蹴転 破けたってかまうもんか、向こうの着物なんだから



 吉原の大門を入って右手奥のへりの浄念河岸(西河岸)、仲之町の突き当たり、京町のへりの西念河岸、大門を背に左手奥のへりの羅生門河岸などにある見世は局見世(つぼねみせ。切見世ともいう)と呼ばれていました。なかでもとくに羅生門河岸、通称・蹴転(けころ)の客引きがすさまじかったことは、「新吉原」の項でも簡単にふれましたが、ここでもう少し詳しく紹介していこうと存じます。落語に『お直し』という噺があり、蹴転の様子をよく伝えているので、この項ではその噺をベースにしていきます。

 「あ〜、また落語のネタ話かよ」などと、つれないことをおっしゃらないでください。こんなページの能書きを読むぐらいなら、落語を聞いたほうがはるかにましだといってしまうと、このページの存在理由がなくなってしまうので、そうは申さなかったことにしておきますが、古典落語は江戸や吉原の様子を今日にたいへんよく伝えていて、資料的な価値が十分にあります。しかし、いにしえの時代のことを伝える古典落語の多くは、当時のことを知らない現代からはさっぱりとわかりません。これが古典落語があまり高座にあげられない理由のひとつなのでありまして、ストーリーのある噺をベースに能書きを付け加えていったら、能書きたらたらだけのよりは、理解しやすいってもんです。

 『お直し』は吉原遊女とその見世の若い衆(妓夫)がねんごろになってしまったのが発端。遊女はお茶を挽くことが多く、若い衆がそれをなぐさめているうちに、ふたりに情が移ってしまったのですが、花魁と見世の男とが一緒になるのがご法度なのは「お仕置」の項でふれたとおり。見世の主人はふたりを呼びつけていいます。
「この商売は色を売る商売だけれども、仲間同士は堅いんだよ。こんな間違いをしてみねえ、何といわれるか。『そんならあたしも……』となっちゃうだろ」
 そして主人は花魁が年齢的に薹(とう)が立っていて住み替え(別の見世に移ること)もできないことにふれたうえで、「借金を棒引きにしてやるからふたりで一緒になんねえ」と恩情のあるはからいをしてくれます。

 遊女は禿(かむろ、=幼児)から育てられたにせよ、女衒に売られてきたにせよ、吉原に身を沈めた時点で借金を背負い、さらに衣類、調度品なども見世から借金をして揃え、住み替えとなるとその費用すら遊女が自分で持たなければなりません。稼ぎ高のある花魁はそれはそれで自分の身の回りの世話をしてくれる禿や振袖新造がいて、その費用をも面倒をみなければならない。遊女は誰もが蟻地獄的借金地獄にはまっているわけです。自己破産もできない時代なのですから、さぞたいへんなことだったでしょう。

 吉原の近くに所帯を持ったふたり(名前はありません)は、男は若い衆のまま勤め、女は遣り手となって見世で働きはじめます。ふたりで稼ぐんですからしばらく働いているとちょっと裕福になってくる。すると男は見世を休みがちになって、小塚原(千住)の岡場所に通ったり、酒をのんだくれたり、博奕に手を出したりする。大した貯えがあるわけじゃありませんから、金はすぐに底をつき、見世を休んでばかりだからクビにもなってしまった。さて、どうするんだという段階になって、「蹴転の見世があいてるからやってみないか」という話が男のほうに転がり込んできました。

 「新吉原」の項と重複しますが、羅生門河岸という名は鬼の腕を抜いたところにちなんで、捉まったら最後、腕を引っ張り上げてでもあげてしまうことからついたもの。蹴転というのは蹴っ転がしてでもあげてしまう場所だというので、そう呼ばれたものです。

「お前さん、蹴転でやるにしても若い衆を置いとくにも元手が必要だろ」
「それはおれがやるよ」
「遊女だって金がかかるよ」
「それはおめえがやるんだよ。おめえは出がいいんだから、あすこに出れば掃き溜めに鶴だよっていわれたんだよ」
「あたしァ、お前さんの女房なんだよ」
「女房ったって前はさんざんやったじゃねえか」
 というように、ひどい言葉の亭主ですが、家の米びつにはクモの巣が張ってるという困窮ぶりですから背に腹はかえられず、元花魁はしかたなく蹴転に出る腹を決めました。

 局見世は二人が並んでは歩けないほど狭い路地の両側で見世を張っていました。1棟を数戸にわけ、入り口には戸が1枚あって土間が1間、その向こうに畳が2畳敷いてありました。天上には八間(はちけん。平たい大形の釣行灯)がぶらさがっていて、ぼんやりと狭い部屋のなかを照らしています。ふたりがやってきました。
「お前さん、見てきたかい。ほかの子はどうだった」
「満足なのはいやしねえよ。なるほどいわれたとおり、おめえがここにやってきたなら、まさに掃き溜めに鶴とはこのことだ」
「嫌なこというねえ。あたしァ出たかないんだけれども、おまえさんがしっかりしないから出なきゃいけなくなったんだよ。いいかい、あたしが『あの人だ』っていったら誘ってくるんだよ」

 公許・吉原が設置された代わりに、江戸市中ではいっさいの岡場所、私娼が禁止されました。しかし、それは建前上のことであって実際には、比丘尼、夜鷹、湯女などが客をとっていました。それでもときどき取り締まりが行なわれ、たとえば湯屋で男の背中を流し、相手もする湯女は17世紀に半ばに全面禁止となり、湯女はすべて吉原に送られました。本所吉田町が代表の夜鷹も捕まると吉原送りにされました。「提灯で夜鷹を見るはむごいこと」などの川柳のように、夜鷹は年寄りも少なくありません。厚化粧をしていて薄暗がりのところで商売するので、歳はけっこうごまかすことができたんですね。明かりさえなければ。また吉田町は別名・花散る里とも呼ばれておりまして、花散る=鼻が落ちるということですから梅毒持ちも少なくなかった。局見世はこういう遊女の巣窟のようなもんですから、多少、薹は立っていようと出がちゃんとしている見世の元花魁が「掃き溜めに鶴」といわれるのは当然のことだったのです。

 局見世では男を引き入れると、なるたけ多くの金を男から引きださなければなりません。現代のちょんの間ですと1時間こっきりとか、30分こっきりのように(30分というのがあるのかは知りませんが)時間切りになっています。局見世も時間は時間なのですが、線香が1本燃え尽きるのを一区切りとして、燃え尽きると「お直し」といって次の線香をともし、その線香が何本燃えたかで料金を清算します。1本が50文か100文、あるいは200文で、線香1本といっても4分の1ぐらいに短くした線香で、それも灰のなかに深々と突き刺すのですから、すぐに「お直し」の時間になります。

「いいかい。あたしが客と喋っていてお前さんが『もういいな』って思ったら『お直しだよ』って声をかけるの。あたしが客に『お直しになりますよ』といって、客が『あいよ』って承知すればお金が倍になるんだからね。ねえ、向こうからきたあの男、いいんじゃないかい」
「どれだい」
「あの人」
「わかったよ。もし、もし、あなた……。あ、逃げられちゃったよ」
「当たり前だよ。いまみたいに袂の先をちょっと掴むんじゃなくて、袂のなかに手を入れちゃうんだよ」
「着物が破けるじゃないか」
「いいんだよ、そんなこと。向こうの着物じゃないか」

 そして要領を覚えた男は酔っぱらいをつかまえ、その後の「お直し」が3、4度。落語『お直し』の噺はこの後でサゲになるのですが、それまでいってしまうのは無粋というものなので噺はこれで終わりにしますが、線香1本100文として4度のお直しで400文、200文とすれば800文。1両が4000文ですから5人から10人の客をとってようやく1両です。夜鷹の値段が1回24文〜50文程度ですからそれより割はいいといっても、「蹴転見世には近寄るな」というのが客の心情ですから、1日にそんなに多くの客がとれるわけではありません。見世の借り賃を払い、長屋(住まい)の店賃を払うと、ふたりが生活するのに十分な収入だということにはならないでしょう。



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