吉原誕生 また所替えかよ、公許にしてくんな



 江戸の遊郭である吉原が誕生したのは江戸時代の初めのことでございます。関白秀吉公の命令で徳川家康公が江戸城に入府された天正18年(1590)8月1日から、のんびりした田舎の江戸は状況が一変。慶長5年(1600)の天下分け目の決戦、そして同8年に家康公が征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いてから、京の都から遠く離れた関東の江戸は、鎌倉幕府以来の武士の都として発展を遂げることになりました。

 天正18年当時、江戸城は荒れ果てていて、その東側は海岸まで一面の葦の原で、満潮になると潮が満ちてくる荒れ地。城下は葺屋の民家が100軒ほど点在しているだけの、誰が見たって文字どおりの僻地でした。足利幕府が京の室町に設けられ、織田信長公は滋賀の安土に城を構え、天正8年に全国統一をなしとげた秀吉公は、文禄3年(1594)から京の伏見で政治をとりました。慶長3年(1598)に秀吉公が亡くなり、実権を握った家康公にとっても、僻地の江戸より京やその近辺の地で政治をするほうが都合がよいはずです。しかし、それでも江戸を政治の中心地に考えたのは、古い呪縛から逃れて自由な新政治を目指したのかもしれません。

 家康公には家来の武士が多数いましたから、まずは道を整備し、家来を収容する屋敷を建てなければなりません。かくして江戸城入府以来、僻地・江戸の徹底した整備・開発が始まりました。武州などから人足を駆り集め、工事をするのですが、大規模なものですから噂が広まり、広く関八州一帯から仕事を求めて農家の二男坊や三男坊、仕官したい浪人、新天地を求めた「やまだし」などが大挙してやってきたために、江戸はたちまち若く、むさ苦しい男ばかりの社会となってしまいました。

 当時の人口や男女比はわかっておりませんが、140年後の元文元年(1736)の調査によると、江戸町人は52万余人で、その64%、33万人余りが男でした。武士の人口が調査されたことはありませんが、江戸中期のころですら町人の3分の2が男なのですから、慶長初期のころは女より男のほうが圧倒的に多かったと想像できます。それはたとえてみれば、パソコン小僧であふれる秋葉原のようなところでありまして、週末ともなれば、男、男、男の人だかりで、たまにいたと思えばヒモつき女。そんなだから、あんなところにゃ行きたくないとのたまう女も少なくありません。初期の江戸市中もこのような状態だったのでありましょう。いや、当時はまだ戦国時代の、目ざわりな者は殺してしまえという殺伐とした雰囲気が残っていて、男どもは気が荒い、しかも若いときていて女ひでりなのですから、現在の秋葉原の比じゃなくて、若い女が道を歩こうものなら、半期に一度のブランド物バーゲンの初日、目玉商品に目を血走らせて殺到し、群がり、ひっつかみ、蹴っ飛ばしする状態に近いかもしれません。このように何をされるかわかったものじゃありませんから、若い娘などはおよそ一人じゃ出歩かない。だから、遅かれ早かれ江戸各地に遊女屋ができるのは自然のなりゆきだったのでございます。

 江戸は富士山の火山灰が堆積した地でございますから、ふだんでも突風が吹けば砂ぼこりがどぶわゎあぁ〜っと舞い上がり、目も開けていられないほどなのに、さらにあちらこちらでトンチンカントンチンカンの大工事。江戸湾に注いでいた利根川を太平洋側の銚子に流れこむように変えてしまうほど、徹底した大工事でしたので、一日が終わった男たちは泥まみれになり汗臭い。ただでさえむさ苦しいのに大量の砂ぼこりを頭からかぶったときては、風呂に入りたくなるのも当たり前です。のちに「江戸っ子の風呂好き」と言われるようになりますが、江戸っ子はたんに奇麗好きなだけでなく、砂ぼこりがひどいというという土地柄もあったのでございます。だから銭湯ができたのも早く、家康公が江戸城に入府された翌年の天正19年(1591)にはできたと言われています。

 それから間もなく、江戸市中に遊女屋ができました。あちらに1軒、こちらで数軒と点在して営業していたのですが、10年ほど経つと、麹町、鎌倉河岸(神田橋近く)、柳町などのように、14〜15軒、あるいは20軒と集まって商売するところが現れました。麹町の遊女屋は京の六条というところから移ってきた者たち、鎌倉河岸は駿河府中の弥勒町、柳町は江戸出身者、あるいは伏見えびす町、奈良木辻などからきた者の遊女屋のある町もありました。また遊女屋は傾城屋、傾国屋などとも呼ばれていました。遊女にうつつをぬかすと城が傾く、国が傾くことから中国で呼ばれていたもので、遊女もまた傾城、あるいは傾国と呼ばれることがあります。家康公は天下分け目の戦いで勝利した年、市中に点在していたこれら遊女屋を認許致しましたので、遊女屋は晴れてそれぞれ思い思いに商売できるようになったのでございます。

 ほぼ同時期、銭湯に垢かき女が登場しました。銭湯に入れば汚れた誰かに体を洗ってもらいたく思うのは至極自然な感情でありまして、女に背中を流してもらえたのなら天にも昇る気持ち。しかし、そもそも女ひでりの男が裸で湯屋にいて、女に垢を流してもらうんですから、それだけで済むはずがありません。垢かき女が男の背中の垢をこすり、股の間もこすって天に昇る気持ちどころか、実際に昇天させ始めました。その時期は明らかではありませんが、湯屋ができて間もなくのころと言われています。

 江戸幕府が開かれた翌年の慶長9年(1604)、江戸城の大普請が始まる一方、山を切り崩した土で江戸城東の潮が満ちる葦の原の埋め立ても行なわれました。いつ終わるとも知れない大工事は、江戸を政治の中心地へと整備するためのものではあったのですが、幕府は既存の建物が整備の邪魔になると所替えや屋敷替えのお触れを出して、問答無用で立ち退きを強制するのですから、生活している庶民にとっちゃたまったものではありません。遊女屋も例外ではなく、そのたびに移転をさせられました。たとえば、慶長10年(1605)に柳町の遊女屋が元誓願寺前へ移転させられたのは、江戸城を改築するために柳町の地を馬場用地としたためでしたが、こんなことが何度も続きますから、こりゃあたまらんと考えた柳町の遊女屋は、市中の遊女屋を一ヶ所に集めた遊郭の設置を幕府に陳情しました。幕府が公許したのなら、おいそれと所替えさせるわけにはまいりませんし、遊女屋は幕府の御墨付をもらうのだから、いっそう大手をふって商売できます。元誓願寺前の場所は、およそ現在の京橋から日本橋のどこかであったろうと推測されています。しかし、当時は天下分け目の戦いからまだ5年しか経ってなく、西側についた大名の改易・取り潰しが相次いでいたので、江戸市中には浪人が多く、治安も悪い。その上、幕府は江戸の都市づくりに躍起になってますから遊郭どころではありません。何度か陳情は繰り返されたようですが、幕府には見向きもされませんでした。

 それから7年後の慶長17年(1612)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門が代表となり、また遊郭設置を陳情致しました。もちろん数度の失敗があるので「どうせまた取り上げてはもらえんさ」と反対する者もありましたが、甚右衛門は「遊女屋をこのまま野放しにしておいたら犯罪の温床になる」などと理由をつけて遊女屋の主人たちを説得。その案に乗った者と「引負横領之事」、「人を勾引(かどわか)し並びに養子娘の事」、「諸浪人悪党並びに欠落者(かけおちもの)之事」という三ヶ条の理由を幕府に提出致しました。

一、遊女買遊び候者、遊興好色にふけり、身の分限をわきまへず、家職をわすれ、不断傾城屋に入込長居候共、傾城屋之義は、その者之方より金銀をだに申請候得ば、幾日も留置馳走仕候。然る間おのづからその主人親方江之奉公を欠き、剰へ引負横領いたし候事は、傾城屋共金銀を限に幾日も留置候故と存じ奉り候。一ヶ所に場所御定め下され候はゞ、只今迄有来候処々之傾城屋を一ヶ所に集め、吟味仕り、自今は一日一夜の外、長留致させ申間敷候事。
一、人を勾引候者之儀、前々より堅御制禁遊ばされ候処、今以粗これ有候。御当地におゐても、人を勾引候程之不届者これ有候。その仔細は、手前困窮成者之娘を養子に貰置、成長之後めかけ奉公また傾城などにいたし、大分之金銀を取、渡世に仕候。か様成不届者かなたこなたよりみめよき娘を五三人づゝも養子に仕、十四五歳に罷り成り候得ば、右之ごとく奉公に出し申し候。実之父母之方より申し分申し来候へば、種々偽りを申し、或は少々金銀を出し申しかすめ候。実之父母相果候か、または遠国などに罷り在候得ば、己の自由相叶、傾城などに売出、大分之金銀を取申し候。か様成不届者共は、人を勾引候事も仕るべき様に存じ奉り候。この如く之訳を存じながら勾引者養子娘を相対にて傾城奉公に召抱候者これ有り候様に奉り及候。傾城屋共一所に召集候はゞ、勾引者之儀は申すに及ばず、養子娘之筋吟味仕り、左様成者を奉公に出し候はゞ、急度(きっと)御訴申し上げるべく候。
一、近年世上御静謐に治り候といへども、濃州御平均之事も程遠からず候へば、自然は透間を伺ひ悪事を相企て申すべき諸牢人之類も御座有るべきか。左様成悪党之類は、人目を忍び、住所をも定めず、流浪致し罷り在るべく候。遊女屋之義は、金銀をだに遣ひ候得ば、その者之出所詮義仕り候儀御坐なく、幾日も留置申し候。右之ごとき之族、所々方々之遊女屋などに罷り在り候事も計り難く候。この外当坐におゐて不届仕出し、欠落候者など、当分之居所には遊女屋に勝れたる所は御坐なく候間、所々之遊女やにかくれ罷り在り候はゞ、従令けんぎ者たり共、暫御手に入申し間敷存じ奉り候。この度願ひ奉り候通り、傾城町一ヶ所に仰せつけられ候はゞこの儀はことさら念を入れ、何者にても見届、さる者傾城町徘徊致し候はゞ、そのもの出所吟味仕り、彌(いよいよ)怪敷存じ奉り候はゞ、急度御訴申し上げるべく候事。
 ざっくりと意味をとりますと、『引負横領之事』とは、「いまの遊女屋は客に金さえあれば好きなだけ逗留させて、客の親方は働き手がなくて迷惑しています。場所を決めて遊女屋を一ヶ所に集めて下されば、今度は一日一夜以上の泊まりはさせません」、『人を勾引し並びに養子娘の事』とは、「見目よい娘を金で買って女郎屋に売り飛ばしたり、貧乏な家の娘を養子にほしいと申し出て育て、成長したら売り飛ばしてしまう不届き者がおり、実の父母が訪ねてきても、出かけているとか嘘をつき、実の父母を悲しませています。遊女屋を一ヶ所に集めて下されば、そのような娘がいたら詳細を調べ、必ずその旨を届け出します」、また『諸浪人悪党並びに欠落者之事』は、「浪人や悪党、出奔した放浪者の当面の滞在先としては遊女屋が好都合であり、現在のように各地に点在しているのは好ましい状態とはいえません。今回の願いを聞いてくださるのなら、遊郭内を徘徊しているそのような輩は、とくにこの件に関しては念を入れて吟味し、必ず届け出します」となるでしょうか。そして、最後に「現在、国内には20ヶ所余り遊郭があるんですよ」と付け加えました。天下の江戸に遊郭がないのはおかしいとほのめかしたわけです。

 もっともらしくこの三ヶ条の理由をまとめるあたり、庄司甚右衛門という人物はなかなかの知恵者であったようです。幕府もなるほどと思ったのでしょう。今回の願いは、これまでのように門前払いされることなく、受理されました。しかし、受理はされたものの、返事はなかなか返ってきません。そう、徳川の安定政権をつくるため、このときの幕府は大坂の豊臣家の処理が大問題。遊郭どころではなかったのです。

 庄司家はもともと小田原北条氏の家臣で、甚右衛門は天正3年(1575)3月、小田原で生まれたとされていますが、前半生は伝説が多分に含まれていて、北条氏の家臣ではなく、駿河吉原で宿屋を営んでいたのが、繁昌を見込んで江戸に出てきたとする説もあります。はじめ鈴ヶ森で遊女屋を営むのですが、見世の出入口に三尺の紺木綿の長のれんをかけ、その端に鈴をくくりつけ、客がのれんをくぐると鈴がちりんちりんと鳴る音を合図に客を出迎えるという、なかなか風情のある見世で、近くに大井社の森があったので、いつしかその地が鈴ヶ森と呼ばれはじめたというオチがついています。一方、家臣説によると、小田原城が落城した天正18年(1590)7月のとき、甚右衛門(初め甚内と名乗った)は15歳で病気療養中でしたが、同年8月以後のあるとき、家来に介抱されながら江戸に出てきて、やがて柳町で遊女屋を営むようになります。武士だったにも関わらず遊女屋を営んだため、甚内はそれを恥じて父親の名を明らかにしませんでした。そのため今日まで甚内の父の名が伝わってないのだと言われています。

 家臣説にはこんなエピソードがあります。慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦に出陣する家康公とその家来たちの出陣を慰安するため、甚内は鈴ヶ森に出向いて茶店を張り、選りすぐった美しい遊女8人で兵士たちをもてなしたというものです。出陣する兵士は数万規模で、先頭が鈴ヶ森に着くころ最後尾はまだ江戸城にいたと言われています。その兵士に片っ端から茶をもてなし、女といっても根は遊女なのですから、体も与えたのでしょう。こんなことがずっと続くのですから、この噂が後続の兵士に伝わらないはずがありません。やがて家康公が到着し、甚内は謁見、家康公はその労をねぎらい、「甘露であるぞ」と茶を飲んだというものです。なお、当時、勾坂甚内という極悪人がおり、甚内は同名であることを嫌い、鈴ヶ森での接待以後の慶長年間(1596〜1615)に、甚右衛門と名を改めたといわれています。

 その伝説にはさらに続きがありまして、幕府は遊郭設置を判断するため、本多佐渡守が甚右衛門の願いを家康公と2代将軍秀忠公に伝えたとき、家康公は「その庄司といふ者は、かの甚内といひしキミガテヽ(遊女の主人)か」と尋ねたという、最後にとてつもないオチがつきます。実に眉唾っぽいのですが、その後、慶長20年(1615)5月に豊臣氏が滅亡した大坂夏の陣、翌年の家康公の死去を経た元和3年(1617)3月、幕府はいくつかの条件をつけて江戸初の遊郭・葭原の設置を許可し、甚右衛門を惣名主に任命しました。甚右衛門が設置を願い出てから、実に5年が経っていました。

 幕府がつけた条件とは次のものです。

一、傾城町のほか、傾城屋商売いたすべからず、ならびに傾城囲(かこい)のほか、何方(いずかた)より雇ひ来たり候へ共、先々へ傾城を遣はし候事、向後一切停止たるべき事。
一、傾城買ひ遊び候者、一日一夜より長留致すまじき事。
一、傾城の衣類、総縫金銀の摺箔等、一切着せ申すまじく候。何地にても紺屋染を用ひ申すべき事。
一、傾城町家作普請等、美麗にいたすべからず。町役等は江戸町の格式の通り、急度(きっと)相務め申すべき事。
一、武士商人体の者に限らず、出所慥(たし)かならず不審なる者徘徊致し候はゞ、住所吟味致し、いよ/\不審に相見へ候はゞ、奉行所へ訴へ出づべき事。右の通り相守るべきもの也。
 すなわち、江戸市中には一切私娼館を置かないこと、営業は日中だけにすること、傾城屋の建物や傾城自身の着衣は質素なものにすること、身元の怪しい者は奉行所へ差し出せ、という甚右衛門の3ヶ条を踏まえたものでございます。幕府が傾城屋を公許にすると、傾城街は冥加金を献金します。後には率を定めて税金として提出させました。その額はわかっていませんが、明治になる直前の慶応4年(1686)6月初め、吉原の関係者が市政裁判所に呼び出され、「月々の揚げ代の1割を冥加金として出せ」と命令されました。大方、幕府にもたらされた冥加金もこの前後なのでしょう。江戸後期に「一日に千両落ちる場所」と言われた吉原ですから、莫大な金銀が幕府に入ったはずであり、幕府にしてみればこんなにおいしい場所はありません。一方、私娼館は公許じゃないんですから冥加金が入ってくるわけではありません。傾城屋はライバルの私娼館を潰せるし、幕府は冥加金が見込める。公許・傾城街の設置は、このように両者の利害が一致していたのでございます。

 幕府が遊郭用の土地として下されたのは、葺屋町の2丁四方(1丁=約109m。約220m四方)でございました。葺屋町は現在の東京駅の南側、京橋よりさらに南の海側の一帯。葦で屋根を葺くというわけではないけれど、当時はそんな葦やすすきの生い茂る野原でございました。江戸城を中心に開発が進められていた江戸市中から見れば、葺屋町は市中のはずれの十分な僻地に位置していたわけで、これなら市中の風紀が乱される恐れは少ないと考えた結果なのです。葺屋町の2丁四方は、いまの地図を重ねてみますと、現在の人形町2丁目と3丁目、西側を人形町通り、そこから浜町のほうへ約250m行ったところが東側のへり、北側は富沢町のやや南のあたりという一帯で、周囲が堀で囲まれていました。便宜的に西とか東とか使いましたが、正確にはたとえば唯一の出入口である大門は北西に位置して全体がはすを向き、縦横に走る通りに沿って建てられている家々もはすを向いている。客がどの位置に寝ても北枕にはならないという配慮からです。

map01.gif  かくして京の三筋町遊郭(寛永17=1640年に移転し、島原遊郭)を参考にして、元和3年の夏ごろから遊郭街の建設が始まりました。その街割りはいたって単純で、賜った土地が2丁四方ですから4区画に分け、北側の大門を入って右手が江戸町1丁目、左手が同2丁目、さらに通りである仲之町を進んだ右手が京町1丁目、左手が同2丁目とし、翌年11月に遊女屋17軒、揚屋24軒で営業を始めます。江戸町1丁目へは柳町の傾城屋の者たちが移り、甚右衛門も同地で営みました。また同2丁目へは鎌倉河岸の者たち、京町1丁目へは麹町の者たちと移り住み、その2〜3年後、麹町以外の上方下りの者たちが同2丁目へ移ってきました。後々まで京町2丁目が新町と呼ばれるのは、このように後にできた町だったからです。なお、このころ遊女屋は主人の名前で呼ばれていました。たとえば庄司甚右衛門なら「庄司甚右衛門の見世」とか、遊女なら「庄司甚右衛門抱えのいおり」というように呼びます。西田屋という屋号になるのは、もう少し後のことです。

 それから9年後の寛永3年(1626)、江戸町2丁目と京町2丁目の間に1区画を設けて角町が開かれ、京橋角町から移ってきた10軒ほどの傾城屋が見世を構えました。慶長17年の設置陳情のさい、「取り上げてもらえない」と反対した岡田九郎右衛門らが移ってきたのです。ただ、慶長17年の件について甚右衛門は相当腹を立てていたようで、人が仲裁に入ってようやく甚右衛門は角町移転を許可したといわれています。こうしていわゆる「吉原五町」が完成したのでございます。

 現在、浅草の裏手に位置する吉原は地名こそ千束と改められていますが、いまだ通称で仲之町(通りの名)を挟んで江戸町1丁目、2丁目などと呼ばれているのは、実にこのときに由来する町名なのでございます。なお、江戸町、京町というのは当時も通称で、葺屋町の吉原の町名は、正式には本柳町、京柳町などといいます。また、吉原は開設当初、周辺が葦の原なので「葭原遊郭」と呼ばれていましたが、葦=葭の茂る野原、葦の原(悪の原)ではよろしくないので縁起をかつぎ、角町が開かれたのと同じころ、悪を吉に変えて吉原遊郭と名前を変えました。さらに嘉永5年、甚右衛門は江戸市中から吉原までの交通の便をよくするため、吉原の西側を流れる川に橋を架けたいと願い出て、親父橋、思案橋という橋が設置されます。親父とは甚右衛門のあだ名です。また、さらに下流にわざくれ橋という橋もありました。「わざくれ」とは「ええい、ままよ。どうでもなれ」という意味です。思案橋といい、わざくれ橋といい、ネーミングについては説明するまでもありませんね。

 ところで、『嬉遊笑覧』や『武江年表』などによると、この吉原は再興されたものだとして、次のように記しています。「当時、おくに歌舞伎のまねびして舞台を多く建おき奴女どもよく歌舞伎をなす。そのよし高札にてしるし、町中繁華の処々にこれを立て、人を集む。これに惑ひて身を亡ぼすに至れるもの多かりければ、とかく彼等を江戸に置くべからずとの儀にて、女の数を改め給ふに和尚と号する遊女(こは遊女の上色をいふ)卅余人、その次に名を得る遊女百余人、みなことごとく箱根相坂をこし、西国へながし給ふとあり。これ慶長年間の事なり。これによりて吉原また荒廃してありしをその後甚右衛門といふ者、願をたてゝ再興せしなり」(嬉遊笑覧)。

 阿国(おくに)歌舞伎とは、もと出雲大社の巫女と言われる出雲阿国(いずものおくに)が始めた踊りで、今日の歌舞伎のような芝居ではなく、女が舞台の上でふちゃらふちゃらと踊った見世物のことです。江戸幕府が始まった慶長8年(1603)、京で興行したのを皮切りに諸国を巡業し、慶長12年(1607)2月、江戸城付近で興行して以来、江戸でも大評判になりました。その歌舞伎踊りを描いた絵を見ますと、盆踊りかフラダンスのようにしか見えないのですが、肌を露出しない当時のことでありますから、踊っているときに裾の間から白い脛がちらっちらっと見える。まあ、そんなのが評判になったのでしょう。大した芸はないのですから、容姿さえよければ誰にでもできるのでたちまち真似をする者が現れ、吉原でも舞台をこしらえて遊女が踊ってみせる。芸を見せるわけじゃないんですから、市中では当然のことながら体を売るのが専門の一座も出てきます。客の男は昼間、踊りを見ながら品定めをし、夜、その女を買う。それも吉原ほどに料金はかからないから、こんなのがあっちこっちで同様に商売する。目にあまるその有り様に、とうとうこの女歌舞伎は寛永6年(1629)に禁止されました。以上が阿国歌舞伎で伝わっていることです。吉原は再興なのでしょうか。

 吉原開設当初、その地は葦の茂る市中のはずれの寂しい場所でした。しかし、江戸市中はたちまちのうちに予想以上の発展を遂げました。そのひとつが参勤交代の制度。全国の大名の奥方、子どもを人質として江戸に住まわせ、大名自身は1年おき(関八州は半年ごと)に江戸にこさせるという、寛永12年(1635)に始まったこの制度は、江戸と地方の文化交流を深めるとともに、今日、東京がかくも肥大化した要因ともなった制度なのでございますが、当時の江戸では大名の屋敷の建設におおわらわ。江戸城から内陸のほうはさっぱりで、なぜか海側のほうに次々と大名の上屋敷や下屋敷が置かれていったのでございます。江戸城を攻めるとしたら海からではなく内陸からのほうが多いはず。一方、江戸城から海側にある大名の屋敷は幕府の掌中にあるようなものなので、敵はおいそれとは手を出しにくい。こんな防衛的な配慮があったのかもしれませんが、ともかくも葦の原っぱだった吉原の周辺にも大名の屋敷が置かれるようになり、吉原は風紀上、好ましからぬ状況になってきて、このころはすでに立地上厄介なところになっていたのかもしれません。

 それでも開設当初から吉原はたいへん賑わっていました。吉原開設以前、遊女は町売りと呼ばれるものもやってました。武士の屋敷などからお呼びがかかると、遊女がその屋敷に出向くのです。しかし、吉原ができて町売りが禁止されると、ただでさえ女ひでりの上に、煩悩を晴らす場所が吉原しかなくなってしまったのですから、繁昌しないわけがなく、大名や旗本などの武士を中心に足しげく通い詰めたのです。

 二刀流で有名な宮本武蔵もその一人でした。武蔵は新町河合権左衛門抱えの雲井という局女郎と馴染みで、寛永14年(1637)10月に起きた島原の乱に出陣するため、雲井を訪ね、頼んで雲井に縮緬の袋をつくってもらいました。武蔵はヘラを2本交叉させたものをつくってその袋をかけ、また黒縮緬の陣羽織の裏に雲井が着ていた紅鹿子の小袖をくくりつけて羽織ります。そして悠然と揚屋を出て、大門の外につないであった馬に乗り、島原に向かいました。このとき名高い剣豪をひと目見ようと、多数の遊女が仲之町に出てきたそうです。

 吉原開設当初、太夫と端(はし)に分かれていた遊女は、寛永当時(1624〜1644)になると、太夫、格子(こうし)、端の三段階になり、格子以上と遊ぶには必ず揚屋を通さなければなりません。局女郎は、武蔵が揚屋に通っていたころは格子クラスですが、後に下級女郎を指す言葉になります。その遊女のなかでも太夫は客が大名クラスなので、古今集などの和歌に明るく、舞うこともできるなど、高い教養が必要でした。部屋には源氏の54帖を揃え、自分でも和歌を詠み、生け花や茶の湯、書道、香道などにも通じていなければなりません。その上太夫には評定所で給仕する義務が科せられていました。そのためにも教養が必要であり、たんに体を許すだけの存在ではありません。寛永の末にもなると、太夫は75人を数え、大名や上級武士をもてなしていました。太夫が評定所に行けるのをはじめ、このころまで遊女は比較的自由に大門を出入りできていたようです。

 格子以上の遊女を揚げたい客は、揚屋を訪れてその旨を依頼します。すると、揚屋の者は揚屋差紙というものを持って見世に伝える一方、客を揚屋の一室に通し、客はそこで遊女を待ちます。寛永当時、揚屋は江戸町2丁目や京町などに点在していました。呼ばれた遊女はゆっくりと仲之町を道中して揚屋に向かいます。このときめったに見られない太夫らをひと目見ようと大勢の見物人が仲之町に溢れました。

 揚屋差紙は客一人に必ず一枚必要でした。その文面はどれもほぼ同じで、次のようなものです(※(レ)などは返り点)。

揚屋差紙  縦9寸6分、横4寸3分
今日客御座候に付、其方の御内つまさき殿と申女郎衆、昼の内雇ひ申候、此客右より御尋の御法度衆にては無(二)御座(一)候、いかにも慥成人に御座候、若横合より御法度の衆と申もの御座候はゞ、何方迄も我等罷出申分可(レ)仕候、為(二)後日(一)(レ)件。
  いぬの五月五日
            宿ぬし 久右衛門 印
            月行事 長兵衛  印
庄三郎殿え
「きょう、客があり、そちらでお抱えのつまさきさんという女郎衆を借りたいと存じます。この客はお尋ね者ではなく、身元は確かな人です……」。いぬの年は天和2年(1682)、宿ぬしは揚屋の亭主、月行事(がちぎょうじ)は遊女屋亭主の総代で毎月交代したのですが、少なくとも寛永のころはまだ存在していませんので、このときは宿主の署名と判しかなかったのかもしれません。揚屋差紙は形式的なものですが、その都度書かなければならないため、とても面倒臭いにも関わらず行われたのは、幕府が吉原開設時に提示した「出所慥かならず不審なる者徘徊致し候はゞ、住所吟味致し」という条件を踏まえたからなのでしょう。揚屋制度は一説に町売り習慣の名残りだと言われていますが、道中をするきっかけとなった吉原を代表する風俗のひとつです。

 閑話休題。天和のことが出てきましたので、ついでに申し上げますと、この天和から貞享(1681〜88)のころは揚屋が20軒と、吉原開設以来、もっとも揚屋が栄えた時代であり、このとき、これまでの習慣を申し合わせておこうというのでしょうか、揚屋作法なるものが定められました。

一、客帰り候跡にて遊女留置申間敷事。
一、遊女送迎急度為(レ)致可(レ)申、尤も下男素足にて可(二)罷出(一)候事。
一、身揚為(レ)致間敷、遊女達(たつ)て申候はゞ差紙遣し、算用の節揚代相立可(レ)申事。
一、兼約の遊女を貰候はゞ、貰候客よりシユライ請取候て、兼約の揚屋へ可(レ)渡候、若(もし)名代遊女揚候はゞ、右に不(レ)及候、客不(レ)参候兼約は、座敷代請取申間敷候事。
 太夫や格子は人気がありますから、揚屋に行っていきなり「なんとか太夫を頼む」というわけにはまいらず、事前に予約しなければなりません。これを兼約といい、兼約するときは予約金であるシユライ(集礼か)を払います。最後の一文は、これらを踏まえて、予約した太夫や格子の代わりの名代(みょうだい)がついた場合はもちろんのこと、客がこなかった場合も座敷代を取っちゃいけないと禁じています。

 さて、話を寛永年間に戻しましょう。この時代に吉原の制度が少し改められました。寛永17年(1640)秋、夜の商売が禁止されて昼見世しかできなくなり、翌年には遊女が吉原の外へ出ることも禁止。評定所での太夫の給仕もこのころ廃止されて、吉原の締めつけが行なわれたのです。これらの理由はいくつか考えられるのですが、このころより幕府に吉原通いの武士を戒める傾向が強まり、いわば吉原の衰退が始まります。

 吉原から客が遠退いてきた原因は、吉原に代わる場所、いわゆる岡場所が江戸市中に登場してきたからです。岡場所という言葉は少なくとも享保(1716〜36)ごろからの言葉なのでここでは便宜的に使っていますが、そのような場所が各地にできる。その初めは先にありました女歌舞伎です。それが禁止されると若衆歌舞伎が現れ、やはり男色をするようになったので、これも慶安元年(1648)に禁止されました。

 吉原の客が減る決定的な要因は、湯女(ゆな)が台頭してきたことです。湯屋の垢すり女が浴室で客の背中の垢をすり、その2階では相手をするという、垢すりが上に行ったら股をすり状態になって、男にしてみればこっちのほうが安いし簡単に抜けるぜってなわけで、たちまち江戸市中にそのような面倒もみる湯屋が湯気のごとくにむせあふれだしたのでございます。湯女風呂は江戸のごく初期からあったらしいのですが、細々と営業していたのであまり話題にはなりませんでした。それが寛永12年(1635)前後になると、はばかることなく大々的に営業するようになります。吉原を設置するにあたり、江戸市中唯一の公娼を吉原とし、私娼は一切認めないという条件を幕府は出しました。湯女は私娼なのでその命令に背いていることになりますから、吉原が湯屋を取り締まってくれと幕府に陳情したのは想像に難くありません。幕府は、慶安元年、同5年など、何度か湯屋に対して制限令を発布しましたが、3人までなら湯女は認めるというものだったので、効力はほとんどありませんでした。

 湯女の数が制限される以前、風呂屋には20〜30人の湯女がいたようです。湯女風呂は朝から風呂を開け、女が客の垢をすり、髪をすすぎ、茶なども進めていました。その姿から垢かき女とか、吉原ひいきの男たちは小馬鹿にして猿などと呼んでいます。湯女風呂の本当の商売は、風呂が閉まった夕七ツ(午後4時ごろ)以後です。風呂の上がり場に用いていた格子の間に座敷を構え、金屏風などを立てて、暮れ六ツ(同6時ごろ)から身仕度を整えた湯女が三味線を弾き、小唄を唄って客を待つわけです。とくに吉原の夜営業が禁止された寛永17年以後、不便に思った客がいよいよ湯女に殺到したのございます。湯女風呂のなかでは丹前風呂が有名でした。

 寛永のころ、神田佐枝木町雉子町の続きに、堀(あるいは松平)丹後守の屋敷があり、その向かいに多くの湯女風呂がありました。丹前というのは丹後守屋敷の前という意味で、当時のチンピラである旗本奴や町奴などがよく通っていました。その風俗ってのがへんてこりんで、夏の暑い日にも関わらず、冬に着るどてら状の服を着て、冬には薄着するというように、なんでもあべこべがかっこいいんだという信念を持ってて、また喧嘩もよくするので評判になっていました。今日、どてらのことを丹前と呼ぶのも、旗本奴らが着て丹前風呂に通ったからです。湯女では、承応から明暦(1652〜58)のはじめごろ、丹前風呂のうちの紀国屋風呂市郎兵衛に抱えられてた勝山が、容姿はいい、気風もいい、情が厚いというので、絶大な人気を博していました。

 一方、吉原でも承応3年(1654)、その後、吉原を代表する太夫の一人である初代高尾が登場しました。高尾は京町1丁目の大見世三浦屋四郎左衛門方に代々受け継がれた太夫の名で、三浦屋が廃業する宝暦6年(1756)までの約100年間で、7人あるいは11人、輩出したと言われています。別項で紹介する予定はありませんので、11代説を参考に、ここでこれらの高尾を紹介しておきます。

初代 妙心高尾、あるいは子持高尾という。自分の生んだ子を乳母に抱かせて道中した姿が評判になる。
2代目 伊達高尾。万治2年(1659)12月5日、死去。戒名・転誉妙身信女。辞世「さむ風にもろくもくづる紅葉哉」。死去は万治3年とする説もある。万治3年説は仙台藩主・伊達綱宗が高尾を体重と同じ重さの金20貫(約75kg。太っていたのではなく、帯の間などに鉄塊を入れてわざと重くした)で身請けしたが、島田重三郎という情人がいて意に従わなかったため、芝の下屋敷に舟で連れていく途中、三股(隅田川の両国橋と永代橋の間、西岸寄りにあったデルタ地帯)のあたりで吊し斬りにしたというもの。歌舞伎化されてるが、吊し斬りの事実はない。伊達綱宗は伊達正宗の孫で、不身持ちとお家騒動により、同年、隠居させられた。「君はいま駒形あたりほととぎす」は島田重三郎を詠んだ歌。島田重三郎は武士と言われているが、それ以上のことはわかっていない。
3代目 西条高尾。紀伊中納言殿御家来高五百石取最上吉右衛門(さいじょうきちえもん)が請出し、紀伊国へ連れていったという。または御蒔絵師の西条吉兵衛が請出したとも言われている。
4代目 浅野高尾。三万石の浅野壱岐守、あるいは浅野因幡守が請出したという。
5代目 水谷高尾。水戸宰相殿為替御用・水谷六兵衛が請出す。その後六兵衛の下人の平右衛門という68歳の男と不義をして出奔。その後半太夫梁雲の妻。さらにその後、牧野駿河守へ妾奉公に出て、また中小姓・河野兵馬と出奔。その後、深川の髪結の妻となり、また役者・袖岡政之助妻となるとか、三河町元結油売りの妻となるなど、波乱の生涯を送り、最期は大音寺前の鎌倉屋という茶屋の前で倒れて死んでいたという。
6代目 駄染(だぞめ)高尾。紺屋の次郎兵衛が請出す。以前の高尾を違ってとても美しく、筆跡もことのほかよく、性格は素直で、貴人の奥方になっても恥ずかしくないほどと言われる。それに対して、次郎兵衛はとても見苦い男で、背は低く、鼻はひしゃげてあぐらをかく、猿目の醜男だったが、二人は仲睦ましく暮らし、家は栄えたという。次郎兵衛は染物が下手で太染々(だぞめぞめ)と呼ばれていたので、駄染高尾と呼ばれているという。
7代目から10代目は、請け出した人がわからないので詳細不明。ただし、10代目は享保13〜14年(1728〜29)ごろ、廓を出たらしい。この4人を除いたのが7代説。
11代目(7代目) 榊原高尾。寛保元年(1741)6月、姫路藩主・榊原政岑(まさみね)が請出す。榊原政岑はこの咎で同年10月隠居、襲封した政永は同年11月、越後高田へ転封。高尾もそれにしたがって高田へ行ったが、政岑の死去の後、尼となって三十余歳で病死したという。
 さて、吉原の歴史とは、このように現れては消える市中の売女やそれを抱える館と、吉原存続への努力の繰り返しと見なすこともできるのですが、吉原ができて40年も経つと江戸市中は拡大に拡大を続け、大名の屋敷が吉原のすぐ脇まで建てられるようになっていました。このような状態の明暦2年(1656)10月9日、町奉行は突然吉原の年寄りたちを呼びつけ、「現在の場所は御用地なので、浅草寺の後ろの日本堤のあたりか、本所へ移れ」と吉原の移転を命じます。年寄りたちは「四十数年いまの地で営業してきたのに、そんなに遠方では迷惑です」と抵抗しましたが、吉原遊郭は公許であるがゆえに命令に逆らうわけにはまいりません。庄司甚右衛門がいたら、もう少し名案を考えついたかもしれませんが、甚右衛門は10年以上も前の寛永21年(1642)11月18日、69歳で死去していて、すでにこの世にはおりません。そこで年寄りたちは相談の結果、日本堤つまり旧浅草田圃への移転を決定します。本所は大川(隅田川)の川向こうで当時は橋がかかっていませんでしたから、どちらも不便な場所ではあるにせよ、徒歩(かち)で行けるし、浅草寺の参詣客も見込める日本堤のほうがまだよかろうと判断したのでございます。11月27日、町奉行は年寄りたちを浅草御蔵へ呼び出し、遊郭移転費用として小間1間につき14両ずつ計1万500両とか、同15両の計1万5000両とか、1万9000両など諸説ある御引料を与え、「来年の春から建設を始めよ」と沙汰し、遠方に移る代わりに、吉原にとっていくつか有利な条件を与えました。

一、只今迄弐丁四方の場所なれ共、此度新地にては五割まし、弐町に三町の場所被下置候事。
一、只今昼ばかり商売いたし候得共、遠方方へ被遣候代り、昼夜の商売御免の事。
一、御町中に弐百軒余有之風呂屋御取潰し被遊候事。
一、遠方に被遣候に付、山王神田両所の御祭礼並出火の節、跡火消等の町役御免の事。
一、御引料金壱万五百両被下候事(小間壱間に付拾四両ならし)。
 すなわち、2町四方だった敷地が5割増しの2町×3町に拡大されたこと、禁止されていた夜商売が解禁され、昼夜商売できるようになったこと、市中に200軒余りある湯女風呂はすべて取り潰しになること、山王神田両方の祭礼や火消しの町役をしなくてもよくなったこと、などです。年寄りたちは「翌年3月中旬までには引っ越しをしたい」と申し出て、聞き入れられました。これらの条件のうち、火消しの町役免除は吉原にとって有利とも不利ともいえます。というのは、反対に近隣住民も吉原で出火しても火消しをしてくれなくなってしまったため、後々、吉原から出火すると多くが全焼になってしまった原因のひとつになったからです。

 折しも翌明暦3年正月18日、江戸の都市構造そのものを根本から覆す大火、俗にいう振袖火事が発生。本郷6丁目から出火し、北西の強風にあおられて、本郷、神田、日本橋、京橋から浅草、向島などを焼き尽くすにとどまらず、翌19日には小石川と麹町からも出火し、麹町、芝、そして江戸城本丸、二の丸などまでが焼け落ちました。焼死者10万8000人、江戸の3分の2が焦土となるという、江戸始まって以来の大火で葺屋町の吉原も全焼。2月上旬になり、町奉行から「移転の件はいずれ沙汰するから、当面、小屋掛けで商売せよ」との申し渡しを受けて、吉原の者たちは、焼け出された葺屋町の地に仮小屋をこしらえて商売を再開しました。多くの人が住まいを失い、肉親を失い、苦しんでいるときに、さっさと商売を始めるのは、商魂たくましいというか、良識を疑う向きもあるかもしれませんが、人々がつらいときだからこそ、慰みものが必要なのだともいえます。

 日本堤で遊郭の建設が始まったのは、当初の予定より2ヶ月ほど遅れた同年3月中旬、そして6月14〜15日の両日、葺屋町の遊女らは仮小屋を引き払い、今戸、山谷、新鳥越(浅草)へ引っ越ししました。農家を借りて仮宅営業をするためです。その道中は、徒歩で行く者、船に乗る者、さまざまでしたが、華々しい装いに大勢の見物人が集まり、瞠目したとのことです。その翌16日、江戸市中の湯女風呂、200軒余りが取り潰しになり、数百人の湯女は吉原送りになりました。吉原開設以来初めての仮宅、しかもこのときから夜間営業を始めたということもあって、人々はせっせと仮宅に足を運んだようで、山谷通いなる言葉も生まれました。そして2ヶ月後の8月中旬、日本堤の遊郭は営業を始めました。移転命令から数えて10ヵ月目のことでした。こうしてできたのが新吉原です。普通はこの新吉原を吉原と呼び、新吉原に対して葺屋町のを元吉原と呼んでいます。元吉原の跡地には住吉町、高砂町などの町がつくられましたが、移転理由である幕府の御用地となった形跡はまったくありません。

 新吉原の町割りは元吉原を踏襲していますが、敷地が5割増しになったので、各町に点在していた揚屋を一ヶ所に集め、江戸町1丁目と京町1丁目の間を割って揚屋町を設けたのが大きな違いです。京町2丁目の河岸の隅にあった九郎助稲荷も元吉原から移設しました。九郎助稲荷は、もともと千葉九郎助という者の屋敷内にあり、田の畔(くろ)稲荷と崇められていたのが元吉原開設とともに移転されたものというのですが、武江年表では、新吉原が営業を始めた翌年の万治元年(1658)、今戸村の百姓・九郎吉の息子の九郎助が畑の中にあった稲荷社を吉原に移したとしています。この稲荷は縁結びの神として、とくに遊女たちの信仰を集め、のちになると縁日にはさまざまな祭礼や催し物が行なわれました。遊女にとっていちばんの夢は身請けされて吉原を出ることですから、九郎助稲荷が尊ばれたのは、当然と言えば当然のことです。

 新吉原は浅草の裏手、日本堤という江戸のはずれにあったにも関わらず、大勢の人が通い詰めました。が、周辺は人家の少ない人寂しい場所なので、よく追いはぎや辻斬りなどが出没したようです。吉原内も同様で、夜営業が許可されて客足が増えたは増えたんですが、何分、現代のように街灯なんてある時代じゃありませんから、夜道の一人歩きは危なっかしくてしょうがない。そして、やはり起きるべくして起きてしまいました人殺し。ある日の夜四ツ過ぎ(午後10時ごろ)、揚屋から帰る途中だった西田屋抱えの遊女・誰哉(たそや)が何者かに斬り殺されてしまったのです。犯人やその目的は結局、わかりませんでした。が、この事件をきっかけに、各通りの中央に一定間隔で行燈が設置されます。殺された遊女の名にちなんで、この行燈は以後、誰哉行燈と呼ばれるようになりました。誰哉は京下りの名妓ということなのですが、それ以外のことは知られていません。

 外八文字と勝山髷を始めたとされる太夫・勝山は、明暦から万治(1655〜1661)のころ、全盛を迎えました。丹前風呂の湯女だった勝山は、湯女風呂停止とともに吉原にきたとか、一時里帰りしていて、その後、吉原の遊女になったとか、元吉原時代に湯女風呂で起きたある事件に連座して吉原送りになったなどの説があり、湯女から太夫になるまでの経緯ははっきりしません。また、新町の山本芳順方にいたと言われていますが、この見世はランク的には下のほうなので、抱えの勝山という遊女は太夫の勝山とは別人ではないかという説もあります。さて、外八文字というのは道中時の歩き方で、はじめつま先を内側に向け、次に外に向けて足を開き気味にして歩くやり方です。すると白く細いふくらはぎや、あわよくば太ももまでもが着物の合わせの間から、ちらちらと見える。これが、足フェチには何ともたまらないってえんで、たちまち評判をよび、つま先を内側に向けて八の字の形に歩く内八文字の京風に対し、外八文字は江戸風なんて呼ばれ方もしました。ただ、がばっと足を開くと、陰部まで見えそうになっちゃいますから、二布に鉛を入れて開かないようにしていたとか。だから、道中のとき、稀に緋縮緬の二布を落としてしまいそうになる遊女もいたようです。

 また、後ろで細長くまとめた髪の先端だけを差し込んで大きな輪をつくるのを勝山髷と呼んでいますが、これは偶然にできた髪型でした。勝山が道中していたときのことです。いまや全盛の太夫が道中しているのですから、偶然通りかかった連中なんか、「あれがいまをときめく太夫だよ」「美しいねえ」とか言ってほめそやしたり、ひゅうひゅうなんて口笛吹いちゃうのは現代ですけど、なんだかんだと囃し立てる。そこでにこっとしたり、照れたりするなら、また可愛げがあるんでしょうけれど、勝山は何のリアクションもせず、ただ黙々と道中していくんですね。すると「何をすましてやんだい」と思う輩も出てくるわけで、ある侍がそれなら振り向かせてやろうじゃないかと、刀を抜き、勝山の髻の元結を切ってしまったんです。時代劇によくありますでしょ。小悪党が元結を切られて散切り頭で「ひいぃぃ」などと悲鳴をあげるのが。この侍もそうやって驚かしてやろうとしたのですが、勝山は堂に入ったもので少しも騒がず、さっと髪をたばねてくるっと巻き、簪で刺してとめるとまた道中をつづけました。その一連の姿がいよいよあでやかだとさらに評判をよび、その形を真似て勝山髷ができ、勝山はいっそう名声を博すことになりました。

 このように新吉原初期の明暦、万治、そして次の寛文年間は、勝山の行為に代表されるように、以前の風俗や習慣などが少しずつ変化していった時代でした。そして、その最大のものは、吉原の外にありました。明暦3年の湯女風呂一掃でなくなったはずの私娼が復活。「料理茶屋」という看板を掲げて一見違う店らしく見せてはいるのですが、中味は風呂屋崩れの茶屋であり、多くの隠し売女を抱え、商売をしていたのです。それも細々となら目をつむる気にもなりますが、茶屋の外で男たちがおおっぴらに客引きしている有り様。客引きは湯女風呂時代のそれとまったく同じで、吉原の客は茶屋に取られてみるみる減っていったのでございます。

 何とか手を打たなきゃと考えた吉原の者たちは、寛文3年(1663)10月、江戸町2丁目名主源右衛門をかしらにして奉行所に訴え出たのですが、「証拠を持ってこい」と言われて相手にされません。そこで同年11月26日夜、吉原の男たち18人は船に乗り、鉄砲洲、三崎、築地の茶屋町を急襲。茶屋の主人・善右衛門と抱えの茶立女・小太夫ら3人を引っ捕らえて番所へ連れ出しました。茶屋の者たちも主人や女を奪われたんですから黙っちゃいません。長道具や大脇差しを持って捕らえられた者たちを救出し、さらに吉原の者たちと大立ち回りを演じる始末。角町権治郎の召使いが手首を切り落とされ、江戸町2丁目九郎右衛門の家来が手傷を負うなど、ケガ人が多数出る事件へと発展し、吉原から50人が応援に駆けつけ、ようやく茶屋の者たちは逃げ去っていきました。

 2年後の同5年秋、名主源右衛門は「1、2ヶ所の茶屋で3人、5人と隠し売女を捕まえてもラチが明きません。茶屋のほうから吉原に引っ越したいと申し入れてきたら受け入れたいと思うのですが、いかがでしょうか。茶屋が納得しなければ、問答無用で引っ捕らえて差し出しますが」と町奉行所に訴え出ました。奉行がこの訴えを聞き入れたので、吉原から茶屋町にその旨がただちに伝えられました。茶屋ははじめ、いぶかしみましたが、翌6年春ごろから2、3人ずつ、吉原にやってくるようになりました。源右衛門はこうした女たちの世話をよくしたようで、その多くは江戸町2丁目に入りました。

 しかし、だからといって茶屋を撲滅できるわけではありません。同8年(1668)3月4日、名主源右衛門は町奉行に内密に呼び出され、次のように申し渡されました。「築地の茶屋に大分隠し売女がいるそうではないか。引っ捕らえよ」。その夜五ツ(午後8時)前後のころ、吉原の者7、8人を連れた源右衛門と同心30人が築地の茶屋町を捜索、捕えようとしたのですが、情報が事前に漏れていたらしく、茶屋に売女は一人もいません。わずかに茶屋小屋の脇でこもをかぶり、非人を装っていた売女一人を見つけたのみで、成果を挙げることはほとんどできませんでした。茶屋にしてみれば、してやったりとほくそ笑んだのでしょうが、奉行直接の発案で同心30人を向かわせた奉行所の面目は丸潰れ。さぞ、はらわたが煮えくり返ったのでしょう、町奉行は翌日から徹底した吟味を開始し、引っ捕らえはじめました。こりゃたまらんと思った芝や本所、深川などの茶屋は名乗り出ましたが、まだ抵抗する茶屋もいたので、奉行所はさらに検挙を続け、同月20日からの10日間で茶店の主人50余人、売女512人のすべてを捕え、茶屋を一掃。あしかけ5年続いた吉原と茶屋の抗争は、かくしてようやく決着したのです。

 捕まった女たちは全員吉原送りになりましたが、さすがに500人余りを一度に収容するキャパはありません。そこで、江戸町2丁目を割って堺町と伏見町をつくり、そこへ入れることにしました。こうしてできたのが散茶女郎です。堺町は角町との堺なので堺町、伏見町は源右衛門をはじめ年寄りの先祖の多くが伏見出身だったので、伏見町と名づけられたと言われています。散茶女郎の見世構えは、表に長押(なげし)をつけ、うちに3尺ほどの小庭があり、広さ9尺、奥行き2間あるいは6尺という後の局見世に似ていますが、このとき吉原にはなかった風俗が登場します。見世の表では3尺四方の台に乗った男たちが呼び込みをしていたのです。これは茶屋や古くは湯女風呂で行なわれていたもので、この台は牛台(ぎゅうだい)、男はぎゅう(牛、及などと書く)と呼ばれました。どうでもいいことですが、湯女風呂時代にせむしのぎゅうがいて、他人のきせると間違えぬよう長きせるを用い、牛台に座ってよく煙草を呑んでいました。その格好が及の字に似てるというので、ぎゅうに「及」の字をあてたと言われています。初め、ぎゅうは若い衆(わかいし)全般を指しましたが、後になると呼び込みの者だけを指すようになります。

 散茶女郎はもともとは町人の女ですから、吉原の遊女のように相応な教養や振る舞い、接待方法などは知る由もなく、幕府に公許された江戸唯一の遊郭であることから芽生えたプライドや格式、つまり吉原遊女独特の張りや意地というものがありません。だから、格子に次ぐクラスとされながらも、もとからいた遊女らからは見下されていましたが、町人客にとってみれば、庶民的な散茶は敷居も低く、料金も安いことから気軽に遊べます。お茶は袋に入れて振らなければ出ないけれど、散茶は粉状なので振る必要がないことから、「散茶は振らぬ」と評判になってたちまち人気が沸騰。次の延宝年間(1673〜81)には、「太夫、格子が茶を挽くばかりになった」ということが吉原大雑書という本の中に記述されているそうです。その後、揚屋の数は増えましたが、散茶の勢いはとどまるところを知らず、太夫は減少の一途。寛永19年(1642)75人いたのが、元禄2年(1689)には3人にまで減少、享保13年(1728)に11人と増えましたが、それも一時的で、同18年に4人、同21年に3人、延享元年(1744)に2人、そして宝暦10年(1760)、江戸町1丁目玉屋山三郎抱えの花紫を最後に太夫は途絶え、ほぼ前後して格子や揚屋もなくなりました。以後、吉原の遊女は散茶女郎だけになります。

 吉原は明暦3年8月の移転が大きな転換点になりましたが、風俗などを中心に見ると、寛文8年3月の散茶女郎の出現が本当の意味での新吉原の始まりであると断言していいかもしれません。それを決定的にしたのが宝暦年間(1751〜64)です。この時代、大見世の三浦屋が廃業し、太夫、格子が消え、吉原の吉原らしさをつくっていた揚屋制度も終わりました。一方で、専業の女芸者が生まれ、編笠茶屋の編笠の貸し出しが行なわれなくなり、大門の入り口に新名所となる見返り柳が植えられました。こうして吉原は新しい時代を迎えます。



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