仮宅 吉原が焼けたって? こりゃまたいいねえ



 「火事と喧嘩は江戸の華」といわれますように、長屋のような人家の密集しているところでいったん火の手が上がってしまいましたら、周辺一帯はほとんど灰になってしまいますから、江戸の人々はおよそ現代人より火事に対して日ごろから強く用心し、警戒しておりました。なにせ火消しの役割は類焼を防ぐために周囲の家々を壊すことで消火ではありませんから、長屋住まいの人々は家財道具をまとめて逃げるだけ。両替商はあってもよそ様のお金を預かる機関もない時代ですから、「宵越しの金は持たねえ」という威勢のいいタンカも、蓄財していたらいつ灰になるかわからないことの裏返しであったりもするのでございます。

 もっとも江戸っ子というときには町人のことを指していて商人のことではありませんから、「江戸っ子のなりそこない金をため」の川柳のように、商人はせっせと蓄財をなし、遠くで火災が起きてもこちらが風下ならば土蔵に目塗りの防火対策をしたものでございます。瓦屋根で壁を土で固めた土蔵とはいえ、壁などにネズミが穴をあけているやもしれません。そしてもし、その穴から火の粉が土蔵のなかに入ってしまうと、たちまち燃え上がってしまいますから、商人たちは家の者を使ってせっせとその穴を埋めたのです。

 しかし、吉原は公許であっても一方では「悪所」だとの言われ方をされますし、火事も「悪火」と呼ばれていたようです。また、吉原内のことは吉原内の自治組織に任されていたので、火事が起きても廓外の火消しなどは手を出さず、廓内は燃えるに任せていたようです。新吉原になってから江戸時代が終わるまでの約200年間で、吉原は20回、火災にあったといいます。原因は遊郭からの出火であったり、周辺人家からの出火による類焼であったりしますが、どの火災の場合も吉原は全焼しています。つまり、およそ10年に1回は丸焼けになっているわけです。現在の建物で10年に1回、全焼しているところがあるでしょうか。良きにつけ悪しきにつけ、火事は江戸の華だったのでした。

 「江戸では1日に1000両落ちるところが3か所ある」と言われました。朝の日本橋(魚河岸)、昼の日本橋(問屋・商店)、そして夜の吉原ですが、遊女が2000〜3000人に客もその数だけいるとして、1人が当日に使う金額は1両ばかりではありませんから、少なく見積もっても1日に2000両は落ちていたはずです。吉原はとにかくお金のかかるところでした。これはいずれお話する機会があると思いますが、「台の物」と呼ばれる酒や料理代でも市井の2倍ぐらいしたのです。

 そうはいっても建物がなければ商売は上がったり。瓦礫の片付けと復旧費用もかかります。そこで遊郭は廓外で商売をしました。これが仮宅(かりたく)。江戸時代の第一級資料『守貞漫稿』には次のように書かれています。

「仮宅は吉原町焼失して再造の間、昔は花川戸、山の宿、または浅草門前の並木町辺にのみ、他の住む家を月収をもってこれを借り、あるいは建家を買いて、これを妓院の形に極麁(きょくそ)なる造作を改めて客を迎うなり。引手茶屋などもその近憐の家を借りて家業をするなり。近年は深川仲町辺より櫓下、本所の御旅、弁天、松井町辺に仮宅せしなり。天保府命岡場所停止の後も右の所に仮宅を出せしなり。仮宅は家居麁(そ)にして廓中に似ずといえども、江戸市中より路程近きが故か廓中よりは繁昌することなり。これにて妓院青楼の輩も家造の料金を得る程のことなり。仮宅の時も諸制廓中の時と同事、揚代なども同価なり。(昔は一分の娼をも二朱に売りたる由、近世は然らず)仮宅の間は格子女郎も見世は張らざるなり、呼出しも出ざるなり、銭見世の女郎は仮宅中も見世を張ること廓中の時に変ることなきなり。仮宅の始は延宝4年(1676)11月7日廓中より出火して大火となり本所に延焼す、これ廓(新吉原)開き始めての焼失なり、この時三谷および箕輪に仮宅渡世を許さるるを始とす』

 仮宅は民家を借りたり、即席の掘っ立て小屋をこしらえて商売したものなので、建物は遊郭よりも粗末だけれど、料金は廓内のときと同じだったなどということが書かれています。気安く入れたり、文中にもあるように、江戸市中から比較的近い場所に設けられたので、ここはいつも繁昌していたようです。遊女もふだんは廓外へ出ることは許されませんでしたが、仮宅では多少外に出歩くことぐらいは許されていたようです。

 また、仮宅だと大勢の客がやってくるものだから、楼主も廓の客足が少なくなれば、「そろそろ仮宅にしたいな」などと不謹慎なことに火事を待ちわび、いざ火の手が上がったらこれ幸いとばかり、消火に消極的になったという話もあります。というのも、廓内に焼け残った見世があると仮宅は許可されなかったからです。

 仮宅の期間と場所は、希望するところを吉原名主が奉行所に提出し、許可されるという仕組みになっていました。しかし、奉行所が希望をそのまま受け入れることはなく、許可するのは期間も場所もほぼその半分であることがほとんど。3年を希望すれば500日に、500日を希望すれば250日、また60か所を希望すれば25か所に、40か所を希望すれば28か所に減らされるといった感じですが、江戸も末期になると仮宅の期間が2年間ほどにも及んだ例がいくつかあります。

 一番最初に行なわれた仮宅は明暦3年(1657)のことでした。この年は死者10万人ともいわれる振袖火事が起き、吉原も全焼。これがきっかけとなって吉原は日本橋から浅草田圃に移転しました。その日は奉行所の沙汰により同年6月14、15日と決まりましたが、それまでの数ヶ月間、仮宅での営業が行なわれました。『守貞漫稿』本文中に「仮宅の始は延宝4年……」とあるのは、新吉原になって最初の仮宅のことです。

 明治になって仮宅は禁止されましたが、代わりに仮普請仮小屋が使われました。これについて、落語家の5代目古今亭志ん生は、噺のなかで次のように述べています。

「(明治44年4月9日、吉原が大火で全部焼けてしまって)今度、仮普請仮小屋ってえのができまして、またお客は行くんでございましてね。その仮小屋は不思議と面白く、掘っ立て小屋で仮小屋になておりますから、あがるにもはしごがない。つかまって『落っこちるよ、危ないよ』なんてこってね。上がっちゃった日にゃ『だめよ、お前さん、降りられやしないよ』『紐くれえ』なんてえんで下に降りて……。そういうところへ行っちゃあ遊ぶ。この仮小屋ってものぁ客がきたんでございまして」(『首ったけ』)

 仮宅が設置された場所は、吉原近くの花川戸、山ノ宿、浅草門前などのほか、深川、本所、根津などもあり、江戸も後期になると本所や深川によく設置されるようになります。最近は知りませんが、少し前まで深川には芸者さんがおり、芸者遊びがよく行なわれていたようです。これは深川に仮宅がよく設置されたことと無援ではありません。廓内だけの花魁文化(これは酒宴の席などでのもてなしのことです)が仮宅によって廓外に伝わっていったものなのです。



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