれる堕胎医が実施します。ほおずきや桑の根などを入れて掻き出したり、薬として灰汁や水銀を使いました。「聞くさえ怖い下ろし薬とやら。死ぬかもおざんせん」は決して嘘ではありませんし、死ななくても療後の回復が芳しくないこともありました。水子は投込寺として有名な浄閑寺などに葬られました。中条流が受け取った堕胎料は1両2分、水子に200文または2朱をつけて葬ってもらったそうです。

「中條へ行くと傾城やすくなり」という川柳があるように、堕胎した遊女は格落ちしたようですが、それでなくてもこの梅川は「おまえのために客衆も切れ、このごろの客衆は皆、初ばかり。それにつけてだんだんたまる呉服屋の借り」と当人がいうように、すでに人気落ちしていました。そこで2人は逃亡を画策します。

『錦之裏』に戻りましょう。折しも坊主、浪人などさまざまな物貰いが暖簾をくぐり、声を張り上げて念仏を唱えたり、歌謡のようなものを唸ったりしています。
喜左衛門「その子や、そこへ進ぜろ」禿が銭を一枚、二枚と物貰いに投げ出します。「ああ、うるせえ」
 遣手がやってきました。
遣手「月花さんの禿がござりません。どうぞ一人お貸しなすって下さりませ」
女房「こないだ隣から借りた子はどうしたの」
遣手「湿(ひつ=疥癬)ができたので帰しました」
女房「こなたの知ったところに雇う禿はあるめえかの」
遣手「急には心当たりがござりません」
喜左衛門「今日はもう間に合うまい」

 このころ、呼出しや昼三が道中するときは、番新一人に、新造二人、禿も二人が同道しました。茶屋から見世へ戻るときの道中では、提灯を持った茶屋男の先導で、大尽、その両側に禿、後ろに大尽に傘をさす中郎、江戸神(幇間)や大尽の供、男芸者、続いて花魁、その両側に新造、花魁に傘をさす中郎、番新という順で歩きます。たぶん、そのときの禿が一人足りないと遣手は言っているのでしょう。

 見世の格子で禿が「五色の糸と楊枝を持ってきさっせえ」と声を張り上げています。女郎に頼まれて後架神(こうかがみ=不浄を除く神)に願をかけているようです。二階の奥で女郎が禿を探していました。
女郎「沢辺やァ、沢辺やァ」
禿「あい」
女郎「楓屋へ行っての、二朱と百の煙草箱を紙で包んで、水引で結(い)わえてもらってきてや」
 これは三両ぐらいの床花(客が馴染になったしるしの祝儀)のお返しのようです。別の女郎が廊下中を拭いていました。
振新「夕べの三味線番は誰だのう。撥(ばち)がねえと腰元衆が小言を言うよ」

 昼見世で清掻を弾くのに三味線の撥が見当たらないと文句をいっているわけです。清掻は見世抱えの内芸者(女)がいる見世では内芸者が、いない見世では新造が弾くものです。吉原では寛政から30年ほど前の宝暦12年(1762)、初めて専業の女芸者が登場したといわれています。

 夕霧が息を切って戻ってきました。川竹は客帳をつけていました。客帳とは誰が客として訪れたかを記しておく帳面で、早い話が日記のようなものです。「何月何日、昼、昼狐さん。何々をした」というような文面でしょう。夕霧が川竹の耳に口を近づけて囁きました。

夕霧「今日は家(うち)の首尾が悪いとすぐに帰(けえ)りィしたよ」
川竹「そりゃァよかったねえ」そして声をひそめて「もしえ。晩にはかえって人目が多くなりんすから、急に癪がおきたような顔で本間へ入ってお休みなんし」
夕霧「そうしてようざんしょうかね」
川竹「わたくしがよいように計らいんす」

 川竹があたりの人目をうかがい、戸棚を開けてそこに隠れていた男に手招きしました。出てきた若い男はある大店の一人息子の伊左衛門という夕霧と相惚れの色男。しかし、通いづめが昂じて不首尾となって家を勘当されてしまい、裏店(うらだな)に身を寄せていたのを夕霧の配慮でかくまいおき、昨夜、人目をうかがって二階の夕霧の座敷へ上げ、戸棚に隠しておいたのですが、それがなんのかんのあって出しそびれてしまい、いまになってしまったのでした。夕霧が髪を結ってもらっていたときに出てきた「塩断ち」は、この男のためにしていたものなのでしょう。

 夕霧が小声で囁きました。
夕霧「さぞ退屈したでおざりィしょう。わたくし自身がしては目立ちんすから、人に言いつけておきんしたが、ひもじゅうはおざんせなだかえ」
伊左衛門「いや、川竹がおりおり気をつけてくれたから、ひもじくはなかった。小便も楾(はんぞう=小型のたらい)に綿を入れて音のせぬようにしてくれたから、何から何まで困ったことはなかった」
 夕霧は伊左衛門の顔をつくづくと見ていました。
夕霧「ほんにお前さんをこういうはかない身にしたのも、みんなわたくしの咎(とが)でおざんす。堪忍しておくんなんしえ」
伊左衛門「愚痴なことを言うものだ。世の中の女郎買いはすべて、金のたくさんあるうちは女郎の真実(まこと)は現れぬ。こういう身になったところを貢いでくれるのが誠の心体」
 夕霧が伊左衛門に抱きつきました。

八ツ時(午後2時ごろ)

 昼見世の始まる時間です。見世先の格子に清掻が鳴り始め、二階は静かになりました。張見世はいちばん格上の者を中心に、左右に格の順に並びます。いちばん格上の遊女を「お職」と呼びますが、呼出しをそう呼ぶこともあります。張見世する部屋の壁には一面に大きな鳳凰が描かれ、部屋の中央には獅噛火鉢(しがみひばち)が置かれています。獅噛火鉢とは、脚にしがみ面をした鬼や獅子の装飾がついた、大きな金属製の火鉢のことです。見世により多少前後しますが、10月の恵比須講(20日)に出し、1月の恵比須講(20日)に片づけました。寒いからとそこに手をかざすような、はしたない真似をするのは許されていませんでした。

 清掻について、『青楼年中行事』に次のように書かれています。
「清掻ということはそのころ(新吉原の初期。明暦年間)の流行り唄に、『道のちまたの二本(ふたもと)柳、風に吹かれてどちらになびこ、思う殿御の方へなびくよな』という唄を夜見世に唄い、合いの手に清掻を弾きしより、後にはその唄やみて、ただ清掻をのみ弾くことになれりという。また元禄(1688〜1704年)のころ、書林永田調兵衛が板本に『鳶凧(いかのぼり)といえる小冊あり。そのなかに記せしは、そのこと尺八行なわれて、清掻といえる曲を吹く。その譜に曰く、
   ウヽホウヽホウエヤエウホフヽホウエヤエウヽ
   ホウホウエヤホヽウホウエエヤリヒ上ヽ(下略)
これを三味線の手に移し、表に吹く尺八に合わせて弾きしより、このこと起こると書き載せたり。清掻は黄鐘(おうしき=雅楽の調子)にして陽音なれば、夜見世のはじめにこれを弾くこと、俗にいう悪魔払いの意にやあらんかし」
 清掻はシャンラン、シャンランと聞えるそうです。見世によって異なっていたのですが、どんな調子だったのでしょう。

 これから『錦之裏』は吉原のうがちから、夕霧と伊左衛門の会話中心になります。浮里の隣の間で新造の江戸まち、なにわ、みやこの三人が歌がるたに興じていて、その和歌に二人の思いが重なるため、かなり繁雑なのですが、そっくり書き出しておくことにします。

夕霧「その心は届いても、届きんせんはわたくしの願い。人目があるから笑顔をみせていんすが、お前さんのことを思い出しんすと、いっそ死にたくなりィす」
江戸まち「三条院、『心にもあらで浮き世にながらへば』」
みやこ「『恋しかるべき夜半の月かな』」
なにわ「おっと、ここにおざりィした」
みやこ「散らさぬようにお取りなんしえ」
江戸はち「和泉式部、『あらざらんこの世の外の思ひ出に』」
伊左衛門「勘当の詫び入れが済み、また晴れてこの二階へきて、会えるようになりたいものじゃ」
夕霧「ほんに毎晩、会われんしたときは、そのようにたくさん思いィしたが、近ごろではこのようなはかないことさえ、たいていの心遣いじゃおざんせん」
伊左衛門「そうさのう」
江戸まち「『うしとみし世ぞ今は恋しき』」
みやこ「たしかここらにおざりィしたよ」
江戸まち「そこにある。取っておくんなんし。藤原義孝、『君がため惜しからざりし命さへ』」
夕霧「たまさかにお目にかかりィすを楽しみにしておりんす」
伊左衛門「はて、死んで花実が」
夕霧「咲きもしんすめえ」
伊左衛門「命あっての物種さ」
なにわ「『永くもかなと思ひけるかな』」
江戸まち「これ、こすいことをしなんすなえ」
夕霧「とは思いすが、まだまるで八年という年季なれば」

 年季明けまでにまだ8年残っていることから、夕霧は花魁になって2年めの19〜20歳ぐらいであることが知れます。夕霧の後ろ姿を見て亭主の喜左衛門が「このごろは風格がでえぶついたのう」と言った意味もこれで理解できます。

みやこ「『いかに久しきものとかは知る』」
夕霧「もしそれまでにひょっとして」
江戸まち「右近、『忘らるゝ身をば思はず誓ひてし』」
夕霧「それを思うと真(しん)に悲しくなりんす」
伊左衛門「はて、たとえこの上どのように」
なにわ「『身を尽くしてぞ会はんとぞ思ふ』」
夕霧「そりゃ本当(ほん)でおざんすかえ」
伊左衛門「これさ、声が」

 そこへ遣手が「様子は残らず見届けた」と声をかけて屏風を引き開けました。見つかってしまったのです。
遣手「今朝ほど戸棚の内(うち)でちらと見つけてとぼけていたが、暗に違(たが)わぬこのふしだら。わたしの顔を踏みつけて、何で役儀が立つものぞ。内証へ行き、旦那さんに申しんす。これ若い衆や。この男を引きずり出すがよいわいの」
 とわめく声を聞きつけて若い者が我もわれもとやってきて、雨あられのように握りこぶしを伊左衛門の頭上に降りおろしました。夕霧が伊左衛門と若い衆たちの間に身を入れて遮ろうとします。夕霧の目に涙が浮かんでいました。
夕霧「むごたらしい。皆の衆、待たしゃんせ。伊左衛門さんに咎はない。この人さんをぶつならば、まずわたしを先にぶち殺してしまわんせ。聞き入れなくば」
 と近くにあった鏡台のかみそり箱に手をかけました。遣手があわてて押しとどめます。
遣手「お前は大事な代物。けがをさせてなるものか」
 遣手がかみそり箱を取り上げると、大勢の若い衆が伊左衛門の髷をつかんで座敷から引きずり出そうとしました。

 さて、以下はこの騒動の決着をつける場面に移りますが、これでは昼見世の様子がさっぱりわかりません。そこで『吉原十二時』などから昼八ツの様子を紹介しておきます。

 昼見世の張見世は顔見せみたいなものなので、格子のなかを垣間見する人はほとんどいません。仲之町を歩く客は昼間しか自由時間の取れない武士が多く、浅黄裏を着た国侍と見える武士が「これが噂の吉原か」と目を丸くして覗き込んでいるぐらいです。遊女は石投(いしなご=お手玉)や貝合わせ、双六などをして遊んでいます。また、田町あたりから借りてきた2〜3歳の子どもを膝の上に乗せ、あやしている者がいれば、籬に占い師を呼び入れ、手相や夢判断をしてもらっている者もいます。通りに蕎麦を入れた箱を担ぎ、配っている男がいました。夜着を新調したお祝いでしょうか。世間では秘かにやることでも仰々しくやるのが吉原らしいところです。見世の二階も客はまばらです。廊下に姉女郎から外八文字の踏み方を教えてもらっている新米女郎がいました。浅黄裏が興味深そうに眺めています。

 さて、遣手に見つかってしまった夕霧と伊左衛門ですが、おっと、その前に忘れていました。逃亡を企てた『娼妓絹篩』の梅川と忠兵衛がいました。彼らがその後、どうなったかというと、結局、逃亡は失敗し、二人は捕まってしまったのです。そして忠兵衛は当然のことながら二階をとめられ、梅川は堕胎させられてしまいました。しかし、梅川の病後がよくありません。わずらって気分がすぐれず、ぶらぶら病のようになってしまい、保養のため箕輪の別荘に移り住んでいました。番新の梅春が看病で梅川についています。梅川は幽霊のようにすっかりやせ衰えていました。

梅春「花魁、心持ちはどうでおざんすえ」
梅川「あい。今日はいっそようおざんす」
梅春「それではだんだんとよくおなんなんすでおざりィしょう。風が当たらぬようになさりんし。どれ、薬を温めて上げ申しんしょう」
 と温め、茶碗に移して差し出しました。
梅川「それにつけても苦労になるは、忠兵衛さんのことでおざんす」
梅春「それも苦労になさりィすな。お前さんの病気さえよくなれば、わたしがどうにか都合をして、内証の手前も取り繕い、二階が開くようにして上げ申しんす」
 それから二人は忠兵衛のことをとりとめもなく話しはじめました。

 この後、どうなったのか『娼妓絹篩』は触れていません。梅川の療養の費用は見世が負担するのではなく、梅川が持たなければなりません。借金がまた膨らみます。病気が治り、見世に出たとしても格はかなり下がってしまいます。いずれは格下の見世に売られていくことでしょうし、そこからさらに場末の宿場の飯盛へと売られていくこともあります。しかし、借金が消えることはありません。いずれにせよ、こうなると行く末は哀れです。

『錦之裏』も大団円を迎えようとしていました。遣手が夕霧を、若い者が伊左衛門を引っ捕らえて内証へ連れていこうとしたそのとき、「夕霧どの、心底見えた」と長持の蓋が開き、一人の男がぬっと立ち上がました。続いて若い者の利き腕をつかんでねじり上げ、いま一人は力任せに押し倒し、こちらを蹴り、あちらを蹴りと蹴散らします。

遣手「お前さんは浮里さんのお客人。どうして長持のなかに」
 と言い終わらぬうちに、男は伊左衛門の前に手をつきました。
男「いまだ顔をばお見知りなきゆえ、ご不審に思し召しましょうが、わたくしは京の出店(でだな)におり、番頭をつかまつる算右衛門と申す者でござります。このたび用あってこの地へ出で、大旦那にお目にかかり、うけたまわれば、あなたさまはご勘当とのこと。これはしたり。お若いことなれば、いったんのお過ちは仕方なし。ご心底もお直しならば、ご勘当のお詫びも申し、ふたつには心さえ正しければ、遊女とても苦しかるまじ。屏風のうちにて夕霧どのの誠の心を見抜いた上は、今日中に亭主・吉田屋喜左衛門に会い、身請けの埒をあけ申さん」

 男はふところより財布を取り出し、身請けの手付け金を差し出します。500両ありました。かくして夕霧の身請けが決まります。昼見世が終わる昼七ツ(午後4時ごろ)にさしかかろうとしていました。これから吉原は錦綾のあでやかな表の世界へと移っていきます。

 昼見世が終わってから仲之町は少しずつ人数が多くなってきます。馴染のいる客が早くも茶屋を訪れはじめているからです。茶屋の連絡を受けて道中する花魁の姿も散見されはじめました。茶屋は家ごとに簾(すだれ)をかけ、軒下には華やかな色の一尺ほどの暖簾がずらりと並んでいます。新造の肩に寄りかかって簾のうちにいる人と話し、隣の茶屋へと歩いていく花魁もいます。とてものんびりした風景です。

 茶屋の二階には端居している客がおり、うちに花魁と新造、禿がそれぞれ二人ずつ、花魁の近くに座っていました。唄を謡う女芸者が四人ばかりいて、高らかな笑い声が響いています。茶屋の亭主と客が酒を酌み交わしていました。夕陽が沈みはじめています。間もなく風に乗って夜見世の始まりを告げる清掻が聞こえてまいります。



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