屋根裏
Present BY Kasumi Yahagi


「かわいそうなどうぶつたちへ」





「かわいそうなぞう」は、資料を読み進める事がとても辛くて、制作当時は夢にまで見ました。
絵を描くという目的は達しましたが、私の中では未だ収まらぬ感情があります。

戦禍にあった昭和18年8月半ば。当時の公園課長の井下清さんは、軍部からあの辛酸な命令を受け
上野動物園責任者※園長代理の福田三郎さんを呼び出し、所謂「猛獣処分」を伝令します。
(※園長さんは陸軍獣医学校の古賀忠道さんです。戦後、東京動物園協会理事長)
翌朝、福田さんは職員全員を集め、この指示を伝えます。射殺は銃声が園外にもれるため禁止。
記録によるとこの時福田さんは「国家機密のため家族にも話さないように」と付け加えています。
私の読んだ資料には、次のことが淡々と箇条書きに記されていました。

昭和18年8月17日閉園後、それは始まりました。最初に殺されたのはメスのホクマンヒグマです。
係りの人は硝酸ストリキニーネを入れたサツマイモを食べさせます。22分間苦しんだ末に絶命しました。
毒入りの餌を嗅ぎ分けてしまった動物たちの処分については、辛酸を極めます。
月の輪グマは、首にロープを巻き付けて数人がかりで15分間も引っ張って殺したそうです。
黒ヒョウには、先にワイヤロープの付いた棒を使い首にかけて吊るし、窒息死させました。
人気のガラガラヘビは、頭部を針金で突き刺し、翌朝、頚部をひもでぐるぐる巻きにして殺しました。
ライオンは絶食させたあと尚、毒入りの肉を与えます。翌朝、槍で身体中を刺し、それでも絶命に至らな
かったため、最終的には心臓を刺し貫いて殺しました。動物園の人たちは、これを泣きながらやったそうです。
この時の動物たちの気持ちは。係りの人たちの気持ちはどんなものであったのか。
描きかけの絵を目の前に、何度も筆がとまりました。

あの象たちは、その中でも生き長らえた方です。ですから、みんながその運命に注目していました。
一日でも長く生きていて欲しい。そして、一日でも早く戦争が終わることを、職員は死んでいった動物達の慰霊碑に
むかって祈ったのです。殺された動物たちの慰霊祭の時には、花子(ワンリー)とトンキーがまだ生きていましたので
福田さんは、井下さんに「ゾウが生きている事は、なんとかして長官(軍部視察)に隠すんだ」と指示を出します。
この時はゾウを幕の後ろに隠してその場を凌ぎました。しかし、その努力も空しく、二頭は周知の運命を辿ります。

動物園で飼われていなかった動物たちはどうなったのか。被爆者の体験記から一部取り上げます。
凄まじい勢いで逃げだした牛の群れに人々は大混乱に陥り、ものすごい被害を受けた町があります。
飛び込んだ川で暴れ続ける馬。手足を失い、あちこちで悲しそうに吼え続ける犬。
爆弾で吹き飛ばされて、木にぶら下がったまま動けなくなった猫が赤い空を見つめ
羽根を焼かれて飛べない雀たちは、あちこちで地を這いつくばったそうです。
貨車や船舶に積み込まれた軍馬は戦場に倒れ、原爆に散りました。
異国の地に消えた軍馬はおよそ70万頭。
当時を知る方は、徴用で校庭に集められた馬のあの優しい目が今でも瞼に浮かぶと語っています。

それでもなぜ、人は戦争をやめないのでしょうか。
勝てば悪が根絶され、平和が訪れると信じているからでしょうか。
戦争に、勝利などないというのに。