真情春雨衣 初編

春雨衣叙

凧(いかのぼり)空に舞ひ、鶯軒に唄ふ春の日の麗(うらゝ)なる東(こち)吹くかぜにそゝなかされて、春心頻に萠(きざ)すといへども、腹に黄金の色なければ、妓楼に棒を揮(ふる)とは能ハず、頭に銅壺の光りを放てば、地女(ぢもの)も精(き)を拔ことを赦さず、かゝる時にハ書(かく)こそ宜けれと日向の窓の机に倚(より)、毛は多けれど椎の實と号(なづ)けし筆のさやをむき、月下老人(むすぶのかみ)の贔屓にて浮世がまゝになるならバ、彼様(かう)いふ風にして看たいと心におもふ情合(いろごと)を、其儘ごし/\當書(あてがき)に書つけたれば澤山な水も早晩(いつしか)ツイ耗(へり)て、乾く硯の虎石を今は黄色に看る斗り、精水(きみづ)にあらぬ鼻水に潤ハしたる塵紙三帖、たゞ捨るのはをしいものと人は云ねど自分で欲ばり、おつたて仲間の板元を口説(くどき)かければ是もまた、いなにハあらぬ稲舟の棹の雫の氣を持たか、直(すぐ)に二編のあとがきまで彫(ほる)了簡を僥倖(さいはひ)に、春雨衣と題しつゝ、しつぽり濡(ぬる)る濡場の一幕、チヨン/\/\と気をいれて、御伽双紙となすものなり。

月もよし梅もよし春もやゝ
景色とゝのふといふ夜

吾妻男一丁述


真情春雨衣初編巻之上

東都 吾妻雄兎子戯編

第壹回 まゝよ三度笠よこたにかむり たびは道づれ世ハなさけ

 伊豆の熱海の温泉(ゆ)は、天平宝字の昔に爺が見い出してから、婆の疝気も一風呂浴びれば治るという効き目。そのうえ、三方は険しい高山が聳えて雲を貫き、一方は果てしなく続く蒼海が天と連なり、海ではそこかしこから網引の声が聞こえ、また往来の船の真帆、片帆が見られて、風光明媚な自然の風景に画工は筆を取るのも忘れて見入るばかり。歌人、詩人はもちろん、夏の暑さを忘れようと各地から人が訪れる。熱海は七湯の煙が立ち上り、二十一軒の旅店の大座敷では、湯浴みした足を伸ばしたり、寝転がっていながらでも、手を叩けば、下戸の菓子や上戸の酒など、何でも持ってきてくれる。都以上の賑わいである。
 富士屋という有名旅店の一間に逗留しているのは、鎌倉は米沢小路の鍵屋、錠右衛門の次男の玉次郎と、その供で出入り職人の権太郎という気軽者。可愛い子には旅の苦労をさせるのが薬だとの親の勧めで、江ノ島を見、大山詣でを経てここにやってきたのだが、もとより病のある身ではなく、きょうも朝より退屈していた。
 権太郎が「若旦那、やりやしょう」と碁盤を持ち出してきた。
玉「また、へぼのお相手か。きょうは待ったはなしだよ」
権「おめえさんこそ、待ってくんなと言っても、聞きやしやせんぜ。それより今日は、負けたほうが鯛を一尾(いちめえ)奢るってことにしやしょう」
玉「そりゃ面白い。ご馳走になって悪いな」
権「おっと。始めっから広言はなしだ。勝負は時の雲天万天(うんてんばんてん)」と言いながら、まず四つの灸点へ石をぱちん/\と置いた。「さァ、おいでなせえ。ふうん、お定まりの尖(こすみ)でごぜえやすね。おっと、石飛んでその碁に勝たずとか。野暮な口から言い過ぎた。右の眼(まなこ)は越後へ献上、このほうの隅には腕があり、か。あや、しまった。一番打ち損なった」
玉「そら、もう始まった。待ったなしだと言ったじゃねえか」
権「待ったじゃごぜえせん。わっちがこう打ったら、おめえさんはどうなさるかと、気を引いてみたのでごぜえやす」
玉「時々、気を引くから恐れ入る。それもなしにしよう」
 二人が喧嘩半分、洒落半分で囲碁に熱中しているそのとき、廊下から足音がぱたばたと聞こえてきたと思った途端、障子ががらりと急に開き、人が入ってきた。
 驚いて振り向くと、向こうもびっくりした様子の十八、九のしとやかそうな娘、たちまち顔を赤らめる目元が可愛らしい。恥ずかしそうに腰をかがめて、
娘「これはどうしましょう。ついお座敷を間違えまして、とんだ粗相をいたしました。お許しなさって下さいまし」
 娘は侘びを告げるとそのまま後ずさりし、ばつが悪そうに出ていった。二人は顔を見合わせた。
権「若旦那、いまのは何でごぜえやす。滅法界にしんにゅうをかけて強敵(ごうてき)へ冠をきせたというのは、あのことでごぜえやしょう。わっちゃァはじめ天女かと思い、次に弁天さまかと怪しんだが、よくよく見ればやはり人間。たとえにいう沈魚落雁(ちんぎょらくがん)、羞花閉月(しゅうかへいげつ)、ばたばたばたと駆け込んできて、『これはどうしましょう』とにっこり笑った目元の愛敬たるや、背筋のあたりがぞくっとして、総身思わずぶるぶるぶる。震えがとまりゃァせん。あまりに二人が囲碁で妙手を打つものだから、魔がさしたんじゃァありやせんか」
玉「ちげえねえ。実に人間とは思われなんだ」と少し小首をかしげて、「ムムウ、読めた。ありゃァ、二、三間先の座敷へ昨日あたりにやってきた客、木場の多良福屋金右衛門とかいう人の娘ッ子にちげえねえ」
権「おや、若旦那。もう来歴をご存じとは油断がならねえ」
玉「いや、よくは知らねえ。さっき風呂場で人の話を聞きかじったのさ」
権「べらぼうに早く聞きかじったものだ」
玉「いくら口惜しがっても証拠はねえ。さあ、それよりおめえの番だぜ」
権「もう、お終い、お終い。さっき、お娘(むす)が若旦那をちょいと見たとき、若旦那もまたちょいと見て、互いに気があり名古屋、おしつけ色に鳴海(なるみ)絞り、いまからのろ気の受け太刀の応酬とは、先が思いやられて恐ろしい」
玉「とんだ取り越し苦労をさせてお気の毒だ。しかし、うまく鯛に逃げられて昼のご馳走の当てが外れた」
 と言いつつ、玉次郎は後ろを振り返り、借りておいた三味線を膝に載せて水調子。
都々逸♪「人はちょいと見てちょいと惚れするが、わたしゃよく見てよく惚れる」
権「嘘ばっかりおつきなさるぜ。恐ろしいほどの性悪のくせに。さてと、もう一風呂浴びてこようじゃごぜえせんか」
 それもよかろうと二人は碁や三味線などを散らかしたまま、風呂を浴びに出ていった。

 二人の座敷から三、四間隔てた広い座敷に昨日着いたのは、玉次郎が聞きかじったとおり、鎌倉は木場の裕福な商人、多良福屋金右衛門であった。供の男や宰領を相手に小酒盛りをしているところへ、湯上がりと見える姪のお染と腰元のお杉が浴衣姿のまま、息急き切って駆け込んできた。あたりをそこ、ここと見回して、
染「ご覧。姉さんより先になったわ。嬉しいねえ」
杉「ほんにさようでございます。お姉さんが着きなさったら、思い切り笑ってあげましょう」
染「廊下の回りっこなら、こっちをきたほうがよっぽど近いと思ったのに」
 そこへもう一人の娘がぱたぱたと駆けてきた。何やらおかしなことがあったのか、座敷へ入るや突っ伏して笑いはじめた。
杉「お嬢さま、どうなすったのでございますか。お春(しゅん)さま、どうしてそんなにお笑いなさる。あごがはずれますよ」
染「それ、ご覧なさい。お姉さんよりこっちが先でございました。アレサ、何がそんなにおかしくって、お笑いなさるのでございますね」
春「そそっかしくって」
 娘のお春がまた笑いはじめたのを見ていた金右衛門「訳もないことをげらげらとまた始まったよ。騒々しい」と言うのを聞き、お春は少し落ち着いた。
春「なにね、風呂場からお染さんと廊下の回りっこをしていて、どうしても先に着きたくてあまりに急いだものだから、角の座敷をここと間違えて入ってしまい、知らないお方が二人、碁を打っておいでなのを見てびっくりし、間が悪いので早々と逃げてまいりました。なぜにこれほどそそくさといたしているのでございましょう、自分でも呆れてしまいました」
 お春の話にお染と腰元のお杉も笑った。
染「おやまあ、いやな姉さんでございますねえ。向こうで何か申しましたのかえ」
春「その方々は肝をつぶした顔をして、あっけにとられておいでだから、なおのこと、間が悪くってしかたなかったァね」
杉「それじゃァ、先ほど私が廊下へ出たとき、あそこの角の座敷の中で碁を打つ音がしていましたのでそっと覗くと、一人は小粋な職人風、もう一人は息子株」と言いつつ横目で見ると、金右衛門は供の男や宰領との話に余念がないようなので、お杉は声をひそめた。「そのまァ息子株らしい人の美しさといったら、粂三と竹三と翫雀と合わせて三升と秋香であえたような、鎌倉はおろか唐にもいないほどのいい男。お嬢さんが間違えてお入んなすった座敷というのは、きっとそこだと思います。お嬢さま、美男子がおりましたろう」
 お春は顔を赤らめた。「わたしゃァ、ばつが悪くってろくに見なかったから、そんなお人がおいでか少しも気づかなかったが、それならよく見ればよかった。惜しいことをしたっけねえ」
杉「お嬢さん、ご覧になったのをお隠しでございましょう。それともあの座敷にいい男がいるのをすでにご存じで、わざと間違えたふりをして、お美しいあなたのお顔を拝ませたのでしょうね。油断のならないお嬢さまだこと」
 お春は真顔になった。「嫌なことをお言いだよ。あれこれと人をいじめて」
杉「ほほほ、たいそう真面目におなりになったこと」
春「お前(まい)が嘘ばかりつくものだから」
 図らずも見てしまった人の噂話をするのさえ恥ずかしく、うつ向くのは生娘の情というものであろう。
杉「まァ、話に夢中になってすっかり忘れていました。さあ、お髪(ぐし)を整えましょう」と言いながら、お杉は行李のふたを開け、櫛を取り出した。「さて、見晴らしのよいほうへお出でなさいな」
 お春とお染は海が見える窓辺に寄った。
春「きょうは天気がよいので、たいそう帆掛船が見えますこと」
染「あの船はどこへ行くのでございましょうか」
春「あれは鎌倉の春若町へ芝居見物に行くのでしょう」
染「あの船に乗りたいものでございますね」
春「おや、あなた、芝居じゃなく湯治場のほうがいいと、言ってたんじゃァございませんか」
染「わちきゃァそんなことは言いやしないよ。憎らしい」
杉「さあ、さあ。真っすぐに向いて。よそ見ばかりしてはいけませんよう」
春「それでもご覧な。かもめがたくさん飛んできた」
杉「おや、おや。たいそうでございますねえ」
 そのとき誰かがくしゃみをした。


第貳回 来潮(いたこ)出じまの真菰(まこも)のなかで あやめ咲とはしほらしい

 岩根を洗う波の音や梢に鳴く蝉の声が響いている。よそでは暑さに堪えられない日でも、この熱海は海から吹く風が涼しい。暑気払いにきた玉次郎と権太郎の両人は、座敷で腹這いになっていた。
権「きのう、ここへ駆け込んできた代物は、お見立てのとおり、この先の座敷の客に相違ない。さっき通ったとき、内側がちらっと見えやした」
玉「ぜんてえ、きのうきたとき、二人して呆気に取られ、言葉もかけずに帰してしまったのが、いまさら思えば口惜しい」
権「そうでごぜえやす。あのとき何とか言っておきゃァ、これから会っても訳なしだったのに。しかたがねえ。きょうはこちらから間違えて向こうの座敷へ駆け込み、『おや、おや、これはどうしましょう』と言ってみようじゃごぜえせんか」
玉「ははは。そりゃァいい」
 そのとき、廊下から人の足音が聞こえてきた。
権「そら。また表でばたばただぜ」
 と言うや、障子ががらりと開いたので、二人はびっくりして飛び上がった。二十三、四の小奇麗な年増が廊下で手を突いていた。
年増「まっぴら御免遊ばしまし。わたしくは、二、三間先の座敷におるものでございますが、主人が申しますに『あなたがたの座敷から碁の音がして、どうもなんだか気が引かれる。あまりに差し付けがましいが、旅は道連れ、お馴染みは多いほうが心丈夫なもの。もし格別のご用がなければ、こちらへお出でを願いたい。あるいはお座敷へ参って一番お相手申したい。しかし、誠に下手の横好き、強いなどと思し召すとたいそうお当てが違いますから、そのところはくれぐれもお断わり申し上げろ』と申しました」
 権太郎は渡りに船とばかり、その申し出に飛びついた。
権「へい、へい。かしこまりやした。しかし、こちらも誠の下手くそ。碁だか六だかしれやしませんが、そう申しましてご遠慮してちゃァ、お慰みにもなりやせん。お眠気覚ましにこちらから出るようにいたしやしょう。よろしく申しておくんなせえ」
年増「さようでしたら、どうぞお出でを願います。お待ち申しております」
 年増が去るのを見送った権太郎は躍り上がり、座敷をぐるぐるてんてこまいの喜びよう。
権「さあ、若旦那。大騒動がおっ始まった。いまのはたしかに向こうの座敷からよこした使いでごぜえやすぜ」
玉「そりゃァいいけれど、おめえ、行って打つつもりか」
権「なぜ」
玉「おいらたちの碁がどうしてよそで打てるものか」
権「なんの、かまうもんか。なんぼ向こうが強くっても、二十五目に風鈴なら恐れるこたァありやすめえ。きつく勝つより負けたほうがお愛敬ってもんだ。いや、若旦那。こうなせえやし。向こうはお大尽だということだから、こちらは二本差しのつもりでおいでなせえ。そうすりゃ金はあっても向こうは町人、こっちはお武家ときているから、碁はともかくもほかのことじゃァ一目置かなきゃなりやすめえ。そこでかくいうそれがしがさしずめ僕(しもべ)の奴・権助。釘抜の紋付を尻から端折り上げ、菖蒲革の脚絆、黒桟留の幅広帯へ、胴金づくりの一本を決め込み」
 と言いながら、歌舞伎役者が見得をきるように、かかとを尻へあてがい、片膝ついて碁盤を見回し、
声色「若旦那、玉次郎さまには、はて、よいお手が見えましたわなァ〜」
玉「うっとうしい。また始まったよ。これだから温泉(ゆ)へくるよりゃァ、滝の川へ行って水を浴びたほうがよかったのだァ」
権「いや、冗談じゃなく、旅は侍に限りやす。だいいち、人がばかにしやせん。さあ。仕度をなせえやし。早く、早く」
 急きたてられた玉次郎は、覚束なく思ったが、これも旅路の一興と権太郎ともども教えられた座敷へ行く。先ほどの年増が出迎え、「こちらへ」と奥へ通した。
 この年増は多良福屋金右衛門に仕えるお杉である。主人の多良福屋金右衛門は根っからの囲碁好きで、湯治のつれづれに相手が欲しいと思っていたが、連れの供は四ツ目殺しという手さえ知らないので、つまらなく思っていた折りも折り、玉次郎らが囲碁を打っていることを聞き、こうして招いたのである。
 金右衛門と玉次郎らは互いに挨拶を交し、四方山話をしている間に、茶が入り、茶菓子が出てきたので打ちはじめた。勝負はまったく互角で、一番終われば次は権太郎の番、というように代わる代わる打っていた。
 いつしか黄昏近くになっていた。かねてより準備をしていたのであろう。お春をはじめ、腰元のお杉が酒、肴を持ってきた。ていねいなもてなしに引き留められて、二人は夜になっても座敷を立とうとしない。もとより万事に如才のない若者のことである。たちまち二人の娘やお杉とまで心安くなっていた。さて、その夜はそれで暇をこうたのであるが、翌日も朝よりまた一番。湯浴みの合間合間に金右衛門の座敷へ行ったり、金右衛門が二人の座敷へきたりと、碁を打っていた。

 時を告げる御寺の鐘のない里では、夜はことさら時間がわからない。ようやく人々が寝静まると、とうとうと寄せては引く高い波の音ばかりが聞える。夜もだいぶふけたようだ。ふと目を覚ました権太郎が厠へ行こうと廊下へ出たとき、お杉にばったりと出くわした。
権「おや、いま時分、どこへお出かけか」
杉「どうしたことやら寝そびれまして、しかたがございませんから、一風呂浴びてこようとここまできましたが、一人で行くのは寂しいし、どういたそうかと考えていたところでございます」
権「それじゃ一緒に行きやしょうか。しかし、おいらと行くよりは、少しぐれえおっかなくても、一人で行くほうがましかもねえ」
杉「おや、どうしましょう。もったいない」
権「それじゃァ一風呂浴びに行きやしょうか」
杉「なにとぞそうして下さると、誠にうれしゅうございます」
権「いま時分にこうして二人で入ると、夫婦でなけりゃ駆け落ち者かと人に思われるが、よろしいか」
杉「少しでもそう思われたなら、こちらは仕合せ。わたくしには名聞でございますが、あなたは誠にお気の毒でございます」
権「またそんなにうれしがらせて、憎らしいと言いてえところだが、実に可愛らしい話しぶりだよ。しまった。おいらァ手拭いがなかったっけ」
杉「わたくしのでよけりゃァお使いなさいな」
権「そうするとおめえさんのがありやすめえ」
杉「わたしゃァなくってもようございます」
権「それでもまさか濡れたままじゃァおかれめえ」
杉「なに、いいえ」と口ごもり、「あなたとならばいつまでも濡れておりとうございます」
権「また、そのようなことを言って人を困らせるよ。人の悪い。まあ、ともかくもお供を申しやしょう」
 ほどなく二人は温泉場(ゆば)に着き、着物を脱いだ。
権「おや、おや。。いつもならいま時分は、一人や二人、入っているものだが、こいつァ誰もいねえ」
杉「ほんにさようでございます」
権「こいつァおめえの手拭いだっけ」
杉「いいえ。まあ、あなた、お使いなさい」
権「それじゃわたしが湯をかけてあげよう」
杉「もったいない」
権「たいそう白い体だねえ。どうりで紺の着物から、ちらちらと透いて見えると思った」
杉「あれ、まあそんな嘘を」
権「とんでもねえ。おめえも早くお入りな」
杉「温泉(ゆ)が清んでいて底の隅まで見えますから、昼間に参ると、誠に恥ずかしくってなりません」
 温泉へは昼夜わかず入っているので、体を洗う必要はなかった。権太郎が先に上がって体を拭いていると、お杉も上がってきた。
権「さあ、向こうをお向きなせえ。わっちが拭いてあげやしょう」
 と手拭いを絞って立ち上がり、お杉の背中を拭きにかかる。
杉「あれ、まあ、もったいない。どういたしたらよかろう」
 権太郎は嫌がるお杉を無理に捕まえた。
権「さあ、背中はすっかり拭いた。さて」
 と言いながらお杉の腋の下へ手を差し入れ、乳のあたりを拭き回す。お杉はいよいよ顔を赤らめて言葉も出ない。権太郎が腋の下から毛際まで手先を這わせようとしたとき、お杉はすばやく権太郎から手拭いを奪い取り、尻や内もものあたりを拭いた。
 権太郎は手拭いを取られても手を引っ込めようとはしなかった。それどころか、さらに陰門のあたりへと手を押し進めようとした途端、後ろの山で鉄砲の音がずどん。

春雨衣初編巻之上 


真情春雨衣初編巻之中

東都 吾妻雄兎子戯編

第参回 粋なお前に謎かけられて とかざなるまい繻子の帯

 お杉は脇に差し入れている権太郎の手を押さえた。
杉「お前(まい)さんのお心じゃァ、わたくしをここに泊まっている間のお慰みになさろうと思し召しているのかも知れないが、こちらは一生懸命。死んでも離れはしませんから、ああ、つまらないことをしたと後でお悔やみを申しますな」
権「そりゃァ言わずと知れたこと。なんぼおいらが薄っぺらでも、そんな不実をするかしねえか、後ろ向きじゃァわからねえ。ちょっと体をこうやんねえ」
 とお杉を横抱きにして自分の膝の上へ抱えあげる。頬を擦り寄せ、口を吸い、内股へ手を入れて、そろりそろりと玉門をうかがうと、むっちりとした小山のような額口の入り口は狭く、陰核(さね)は隠れたままだった。もやもやした陰毛をやおら掻き分け、上下、右左に縁のあたりをくすぐるようにいろいろくじると、お杉もそこは年増である、恥ずかしそうにしながらもだんだんに股を広げて、権太にもたれかかってきた。
杉「あまりにおかしな形(なり)だねえ」
権「裸でするのが本当だ。なにをおかしなことがあるものか」
杉「それでもなんだか恥ずかしくって」
権「面白くもねえ。初めて男に会ったわけでもあるめえ。恥ずかしいのは昔のことだァ」
杉「かわいそうに。ついぞこれまでわたくしは……」
権「男に会ったことはなくても、これにゃァ度々だろう」
 権太郎は張り裂けんばかりに勃起(おっ)立てた男根(へのこ)を女に握らせ、自分は二本の指を深く差し入れ、子宮(こつぼ)のあたりをぐりぐりかき回すので、お杉は思わず腰をひねって身を震わせた。ぬるりと淫水が出てくる。権太郎はもはや堪えかねて、お杉を抱えたまま寝転がして上から本手に割り込み、たくましい男根(いちもつ)を押しあてがい、やわやわと腰を遣うと、雁首がぬめりと入った。その小気味良さに、思わずはっと女を抱き締め、その頬へ食いつき、三深九浅の秘術を尽すと、玉門ははやくも、ぐちゃぐちゃ、ずぼずぼ。女はしきりに鼻息を荒くし、腰を持ち上げ、回してきた。
杉「気が遠くなってきました。もう、いっそうよくって、よくって、泣きたいようでございます」
 お杉は板間へ髪をすりつけ、額に八の字の皺を寄せ、目をそばめてよがった。男はぐっと身を反らして、大腰、小腰をすかり、すかりと遣い、ここぞとばかりに突き立てる。男根(いちもつ)がしびれてきた。そして、思わずお杉もすすり泣いたのを合図に、一度にどくどくと精(き)をやった。
 二人は抱きついたままほっと一息。互いにじっと顔を見合わせた。にっこり笑うお杉の愛敬がこの上ない。「恥ずかしい」と前髪を男の胸に擦り付けるはずみに、からりとかんざしが落ちて、ぷうんと梅花の香りが漂う。あまりのうれしさに二番を取ろうとしたそのとき、人の足音が聞こえてきたので、あわてて二人は体を離して飛び起き、着物を引っかけて温泉場を抜け出した。
 お杉の座敷の前までやってきた。
杉「それではお休みなさいまし」と言って声をひそめ、「せっかくお湯に入ったのに、汚してだいなし。お気の毒さま」
権「こうなりゃさらに汚してみたかったけれど、そういかねえのがやはり浮世というもの。求めて苦労をするというやつさ。ああ、別れるのが嫌になった」
 権太郎はお杉の襟へ手をかけて、ぐっと引き寄せ、立ったまま顔をぴったりとつけて口と口。このとき天井裏でも鼠がちゅうちゅう。二人はにっこり笑ってそれぞれの座敷へ入った。

 翌朝、彼方の島根から差し昇る朝日がきらきらと座敷の障子へ影を差すころ、玉次郎は目を覚ました。寝たまま手を伸ばして権太郎を揺り動かす。
玉「もし。権さん。起きなませんか。それともきょうは居続けしなんすか。さあ、目をお覚ましなんしよう」
 と言われて、
権「ああ。よく寝込んだ。いや、若旦那。だいぶお早いお目覚めでごぜえやす」
玉「おや、ばからしゅうおっす。連子(れんじ)を見なんし。もう五ツ(朝八時)過ぎでありんすによう」
権「どうも海辺はよそより夜明けが早くて誠に辟易する」
 と言いつつ寝返りを打った権太郎の顔を見て、
玉「おや。ぬしのほっぺたに赤いものがついておりんす。何ざいますえ」
 と言われたて太郎はぎっくり。言葉が胸元につかえて、しどろもどろになりながら、
権「え、いやァ、これは何だか、ちっとも知りやせん」
 間抜けな返事をして寝床から飛び起きた。玉次郎も起き上がる。
玉「さあ、一風呂浴びてこよう」
 ほどなく湯から上がり、朝食も済んでから、朝涼みのついでに近所を見物しようと玉次郎が提案してきた。権太郎は仕度を始めたが、うじうじしてなかなか進まない。というのも、お杉のことが気にかかって、出かけるのをためらっていたからだった。が、供の身としては嫌でもしかたがない。結局、近所の神社仏閣の名所旧跡の見物が済み、旅泊へ戻ってきたとき、すでに七ツ時分(夕四時)になっていた。
 さて、お杉は図らずも権太郎と縁を結んだのが出雲の神の引き合わせだと思えば心うれしく、ことにかこつけてその座敷の前を幾度か通り過ぎたが、音すらせず、玉次郎も不在の様子。心は穏やかではなかったが、主人の用や人目やらがあって、長く感じた一日がよくやく暮れようとしていたころ、その座敷でかの人の笑い声が聞こえてきたので、ようやく落ち着いた。
杉「お嬢さま。一風呂お入りあそばしませんか」
春「きょうはお染さんが風邪を引いてお入りでないから、さっぱり精が出なんだよ。浴びてこようかね」
杉「二度と再びこれるか知れないところでございます。思い切り入っておきなさいな」
春「それでは一緒に参ろうか。お染さん、風にあたると悪いから、先にお休みなさいまし。ちょっと一風呂浴びてきます」
 お春が帯を締め直して座敷を出る後を、お杉は浴衣を抱えて従い、廊下伝いに玉次郎の座敷の前を通りかかった。
杉「玉次郎さま、きょうは誠にお遠どおしゅうございます」
玉「お杉さんか。ちょっとお前(まい)に見せたいものがある」
杉「いまは湯への参りがけでございますから」
玉「湯へはいつでも行けらァね」
権「こりゃ、女房ども。せっかくご主人さまがお呼びなさるのだから、『はい』と素直にしたほうがよい」
 と言いながら権太郎は障子を開けた。
権「おや、お嬢さま。あなたもご一緒でございますね」
春「きょうは早くからどこへお出でなさいました。あなたが一日お留守ゆえ、お杉がふさいでおりましたよ」
権「またお嬢さん、そんな気休めを。お口の端をつねりますよ」
玉「ちょうど茶をわかしたところ。さあ、お嬢さんもちょっとお入んなさい。強情だとお灸をすえますよ」
権「それともお灸が嫌ならば、さあ、お入りなせえやし」とお春を無理に座敷へ入れ、「おめえも強情だ」と引き入れたのをこれ幸い、お杉の手を取ってじっと握れば、お杉もそれとなく握り返す。わずかなこの楽しみも、惚れたどうし、千金にもかえがたい時間である。「とうとうふたりを引きずり込んだ。こうなっては雷さまが鳴るまで、決して外へは出しません」
 権太郎が障子をぴっしゃりと閉め切った。玉次郎は茶を汲み、行李から金平糖、野菜の砂糖漬け、胡椒糖などを取り出し、並べて二人に勧めた。
玉「そちらの座敷へうかがえばご馳走をいただくばかり。こちらはこれが身上ありったけ。ひとつお摘みなせえ」
春「おや。いつそんなご馳走をいたしました。お出でのたびのお粗相。お気の毒でなりません」
杉「きょうは朝からあなたがお留守なので、わたくしどもの旦那さまはお碁の相手をなくしてしまい、一日、ふて寝をしてお休みでございました」
権「お嬢さんもお慰みにちょっと碁の稽古をお始めなさいな」
春「いくら毎日見ていましても、どのように打つのか、碁ばっかりは少しも訳がわかりませんわ」
杉「お嬢さまはお三味線でなくっては夜が明けません」
玉「お好きなだけにどうしてどうして。お春さんのように弾ける者ァ、商売人でも少のうごぜえす」
春「誠に嫌なことを。どういたしたらよろしかろう」
杉「お嬢さま、こないだ覚えたいとおっしゃっていた上方唄を教えていただき遊ばしましな」
春「それはご面倒だもの」
権「何も雑作のねえこと。ペコペンのペンとやりゃァ、すぐに覚えてしまいやす。ね、若旦那」
玉「おいらがやるなァ、誠に聞きかじり。いい加減だよ」
権「またはにかんで。悪い癖だ。坊は手が焼けて誠に困るよ」
 権太郎は三味線を取り出して玉次郎の膝へ置いた。
玉「上方唄の『こしの戸』でごぜえやすか」
春「はい。その『こしの戸』は誠に品のよい、面白い手でございます」
玉「いい加減でよきゃァ、弾いてみましょうか」
春「なにとぞお願い申します」
杉「それでしたらお嬢さまがここでお稽古を遊ばすうち、わたくしはお湯へ参ってきましょう」
 と言いつつ、権太郎にそれとなく目くばせをした。
権「それがいい。お嬢さんはお湯はお休み。ここで遊んでおいでなせえ」
 と言われてうじうじしているお春をお杉は残し、さっさと湯へ行ってしまった。
 玉次郎が三味線を手にとって調子を合わせている最中、権太郎はお杉の目くばせが風呂で待っていることの合図だと思えば、尻も落ち着かない。さて、どうしようかと思っているうちに一計を案じて、立ち上がってうろうろ。
権「ええい、何か踏んだ。おや。こいつはおかしな虫だ。やァ、きたねえ。こりゃァだいなし。踏みつぶした。くさい、くさい」
 と独り言。聞いていた玉次郎、
玉「なんだ。どこかへ捨てるとまた踏むぜ」
権「こいつをここらへ捨てちゃァたいへんだ。ああ、気味が悪い。こいつをどこかへ捨てるついでに、ちょっくら足を洗ってこよう」
 座敷を出た権太郎は風呂場へ一目散に向かった。


第四回 さんさ時雨(しぐれ)か茅屋の雨か 音もせずして濡れかゝる

 玉次郎は三味線を取り、お春と差し向か合いになって、秋の草野に鳴く鈴虫よりもうるわしい声をあげて上方唄を唄っていた。
♪「浮き草は 思案の外(ほか)の誘う露(みず) 恋が浮世か浮世が恋か ちょっと聞きたい松の風 問えど答えず山ほとどきす 月やはもののやるせなさ 癪にうれしき男の力 じっと手に手を何にも言わず 二人してつる蚊帳の紐」
 二度、三度、繰り返して、玉次郎は三味線を置いた。
春「誠によい唄でございますねえ」
玉「唄い方が悪いからいけませんのさ」
春「そんなによい声でありながら」
玉「弾いて唄うことがなかなか難しいのさ」
春「それでもどうにか、なま覚えには覚えました」
玉「ちっと冷めたかしれやせんが、お茶をもうひとつ」
春「お構い遊ばしますな」
玉「権太郎はどこまで虫を捨てに行ったか、滅法界に遅え男だ」
春「ほんにお杉もたいそうな長湯。とんだ者が入り込んで、お休みのお邪魔をいたしました。ご迷惑でございましょう」
玉「いいえ。それは大違い。お杉どんが見えなくなってしまい、あなたがいつまでもここで待っておいでなら、たとい3年このままでも大儀とは思いやせん。お前(めい)さんこそお待ちどお」
 お春は「わたくしはちっとも待ちどおではございません」と打ち消した。
玉「それじゃァゆっくりなすっても、いいじゃァありやせんか。しかし、こうして差し向かいでいると、人がなんと思うことか。それがお嫌でごぜえやしょう」
春「いいえ。わたくしはちっとも嫌ではございません。むしろあなたこそ誠にお気の毒でございます」
玉「どこが気の毒でごぜえやすか」
春「もし人が何とか思いましたら、あなたの外聞がお悪かろうと存じまして」
玉「なぜ外聞が悪いのでごぜえやす」と聞いてもお春は黙って答えない。「さあ、なぜ外聞が悪いのでごぜえやすよう」
 お春はもじもじして顔を赤らめた。
春「それでもあのう、わたくしのような者を」
 お春は口ごもった。
玉「そんなに人をおじらしだと、くすぐりますよ」
 玉次郎が膝をくっつけて手先をじっと握ってくるので、お春は襟へ顔を差し入れるようにうつむくばかり。玉次郎はなおも寄り添い、お春の背中へ手を回して、ぐっと抱き寄せ、その顔をうち守った。
玉「お春さん」
春「はい」
玉「うっとうしゅうごぜえやしょう」
春「いいえ」
玉「さてものこと。こうしなさい」
 玉次郎はお春の着物の前をかきはだき、緋縮緬の二布を掻き分けて、雪よりも白く、羽二重よりもすべすべした内ももへ手を差し入れた。玉門を探ろうとしたが、お春は身を縮め、股をしっかり閉じてさわらせようとしない。しかたなく玉次郎は顔に顔を押し付け、きゅっと結んだお春の唇を舌の先で無理にこじ開け、そこらここらと舐め回し、やがて横ざまに寝かし、太ももへおのれの膝を割り入れ、再び股へ手を入れた。お春はたいへん恥ずかしく、いじらせまいと身を揉んだが、男の膝が割り込んでいては、脚を閉じることができず、袖で顔を隠して、ただぜいぜいと息をするだけであった。
 男は静かに玉門をくじってみた。毛がもやもやと生えていたが、額は柔らかな肉付きで、両縁がむっくりと高く膨れ、さねは埋もれていてどこだかわからない上開である。夢見心地にまず空割をなで回し、また口元をそろそろとくじりかかる。ぬらっと精水(きみず)がわき出してきたが、そこはまだ新開(あらばち)のこと、二本の指さえままならないのを、きしませながらさらに指を奥に入れ、茘枝肉(れいしにく)から子宮(こつぼ)のあたりまでを幾度となくなで回した。お春は腰をもじもじさせた。
春「あれ、まあ、お手が汚れます。誰かが参るといけません」
 お春はようやく口の開くのが精一杯だった。
 玉次郎はお春の上気がゆっくり落ち着くのを待とうとも思ったが、お杉と権太郎がいまにも戻ってきやしないかと、しきりに心がせいたので、おもむろに本手に構え、誇り立った男根(いちもつ)に十分つばを塗りたくり、玉門(ぼぼ)の割れ目を指で開き、そろりそろりと腰を押し出した。そのとき、内より淫水がぬるりと湧き出たはずみに、きしみながらも雁首が半ばまで入った。
 痛いのだろうか、女が少し動いて身を乗り出したので、毛と毛が擦れ合いながら、睾丸(きんたま)の際まですっぽり収まった。その小気味よさに、我を忘れて大腰でずぼりずぼりと突き立て、またちょこちょこと上面をくすぐるようにする。お春も気持ちいいのだろう、目を細め、鼻息荒く、男の背中に回した手にだんだんと力を込め、抱きついてきた。男根(へのこ)が幾度となくこそばゆくなるのを雁首は堪えた。が、ついに、子宮から淫水がどくどくとほとばしり出て当たるので、玉次郎ははっと息をはずませ、つたかずらのようにしがみついて、松の古木のように節くれだった男根(へのこ)をずき、ずき、脈荒く気をやって、ようやく一息ついた。
玉「とんだ目にあわせてしまいやした」
 お春は顔に袖をあててにっこり笑うばかり。玉次郎は手を伸ばして荷物の近くの紙を取り、二人の始末をしている折しも、廊下から足音が聞こえてきたので、飛びのいて三味線を取り、
♪「二人が恋の忍び駒 人の心と水調子 流れの末はどうなると 思えば心細棹の 一世はおろか二世かけて 切れはせぬぞえ三の糸 四ツ乳(ぢ)の皮のはげやすい 色もこうして胴がけの しっくり回る糸車」
 と再び上方唄を唄いはじめた。

 さて、風呂場で会おうと示し合わせたお杉と権太郎であったが、まだ日が暮れて間もないので湯浴み客が多く、どうしようかと廊下へ戻ってみたところ、人のいない座敷があったのでこれ幸いと飛び込み、抱きつき、扉を閉めて、ちゅうちゅうと鼠の真似。水を飲む猫のぴちゃぴちゃという音や、賤(しず)の山畑で山芋を掘る猪のような荒い鼻息を立てて二番も取り、思いの外時間のかかった二人が、鬢のほつれ毛を掻き上げ、帯を締め直して、座敷にようやく戻ってきた。
権「おや。いまだお稽古でごぜえやすね」
春「どこまで虫を捨てにおいでなすったのでございます」
杉「お嬢さま、たいそう遅くなりました。さぞお待ちどおでございましたろう」
権「お杉さんには呆れたもの。こういう訳でごぜえやす。わっちが足を洗いに行くと、湯からあがるまで待っていて、暗いところへ引きずり込まれ、『なにとぞお前(まい)の女房になりたい、ぜひとも情合(いろ)にしてくれ』と、いやはや、どえらい口説きよう」
杉「あれ、嫌な権さんだよ。なにね、お嬢さま、あそこの座敷で落とし話をやっておりまして、あまりに面白いものだから、つい立ち聞きし、根が生えて遅くなりました」
権「そんなにざっくばらんにぶんまけちゃ、身も蓋もない」
玉「何だか知らねえけれど、滅法二人がなげえので、野狐(こんこん)につままれたんじゃないかと、気を揉んでいたところさ」
春「ほんに夕べもおかしな声で鳴きましたから、気味が悪くってなりませんわ」
権「後ろの山できゃァッと鳴いたやつァ、ふくろうでごぜえやすぜ」
春「おや、まあ、嫌な声の鳥でございますねえ」
 座敷を開けた人も待っていた人も、包み隠すは情合(いろ)の道。気づかれまいと互いに用心したので、それと悟られることはなかった。
杉「さっぱり忘れていた。明日(みょうにち)、お染さんの塩梅さえよろしければ、あちらこちらを見物に参るつもりでございましたっけ」
春「わたしもうっかりしていたよ。それじゃァお暇にいたそうじゃァないか」
杉「はい。それがよろしゅうございましょう」
 お春とお杉は座敷を後にするのが名残り惜しかったが、あまりに手間取ると父の手前もあって悪かろうと、挨拶もそこそこに自分たちの座敷へ引き下がっていった。

 翌日の昼過ぎのころ、玉次郎の座敷の障子ががらりと開いた。入ってきたのが玉次郎の父・錠右衛門の弟で、叔父の鐶兵衛(かんべえ)だったので、玉次郎と権太郎はびっくり。「何ごとがあったのごぜえやす」と問われて鐶兵衛、「そなたの父の錠右衛門のことだが、ふとしたことで日々病が重くなり、万一のことをご用心なされよと医師の見立て。しからば、そなたを誰ぞ迎えにやれとのことだが、もとよりわしは健脚、道にも明るいので早速飛ぶようにここへやってきた。いまごろ病がどうなっていることやらと思えば、心は穏やかではない。もし亡き人になってしまっては、臍を噛んでも悔やみ切れない。さあ、早く仕度を調えよ」という。
 早く、早くと促されて、玉次郎は驚き迷い、権太郎ともども敷き広げた旅の調度を何くれとなく取り収め、宿の者にもそのことを告げ、はや発とうとする折節、心残りなのはお春のこと。その気だてといい、器量といい、二人といまいと思うのは、惚れた欲目か気があるのか、住まいは同じ鎌倉だが、宿場を数々経てこの湯治場で出会ったのは、前世からの縁か、月下老人(むすぶのかみ)の引き合わせかと喜んだのも束の間、父の病も捨て置きがたく、かの人々がいさえすればこのあらましを伝える術もあろうが、きょうはあいにく見物に出かけてしまって宵にも戻らないとか。一筆書き残しておくにも、頼める人がいない。
 どうしようかと思案をするが、名案が思いつかず、玉次郎が溜め息をつくのを見て、叔父が「コウ、玉次郎。そんなに力を落とさずと、仕度の早いのが肝心だ」
 折しも宿の女、座敷の障子を開けて「はい、お草鞋が参りました」


春雨衣初編巻之中 


真情春雨衣初編巻之下

東都 吾妻雄兎子戯編

第五回 遠ざかるほど逢たいものを 日々にうとしと誰がいふた

 玉次郎はお春のことが気にかかっていたので、仕度がさっぱり進まないのに、そばから叔父に急きたてられ、脚絆の紐さえうまく結べない。思い沈んでいた胸先にふと浮かんだことがあって、矢立てを取り出し、鼻紙へ一心に書きはじめた。
御馴染みかさなるまま、いまは片時御そばを離れることが情けない。思うに甲斐のない浮世のさま、父が病と鎌倉より迎えの人が参ったので、御別れさえ告げることもできずに戻ります。しかしながら、御住まいは存じています。御許さまへも鎌倉へ御帰りの後、ゆるゆると参って御詫びを申し上げます。必ず、必ず、薄情者とお見捨てのなきように、お春さまへもみなさまへも、よろしいように御取り成し、御言づけを願っております。申し上げたい言の葉はやまやまあって尽しがたいのですが、この辺で筆をとめねばなりません。めでたくかしく
六月二十八日 玉次郎
色師の本ぞん
お杉さま
 玉次郎は筆を収めて手紙の封をすると、通りがかった宿の女を呼び止め、金右衛門たちが戻ってきたら渡してほしいと頼み終えて、ようやく一息ついた。一方、権太郎も権太郎で、すぐに出発しなければならないと聞き、がっかり気を落としてうなだれ、塞ぎ切って何も喋らない。
鐶「どうしたんだ。権公。おめえまでが弱っちゃァ玉次郎もしようがねえ。兄貴が死んだと言いにきたんじゃあるめえし、帰(けえ)ってみると思いの外、達者になっているかもしれねえ。さあ、はっきりしなせえ」
 と鐶兵衛に検討外れの意見をされて、権太郎はむしゃくしゃ。腹も立ったが、そうとは言わずに後ろを向いて口の中で、
権「笑かしゃァがる、とんちき野郎。人の心も知らねえで、何だ、ぐずぐず騒々しい」
 と小言をいうのも恋の愚痴。お杉のことをどうしようかと思う間もなく、玉次郎の仕度ができたので、やるかたなく不承不承に立ち上がり、柳行李をくくりつけた天秤棒を担いだ。
権「さあ、おいでなせえ」
玉「大きな声だ」
鐶「コレサ、権公。そう足音高く歩くと、廊下の床が抜けてしまわァ」
権「なに。そんなこと、構うもんか。こうなっちゃァ、どうせやけだ」
鐶「珍しく兄貴を案じてくれてる。ありがてえ、ありがてえ」
「お忘れ物はござりませぬか」「ご機嫌よう」の宿屋のお世辞を背に受け、三人は真芝の美しい鎌倉を目指した。

 ここは名にし負う鎌倉。その繁華街を通り抜けた川沿いに、飛び飛びで家が建ち並ぶ。棟は高く、屋敷の囲いもたいそう広い。庭の中にも堀がある。さわらの角材をたくさん川に浮かべているのは、材木を商う問屋なのだろう。
 その間に一軒、土蔵(ぬりごめ)が幾棟となく建ち並んだ屋敷がある。武家屋敷かと思うと、店構えがあり、番頭や丁稚がいる。これこそ木場の多良福屋金右衛門の住まい。この辺では名の知れた分限である。
 主人の居間を幾座敷か隔てた奥の小座敷は、川へ出っ張っていて見晴らしがよい。季節は冬間近の晩秋であった。岡の楓は紅葉して色づき、初雁の鳴き声が寒々しい。お春がもの思いにふけっていた。
『風の尾花は招いても、かの人を招くことはできない。人目をはばかってお杉宛にしたのだろうが、本当は吾儕(わなみ)に見よということなのだろうか。別れの言葉もなく帰ってしまい、住まいは同じ鎌倉なので、必ず尋ねていくとの書き置き。きょうは音信があるだろうか、明日はいかにと待ち侘びて、いたずらに月日は過ぎていくばかり。化粧は会って愛想を付かされまい、飽きられまいとの身だしなみ。熱海で過ごした日、座敷を間違えて人目見たときから愛しさが募り、恋しく思えど、嬉しい逢瀬がなかったならば、この苦しさもなかったはずなのに、ままならぬ浮世だことと何度繰り返して思ったことか。しかし、思うもやはり恋の愚痴。逢わなかったことと諦めて、忘れようとしても忘れ切れない』
 後ろより腰元のお杉がいつものように気さくに声をかけた。
杉「なにをそんなにくよくよとお考えでございます。ちと元気をお出しなさいな」
春「誠に気が寒うて、なんだか悲しくなってくるよ」
杉「この夏、湯治場にいらしってから、一日も気の晴れたことがない。どうなすったのでございます」
春「わたしにもどうしたのだか知れないのさ。熱海に行った時分は、毎日毎日暑くって、焼け死ぬほどに思ったのに、すぐ、こんなに寒くなる。誠に早いものだねえ」
杉「熱海と申せば、玉次郎さまはぜひ尋ねるとのお手紙でございましたが、もうかれこれ百日近く。いまにさっぱりお出ではなく、権さんもまたくるはずが、これも同じく音信不通。かように不実な人たちとは見えましなんだが、思いの外、見かけ倒しでございますねえ」
春「お前(まい)、玉さんのお宅をどこだか聞いてお置きか」
杉「聞こうとした矢先に、あの人たちは帰ってしまいましたから、誠に口惜しくってなりません。それでも権さんが初めて碁を打ったときに申したことには、『扇ヶ谷(おうぎがやつ)辺のお屋敷の若旦那さまで、洒落たことがお好きゆえ、大殿さまには内緒にして小田原の宿でお供を帰し、町人風でお出でなったのだ。おいらも実は侍だ。本名は面壁達太夫(めんぺきだるたゆう)』と真面目な顔で、肩をいからせ、膝を叩いて申しましたが、なんだか合点がなりません」
春「扇ヶ谷にはたいそうお屋敷があるのかねえ」
杉「いいえ。秩父さまの分家で、小さい秩父さまと申すお屋敷が一軒ございますばかり」
春「その秩父さまの御紋所を知っておいでか」
杉「たしか桐の御紋だとかいうことでございましたっけ」
春「玉さんの羽織の御紋も桐だったわ」
杉「よくまァ、そんな細かなとこまで見てお置きなさいました」
 と言われてお春は悟れまいとして、
春「あんまり奇麗な染めだったから、それで覚えていたのだわ」
杉「何だか怪しゅうございますよ。それはそうと旦那さまがたいそうにご養子をお急ぎで、方々へお頼みするゆえ、きょうもまた横山町のお出店の旦那さまがいらしって、『米沢小路の鍵屋とやらの弟息子は、利口な上に男ぶりもたいそうよく、どこへ出しても立派なもの。ご相談をなさればよい』とお薦めでございました。旦那さまのおっしゃるには、『お前方からの口入れならそれほど確かなことはない。どうぞ話をしてみたい。それにつけても娘のお春、どうしたことか、このごろはとかく養子の話を嫌い、跡を取るのは嫌だという。もっとも早くに母と別れ、乳母育ちのわがままと叱ってはみるものの、知ってのとおり、わしの兄貴は子細あって他家を相続したが、本来、兄がこの家を相続するのが正統。となれば、お染はもともと兄の娘、そのお染にこの家の跡を継がせる心もある。とにもかくにもお春の胸の内をとくと聞いた上で、いよいよ相続しないとなれば、お染に決着する所存』とお話なすっておいででございました。なぜ、あなたはこの御家をお継ぎなさるのがお嫌なのか、ちっとも訳がわかりません。それとも何か思し召しがあってのことでございますか。もし、旦那さまにおっしゃりにくいことがあるのなら、わたくしから申しましょう。よく人情本にも書いてありますが、年のゆかない娘気から、ただ一筋に思い込んだ男のあるのを親は知らず、無理往生の婿養子。それからとんと埒もなく、しちむつかしいことを起こすのは、もとはと言えば、娘気の恥ずかしさが先に立ち、遠慮が無沙汰になってのこと。あなたもひょっとしてそのようなことがあるのなら、隠し遊ばすことはない。わたくしをはじめ、よい男を見たら、好いたと思うのは当然(あたりまい)でございます。それがないのは、ばか、ふぬけ、人間並ではございません」
 もしやお春が玉次郎に惚れているのに、それと言い出しかねているゆえに、養子を嫌っているのだろうか。お春は少し赤らんでにっこり笑って紛らわした。
春「嫌ねえ。なぜにわたしが」
杉「それがございませんなら、横山町の旦那さまが、たいそうよいとおっしゃる米沢小路のかの男は、よもや嘘ではありますまい。お見合いでも遊ばしたらよろしかろうと存じます」
春「男はどうでもよいけれど、跡を取るのは誠になんだか」
杉「それではお嫁にお出でなさるの」
春「いいえ、嫌なこと」
杉「お嬢さまのお心がわかりました。桐の紋がよろしいのでございましょう」
 と言われてお春は胸に釘。はっと赤らめた顔を見せまいと、うつ向いたまま口ごもり、返事に窮しているその折、丁稚の長松がぱたぱたと駆け寄ってきた。
長松「べらぼうに薄暗いところでお杉どんの色話か。ここにいるのは誰だ。おや、お嬢さまか。おいらァ、男かと思った。こりゃァ笑かす、お杉どん。どいてくんねえ、戸を閉めとんぼだ」
 長松は戸を二つ、三つと閉めているとき、つい息張ってブイ。
杉「きたねえ。お嬢さまの前でなんとぶしつけな」
 六ツの鐘(日没)がゴオンと鳴った。


第六回 夢でなりとも遭いたいものよ ゆめじや浮名ハたちハせぬ

 世に一つだけ人の勝てないものがある、無常の風の太刀先を見よとは、藤本由己が兵法者を哀悼して詠んだ狂歌である。また、ひとたび無常の風に会っては、知者も勇者も、尊きも賤しきも、おしなべて涅槃の団子となり、あるいは牡丹餅饅頭となる身はかねて覚悟、と業平朝臣もお詠みになっている。
 米沢小路の鍵屋の次男・玉次郎は、叔父の鐶兵衛に誘われて権太郎ともども伊豆の熱海を出立し、ただ一目散にわが家へと戻ってきたとき、父はすでに今わの際。玉次郎が戻ってきたことを知るとにっこりして安堵したのか、思い残したことを伝えると、翌日の明け方、帰らぬ人となった。
 これには玉次郎はもちろん、家の中も悲嘆の涙にくれ、野辺の送り、初七日、四十九日を執り行い、早、忌明けとなったが、玉次郎は生来親孝行者だったので、なおこもって仏前で祈りを続け、出歩くことがなかった。伊豆で契りを交わしたお春のことは気になっていた。だが、親が死んで間ないのに恋の奴になるのを恥じる一方で、日が経つにつれて、かの多良福屋を尋ね、お春に会って不実を侘びたい気持ちも募っていった。
 権太郎がいればすぐにでも行きたいところだが、その権太郎は長いこと不在だった。父の遺言で難波に住む弟のところへ形見の品を持っていったところ、向こうで脚気になり、療治を続けていたため、まだ戻ってなかったのである。だから、一人で訪ねては何だか権太郎に悪い気がして、一日過ぎ、二日過ぎと、延び延びになってしまっていた。
 そうこうするうち、木場の多良福屋の出店である横山町の多良福屋より言づけがもたらされた。『本家の多良福屋には男子がなく、娘一人だけなので、かねてより養子を求めていたが、これと思う者がいない。そなたの弟の玉次郎どのは、それがしもよくその篤実を知っているので、本家へ行ったときに噂をしたら、それは好ましい若者だ、もし先方に不都合がなければ、相談してほしいと頼まれたので、そのことを問い合わせにきたのである』という内容だった。
 思いがけない申し入れに、玉次郎は夢じゃないかと一人、つくづく思った。かの湯治場でお春にさえ、自分の本当の気持ちを明かす間もなく戻ってきてこの縁談話、玉次郎と知ってのことなのか、あるいは知らずによこしたのか、いささか不可解なことはあったが、それはともかく、このことがあってから、いよいよ多良福屋へは足を運べなくなってしまった。かくなっては、縁を結んでくださいと、朝夕、神仏に伏し拝むばかり。ふだんの利発さからは考えられない行為も恋の道のなせるわざであろう。
 ある日のことである。玉次郎は部屋にこもり、もの悲しい秋の夕暮れ、父の在りし日のことを思い浮かべていた。そして、いつしかうとうととまどろんでしまい、五ツ(夜八時)を知らせる拍子木の音に、はっと飛び起きた。父親の菩提を弔うために、書きためておいた六字の名号を今宵、川に流そうと思っていたのに、うっかり寝込んでしまい、不覚をとってしまったことを思い出したからだ。
 川までそう遠くはない。幸い雲はなく晴れ渡っていたので、玉次郎は月の明かりを便りに行ってくると家の者に告げて出た。夜風が身にしみる河岸通りを経て、花水橋にやってくると、ふだんと異なって思いの外人通りが寂しかった。
 玉次郎は橋の欄干に身を寄せ、心の中で何度となく南無阿弥陀仏を唱えつつ、その文字を記した何枚もの紙を取り出し、川へ投げ込んだ。そのとき、人がいるのを知ってか知らずか、若い女が一人、近くの欄干から川へ身を投げようとしているのが目に入った。
「あぶねえ」
 玉次郎が差し伸べた手は間一髪間に合ってその帯をひっつかんだ。引き上げて戻すと、女は驚いた様子で橋の上に倒れた。
玉「コレサ、姉さん。定めしいろいろ子細はあろうが、心を落ち着けて、わしが言うことをよく聞きねえ」
 だが、女は「離して」と身をよじるばかり。玉次郎がそうはさせじと争っていると、一人の老婆が通りかかり、何ごとかと立ち止まって、行燈を差し出した。その明かりに、二人ははっとして顔を見合わせた。
玉「お春さんじゃァねえか。あぶねえところでありやした」
春「玉次郎さんでございますか。どうしてあなたこそここに」
玉「居合わせたのも前世の約束ごとでありやしょう。何はともかくここは橋の上。じきすぐの星月町にわしの乳母のうちがありやす。そこへ行きやしょう」
 と言ったとき、先に提灯を差し出した老婆が玉次郎をじろじろと見て、
婆「もし。米沢小路のお坊ちゃんじゃございませんか」
玉「お、ばあやか。おいらァいま、おめえの家へ行くところだ」
婆「それは生憎でございます。わたくしはこれから向こう河岸まで行かなけりゃなりません。しかし、ここに鍵がありますから、渡しておきましょう。鍵を開けて家で待ってておくんなせえ。火鉢の火はもちろん、行燈も消さずにあります」
 老婆は一人暮らしだった。玉次郎は鍵を預かった。
玉「そんならばあや、早くかえってきてくんねえよ」
婆「なに、すぐ戻ります」
 玉次郎はお春を誘い、花水橋からほど近い月星町の裏屋にある乳母の家へ行き、預かった鍵で開けて中に入った。行燈の火をかき回して燃え立たせ、火鉢の炭をほじり出して土瓶に手を当てた。「よかった。熱い」と言って茶碗についで一杯飲み、お春にもついでやった。
玉「やれやれ。ようやく少し落ち着いた」と胸をなで下ろし、お春のほうを向いた。「ときにまァ、こっちにもいろいろ話はあるが、お前さんはどうしてさっきの始末でごぜえやす」
 お春は顔を赤らめて、言おうとしては口ごもりを何度か繰り返して、ようやく恥ずかしそうに話しはじめた。
春「伊豆でお別れ申してから鎌倉へ戻りまして、こちらからお尋ね申そうにもおうちはどこなのか存じませず、毎日お待ち申しましても、あなたは一向にお出でにならず、どうしたらよかろうとふさいでばかりおりますうち、よそからの世話で養子の相談。はじめはいろいと理由をつけても、親の言いつけに背くのは不幸ですから、お受けはしましたが、いったんあなたとなにしてからは、外には男は持つまいと、観音さまに願をかけたりしましたが、あなたと添えぬなら死んだほうがましと、身勝手ながら親への不孝の罪、咎を承知の上でのこの覚悟。不所存者とおさげすみなさっても、お見捨てなさって下さいますな」
 聞いていた玉次郎はうなずき、落ちる嬉し涙をかき払った。
玉「取るにも足らねえわたしをば、それほどまでに思ってくれること、死んでも忘れはいたしやせん。このように打ち捨てておく気はさらさらなかったのだが、親父の病気がよくなくって、伊豆から帰ったその日の明け方、あの世の人となり、それから忌中で引きこもっていたので、気になっていても、お尋ね申すわけにもいきやせん。さぞ薄情な男と恨んでおいでだろうと思うと心ならず、どうしたらよかろうと思いながら日がたってしまいやした。ようやく伸びた月代をすり、きょうこそ、いや明日こそ、と思ううち」
 横山町の、と言いかけたとき、路地のどぶ板を踏む足音が聞こえてきた。乳母が帰ってきたのだろうと思っていると、行きすぎて、よその家の戸を開けた。
春「さっきのおばあさんがお帰りかと思いましたわ」
玉「わたしもそうだと思いやした。しかし、婆が帰ってきたら、寄り合って話もできめえ。鬼の留守の洗濯だ。こっちへお寄り」
春「こういたすのでございますか」
 お春は身を寄せ、玉次郎の膝にもたれてその顔をじっと見つめ、にっこりすると「恥ずかしい」とうつ向いた。
 襟元は雪より白く、鹿子絞りの髷紐がしどけなく解けかかり、斜めに差したかんざしが手に当たってひんやりした。梅花の香りが漂っている。命をむしり取られても、この子なら惜しくないと思うのは、このようなときだろう。
 玉次郎は恍惚として春心をきざし、心は上の空、あえかなお春を抱き締め、そのまま寝転ばした。お春は少し身を縮め、耳のあたりを赤らめた。
春「それよりさっきのお話の続きを」
玉「それも肝心だが、その前に」
 玉次郎はお春のももへ脚をずっと割りこませ、湯具をかき払って、薄毛をなで回し、そろりそろりと玉門へ手を伸ばしてくじった。そして開中が一段と潤ったとき、横になりながら鉄火のような一物を押しあてがい、二突き、三突きして、ずぶりと根元まで入れた。
玉「こうしてからゆっくり続きを話すつもりさ」
春「まァ嫌な」
玉「嫌でもどうでもしかたがねえ。そこでさっきの話だが」
 横山町の、と再び言おうとしたとき、がらりと障子が開いたので、二人はびっくり。胸は轟き、どうしようかと途方に暮れていると、「もし、もし」と揺り起こす下女の声が聞こえてきた。玉次郎が心づいてあたりを見回すと、乳母の家と思っていたのがわが家の中。日はすでに暮れ、窓に明るい月の影が映っている。玉次郎はしばし呆然とした。
下女「横山町からご縁談のことで、どなたかがいらっしゃいました。そのことでお兄いさまがちょっと会いたいとおっしゃっております」
玉「ううむ。よし、すぐに行く。それにしても夢であったか。不思議な」
 と言って玉次郎がほっと一息ついたのを下女は聞き逃さなかった。
下女「夕べのことではございません。たったいまのことでございます」
 座敷のほうから六ツ(宵六時)を知らせる時計の音が響いてきた。

春雨衣初編巻之下 終