終焉 アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ



 祇園精舎の鐘の声を聞くまでもなく、すべてのものにはいずれ終わりがやってまいります。江戸幕府の公許として全盛をきわめ、武士や町人、農民、ならず者、そして医者の格好をした生臭坊主などまでもが、相応の階級や所得に応じて遊興した遊郭吉原とて例外ではありません。今回はそのお話でございます。

 時代が封建主義の江戸から軍国主義の明治に替わっても、旧体制下の公許であった吉原は廃止されませんでした。しかし、時代の変化の波は否応なく押し寄せ、吉原も少しずつその姿を変えていきます。そのひとつが明治5年(1872)の太政官達第295号「娼妓解放令」の布告。これにより遊女は自分の意思で商売することになり、吉原を含めた遊女屋も貸座敷と名前が改められました。

 娼妓解放令が布告される3ヶ月前の同年7月(旧暦6月)、清国人の奴隷を積んで帰国途中のペルー船「マリア・ルース号」が修理のために横浜港に立ち寄った際、虐待に堪え兼ねた清国人が脱走する事件が起りました。神奈川県令は虐待により船長を執行猶予付きの有罪、また清国人との契約を履行するよう求めた訴えも「奴隷輸出契約は公序良俗に反する」などとして棄却したのですが、このときペルー側の弁護士は遊女の年季証文を持ち出して「じゃァなにかい、日本は遊女を公認してンじゃァねぇか、年季ったァ、10年もの長い間、体ァ売ってご奉公するってこったろ。ご奉公と言いやァ聞こえはいいが、虐待にゃあ違いあンめえ。んでよ、おれっちのが許されねぇで、おめえらンのがいい? そんな馬鹿な話があるかい。料簡ならねぇ」ってなことをもっと口清く言って反論しました。

 痛いところを突いてきますね。日本政府はぐうの音も出ませんで、ただちに「皇国ノ人民ノ大恥コレニ過ギズ」として娼妓解放令を布告し、奉公は年限を定めること、遊女・芸者を解放するよう命じました。続いて司法省も「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラズ」として、過去の借金は返済しなくてもよい旨の通達を出します。遊女はそもそも借金でがんじがらめになって、妓楼に縛りつけられているのですから、その借金がすべて帳消しになったのなら、晴れて自由の身になれる……本当はそのはずでした。

「おす」「ざんす」「ありんす」など語尾に特徴がある遊女の話し言葉、つまり里言葉は大見世により多少違いがあったようです。見世ごとに方言があったということですが、それはさておき、里言葉が使われるようになった理由のひとつは、出身地の訛りを隠すためだと言われています。

 遊女が地方から吉原に売られてくる理由の多くは、家が貧しかったからにほかなりません。貧乏人の子沢山ともなれば、大勢の兄弟・姉妹に囲まれて、食べるものがない。江戸時代、飢饉のとき貧村では生まれてきた子を間引きしたとも伝えられていますが、吉原にいれば飢えることはありませんし、着物だって奇麗なものを着ていられる。化粧もできる。半面、遊女に財産はありませんから、無一文で故郷に戻ったところで暮らし向きが改善されることはなく、なかには「吉原帰りだってさ」とばかりに後ろ指を差されたり、「世間体が悪いから帰ってくるな」と言われたこともあったでしょう。それに禿から育てられてきた遊女には吉原以外、帰る場所がありません。

 娼妓解放令は出されたものの、仕事がなくなると、遊女はたちまち暮らしが立ち行かなくなる有り様なので、同月、本人が希望する渡世であれば吉原などにいるのを許可するという東京府令などが布告、翌年には娼妓解放令を形骸化する「貸座敷渡世規則」が出されました。これにより妓楼は貸座敷と名前が変わり、遊女はその部屋を借りて自分の意思で商売をする形になりました。遊女と妓楼との関係が変わったのです。しかし、客から見れば、大きな変化があったわけでもなく、人々は妓楼のことを以前と同じ「女郎屋」と呼び続けました。

 貸座敷は免許制で、指定されてから営業しました。何のことはない、貸座敷指定地というのは明治政府版公許とでもいうべきもので、御墨付が得られたら堂々と営業できるのですから、江戸時代には取り締まりの対象だった岡場所なども次々と指定地の免許を受け、大正13年(1924)、全国にその数は545ヶ所、業者約1万1200軒、遊女の数は約5万2200人にも脹れ上がりました。『守貞漫稿』に出てくる全国の公許の数はわずか25ヶ所、江戸の四宿も公許的扱いでしたから、これを含めたととしても、政府は貸座敷を次から次へと許可していったことがわかります。もっとも天明のころ(1781〜1789)、江戸市中とその周辺で80ヶ所以上(一説に200ヶ所以上)の岡場所があったんですから、実質的な数にそう大差はないのかもしれません。

 ところで、「娼妓」という言葉は明治政府がつくったものですが、これにより「遊女」という言葉は使われなくなりました。ですから、私たちも新たな言葉を使わなければなりません。ただ、娼妓というのはどうもなじめません。で、何がいいかと思うに、この後も吉原では花魁という呼び方が一般的に使われていましたので、まあ、この言葉を遣うのが適当ではないかなんて思うんでございます。



 江戸のはずれの浅草田圃という、浅草住人には都合がよくても、日本橋など江戸の多くの住人にとって不便な場所につくられた吉原は、江戸時代を通じて立地的なハンディからライバルが現れては消えの状態が続いていました。元吉原時代の湯女、新吉原になっても四宿の飯盛り、深川七場所をはじめとする全盛岡場所の隆盛、天保の改革(1842〜44)による岡場所の一掃と遊女の吉原送りなどということが続き、天保の改革を推進した老中・水野忠邦が失脚すると岡場所も復活、そのなかには慶応4年(1868)に公許化された根津遊郭などの例もあります。

 根津遊郭は陸軍奉行によって許可されたところで、このとき遊女屋は30軒、明治2年(1870)には128人の遊女を抱えていました。その後、深川弁天町が埋め立てられ、明治21年(1888)、この地へ移転しました。これを洲崎遊郭と呼んでいますが、弁天町一帯、約5万坪の敷地に、吉原に擬せられた町割りがなされました。吉原は2万760坪ですから、倍以上の広さがあったわけです。

 江戸時代には天保の改革のように、岡場所が一掃されたこともありますが、これは稀なケースであり、岡場所はむしろ幕府から容認されていたようです。つまり、吉原の存在を脅かすところがあり、吉原が訴え出た場合に限って、幕府はそこを潰しました。吉原が江戸唯一の公許であったからこそ、できえたことでした。しかし、明治になり、貸座敷となってからは、次々と許可されて吉原のライバルが増えていきます。新しい形態の店もできました。そのひとつが待合茶屋、通称・待合です。

 江戸時代の待合茶屋は、商人の寄合いや旅人の送迎などに使われたところです。それが明治になると、芸者を呼んで飲めや歌えと遊興した後、懇ろになった芸者と蒲団に入る場所へと変わりました。明治38年ごろ、品川には待合を兼ねていた引き手茶屋が貸座敷のおよそ6倍、100軒以上もが営業していたそうです。政治家もこの待合をよく利用し、「待合政治」なる言葉も生まれました。

 待合は場所を提供するだけのところであり、調理設備もありませんから、料理は料理屋から取り寄せ、芸妓屋から芸者を呼び寄せました。この待合、料理屋、芸妓屋の三業が集まっている地域を三業地と呼び、花柳界を形成。昭和30年ごろまでの代表的な遊興地となっていました。そして、そのうち料亭と名前を変えたところが今日まで存続しているのは、ご存じのとおりです。

 吉原で大見世の最高級花魁である「お職」と過ごそうものなら、一晩で現代の金額にして30万円ぐらいはかかりました。それは昭和になっても変わりません。また、「初会」「裏を返す」「馴染み」などの形式ごとも多く、けっこうわずらわしいものがあります。それに対して仮宅や岡場所、待合などというところは、形式がないのでかなり安直に遊べます。

 明治から昭和の1ケタごろまで、吉原に通う人たちは、吉原に何を求めていたのでしょうか。それはひとつに「情」だと言います。江戸時代、女たちは人の女房になると眉を剃り、歯を黒く染めました。それらは現代の結婚指輪のような、人の女房であることの証しであったわけです。吉原の花魁もお歯黒をつけました。なぜなら、一夜限りとはいえ、花魁も客の女房的な扱いだったからです。そして馴染みともなれば、誠心誠意を尽す、まあ、なかには手管もあったでしょうが、そうじゃなく、本心から誠を尽した花魁もまたいたわけです。明治6年に鉄漿(かね)廃止令が出されて、お歯黒の習慣がなくなっても(地方の市井では大正時代でもつけていた人がいたらしい)、情はありました。

 吉原は江戸情緒をよく残していたので、その雰囲気を味わいたいという人もなかにはいたのでしょう。しかし、江戸の吉原が洒落本や大首絵などの錦絵、浮世絵に代表されるように、強い影響力を持った文化の発信地であったのですが、明治以降の吉原にその力はもはやありません。待合が隆盛するなど遊興のバリエーションが増え、吉原は江戸の唯一の公許というような特別な存在ではなく、規模的には大きいけれど、他の貸座敷と同じ、ひとつの貸座敷地帯に過ぎなくなっていたのです。花魁道中という吉原を代表し、客が見栄を晴れる風物も明治に入って途絶えました。

 日中戦争が始まり、太平洋戦争へと突入しても、吉原は民間人や兵隊で繁昌していました。赤紙や学徒出陣などで徴兵されて、女を知らずに命を散らすのは不憫だろうと、父親や軍隊の上司に連れてこられる者もいたようですが、そうすることにより意気を高揚させるというか士気を鼓舞するというか、はたまた戦地から死なずに戻り、必ず再び吉原にやってこようという決意というか、兵隊をそんな気持ちにさせる目的もあったようで、巷へは「鬼畜米英、撃ちてしやまん」「欲しがりません、勝つまでは」など、不自由や忍耐を強いながらも、軍は吉原を閉鎖することはありませんでした。そればかりか希望者を募り、従軍慰安婦として戦地へ派遣してもいたのです。

 昭和19年11月24日、アメリカ軍のB29爆撃機による、初の東京空襲がありました。空襲警報が鳴ると、日本髪をおろし、着物を着るのもやめてもんぺ姿になっていた花魁たちは客とともに、明かりが洩れないようにと黒い布で覆われた電灯のついた部屋から逃げ出し、吉原内などに設けられていた防空壕に避難しました。このころは毎日のようにこんなことがあったようです。

 昭和20年3月10日は、経験した人にとって、生涯忘れることのできない日だと言います。その未明、340機あまりのB29が下町を中心に東京を一斉空爆、嵐のように焼夷弾を落としました。木造家屋が密集しているところはひとたまりもありません。四方八方から火の手が上がり、わずかなすき間を見つけて逃げると、またその先に業火があって行く手を阻まれる、人が焼けているのを見ても助けられない、まだ真っ暗ななかで、このような惨劇が無数に繰り広げられたようです。東京都の約40%、40平方kmが焦土と化したこの爆撃により、関東大震災とほぼ同じ約10万人が死亡、吉原も炎上し、花魁、客、主人、若い衆、芸者、茶屋の関係者など、多数が命を落としました。

 しばらくしてから軍は廃墟となった吉原に再開の指示を出します。アメリカ軍の圧倒的な力の前に無力となり、少なからずの人が敗戦を意識しはじめたにも関わらず、軍は相変わらず士気高揚だのという名目で再開を命令したのです。しかし、一方ではまだ「お国のため」「いずれ神風は吹く」と信じて疑わない人もおりまして、掘立小屋のような応急処置を整え、花魁を集め、どうにか再開にこぎつけました。その翌日、広島へ、3日後長崎へと原子爆弾が落とされ、8月15日に終戦。これとともに吉原も見世を閉めました。



 戦後、吉原は進駐軍慰安所として再開しました。それも政府の指示により、同月下旬には再開したのです。敵だった相手なのに、玉音放送を経て数日後には、何というか、一種の接待みたいものをしよう、ついては場所を提供せよと命令する変わり身の速さ。大したものではござんせんか、日本政府って。なお、このときから花魁という言葉は遣われなくなり、娼婦たちはパンパンと呼ばれるようになりました。

 アメリカ軍を中心とした連合軍総司令部、GHQは、翌21年1月、日本の公娼制度に関する法律の一切を廃止する指示を出しました。財閥解体、農地改革、憲法改正など、次々と自国制度に類するものを押し付けてきた一貫だったわけですね。アメリカには国による管理売春なんてありませんでしたから、日本もただちに廃止しろってことです。吉原に性病を蔓延させ、日本政府の据え膳でやりたい放題やった揚げ句に公娼はけしからんというんですから、日本もアメリカもどっちもどっちってことでしょうか。ちなみに、アメリカ兵の持っていたペニシリンがよく効いたということなので、この性病は淋病だったようです。

 公娼を廃止する代わりに、別の指示も出されました。カフェなどを開き、女はそこで働き、男の相手をするという形に変更するというものです。このような店を特殊飲食店と呼び、地図上にそれのある場所を赤線で、特殊飲食店以外の飲食店街、バーやキャバレーなどのある場所を青線で囲みました。こうして赤線、青線地帯が生まれました。

 戦後の日本は男女平等社会ですが、これに鑑みると赤線地帯に男女平等が成り立っているとは、およそ言えないのかもしれません。金銭の授受があり、納得ずくとはいえ、病気は移される、妊娠の恐れもあるなど、およそ女のほうにハンディがあるのは否めません。もっともこれは現代でも共通のことなのですけれど。また、コンドームはかなり普及していたようなのですが、性病を移されることが多かったということなので、実際にはあまり使われていなかったのかもしれません。したがって、民主国家を謳うのであれば、赤線地帯で行われている売春を禁止する方向へ、時世が傾くのは当然のことと言えましょう。明治以来、ときには熱心に続けられてきた廃娼運動が、ようやく実現する気運が高まってきました。

 国会では昭和23年ごろから売春禁止が審議されはじめ、法案提出と不成立を何度か繰り返した後、昭和31年5月21日、売春防止法が可決成立し、翌年4月1日に施行。実際の刑事処分は同33年4月1日から施行されることになったので、吉原の組合は同年2月28日をもって店を閉じることを決定、組合に属していない一部の店はその後も営業を続けましたが、それも3月31日まで。この夜、元吉原から数えて340年続いた吉原の帳は静かに下ろされました。

 現在、吉原のあったところは台東区千束という地名で、日本有数のソープ街となっていまして、吉原と聞くとこのソープ街を思い出す人がほとんどでしょう。しかし、実際にその街で吉原の文字を探すとなると、交差点名の「吉原大門」や「吉原神社」など数えるほどしかなく、公式上、吉原は歴史の中だけに存在します。もちろん、ここでもその意味で使っているのですが、こうして吉原の歴史を振り返ってみると、やはり江戸幕府が終わると同時に、吉原の終わりがゆっくり始まったと思えてなりません。そして決定的だったのが昭和20年3月10日の東京大空襲。江戸時代から連綿と続いてきた吉原のしきたりは、このときに終わりました。貸座敷制度が始まるきっかけとなったマリア・ルース号事件、公娼を廃止したGHQはいずれも外国人によるものでした。日本人は自らの手で吉原を葬り去ることができたでしょうか。売春防止法は赤線・青線地帯を廃止したものであり、廓としての吉原はすでになくなっていました。

 太宰治の『右大臣実朝』という小説の中に、鎌倉将軍の実朝が「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」と独りごちる下りがあります。実朝のこの言葉は滅亡した平氏に対して向けられたものですが、栄華を極めた遊郭吉原をこうして眺めてみると、その言葉が思い出されてならないのでございます。



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