そのシューズは命よりも大切なものだった。
そして、文字通り私は命を失い、靴だけがこの世に残る。それもやがて、人手に渡ってしまった。
私のシューズを手にしたその子は、私と同じくらい毎日の稽古を欠かさなかった。初舞台に向けて稽古に励んでいるのだろう。
私の気持ちは嫉妬でいっぱいだった。踊りたい。私だって踊りたいよ。あの靴は私の大切なものなの!
私はいつしか彼女の体を借りて踊るようになった。夜、彼女が眠りにつくとその体に入って、月と一緒に朝まで思う存分踊るのだ。
やがて、彼女の体は日に日にやせ衰えていった。それもそのはず。昼は彼女が踊り、夜は私が彼女の体で踊るのだから。
いっそこのまま彼女の魂を体から引きずり出して、入れ替わってしまいたい。体さえ手に入れば私はまた踊れる。
だって、私には踊りしかないもの!私はもう、体を持たない不幸な自分の事しか考えられなくなっていた。

心配した彼女の両親が四方八方走りまわって、娘の異変についていろいろと調べ始めた。
幾度となく夜を踊り明かす彼女の姿を、街の人が見ていたから。靴の呪いだと人々は囁きあう。
その噂に私は言い表せない焦燥を抱き、事を焦った。
早く、早く彼女の体を奪わないと!彼女の両親は調べの末、とうとう靴の主であった私のことをつきとめた。

その靴の持ち主は戦災で家族を失い、一人でこの街にやって来た。
死物狂いで働きつつ稽古に励み、やっと舞台に上がれるというところまで漕ぎ着ける。
しかし、練習でボロボロになったシューズでは舞台に上がれない。
「舞台用のシューズなら家にあります」と嘘をつき、彼女は文字通り寝ないで働いた。
そして、やっと手に入れた舞台用の美しいピンクのシューズ。
日々の疲れを忘れ、シューズの入ったリボンの箱を嬉しそうに抱いて道行く帰り、彼女は事故に遭った。
宙を舞った靴は浮浪者が目ざとく拾い隠し、売りに出して酒代にしてしまう。
その靴を、我々は新品だと思いこみ、騙されて買ってしまったのだ。
そう説明する両親の話は、全て事実の通りだった。
衰弱しベッドで寝ていた彼女は、天井を見つめながらこの話を聞いた。彼女の頬に、一滴の涙がつたった。

新しいシューズならいくらでも買ってあげる。早くそのシューズを燃やしてしまいなさいと親は急き立てる。
しかし、彼女はそのシューズを手放さなかった。
彼女はシューズを使いつづけ、今まで以上に念入りに手入れをし、夜は枕元において寝た。
そして時にベッドから身を起こし、両手でそのシューズを抱きしめる。
私のせいでやせ細ってしまったその腕で。そんな彼女の目の前で、私は顔を覆って泣いた。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。靴を大事にしてくれてありがとう。わかってくれてありがとう。
本当はわかっていたわ。あなたの体を奪ったって何の解決にもならないってこと。
私ね、ずっと一人だったの。今もひとり…。生きてあなたと出会いたかった。
友達になりたかったわ。

やがて彼女はそのシューズで初舞台を踏んだ。舞台は大成功。私は傍でずっと彼女を見守っていた。
客席に向って嬉し泣きをする彼女。
おめでとう。この日のためにあなたはずっと頑張って来たものね。そのこと、私は知っているよ!

ふと自分の足に違和感を憶えた。見てみると、私はあのシューズを履いている。
視線を前に戻すと舞台からは人が消え、客席にはさっきとは違う人達が座っていた。
紳士淑女に軍服を着た人までいる。そして、最前列には死に別れた家族が、飼っていた犬を膝元に座っていた。
みんな笑顔で舞台が始まるのを待っている…。
私はあふれ出る涙を拭いて、ゆっくりと舞台の中央へ歩み出る。そして、一礼の後、光の中を踊り始めた。